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舞神女
秋になり、豊かな実りの収穫が始まった。
虹金が都から面白い話を持ってきた。国主の長男文一郎と四男甲四郎が、長年の軋轢をほどき、和解することになったという。次男と三男が夭折していたので、臣下の思惑も絡まり軋轢は跡目争いの様相を呈していた。国の体制を盤石とするため、不和の解消が望まれていた。
和解を記念して、秋の例大祭にあわせ、都城にて盛大な宴が催されることになった。その際、国中から舞いの名手が集められ、競演の場を設けることで、華が添えられる趣向という。舞い手の候補の中には、かなり高い位置に灰神楽の名も挙げられていた。
「どうだ、灰神楽。行ってみるか」
問いかけているようで、虹金の顔は“行け”と言っていた。晴れの場で舞えるとは、灰神楽にとって名誉なことなので異存はなかったが、虹金には別の思惑がある様子だった。
「望むところですが、虹金さまにはなにかお考えがありそうですね」
「そのとおり。そなたの舞いはまさに天下一品、必ずや宴の参列者の心を震わすであろう。もし国主様や文一郎様、あるいは甲四郎様の心に届くようなことがあれば、そなたの仇討ちは実現に近づくかもしれぬ」
灰神楽の全身に緊張が走った。大願を果たせる日が、ようやく目の前に見えてきた。しかし、虹金の不安そうな顔色を、見逃す灰神楽ではなかった。
「どうされたのでしょうか。このわたし、舞いには自信があります。どのような方でも、必ず心に届かせてみせます。虹金さまが気を揉まれることなどありません」
「必ずや心に届くと確信できるがゆえに、不安になるのだ。なにしろ文一郎様も甲四郎様もまだ正妻を娶っておられないのだから」
虹金は赤くなってうつむいた。虹金が嫉妬することもあるのかと、灰神楽はころころと笑ったが、笑いごとではないことにもすぐ気づいた。もし文一郎や甲四郎が灰神楽の身を望むならば、抗うことなど出来るだろうか。言葉だけを先走らせたところで意味はなかった。実効ある対策が必要であった。
「仇討ちを先延ばしにしても、行くのをやめるという考えもありますが」
言ってしまってから、われながら凡庸な着想だと灰神楽は思った。虹金は苦々しく応じた。
「それは出来ぬ。わが鉱山は国の中にありながら独立王国の趣あり、と世評がやかましい。疑いを招くようなことは、なんとしても避けたい」
「ならば登城して、しっかり舞って参ります」
「一抹の不安が消えぬ。なにしろ、文一郎様はともかくとして、甲四郎様は好色で有名だ」
顔色を曇らせる虹金に、灰神楽は力強く言い切った。
「わたしは不思議のめぐりあわせに導かれ、虹金さまと共に生きるようになりました。このたびの宴でも、きっと不思議のめぐりあわせがあるに相違ありません」
「そうあればいいのだが。招ばれるのはそなただけゆえ、おれがついてゆけぬのがもどかしい。そなたは独りで全てに立ち向かわなければならぬのだ」
虹金の顔には、心配の皺が深く刻まれていた。
宴席には当惑の声が満ちていた。和解の宴だというのに、国主、文一郎、甲四郎の座の前には御簾がおろされ、三名の表情を読むことが出来なかったからである。実は和解に至っていないのではないか、という疑いが広がった。
ざわめきが残るなか、三名の影が御簾の向こうで動いた。前口上が述べられ、舞い競演の開始が告げられた。
舞い手は八名、灰神楽の順番は最後だった。これは灰神楽にとっても意外であった。鉱山は富を生む国の宝であろうとも、泥埃にまみれる汗くさいむさ苦しい場であることは否めず、舞いのような典雅の序列では高位に至れないはずなのだ。灰神楽の技量が格別に高く評価されている証といえた。
客席には継母の顔が見えた。灰神楽は、心の猛りを抑えかねてきた。父の仇、わが顔の恨み、ぶつけるべきはまさに今であった。
灰神楽の順番がやってきた。本日の演目は“陣太鼓”、この日のために編んだ創作舞で、出陣の様子を勇壮に表現するものであった。常にない鬼面をまとい灰神楽は舞った。まさに鬼気迫る勢い、灰神楽の背後には紫電の稲妻が浮かんで見えたと後々まで伝えられたほどであった。
客席の一隅で、灰神楽の継母は戦慄に身を震わせた。顔を鬼面で隠していても、あれは舞神女と讃えられた娘に間違いない。なぜ都に帰ってこれたのか。なぜ八名の舞いの最後を飾ることができるのか。答は一つしかありえなかった。
無駄だとわかっていても、逃げるしかなかった。名演に息を呑む列席者を横目に、継母は宴席を抜け、小走りで出口を目指した。しかし、継母は立ち止まらざるをえなかった。行く手を阻む老人がいたからである。
「せっかくわしが主催した宴だというのに、途中で退席するとは感心せぬな」
老人は国主豊志郎であった。全てが終わったのだと、継母は観念するしかなかった。がっくりうなだれて、継母は捕吏の手に我が身をまかせた。
「神妙なのは結構。さて、お主には話して貰うことがたんとある。時間は充分にあるゆえ、覚悟しておけよ」
豊志郎の言い方は、冷酷そのものであった。国主たる者、我が身と我が国に仇なす者を決して許すつもりはなかったのである。
舞い終えた灰神楽は肩で荒い息をついていた。総身から湯気がたちのぼっていた。全霊を傾け、持てるもの全てを注ぎ尽くし、意識が遠のきかけていた。拍手は起こらなかった。参列者はことごとく息を呑み、圧倒され、声も出せずにいた。気が遠くなるほどの時間をかけ、ようやく上座から声がかかった。
「灰神楽とやら、実に素晴らしい舞いであった」
声は甲四郎の席から飛んできた。不自然にくぐもった声だった。
「本日は兄上と和解がなっためでたい席。この祝事を永久に刻むためにも、そなたの素晴らしい舞いを嘉し、わしはそなたの願いを一つ、かなえてやろうと思う。如何か」
含みをたっぷりと持たせた表現であった。灰神楽は、考えに考え抜いた答を返した。
「わたくしは小さな願いをいくつか持っておりますが、そのような思し召しとあれば、ただ一つだけお願い申し上げます。わたしは虹金さまの許婚にて、甲四郎様に媒酌の労をとって頂ければ、これ以上の名誉はありませぬ」
機先を制する言葉であった。甲四郎の口調は、穏やかに逆立った。
「その願いは決してかなわぬ。なぜならば、今この瞬間、虹金なる男はこの世にいないからだ。よく考えてもみよ。この世にいない男と結ばれることなどありえようか」
灰神楽の顔から血の気が引いた。以前から都城との折り合いに微妙な点があるとは聞いていたが、まさか命まで狙われているとは。
「わたしは虹金さまに深く愛して頂いております。わたしもまた虹金さまを深く愛しております。わたしの心は常に虹金さまの許にあります。永遠に」
からだの震えが止まらなくなった。甲四郎の声はさらにやさしくなった。
「この世にいない男に愛を誓って、なんとする。この城に残って、わしとともに人生を楽しむ気はないのか。あるいは、貞節をつくして自害してみせるか」
「どんなことがあろうとも、わたしは自害などいたしませぬ。いつの日か必ず、虹金さまが迎えにくると信じております」
「この世にいぬ者が迎えにくるはずがなかろう」
あっ、と灰神楽は大声をあげそうになった。ひどい、ひどい。“今この瞬間”この世にいない、ということは……。
「いいえ、必ずきます。絶対に。そして、たとえなにが起ころうとも、わたしの心は虹金さまのものです」
宴席にどよめきが広がった。灰神楽がなぜ激しい言葉を発するか、理解できる者はいなかった。急にどよめきが静まった。誰もが息を呑んでいた。灰神楽は鬼面を外し、素顔をあらわにして、列席者を見渡したからである。
「わたしは面貌を潰されております。皆様の目には、さぞ醜い女と映ることでしょう。虹金さまはこんな醜いわたしを美しいと仰られました。さて、甲四郎様は如何ですか。舞いが上手なだけの醜女を、お側に置こうと思われますか。しかも、心を虹金さまに捧げたこの女を」
「思う、と言ったらなんとする。わしはそなたの全てに惚れたのだぞ」
あきれ果てた口調で甲四郎は言った。あきれているのは灰神楽も同じだった。いつまでこんな茶番を続けるというのか。
「意地悪はもうおやめになってください、虹金さま」
おお、と驚きの声があがった。御簾がするすると巻き上げられた。御簾の後ろに座っていたのは、虎髭を綺麗に剃り上げた虹金であった。不思議のめぐりあわせは、確かにあった。ただし、それは最初からわかっていたはずであった。灰神楽はさすがに恨めしく思った。
「いつ気づいたのかな」
虹金こと甲四郎は透き通った笑みを浮かべていた。灰神楽は泣き出したかった。
「なんと情けない仰せ。口に綿を含んで語調を変えていても、この世で最も愛する方の言い回し、気づかぬわけがないでしょう」
「試してすまなかった。しかし、許せ。こうしないと、兄上が納得しないのでな」
虹金は灰神楽に歩み寄り、背後から肩を抱いて、高々と言い放った。
「兄上、見届けて頂けたか。これが舞神女の灰神楽である。気高く智にすぐれ節操ある女だと、よくわかったであろう。このような立派な女がわが妻となるのである。もしわしが人倫に外れることをすれば、兄上よりも先に、灰神楽がわしに鉄槌を下すであろう」
文一郎の御簾が巻き上げられた。文一郎はばつの悪そうな顔をしていた。
「弟よ、小心な兄を許してほしい。自分の目を信じることが出来ず、舞神女をものさしにして弟の本性を計るとは、情けない限りである」
「わかって頂ければいいのです。まだ決して遅くはありません。わしは末弟として、兄上とこの国を支えます。兄上は国主となり、この国を統率し、存分に腕をふるわれてください」
「ありがとう、ありがとう」
兄と弟、ひしと抱き合い、長久の盟を誓った瞬間であった。全ての史書に特筆大書される画期に直面した列席者から、万雷の拍手が沸き起こった。慶事中の慶事に出会える幸福は、そう滅多にあるものではない。
「兄上、灰神楽のこの顔をとくと御覧になってほしい。灰神楽の顔はまさにわが国のありさま、他国に陵辱された果ての姿だ。わしは断じて許せぬ」
「甲四郎の妻は、わしにとって可愛い妹である。妹の顔を害した者を、わしとて許しはしない」
「下手人は一人に非ず。兄上、この裁きをわしに委ねてはくれまいか」
「承知した。存分にやってくれ」
虹金は灰神楽を伴い、立ち上がって列席者を見渡した。
「皆の者、よく見るがいい。そして思い出してほしい。かつて舞神女と誉れも高き美少女がいたことを。しかし、舞神女の面貌は損なわれた。父も殺されている。この凶行の下手人は、誰か。一名を挙げればすむ話ではない。わが国を侵略しようと徒党を組む者を全て、根絶やしにせねばならぬ」
多くの参列者は虹金が言う意味を理解できなかったが、心当たりのある者は顔色を変えていた。宴席に捕吏が入り、それらの者を連れ出した。
「禍の芽をたった今摘み取ったが、逆に敵は公然と仕掛けてこよう。これから戦になる。皆の者、よくよく覚悟のうえ、準備にかかってほしい。明日は軍議、遅滞なく登城するように」
宴席は思わぬ形で果てた。動揺と興奮を抱えながら、参列者は退席していった。
「すまぬな、灰神楽。そなたの仇討ち、継母を誅するだけでは終わらぬのだ。国と国が刃を交えなければ、どうしても決着がつかぬ」
頭の回転が速い灰神楽にしても、なにがなんだか理解できなかった。
「いったいどういうことなのでしょう」
「詳しくは明日の軍議で話す。ところで、そなたに願いがある。先日は猶予されてしまったが、おれの妻になってほしいのだ。事態は切迫している。略式であっても挙式し、正式に結婚したい。わが鉱山を守る者が商方頭では、押し出しがあまりに弱すぎる。主虹金の全権代理は、わが妻でなければならぬ」
「慌ただしいこと。でも、嬉しうございます」
「そなたを戦に巻きこむのは忍びないが、総力を挙げなければ生き残れぬ」
「それも不思議のめぐりあわせというものでしょう。わたしも力を尽くしますゆえ、虹金さまも存分にお働きくださいませ」
灰神楽の顔はすっかり前を向いていた。虹金はさらに遠い先まで見通し、灰神楽をあたたかく包んでいた。文一郎は弟夫婦の様子を頼もしく思い、今まで疎んじていた不明を深く恥じた。
翌早朝、隠居豊志郎、国主文一郎、及び少数の重臣が列席するなか、虹金こと甲四郎と灰神楽の結婚式が行われた。
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