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うるさい奴ら
まったく、貴族とは貴い方々だ。禁苑の中に棲み、城の人々の前に姿を現わすことなど滅多にない。そのくせ、城内に住む人から税という名の金を巻き上げ、のうのうと遊んで暮らしているのだから。
貴族とは実に貴いお方々なので、イェドゥア城を支配しながらも城内の人々と直接に対面することをしない。城には三つの「府」がある。外敵から城を護る外衛府、城内の秩序を守る内警府、城内のまつりごとを司る内政府がそれだ。これら三つの府が城内の人々と貴族とをつなぐ窓口になっている。
おれの毎日は内政府と強く結びついている。輝々組の仕事の大半は内政府から引き受けているからだ。土木工事には金がかかる。城内の人々からの税という巨大な財布を握っている内政府であればこそ、気軽におれたちに仕事を頼めるのだ。よほど富裕な商いの大旦那であっても、これほど気前のいいことはできまい。すれば、あっという間に身上を潰してしまうことだろう。
いくら貴族を嫌ったところで、おれの日々の糧は内政府を通じて貴族から得ているといえる。苦々しいといえばこれほど苦々しいことはない。救いなのは、外衛府や内警府と異なり、内政府が城内の人々寄りの姿勢にあることだ。外衛府と内警府の兵が城内の人々をいじめる存在であるのに対して、内政府は城内の人々をかばう存在であるともいう。
おれがクンディッケとの勝負に勝ってからというもの、輝々組の名は内政府に覚えがめでたい。次から次へと仕事の依頼がやってくるようになる。最初のうちはこなしきれないのではないかと不安になるほどだったが、輝々組の名を慕ってくる者が続々と参じてきたおかげで、組は新たな活気に溢れ、活躍の場を大きく広げることになる。
古参であっても新入りであっても、輝々組のみんなには分け隔てというものがない。よく働く者を尊び、働かない者を卑しむ。たったそれだけの、しかし明快な規範が組の全てだ。組一番の若輩のおれが最古参のゴウラと同格に扱われる理由はそこにある。
ところが、近頃のおれは組の中では別格扱いされつつある。働きがよいというだけのことではない。おれがナトラのいいなずけであることが明らかになったからだ。
仕事が忙しくなって以来、陽が登る前から家を出て、街がすっかり日暮れてから帰るというのがおれの日常になっている。これで困ったことが一つある。ナトラに接する時間が極端に減ったのだ。なにしろナトラは朝が弱い。陽が燦々と照り出すまでは目が覚めないという娘で、一番鶏といい勝負のおれと初めて顔を合わせるのが夜になってからという日が続くようになる。
これではいけないと思ったのはおれもナトラも一緒だ。そこで考えついたのが、おれの弁当をナトラが運んでくるということだった。一日中同じ場所で働くおれに比べて、ナトラは身が軽い。弁当を運ぶくらいの時間は十分にある。ちょうど昼飯時に重なった時などはおれと食事をともにしていくこともある。
たまげたのは組のみんなだ。ナトラがおれの弁当を運んでくる光景はみんなの想像を凌駕するものだったらしい。最初の日などはみんなが色めきたち、これこれこういうわけでと事情を説明するのに昼休みのほとんどを費やしたほどだ。
「信じられん。あの魔法使いナトラがハリヤのためにわざわざ弁当を持ってくるなんて」
とは、ゴウラの言葉。他のみんなもほぼ同様の考えなようで、まるで妖怪変化でも見るような目でおれを見てくる。親方だけは泰然としたもので、高々に笑っておれの肩を叩いてくる。
「ハリヤもけしからん奴よの。城内でもぴかいちの魔法使いを弁当運びに使っとるんじゃから。ま、あのナトラがいいなずけにと見込んだだけのことはあるわい。善哉、善哉」
なにがよいことなのかよくわからないが、とにかくそんなわけで、仕事を離れたところでも、おれはみんなに一目置かれるようになる。
だが、おれたちは少々迂闊だったかもしれない。親方の言う「城内でもぴかいちの魔法使い」が毎日弁当を運べば、どうしても目立たざるをえない。おれたちのことがあまねく城内に伝わるまでにどれほどの時間がかかったことか。
久しぶりの休みにナトラと連れだって買物に出る。ナトラはもう大喜びだ。年越しするというのに一張羅なのは頂けないわ、正月を迎えるのだから晴着の一つも買わなくちゃ、とかなんとか言って、顔中を笑みにしてついてくる。きっと、大張り切りでおれに似合う服を見立ててくれることだろう。
ハックス通りに入ったところで、おれたちは一団の男たちに囲まれる。どいつもこいつも血眼になっているわりには柔弱そうな顔つきで、ちゃらちゃらとした装いが軽薄さを感じさせる。
「ナトラ。そなた、いつの間にか婚約したそうだな」
「なぜ、そんなばかげたことをする。我らのものになりさえすれば、なにもかもが思いのままになるというのに」
「そうよ。聞けば、相手の男は土方だというではないか。年中泥にまみれている下賎の者の妻となるよりも、我らが貴妃となりて贅を尽くした方が幸せというものだぞ」
なるほど。これが貴族という連中か。ナトラは顔を朱に染めて吼える。
「蛆虫がなにを言いやがる。てめえらのような屑にも劣る薄汚い化け物なんかとは、死んだって席を同じくしたくないもんだね」
もの凄い言いようだ。貴族どもはナトラに圧倒され、言葉に詰まっている。矛先を変えるべしと思ったか、貴族の一人がおれに詰め寄ってくる。
「貴様か、ナトラと同棲しているという男は。貴様も礼を知らぬ男よ。我ら貴族を差し置いて、夜な夜なナトラの甘い蜜を吸っておるとはの」
なんという汚らわしいものの言い方か。おれの頭に血がのぼる。拳を固めて思い切りそいつの頬を殴ってやろうかというその瞬間。
ぼこっと鈍い音がして煉瓦がそいつの頬に食い込んでいる。ナトラの魔法だ。ナトラは怒りに震えながら荒い息をついている。
「いやらしい。どうせわたしなんて、てめえらにとってはそれだけの女なんだろうよ」
怒髪天を衝く、とはまさにこのことだ。ナトラの豊かな黒髪は扇を開いたかのように逆立っている。ナトラの回りには煉瓦がいくつか舞っている。魔法の力で路面から引き剥がしたのだろう。
「おお、ナトラ、怒りを鎮めておくれ」
貴族の一人が下卑た笑みを向けてくる。ナトラは許さない。煉瓦の一つを凄まじい勢いで飛翔させる。煉瓦はその貴族の口にぶつかり、全ての前歯を粉々に砕く。
まずい。このまま放っておいては、ナトラはあたり一面を血の海にしかねない。おれはナトラと貴族どもの間に立つ。
「どいてよ、ハリヤ」
「いや、ここはおれに任せておけ」
「あいつらは、あいつらは、わたしとハリヤを侮辱した。絶対に許せない」
「いいから、任せてくれ。奴らが相手にしたいのはこのおれだ。おまえが手を出すまでもない。それに、こんな調子で煉瓦を飛ばされてはかなわん。ここの通りの煉瓦はついこの間おれたちが張り直したばかりだからな」
「わかったわ。手を抜いたら承知しないからね」
渋々と引き下がるナトラである。
「さて、貴き貴き貴族さん、今度はおれが相手を致しましょうか。おれはナトラと違って手荒はせんが、それでも遠慮はしませんぜ」
おれは指を鳴らして貴族どもに正対する。
「ぬかせ」
貴族どもは腰の刀を抜く。ばかか、こいつらは。白昼の大通りで抜刀するなんて、正気の沙汰とは思えない。周囲の野次馬たちから悲鳴があがる。
刀など、なんのことがあろうか。振りかぶった隙に懐にもぐり込んでしまえば、もはや無力だ。相手は刀を振り降ろせずにもがいている。弱々しい貴族の太刀さばきに遅れをとるほど、おれはやわではない。
後は簡単なことだ。掴んでは投げ、千切っては投げ、なめくじを相手にするよりも手応えなく、貴族どもを片付けていく。最後の一人を見れば、がちがちと歯を鳴らして怯えている。逃げようと思っているようだが、足が動かないらしい。さて、どうやって始末してやるか。
おれはそいつの足首を掴み、三回転ほど振り回してから空中に放り投げる。哀れな貴族は派手な音をたてて三階の窓に頭から突っ込んでいく。
拍手喝采と笑い声が沸き上がる。野次馬たちは貴族どものやられざまに痛快さを覚えたらしい。腹を抱えて路上で絶倒している者さえある。
「どんなもんだい」
力こぶをつくってみせると、ナトラは手を叩いてはしゃぎにはしゃぐ。
「凄いわ、ハリヤ。凄い、凄い」
「ちょっと、あんたらねえ」
おれは中年の女に呼び止められる。
「貴族と喧嘩するのは勝手だけど、窓の修理代くらい置いてってもらいたいもんだね」
「あ。どうもすみません」
壊した窓は他の人の家のものだ。やりすぎてしまったかもしれない。
「おばさま、申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
深々と頭を下げて、ナトラはいくばくかの金を女に渡す。金を収めて女は言う。
「まあ、わたしゃ貰うもんさえ貰えばいいんだけどね。あんたも気をつけなさいよ。秋祭りの時にも三人ほど半殺しにしたばかりでしょ。貴族ってのはしつこいだけが取柄の連中なんだから、仕返しに気をつけなさいよ」
「御忠告に感謝致します」
ナトラは丁寧に一礼する。だが、ほんとうに感謝している色がない。貴族どもには仕返しする気力などあるまいと高をくくっているようだ。実際、あれだけひ弱い屑のような奴らが報復してくるとは思えない。いくらしつこくとも、また投げ飛ばしてやればいいだけのことだ。
あたりはまだざわついている。この分だと、買物していても注目を浴びることになるだろう。良きにつけ悪しきにつけ、ナトラといると目立つものだ。
陽が登るまでにはまだ間がある。息が白い。おれの村に比べればはるかに凌ぎやすいが、冬の朝はどこでも冷え込みが厳しいものだ。
今日の仕事は外町の建物の取り壊しだ。かなり大きな建物らしく、これなら壊しがいがあるぞとゴウラはおおいに張り切っていた。
昼間は賑やかな外町も今はまだ静かだ。人通りはほとんどない。これが陽が登り切る頃になるとたちまち大混雑を呈するようになるのだから、街というものは面白い。
人通りが少ないくせに、変な人の気配を感じる。おれは立ち止まって振り返る。
振り返るべきではなかったかもしれない。おれの前に多くの兵士が槍ぶすまをつくってくる。内警府の制服だ。後ろに控えた頭だった男が書面を開いて読み上げる。
「魔法使いナトラのいいなずけ、ハリヤ。そのほう、昨日ハックス通りにおいて、クランチェ家長男オズヌ様はじめ、禁苑中のやんごとなき方々に狼藉をはたらきし罪は明白。おとなしく縄につけい」
しまった。こういう仕返しの方法があったのだ。貴族どもなら束になってやってきてもこわくはない。だが、よく訓練された兵士をこれだけ大勢相手にするのは無理だ。おまけに、こっちは丸腰、向こうは槍ぶすま。かなうわけがない。逃げるに限る。
脇の路地に飛び込む。まっすぐ逃げてはすぐに捕まる。小さな路地を選んで闇雲に駆け回る。うまくまいたかと後ろを見れば、兵はまだついてくる。人通りが少ないだけにごまかしきれないようだ。さて、どうするか。
下がだめなら上だ。近くの家の雨樋をよじ登り、三階の屋根に立つ。兵が集まってきておれの姿を見上げてくる。無駄な抵抗はやめて降りてこい、と叫ぶ者もある。
「ここまでおいで」
あかんべえをしてみせ、屋根伝いに走る。路地を飛び越え、大屋根を跨ぎ、猿になった気分で朝の空を飛び抜ける。ついてこられる兵はない。いい気味だ。
大通りに出て屋根が尽きる。通りに降り、念のために路地ばかりを選んで仕事に向かう。もうそろそろ仕事は始まっている頃だ。
「よお、ハリヤ、おまえさんが遅れるとは珍しいな」
ゴウラがつるはしを握って笑いかけてくる。
「すまない」
おれの顔色をどう見たのか、ゴウラは心配そうな素振りをする。
「どうした。なにかあったのか」
「実は」
問われれば正直に答えざるをえない。おれの話を聞いて誰もが深刻な顔をする。内警府とは、それだけ厄介な相手らしい。うまく逃げてはきたものの、このままではすまなさそうだ。
「弱ったの。貴族に横恋慕されて内警府が乗り出してきたかや」
親方の表情は苦渋に満ちている。
「親方、どうします。内警府のことだ。そのうち、ここも押さえにきますぜ」
「わかっとるわい」
一言つぶやいて、親方はみんなに問いかける。
「罪人扱いされし者を匿えば、匿いし者も同罪じゃ。ハリヤに被せられし罪はもとよりハリヤの咎には非ず。されど、内警府に睨まれた以上、罪は罪じゃ。ハリヤをかばえばわれらも同じ罪を犯したことになる。われらが選べる道は二つしかない。一つ、ハリヤを内警府に突き出すこと。一つ、ハリヤをかばいて内警府に立ち向かうこと」
針の筵に座っている心地がする。おれのためにみんなを巻き込むわけにはいかない。ふらふらと立ち上がり、おれはその場から去ろうとする。
「待て、ハリヤ。行くな」
ゴウラがおれの手を握り、みんなに向かって力説する。
「聞け。輝々組がここまで大きくなったのは誰のおかげぞ。他でもない。ハリヤがいたからではないか。今、ハリヤは罪ともいえぬ烏滸がましき罪を被せられ、内警府から追われる身となった。だからといって、ハリヤを見捨てていいものか。そう思わないか」
「そうだ。ハリヤを見捨てるな」
「内警府がどうしたというのだ。おれたちの方が強いぞ」
「おれは罪を得るよりも朋友を見捨てることを恥じる」
みんなは口々にゴウラの言に賛同する。ゴウラは勝ち誇ったような顔で親方に言う。
「というわけでさ、親方。決まりましたな」
「まったく、無茶な奴らよの。輝々組も今日限りとは、ちと惜しい気もするが、どうせ散るなら華々しくいこうぞ。皆の者、用意せい」
「おう」
もの凄い気勢だ。親方も腹を決めれば堂々と指示を出してくる。ゴウラを筆頭にして、誰もが生き生きとした顔で内警府の兵と戦う準備に取り掛かる。みんな、ナトラと一緒だ。おれを守るという大義名分はあるにせよ、そもそも荒事が大好きな気性と見える。
それでも仕事を忘れないところは立派という他はない。取り壊すべき建物を崩して礫の代わりにする。原型をとどめている煉瓦を山積みにして防塁にする。うまい工夫だ。
半刻もせぬうちに内警府の兵が取り囲んでくる。思っていたよりも素早い。先刻の頭だった男が急ごしらえの台に乗って呼びかけてくる。
「そこに罪人ハリヤがいるのはわかっている。おとなしく引き渡せばよし。もし、刃向かうようならば、貴様らも同罪とみなすぞ」
「罪無き者に罪を被せるのは罪とはいわぬのか」
ゴウラが礫を投げつける。狙いは正確、見事に頭だった男の眉間に命中する。男は血だらけになって失神する。
「見たか。罪人は貴様らと知れたわ」
ゴウラは高々と笑いつける。
大乱戦になる。素人のおれたちの工夫は玄人の熟練の技をよく凌いだといえる。だが、一刻を経る頃になると、おれたちの側に乱れが生じてくる。疲れてきたせいもあるし、戦に未熟というせいもある。あちこちの隙を衝かれ、一人また一人と生け捕られていく。
善戦むなしく、一刻半で全員が捕まった。
牢の中でおれは苦痛に呻いている。全身が燃えるように痛い。
おれを痛めつけたのは、兵ではなく、昨日三階に投げつけてやった貴族だ。まったく、貴族という奴らは慈愛に満ち満ちた生き物に違いない。おれが気を失わないようにと精一杯の手加減を加えて下さった。おかげで、おれは全ての苦痛を漏れなく感じることができたのだ。いくら感謝しても足りないほどではないか。
今は減らず口を叩く気力もない。言葉にならぬ言葉を吐きながら、ただ、苦痛に耐えている。
雷の落ちる音が聞こえてくる。近い。建物が崩れたようだ。兵たちが右往左往する足音が床の敷石から頭に伝わってくる。
がしゃんと傷口に染みる音がする。牢の入口が破られたようだ。小走りの足音が近づいてくる。ナトラだ。ナトラが救いにきてくれた。
「ハリヤ、ハリヤ。ああ、なんてひどい姿なの。もう少しの辛抱よ。今、治してあげるから」
手から火花を発して鉄格子を灼き切り、もどかしげにおれの枕許に座り込んでくる。
「わがうちに燃える生命の炎よ。ハリヤの肉体に移りてその傷を癒さん」
ナトラのてのひらから炎が揺らめき立つ。炎はおれの胸の上でひとしきり燃え盛ると、口の中に飛び込んでくる。快い熱さだ。不器用な優しさが体の隅々にまで行き渡り、痛みがゆっくりと退いていく。
「ありがとう、ナトラ。だいぶ楽になったよ」
「よかった」
大粒の涙を浮かべながらナトラは頬ずりしてくる。柔らかなほっぺたが心地よい。
「離してくれないか、ナトラ。ちょっと動いてみたい」
ナトラが少しく身を離す。おれは起き上がろうと努力する。まだ痛むところがあるとはいえ、動くことに支障は感じない。ナトラの魔法の効きは素晴らしい。おれは立ち上がって大きく伸びをうつ。ナトラは安心したように、おれに身を近づけてくる。
牢の通路に兵士たちがひしめいてくる。涙を拭うとナトラは形相を一変させる。
「さ、今度はハリヤを痛めつけた屑野郎のところに連れてってもらいましょ。ハリヤをこんなにしてくれたんだ。ただじゃすまさないんだからね」
鬼気迫る表情で先頭のでっぷりと太った男に詰め寄る。服装の重々しさからすると、内警府のお偉いさんのようだ。太った男はうろたえながら応答する。
「魔法使いナトラ様、そんな無法なことを言わないで下され」
「なにが無法だっていうのよ」
「我ら内警府はあなた様の今までの傍若無人ぶりをあえて見ぬふりをして参りました。あなた様は禁苑中の雲上人が心を寄せているお方なのです。少々のことでお咎めしては畏れ多いと判断し、あなた様の好きなようにさせてきたのです。しかし、今度ばかりは見過ごすわけにはいきません。あなた様のいいなずけは罪を犯した者。罪人をかばいだてし、あまつさえ牢を破るとは、いくらあなた様とはいえ言語道断ですぞ」
「さっきから罪罪と言っているけど、ハリヤがなんの罪を犯したというのよ」
「雲上人に力をふるえば、いかなる理由があろうと罪になるのです」
「先に刀を抜いたのはあいつらよ。ハリヤは自らの身を守っただけのことだわ」
「雲上人には賎民に対して斬り捨て御免の権利があります。この権利が発動された場合、賎民は雲上人に切られる義務があるのです」
「なんですって」
ナトラは全身から火花を散らしている。凄まじい怒りようだ。無理もない。おれだって怒りを覚えている。この男の主旨に沿えば、おれたち身分なきものはいつ貴族に切り殺されても文句を言えないということではないか。
ナトラは身をわななかせながら、両手を天に向ける。
「わが怒りよ。弾み弾みて天にまで至らん」
ナトラの身にまとわりついていた火花が集まっていく。火花は大きな火球にまで成長し、狭い牢内を勢いよく飛び跳ねる。濛々たるほこりをたてて牢の壁が壊れていく。やがて火球は屋根を突き抜け、空の向こうで爆発する。幾筋かの雷光、黒々とした雲行き。天までがナトラの怒りを代弁している。
内警府の兵たちは腰を抜かしている。かろうじて、かのお偉いさんだけは両の足で踏ん張っている。腰も座らずにがたがた震えているというだらしないていたらくではあったが。
「さ、ハリヤをいじめた腐れ貴族のところに案内してもらいましょうか」
にこやかさの中に凄味があるナトラの笑みだ。だが、一寸の虫にも五分の魂というところか、太った男もそれなりの意地を見せてくる。
「ナトラ様、それはできません。罪人の肩を持つとは、いくらあなた様でも許されませんぞ」
「まだわたしの言うことが聞けないっていうの」
再びナトラのてのひらに火花がきらめく。捨て置くわけにはいくまい。ナトラのなすがままに任せておけば、人を傷つけ、物を壊すばかりで、なんの解決にもならないだろう。おれはナトラの肩を掴んで引き止める。
「よせ、ナトラ。これ以上のことはしなくてもいい」
「でも、ハリヤ」
「いいから、よせ」
おれはナトラをきつく見つめる。ナトラはぎゅっと口許を引き絞っておれを睨み返してくる。気がおさまらない様子がありありとわかる。
場が膠着する。おれたちも内警府の兵たちも互いに進退に窮してしまう。おれはナトラが兵を傷つけるのではないかと危惧しているし、兵たちはナトラの魔法に傷つけられることをおそれている。二進も三進もいかない。
「あーあ。こりゃまた派手にやったもんだねえ」
足音は聞こえなかった。どのようにやってきたものか、若い男が忽然と出現している。おれに感じが似ている男だ。背丈はおれよりも頭一つ分高く、体つきもがっしりしている。貴族らしい服装に似合わぬ体格だ。男は荒れ果てた牢内を見回すとナトラに話しかけてくる。
「ナトラ。怒るのはいいが、少しは加減してくれよ。おまえ様が怒るたびに城のどこかが壊れていく。修理する金がかかってかなわん」
「おあいにくさま。腐れおたんこなすどもがわたしを怒らせるようなことをしなければ、なにも起こりはしないんだよ」
「口の悪いやつめ。荒んだ言葉を使っていると、早々に老けるぞ」
「大きなお世話よ」
男の言葉遣いは貴族らしくもなく骨太だ。おれはこの男に興味を抱いている。
「おい、ナトラ。こいつはいったい何者だ」
「通り名はジン。魔法使いのくせに貴族という、珍種中の珍種よ」
ナトラの口調には侮蔑の響きが篭っている。人々の暮らしとともにあってこそ魔法使い、人々を支配する貴族になるとはなにごとか、とでも言いたいらしい。
「まあ、そうけなすな。俺はおまえ様と言い争いにきたのではないのだから」
ジンは態度を改めて、おれの方を向いてくる。
「貴様、ナトラのいいなずけとなったそうだが、名をなんというのだ」
「ハリヤ」
「ハリヤ、か。俺は貴様が妬ましくてたまらん。俺もナトラに恋焦がれる一人。正直をいえば、貴様を八つ裂きにしてやりたいほどだ。とはいえ、恋を競うならば正々堂々とやらねばな。罪を被せて拉致するなど、男のすることではない。今回のことはどう考えてもオズヌたちの方が悪い。奴らに代わって謝罪する」
淡々と、しかし力強く、おれに挑みかかるような口で言う。
「さ、いつまでもこんなところにいるな。もともと貴様には罪などないのだ。大手を振って外に出ていくがいい」
「そんな、殺生な。こやつを釈放したら、後でわたしがひどい目に遭わされます」
太ったお偉いさんが悲鳴をあげる。ジンは全く意に介さない。
「心配は要らぬ。お咎めなどあるものか」
ジンはおれの肩を叩き、底が知れない笑みを向けてくる。
「そうそう、貴様に言っておくことがある。お咎めなしといえば、輝々組の者どももさっき釈放しておいたからな。連中には罪などない。むしろ、勝手に兵を動かして連中を取り囲んだオズヌの方にこそ罪はある。決して咎めを受けさせはせぬ。もし、咎めだてするような奴がいても、俺がなんとかする。それくらいの力は俺にはある」
肩に置かれた手に力が籠もる。痛いほどだ。
「どうしてナトラが俺に心を開いてくれないのか、今まで不思議でならなかった。だが、貴様の面構えを見て納得できたよ。俺は貴様に及ばない。ナトラは俺のことを中身がない男と呼ぶが、なるほど、貴様と比べりゃ中身がない。おれは貴様を助けるが、それは決して好意ではないぞ。いつか、貴様をナトラの婚約者の座から引きずり降ろすためだ。心得ておけ」
不遜な高笑いを残してジンは去っていく。駆引き上手な男だ。おれとナトラはすっかり気勢を殺がれてしまった。謝られたうえに組のみんなの釈放を知らされたとあっては、そういつまでも喧嘩腰を構えてはいられない。はぐらかされたような気分だ。
おれとナトラは牢を出る。ナトラの激しい感情の起伏が気象を変化させたのだろうか。珍しく雨が降っている。氷雨だ。雨はおれたちにうちかかり、冷たく体を濡らしていく。
ナトラはうつむいて歩いている。押し黙ったまま、前も見ず、口許を歪めて涙を流している。おれの無事を安堵しているのか、それとも、貴族への報復を果たせなかった鬱憤なのか。ナトラはかなしい顔をしている。
おれはナトラの肩に手をかけ、空を指さす。
「ナトラ、見てみろよ」
「え」
おれとナトラは暗くなった空を見上げる。上天のはるか彼方から、冷たいしずくが次々と地上めがけて降り注いでくる。
「雨降りでよかったなあ」
間延びした声で呼びかける。おれの言いたいことはすぐ伝わったらしい。ナトラはうなずくと微笑んでみせる。
「そうだね。雨でよかったね」
雨よ降れ。もっと降れ。涙なんか流してしまえ。ナトラに泣き顔なんか似合うものか。降りに降って、かなしい顔さえ流してしまえ。
翌朝、仕事に出向いてみると、傷を負った顔ばかりが並んでいる。昨日の大奮戦を思い出し、ひとしきり痛快に笑う。
仕事を始めかける頃、驚くべき男が組に入りたいとやってくる。ジンだ。魔法使いの貴族が組に入ることを志願するなど、前代未聞の珍事だ。真意を図りかね、逡巡する親方にジンは言う。
「俺は今のところただのでくの坊です。けれど、俺はきっとお役に立てます。俺がいれば内政府は今まで通りに仕事をくれるでしょう。また、俺がいる限り内警府は手を出せません。どうです。俺を雇ってみませんか」
思い切ったことをするものだ。昨日「なんとかする」と言ってはいたが、まさかこんなやり方を選ぶとは。
親方はジンの加入を認める。貴族がいれば内警府に対する護り札にはなるだろうという打算があってのことだ。それに、ジンの体つきに多少の働きを見込んだせいもある。
加入を認められたジンは、おれに笑みを向けてくる。腹に一物をひそませているのが見え見えだ。以前、ナトラは貴族どもをうるさい奴らと形容した。中でも飛び抜けてうるさいのが、実はこのジンという男なのかもしれない。
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