このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





生の涯めざして





 大戦は、総じて見れば大きな波乱もないままに、虹金軍の勝利に終わった。かの遠大な謀略を考案した知将は、変幻自在の戦術を繰り出し虹金軍を苦しめることはできた。しかし、戦の最も根本となる戦力の懸絶は補いようがなかった。兵数には五倍以上の開きがあった。しかも武器の質に大差がありすぎた。虹金の鉱山が提供する武器はたいへんすぐれていた。刀剣は軽いうえに刃こぼれしにくく、敵をよく斬った。楯は敵の攻撃をよく防ぎ、鋭い鏃は敵の守りをよく貫いた。兵の資質にやや劣る面はあったが、それを補って余りあるものを虹金軍は備えていた。

 危うかったのは、峡谷の隘路を進軍する時だった。隊列が伸びきり、大軍の強みを活かせない状況で、伏兵に中軍を急襲されれば全体が壊乱しかねない。知ある敵将がこの絶好機を見過ごすとは考えられなかった。

 虹金は大きな賭けに出た。少数の精鋭を直卒して峡谷を急行し、敵都の目前に本営を築いたのである。電光石火の早わざと、大胆不敵な振る舞いに、伏兵は攻撃を躊躇してしまった。ここで勝負がついた。いうまでもなく、本隊は虹金の後を慕って続々と集まってくる。広い平地に大軍を展開されては、ただでさえ劣勢の敵軍に勝機はないのであった。

 負けるとわかっていても、敵の知将は戦わなければならなかった。知ある者は知に縛られるのであった。今まで積み上げてきた謀略の土台が既に崩れていようとも、それを認めることができなかった。

 最後の会戦の火蓋が切られてから都城の占領まで、わずか一日しか要さなかった。少なからぬ敵兵が、戦力差に怖じ気づいて逃散していた。まさに鎧袖一触、たった一揉みで都城は落ちた。知将は奮戦及ばず捕らえられ、国主もまた虜となった。

 戦後処理は予め決められていた。多大な国富を注ぎこむことを避けるために、占領統治は最初から放棄されていた。まつりごとに責を負う者に対し、その罪を民の前で明らかにしたうえで、罰を与えなければならなかった。

 虹金は国中の主だった者たちを集め、間者を務めた女たちを晒した。座のあちこちから驚きの声があがった。無理もなかった。国のために仕えていると誇りに思っていた身内の者が、間者になっているとは知らなかったのである。虹金は、穏やかに言った。

「この女たちには大罪がある。もしこの女たちが自ら望んで罪を犯したならば、決して許されはしない。だが、命じられてやったことならば、赦免する余地がないわけではない。この女たちも、命令を受けてしまったゆえ、人生を狂わされたといえるのだ。さて皆の者、如何すればよいか」

 満座が怒りに沸騰した。なんという不道徳。可憐な女たちを詰まらぬ謀略の駒にしたうえに、しかも謀略は見破られ、国じゅうを戦に巻きこみ破れを招くとは。

 答は一つしかなかった。謀略に加わっていた全ての者に死を与えるべきであった。国主や知将をはじめとする大罪人は、民の手によって死刑に処された。

 その様子を見届けて、虹金軍は引き上げた。間者を務めた女たちは、その子らと一緒に置いていった。ただ一人、灰神楽の継母を除いて。国に働いた罪は政治として赦す必要があったのだが、灰神楽への悪行だけは赦しようがなかったのである。



 灰神楽の体調は快方に向かっていた。傷跡はふさがり、失われた血も緩やかに復しつつあり、自らの足で歩けるようになっていた。虹金軍勝利の報が届き、心が晴れ晴れと高ぶってもいた。しかし、着替えの時に、肩口に刻まれた新たな傷跡を見るのは切なかった。

 さらに時が経ち、体調がすっかり元に戻った頃、虹金が凱旋してきた。鉱山の者は全て守門に参集し、灰神楽はその先頭で虹金を迎えた。

 灰神楽はどきどきしていた。久しぶりに再会する虹金をいったいどのように迎えればいいものか。考えれば考えるだけ首筋が赤くなり、抑えようがなかった。

 虹金の乗馬が見えてきた。虹金の雄姿は馬上に光を放っていた。なつかしく、そして愛しい。考えあぐねていたことはどこかに吹き飛んでいた。灰神楽は嬉し泣きに泣いていた。多福女面の目から涙がこぼれていた。

「お帰りなさいませ」

 一礼して言上するのが精一杯だった。思いはあふれているというのに、どうして言葉にならぬのか。ただただ涙だけがこぼれてくる。

「灰神楽、帰ったぞ」

 乗馬から飛び降ると、虹金は灰神楽を抱き上げた。

「よくぞこの鉱山を守り抜いてくれた。ありがとう。そして、再び会えて嬉しく思う」

「そんな、勿体のうございます」

 多福女面の涙の筋が、さらに太くなった。虹金は灰神楽を抱えたまま獅子吼した。

「皆の者、おれの身はたった一つしかないゆえ、灰神楽ひとりしか愛することができぬ。しかし、灰神楽は鉱山を統べていた。おれの感謝の念が、灰神楽を通じて皆にまで行き渡ることを願っている」

 歓喜の声が山津波となってこだました。なんと美しい愛なのだろう。共感と羨望そして興奮が鉱山の隅々にまで満ちた。

 祝宴は夜を徹して続いた。勝利を祝賀するまったくの無礼講、虹金と灰神楽は杯を受け続ける義務があった。朝陽が高々とのぼってようやく疲れにとらわれ、ふたり並んで泥のように眠った。目が覚めた時には既に日が暮れ、また夜になっていた。

「やれやれ、とんだ初夜になってしまったな」

 隣に眠る灰神楽の顔を見ながら、虹金は苦笑した。ほんらいは灰神楽が目覚めてからにすべきとわかっていても、虹金の自制心はもはや限界に達していた。虹金の手は、灰神楽の服を脱がし始めていた。

 しかし、虹金は手を進めることができなかった。灰神楽の肩の矢傷はまだ生々しかった。自分の代理を委ねたがゆえに、灰神楽に再び傷を負わせ、苦痛を味あわせたことを後悔した。

「許せ」

 虹金は傷に口づけすると、服を元に戻そうと試みた。しかし、その手は灰神楽に握られていた。

「虹金さま、わたしは待ち焦がれていたのですよ」

「すまぬ。おれのせいでそなたは深傷を負った。一時は命も危うかったと聞いている。その傷跡を目にしては、どうしても気力が湧かぬ」

「やさしい御方。でも、わたしも勇気を振り絞っているのです。わかってください」

 灰神楽の表情は、かつてない趣を宿していた。そして、虹金は知りすぎるほどに知っていた。その表情は“女”のみが見せるものであることを。虹金の心に火が点き、紅蓮の炎が起こった。あとには言葉の要らない世界が、広がった。



 灰神楽の前に継母と異母弟が据えられた。その周囲には、大刀や鉄槍など物騒な武器を構えた力士が並んでいた。継母は見苦しく戦慄していた。死を与えられる恐怖におののき、がちがちと身を震わせていた。

「これがそなたの仇だ。気のすむように措置するがよい」

 虹金の一言は、悪鬼のように冷たかった。継母はさらに身を震わせた。

 灰神楽の胸には継母への激しい憎しみが渦巻いていた。ところがその一方で、まだ幼い異母弟の顔を見ると、憎しみをぶつけることに迷いが生じてならなかった。灰神楽は逡巡した。父の仇を討ち自らの恥を雪ぐべきか、それとも……。

「わが継母にあたる方よ。わたしはあなたに憎しみしか感じない。敬愛する父を殺された恨み、わが面貌を損なわれた恥、いずれも深くわたしの心に刺さっておる。あなたを何度殺したところでも飽き足らないほどだ」

 灰神楽は力士の一人から鞭を借り、継母の顔に一閃させた。ひっと力なき悲鳴をあげ、継母はうなだれた。継母の頬に一筋の血がにじんだ。

「母上に手を出すな」

 異母弟が継母の前に立ち、両手を広げて守る姿勢をとった。継母は我が子を抱え、必死に声を張り上げた。

「私は殺されてもしかたない。でも、この子の命だけは救ってほしい。どうか御慈悲を」

 灰神楽は迷いに迷った。どう決断しても後悔が残りそうな気がしてならないなかで、いったいどうすればよいというのか。灰神楽はちらと虹金の顔を見た。虹金は黙したまま、その表情のみで意志を伝えた。灰神楽自らが決めるしかないのだ、と。

「おとうとよ。おまえの血の半分はわたしにつながっている。今のわたしに残された唯一の肉親がおまえなのだ」

 鞭を床に投げ捨て、灰神楽はぽつりと言った。そこには冷たさや厳しさもないかわり、明るさや前向きさもなかった。

「わたしの父はおまえの母に殺されたゆえ、憎くて憎くてしかたない。だが、ここでおまえの母を殺せば、今度はおまえがわたしを憎むだろう。そんな憎しみを繰り返していては、虚しいだけではないか。だからおまえの母は殺さずにおいておく。ただし、わたしの目の届くところにいては目障りゆえ、最果ての国に逼塞しているがいい」

 ほんの一瞬だけ継母の目は明るくなったが、すぐに暗澹とした顔色に戻らざるをえなかった。灰神楽は帰国を認めず、異土への流刑を言い渡したのである。これではせっかく生き長らえても生き地獄というものではないか。しかし、継母は思い出すべきであった。かつて自分が灰神楽の顔に毒液を浴びせ、さらに奥山へと追いやった事績を。人間とは所詮、自分のことしか考えられない身勝手な生き物なのかもしれなかった。

 灰神楽は多福女面を外した。この世のものとは思えないほど険しい、ほとんど魔性のきつい目をもって、しかしやわらかな微笑をたたえ、継母と異母弟を見据える灰神楽がそこにいた。

「詰まるところ罰を与えるわけだから、いつの日かおまえはわたしを憎むのであろう。その時はこの姉に遠慮なく立ち向かってくるがよい。そして、わたしも決して容赦はしない」

 はるか後、灰神楽の異母弟は不遇から身を起こし、辛苦と努力を重ね、幸運にも恵まれ、ある国の宰相までのぼりつめるほどの出世を果たし、長命を全うした。その死の直前に、宰相はこう遺言したと伝えられている。

「わが異母姉にあたる灰神楽様という御方は、幼い時に別れたきりであるが、たいへん美しく、たいへん優しく、そしてたいへん恐ろしい御方であられた。灰神楽様が長らく治め、その薫陶を受けた子や孫が今も治める国には、なにがあっても逆らってはならぬ」



 守門の前に灰神楽は虹金と共に立ち、継母と異母弟の門出を見送ることにした。涙が流れ落ち、どうしても止まらなかった。

 顧みれば、なんとむなしい人生を歩んできたことか。母を失い、父を失い、美貌を失い、人生を失った。矢傷を負い、命まで失いかけた。虹金の愛を得たものの、乙女であることを失った。そして今、異母弟との絆を自ら捨て、冷酷に放逐しようとしている。失い捨てるばかりで、手許になにが残ったというのか。虹金の愛とて、決して永遠ではない。いつか必ず永訣の日はやってくる。

「虹金さま……」

 灰神楽の問いかけに、虹金は暗く応えた。

「母上と弟君に舞ってあげるがよい。せめてもの餞に」

 気乗りせぬまま、灰神楽は舞い始めた。演目は“柳下の蛙”、動作こそ剽軽舞であるが、含蓄に富む故事にちなんだもので、舞い手によっては深い奥行きが出る演目だった。しかし、今日の灰神楽にいつもの神韻はなかった。

 二人を乗せた駕籠は出発した。そのさびしい影を見ながら、虹金は灰神楽の手を握った。

「つい先ほど、都城から早馬がやってきた。悪い報せだ。兄上が危篤だという。兄上が病弱だというのは世の目を欺くためと思っていたが、まさか本当であったとは」

 灰神楽は虹金を見上げた。虹金の顔つきは、この朝と比べ別人のように老けこんでいた。

「兄上が世を去れば、このおれが国主になるしかあるまい。だが、国主の座など、おれは望んでいないのだ。国主の末弟として、自由気ままな人生を謳歌したかった。良き国主であるためには、民のために尽くさなければならぬ。それは最も窮屈で縛りの多い人生ではあるまいか」

 不謹慎だと知りながら、灰神楽はくすと笑ってしまった。豪放磊落に見えて、気苦労の多い男ではある。灰神楽は、自分の悩みが急にばかばかしく思えてきた。

「まことにそう思われるのならば、鉱山など営まれなければよかったのです。父上と兄上を支え、国に尽くす心があるからこそ、この鉱山を興されたのでしょう。虹金さまはたいへん立派な御方。我が身を措いて他者を思いやる御方。わたしのような我が身しか考えられぬ、詰まらぬ小さな女では、とても釣り合いませぬ」

「言ってくれるわ」

 虹金は苦笑するしかなかった。なんと愛しい女なのだろう。強く巧みに励ましてくれる。荊棘の人生を歩んでいく伴侶に、灰神楽以外の女などありえるだろうか。

「いま一度そなたに求婚したい。灰神楽よ、どうか常にこのおれの良き女であり、良き妻であり、そしておれの子の良き母であってほしい」

「わたしは虹金さまの愛と力を得て、父にとっての良き子であることができました。これから先は虹金さまにとっての良き女となり、良き妻となり、虹金さまの子の良き母となることをお誓い申し上げます」

 多福女面に太陽の輝くような笑みが宿った。たとえ人生が漆黒の闇夜の底を歩くような苦行であったとしても、この輝きさえあれば心強く歩いていけるのかもしれなかった。





次章に続く

表紙に戻る





このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください