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地を拓く





 いい朝だ。空気は澄み渡り、陽射しはほかほかと暖かい。おれは太陽に向かって伸びあがる。ナトラも起き出してきたようだ。沢で顔を洗っている気配がする。ナトラはなにをしているのか、水の中になにかを投げ込む音が聞こえてくる。振り返ってみると、ナトラは装身具を川の流れに投げ捨てている。

「なぜ、捨てる」

「封印が解け、イェドゥア城を出た今では、身を飾る必要はなくなったからね。わたしにはあの首飾りだけがあればいい」

 化粧を落とした顔でナトラは微笑む。

「ナトラ、おまえはありのままがいい」

「そう言ってくれると思ってた」

 もう、おれたちを隔てるものはない。目を合わせれば、全ての心がわかりあえる。

「鳳よ」

 ナトラの呼びかけに応じて、鳳が忽然と姿を現わす。鳳は鋭い目をなごませてナトラに甘えてくる。ナトラは鳳のくちばしを優しく撫でる。

「ごめんね。わたしの力が弱いばかりに、おまえを消してしまって」

 人の言葉を持たない鳳は、わっさわっさと羽ばたいている。喜んでいるようだ。土煙が舞い、目を開けていられないのが困りものだが。

 鳳はおれとナトラを乗せ、天を目指して翔け上がる。鳳の巨大な翼にとっては、おれの村まではひと飛びの距離でしかない。ほどなく、イナダ山のごつごつした姿が目に入ってくる。その麓を見ると、なつかしい顔が動き回っている。

「ナトラ、飛ぼう」

「ええ」

 おれとナトラは手をつないで鳳の背から飛び降りる。ナトラの魔法は風をうまく動かし、おれたちをやんわり大地へと導く。突如として空から降ってきたおれとナトラを見て、村のみんなは驚いたようだ。目を白黒させておれたちを眺めている。

 ひとりだけ冷静なひとがいる。村長だ。村長はやわらかく微笑みながら、おれたちに近づいてくる。おれとナトラは村長の前に膝を着く。

「ただいま帰りました」

「しばらく見ない間にいい顔になった。もう、式は挙げたのか」

「まだです」

「早速、結婚の儀式を行なうことにしよう。冬はすぐそこにまで迫っている。雪が村を閉ざす前に、おまえたちは新しい家を構えなければなるまい」

 村長はてきぱきと指示を出し、結婚の儀式の準備を始める。とうに刈入れは終わっているから、村人たちはこぞって手伝いにやってくる。楽しみが少ない村だ。結婚の儀式があろうものなら、誰の式であれ、村中が大騒ぎになるのが常だ。おれたちの結婚の儀式は、実に盛大なものとなる。三日三晩、おれとナトラは祝杯を受け続ける。

 上座で飾りものになりながら、村もまた、おれたちの安住の地ではないことに気づく。四兄弟は未だにおれに敵意を抱いているし、村の衆はナトラを畏れの籠もった目で見つめている。村はなにも変わっていない。一年前と全く同じだ。

 おれはこの村に戻ることを望んでいたのだろうか。違う。おれは村に溶け込もうとは考えてもいない。思い描いていたのは、ナトラとともに地を耕し、実りを得ることだけだ。

 ナトラもまた、この村に降りることを選んだ。あのナトラが、村人たちの底意を知りながら、人形のようにじっとしている。思うところがあるのだろう。ここはナトラに委ねるとしよう。

 結婚の儀式の後、村長はおれたちに訊ねてくる。

「おまえたちにもわかっていると思うが、おまえたちに与える田はどこにもない。敢えて自らの田を持とうとするならば、荒地を耕すよりほかはない。それがいやというなら、わが家の小作として仕えなければならない。さあ、どうするか」

「わたしたちは荒地を耕すつもりです」

 ごく簡単にナトラは答える。村長はおれたちがどう出るか、わかっていたはずだ。にっこりと笑みを浮かべて、さらなる問いを重ねてくる。

「では、どこを耕すつもりか」

「ばば様の終焉の地のほとりの湿原を。わたしたちは三年であの地を沃野に変えてみせます」

 おれたちはアルジュばあさんの丸太小屋に移り住む。あたりは一面の湿原だ。水はけが極めて悪く、この湿原に鍬を立てようとした先人たちはことごとく挫折している。

 おれは向こう見ずなのか、それともただのお調子者なのか。一年前のおれならば、こんな不毛の地を耕そうとは決して思わなかっただろう。ナトラが選んだからという、理由ともいえぬ確信だけがおれにはある。

 引っ越しを終えて、おれとナトラは囲炉裏の火を囲む。外では雪がちらついている。

「寒さがこたえるかな」

「ええ、少し。西でもイェドゥア城でも、雪を見ることなんてなかったから」

「ここではどっさりと降るんだ。暖かい年でも、まず腰までは積もるね」

「わあ。そんなに降るの」

 ナトラは素直に驚いている。

「ところで、なぜここにしたんだ」

 問いかけてみると、ナトラは困ったような顔をする。

「この地がわたしたちを呼んでいたから、わたしはそれに応じただけ。実はね、深い理由なんてないんだ」

「アルジュばあさんのゆかりがあるから、ということなのか」

「違うわ。ばば様はこの地を臨終の地としたけれど、それは村の人の目を避けるためだけのことで、この地になにかを見出していたわけではないのよ。でも、この地には秘めたる力があるように見える。この地は耕されることを望んでいるのよ。そうでなければ、わたしたちを呼ぶはずがないわ」

「不思議だな。この地は今まで人の営みをよせつけなかったんだぞ。どうして、おれたちだけを呼ぶんだ」

「そこがわからないところなのよねえ」

 腕を組んでナトラは考え込む。

「わからないなら、訊いてみるか」

 なんの気なしに言ったつもりが、ナトラは大乗り気になる。

「それがいいわ。訊いてみましょう」

 目を輝かせて外に飛び出したかと思うと、湿原の土を一掴み取ってきて、囲炉裏の端に置く。

「湿原よ。われらに物語りせよ」

 灰が動き、山容をかたちづくる。見たことがあるようで、見たことがない風景だ。中心の山はイナダ山に似ているようだが、イナダ山とはちょっと違う。

 不意に、山の頂が吹き飛ぶ。灰がもくもくとたちこめる。頂の跡には擂り鉢のような穴が開き、赤くとろけた岩が流れ出してくる。赤熱した岩は谷を埋め、川をせき止める。山の麓に大きな湖が出現する。

 山は揺れ、姿を変えていく。動きが落ち着いた時、山は確かにイナダ山のかたちをなしている。山に緑が増えていく。穏やかな時の流れだ。緑が増している他に、変化しているところはない。いや、あった。湖だ。湖には上流からの土砂が堆積し、水の広がりはじわじわと狭まっていく。そして、湖らしきものは消え、水はけが悪そうな湿原となる。

 おれとナトラは顔を見合わせる。これが湿原からの訴えならば、おれたちがなにをするべきかはっきりしたではないか。先人たちはやり方を誤っていた。地面を引っかくだけではだめなのだ。水はけをよくするためには岩の堰を切らなければならないのだ。

 三日の間、おれはつるはしを片手に野山を駆け回る。地面の高低、土の質、岩の出てくる深さ等、様々なことを知らなければならない。三日の間にひとりでできることなど限られてはいるが、それでも、地下に埋もれている岩の堰のかたちがかすかに見えてくる。ナトラは家に籠もり魔法の準備だ。おおがかりな魔法が使えてうれしいと、はしゃぎながら小道具を用意している。

 おれは三本の棒を組み合わせて地面に立て、掘るべき穴の方向を示す。後ろからナトラの足音が近づいてくる。

「わかったかしら」

「たぶん、これでいいと思うんだが」

 正直をいえば、出たとこ勝負だ。

「あんたの目は正しいわ。やってみましょう」

 おれの心を読んでいるくせに、ナトラには気にする風はない。息を整えて、静かに言葉を唱え始める。

「炎よ。燃えよ。力強く燃えよ」

 おれたちの前に小さな火球が出現する。火球は青白い輝きを発しながら、大きさを増していく。

「炎よ。前に進め。ハリヤが示したる方角へ」

 火の球は正確に棒が示す方向をなぞり、地の中へめり込んでいく。ゆっくりと、しかし、着実に。岩は炎の勢いに溶け、赤く輝く川となって流れ出してくる。

 魔法は一刻ほども継続される。ふと、ナトラの顔色が動き、次なる魔法を唱える。

「水よ。集いて穴を満たせ」

 川の水が穴の中に流れ込んでいく。じゅうじゅうともの凄い音がする。湯気が穴から湧き出し、白い帯が天に向かって伸びていく。やがて、音はやむ。小さな炎を明りにしてナトラは穴の中に入っていく。おれは掛矢を持って後に続く。

 炎に熱せられ、水で急激に冷やされ、穴を囲む岩には無数のひびが入っている。しばらく歩き、岩の色が変わったかと思うと、すぐに穴の先端だ。穴の行き止まりは小さな広間になっている。壁には細かなひびが入り、触れると崩れ落ちてくる。ナトラはひびを吟味し、楔を立てる。

「ハリヤ、この楔に掛矢をあててみて」

 おれは掛矢で一叩きする。楔にはナトラの魔法が籠められている。一撃で岩はぱっくりと割れ、水が噴き出してくる。

「うまくいったわ」

「そのようだな」

「早く出ましょう。水はすぐに増えるわ」

 おれたちが外に出る頃には、穴からの水は大きな川となっている。これで湿原からは水が切れ、耕作に適した地に変わっていくことだろう。

 全てはこれからだ。おれとナトラは、流れていく水を見て、心を新たにする。



 雪に閉ざされてもおれたちに退屈はない。ナトラには雪の経験がない。色々な雪遊びをナトラは存分に楽しんでいる。

 特にナトラが気に入ったのは橇遊びだ。坂の上から滑り降りる速さの刺激がたまらないらしい。坂の上から降りるだけという単純な動きに飽き足らなくなってくると、ナトラはさらなる工夫をする。魔法の力を用いて、空気を圧縮して強烈な勢いで噴き出させる細工を橇に取り付けたのだ。この細工のおかげで、橇は坂をも登れるようになる。橇遊びを極めたおれでさえ、試してみると滅法面白い。

 そんなおれたちの消息をどこで聞きつけたのだろうか。年が明ける前後から、客が訪れてくるようになる。それも、決まって若い男女の二人連れだ。

 おれたちのことはイェドゥア城では語り草になっているらしい。貴族の妨害をはねのけておれたちが一緒になったのもさることながら、ナトラが髪を真っ白になるまでおれを思い抜いたことが城の人々の心を動かしたとみえる。わけても、結ばれることを周囲に反対されている若い二人にとっては、ナトラの白髪は縁結びのお守りに見えるようだ。おれたちの家にやってくる二人は例外なくナトラの腰まで届くような見事な白髪を所望する。ナトラは、そんな二人をあたたかく見つめ、快く二本の白髪を分け与えるのだった。

 おれはなにも言わずに見ていることにしているが、白髪を分け与える必要はないと思っている。百里の道を踏み越え、大雪を冒してここまで辿り着いたほどの二人だ。ナトラの白髪をお守りにせずとも、強い絆が既に結ばれている。周囲の反対など、この絆の前には力を失わざるをえないだろう。

 ナトラの白髪は、お守りではなく、二人の絆の証となるものなのだ。もっとも、おれたちの家にくる二人ですぐにそれと気づく者はいないようではあったが。



 春になる。風はぬるみ、積み重なった雪が次第に消えていく。

 冬の間に湿原は大きく変貌している。地中の水が抜け、雪の重みがかかったおかげで、地面は深いところで二間も沈んでいる。これだけ沈めば川の水の逃げ場がない。湿原には水がたまり、湖にかたちを改めている。おれたちは川の底を削り、水の通じをよくしてやる。雪解けの季節のこと、かなりの時間がかかった末に、黒々とした地面がその全容を現わす。

 土はよく締まり、踏みしめがいのある堅さを有している。乾きすぎることもなく、湿りすぎることもない。水と空気が少しく冷たいことが気がかりだが、やりようによっては、豊富な実りが期待できる。卯月の間、おれたちは懸命に地を耕し、畔を築き、畝を盛る。皐月の風が吹く頃に、苗を植え、種を播き、ようやく人心地つくようになる。

 ナトラはよく頑張った。野良仕事にも音をあげることなく、生まれながらの農家の娘のように働いてみせた。そのことをおれがほめると、ナトラはけらけらと笑い転げる。

「だって、わたし、生まれながらの農家の娘なのよ」

 これは迂闊だった。ナトラが西の生まれだとは知っていても、生家が農を営んでいたとまでは想像できなかった。イェドゥア城での暮らしがすっかり板についていたから、魔法を商う純粋な魔法使いだとばかり思いこんでいた。

「痛っ」

 おれは手の甲に痛みを覚える。ナトラの指がおれの手の甲をつねっている。

「ハリヤ。わたし、あんたを少し見損なったぞ」

 口ぶりは怒っていても、目は笑っている。おれは大仰に頭をかいてみせる。

「すまない。あんまりにもそれらしかったからな」

「まあ、いいか。ハリヤの目をもごまかせたんだから、わたしの変装が上手だったということにしておくわ」

 ナトラはおおらかに笑う。おれもつられて笑いだす。

 天は高く、陽は燦々と照り、風爽やかな皐月晴れだ。おれたちは庭に卓を出し、茶を喫する。ささやかなことではあるが、イェドゥア城での毎日に比べれば途方もない贅沢をしているような気もする。開け広げな天地の中で、おれたちはおれたちのために働き、おれたちのために生きている。

 風に乗って馬蹄の音が聞こえてくる。三騎が近づいてくるようだ。

「誰かな。馬で来るところをみると、白髪ねだりの二人連れではないようだが」

「珍しい客人よ。わたしたちにとって、とてもなつかしい方だわ」

 魔法が使えるナトラには誰がやってきたのか見えている。おれはあえて客人の名は聞かない。馬が山の端を巡ってその姿を見せる。三騎の先頭にはハトウ将軍がいる。なるほど、なつかしく珍しい客人だ。おれたちは地に膝を着き、将軍の来着を待ち受ける。馬を降りた将軍は戦場声を張り上げておれたちに声をかけてくる。

「ナトラ、ハリヤ。息災に過ごしておるようだな」

「将軍こそ、ますます御健勝の由、なによりでございます」

「今日はジンの使いで参った。これを受け取ってくれ」

 ハトウ将軍は従者に目配せする。従者はかしこまって前に出て、おれたちに巻物を捧げてくる。

「これは」

「ジンからの手紙よ。そなたたちがここに落ち着いたことを聞き、一晩がかりで書き上げたものだ。あの未熟者が記すことなど、およその見当はつくからばかばかしくはあったのだが、そなたたちの顔を見るのもまたよからんと思い、使いを引き受けた」

 高々と笑うと、将軍は颯爽と騎上の人となる。

「待って下さい。せめて一時、わたしたちと談じていきませぬか」

 おれは馬の轡を取って引き留めようと試みるが、将軍は肯んじない。

「気を遣うでない。このハトウ、そなたたちのひそやかなる日々に割り込むような無粋はせぬ。そなたたちが健やかに過ごしていることがわかれば、それでよいのだ。さらば」

 鮮やかに言い残し、将軍は駆け去っていく。おれたちはその後ろ姿を見送り、巻物を開く。

「親愛なる魔法使いナトラ様。そして、ナトラを連れ去った憎きハリヤ様。お元気ですか」

 ジンの心情がにじむような書き出しで始まるこの手紙には、おれたちが城を出てからのことが詳細に記されている。その文面によれば。

 城の人々はとうとう貴族どもを打倒した。永年に渡る支配に耐えてきただけに、人々の怒りは一通りではない。悪行を極めてきた貴族は血祭りにあげられ、割合におとなしくしていた貴族もその多くは城外に追放されたという。

 城に残ることができた貴族はジンの一族くらいなものだろう。だが、それにしても貴族という地位を保っているわけではない。イェドゥア城からは上下の身分のわかちが一掃されたからだ。もともと、城内の人には働きの前には皆平等という考えが強い。元の貴族のように、遊ぶだけで人々に寄食するような存在はもはや許容されるまい。

 貴族どもの存在が消え、支配する者がいなくなって、イェドゥア城を支える制度には大改革が加えられたようだ。三つの府はそのままにして、府に命令を下す機構が新たに設けられる。その名も「連合院」という。なんとも大仰な呼び名だが、なんということはない。城内の主だった者で成り立つ寄り合いのようなものだ。城内の人々を糾合し、貴族を打倒した功績をもって、おれは連合院の座長に推されたと、ジンは自慢げに記している。

 ジンが打ち出した施策は多くの人に喜ばれたようだ。禁苑を囲む壁を壊してその広大な敷地を開放したことは城内の活気をさらに増すこととなった。貴族の領地を営農を希望する者に与えたことは近隣の村々の人の絶大な支持を受けることとなった。また、今はチュムイダ村を防護する堅牢な堤を築く工事を手がけ始めたところだという。親方やクオトーをはじめとする村の人々の悲願がようやくかなおうとしている。

 そして、ジン自身はといえば、以前と変わらず輝々組にあって、城内の土木工事に汗を流しているという。その姿勢に城内の人々は感服しているそうだ。ジンらしい巧みな人心の掴み方ではある。

 話題は転じておれたちのことになる。ナトラの白髪のことは物語として流布しているようだ。おれたちが城を出る時に見た者の証言が、ナトラの白髪を手に入れた男女によって裏打ちされ、様々な色がつけられて人々の口舌に乗っているとみえる。おれたちのことを扱った劇まで仕立てられ、その興業は連日大入り満員だという。また、万難を排して愛を貫くことを「白髪の愛」と形容するようになったともいう。

 城の人たちはわかっているようでわかっていない。もっとも、わかってもらえるくらいなら、おれたちはこの地を拓くことなどしなかっただろう。

 その他の四方山話が延々と続けられ、手紙は次のようにまとめられている。

「私はナトラを得ることができなかったかわりにイェドゥア城を得ることができました。ハリヤはナトラと城の双方を得ることができたはずなのに、もったいないことをしたものだと思わざるをえません。私たちは常にあなたたちを思っています。気が向いたら遊びに来てください。どうかお元気でお過ごし下さい」

 読み終えて、おれはナトラの方を見る。

「だとさ。おまえ、ほんとうにおれについてきてよかったのか。ジンと結婚していれば、おまえは城を牛耳ることだってできたかもしれないんだぞ」

 どんな答が返ってくるかはわかっている。それでも、あえて訊かずにはいられない。ナトラはいたずらっぽく笑いながら手紙を巻き上げる。

「ジンなんて小物よ。ジンはわたしにイェドゥア城程度のつまらないものしか与えてくれない。でも、あんたは違う。あんたはわたしに命さえ投げ出してくれた。たった一つしかない、命を。わたしはわたしの命をあんたに捧げる以外、あんたに報いることはできない。わたしはあんたを守る。なにがあっても守る。この命が果てるその時まで。それに……」

 ナトラは両手を胸の前で合わせ、おれの前に迫ってくる。

「命が、新しい命が、このわたしのうちに宿っているじゃないの。この新しい命はわたしたちの希望なんだから。この希望がある限り、イェドゥア城での栄誉なんかくだらないことだわ」

 ゆったりとした服を着て、膝を着いていたから、将軍たちは気がつかなかったかもしれない。ナトラのおなかは日々大きくなっている。

「どれ、おれたちの子は今日も元気かな」

 おれはナトラのおなかに手をあてる。中の赤子はナトラのおなかを力強く蹴っとばし、おれに応える。

「相変わらず元気一杯だなあ。今のはどっちの子かな」

「お姉さんの方ね。まったく、いやになるくらいわたしに似てるのよ。気が強くて、荒っぽくて、強い力を持った魔法使いになるわ。あ。今、弟がたしなめてる。かあ様のおなかに乱暴をしちゃいけないよって言ってる。弟はあなた似ね。魔法の力が弱いかわりに、体が逞しくて、実がある、頼りになる子よ。たくさん喧嘩をするだろうけど、きっと、仲のいい姉弟になるわ」

 ナトラのおなかにいるのは双子の赤子。この夏には世に出てくるとナトラは言う。

「そうはいっても、退屈じゃないのか。おまえは西にいた時分は平穏な毎日に耐えられなかったのだろう。今はおまえが魔法を使う機会は少ない。赤ん坊が生まれるとはいえ、おまえにとってはつまらない日々なんじゃないか」

 こればかりはどうしても気になることだ。しかし、ナトラはのんびりと笑っている。

「確かに、今はちょっとばかり退屈なのかもしれない。でも、気にしてなんかいないわ。よくは見えないけど、この先には楽しいことが待っていそうだから」

 喜んでいいのかどうか。ナトラが楽しいと感じることといえば、人喰い熊との格闘とか、賊の群れとの立ち回りとか、その手の荒事に決まっている。それもまたよかろう。どんな苦しいことでも、どんなつらいことでも、ナトラと共にある限り、喜びにつながっていきそうな気がする。

 おれは立ち上がり、苗を植えたばかりの田を、種を播いたばかりの畑を見渡す。一瞬瞼の裏に浮かんだ光景はなんであったか。おれの子や孫たちが、野に集まり、豊饒なる実りを取り入れているではないか。

 何年先のことなのか。いや、何年先だって構わない。どんな紆余曲折があっても構いはしない。今までだって色々なことがあったのだ。これからも色々とあるのだろう。どんな険阻な道であれ、おれはナトラと苦楽をわかちながら、一緒になって歩いていく。

「ナトラ」

「はい」

 おれはほんとうに幸せだ。呼びかければ、そこに必ずナトラはいる。





<完>





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