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■旅客機■
【C51】
製造初年大正 8(1919)年。軸配置 2C1。製作 289両。
パシフィック型の軸配置、 1,750mmの動輪径など、優等列車牽引機材の標準技術を確立した、大正時代の名機である。化粧煙突などの細工も優美であり、蒸機国産技術の黎明期にして既にこの域に達した意義は深い。
全国の主要幹線で優等列車に充てられた。ところが、その後客車の鋼体化が進められ、列車編成の重量が増加したため、牽引能力が不足気味となり、第一線の地位を後継の C53に譲った。
第一線からは退いたとはいえ、亜幹線での運用には充分な性能を備えていた。道内では函館本線などで活躍。
経年が古く早い時期に廃車が進み、歴史的意義が大きい割には現存機が少ない。可動機は皆無である。
△ JR西日本×1(梅小路)
青梅鉄道公園に保存されているC515
【C52】
製造初年大正15(1926)年。軸配置 2C1。
三気筒のメカニズムを解析するため、アメリカから輸入した機材。現在同じようなことをすれば、知的所有権侵害の廉で国際問題になりかねないところだ。当時はかような行為に対してまだ鷹揚だった。
解剖を目的に輸入されたような機材で、本線上ではほとんど活躍していない。山陽本線瀬野−八本松間での補機運用が目立つ程度。現存機も皆無である。
【C53】
製造初年昭和 3(1928)年。軸配置 2C1。製作97両。
駆動方式を三気筒とし、技術的な革新を図った機材。シリンダーが両側だけでなく車体中央にも入るため、煙室下部に欠取があるという、外観上の特色を有する。走行音も独特のものがあったようだ。
性能が良好だったとはいえ、機構が複雑で整備が難しく、戦中・戦後の資材不足の時期にあっては持て余す機材になった。そのため、東海道・山陽筋から他線に転じることなく廃車された。
ごく早い時期に消えたものの、1両が現存。昭和36年頃に可動機として復元され、大阪の交通科学館(現交通科学博物館)での保存・展示を経て、さらに梅小路に移籍。現在は火を落とされ、据置に戻っている。再度の復活は、費用などの面から難しいと思われる。
△ JR西日本×1(梅小路)
梅小路蒸気機関車館に保存されているC5345
【C54】
製造初年昭和 6(1931)年。軸配置 2C1。製作17両。
牽引力に不足を生じた C51の後継機とされ、しかも C53より軸重を減じ、幅広い路線で運用されるような工夫もされている。もっとも、その割には位置づけが中途半端で、製作両数が極端に少ないマイノリティーである。
登場した当時は C53の全盛期であり、その勢力でカバーしきれない範囲に充てるという発想だったのかもしれない。中継ぎ、ともいえる。いずれにせよ、両数の少なさは決定的に不幸であった。
目立った活躍もなく、晩年は全車が山陰線東部に集結、播但線などで限定運用された。のちに同エリアに投入されたDD54も、駆動機関の不調から早期に廃車され、「54」がつく形式名は不祥という説も出た。
早い時期に消えたうえ、歴史に残るほどの活躍もなく、全車が解体された。そのため、現存機は皆無である。
【C55】
製造初年昭和11(1936)年。軸配置 2C1。製作62両。
駆動方式を二気筒に戻した機材。 C53の置換を企図したというよりも、安定した性能を有し整備も容易な機材供給が図られたようだ。製作両数もやや少ない観があり、 C54ほどではないにせよ、中継ぎの性格が濃いかもしれない。
このうち21両は流線型で登場した。もっとも、最高速度が高々 100km/h程度では流線型の効果もなく、整備の手間がかかる難点ばかりが目立った。のちに C53と同様の理由で、通常装備に戻された。
スポーク動輪を備えた最後の旅客機で、外観は極めて端正である。門デフ(※)を装備した車両は、競走馬を連想させるほど俊敏な印象があった。
専ら亜幹線の旅客列車に充てられた。道内では宗谷本線で急行「利尻」を牽引するなどの活躍で知られる。
△ JR西日本×1(梅小路)
× 手宮×1
※ 門デフ=門司鉄道管理局管内で採用された除煙板(デフレーター)で、
門デフと略称される。
通常の除煙板と比べ、面積が上部3分の1しかないが、除煙
効果は同等ということで採用された。
その形態は競走馬のブリンカーそっくりで、C55・C57が装備
すると特に似合うといわれた。
梅小路蒸気機関車館に保存されているC551
【C57】
製造初年昭和12(1937)年。軸配置 2C1。製作 201両。
多数の部品を C55と共有しながら、さらなるアップグレードを果たした機材。ボックス動輪を備えた最初の旅客機で、外観は C55以上に端正かつ優美である。優れた性能と外観の秀麗を誇り、日本の蒸機のひとつの頂点を極めたといえる。
人気も高いが「貴婦人」という愛称は如何なものか。蒸機はそもそも男性的なデザインであって、女性名詞を与えるのは間違いだと思うのだが。
日本全国で運用され、専ら亜幹線の旅客列車に充てられた。道内では主に道央で活躍、国鉄最後の蒸機旅客列車(室蘭本線)はこの機材が牽引した。最後の旅客列車を牽引したC57135は交通博物館に保存されている。
現存機多数。可動機は長らく「SLやまぐち号」のみであったが、最近JR東日本管内で復活機が登場した。
◎ JR東日本×1(SLばんえつ物語号)
◎ JR西日本×1(SLやまぐち号)
× 交通博物館×1(C57135)
交通博物館に保存された当時のC57135
【C59】
製造初年昭和16(1941)年。軸配置 2C1。製作 173両。
性能及び製作両数というふたつの面において C53の後継機として登場した機材。抜群の性能、安定した外観。日本の蒸機の究極点に到達した名機である。
主に東海道・山陽筋の優等列車に充てられた。「つばめ」「さくら」「かもめ」などを牽引した花形である。東北筋にも配置はあったものの、特急「はつかり」が登場した頃にはC60〜C62が主役であり、 C59は最盛期を過ぎていた。
無煙化が進んだのちは、軸重が16.2tもある重量機材であることが災いし、一部が軸重軽減改造を受けた以外他線区に転用されなかった。また、自動給炭機が装備されておらず、乗務員にかかる負担が大きかった点も、転用が進まなかった理由のひとつであろう。呉線の急行「安芸」運用をもって引退。
可動機はなく、現存機も少ない。
△ JR西日本×1(梅小路)
左からC59164・C5345・C51239
【C60】
改造初年昭和28(1953)年。軸配置 2C2。改造47両。
C59に軸重軽減改造を施した機材。主に九州・東北地方の優等列車に充てられた。
可動機はなく、現存機も少ない。改造機だけに、注目度が低いようだ。
【C61】
製造初年昭和22(1947)年。軸配置 2C2。製作33両。
米軍占領下で投資が抑制された時代にあって、改造名目で実質的には新製された機材。余剰になった D51のボイラーを流用、新製した C57の足回りに搭載、さらに国鉄で初めて自動給炭機を装備した。
技術的な新味は自動給炭機以外には全くないものの、その分性能が安定していた。地味な存在ながら、名機のひとつに数えられるだろう。
主に東北・九州地方の優等列車に充てられた。特に東北本線においてはC60・C62と共通運用されることも多く、この3形式の重連・三重連も見られたようだ。
占領時代に登場したマイノリティーのため、現存機は少ない。それでも梅小路のC612は可動機である。
○ JR西日本×1(梅小路)
梅小路蒸気機関車館に保存されているC612
【C62】
製造初年昭和23(1948)年。軸配置 2C2。製作49両。
前項の C61と同じく、改造名目で実質新製された機材。余剰になった D52のボイラーを流用、新製した C59の足回りに搭載、さらに自動給炭機を装備した。
技術的な新味は全くないものの、 D52の巨大なボイラーを C59の足回りに載せたため、如何に重心を低く抑えるかに相当な技術的苦心が伴ったようだ。その苦心は見事に実り、しかも大輪の花として開花した。
貨客それぞれの究極機材を合体させたものであるから、日本の蒸機の頂点と呼べるかもしれない。主に東海道・山陽筋で優等列車を牽引した花形である。また、日本蒸機の最高速度を樹立したのはこの機材のうちの1両である(東海道本線における最高速度試験運転にて)。もっとも、せっかく大出力ボイラーを備えながら、軸重に制約があるため存分に発揮されているとはいえず、技術的完成度は C59に一歩譲る面もある。東北筋の投入機材は投入当初から軸重を軽減しており、なんのための大出力ボイラーなのか、さらに不明確になってしまった。
東海道・山陽筋から退いた機材が軸重軽減改造を受けて渡道、函館本線の急行「ニセコ」を重連で牽引した事績はあまりにも有名。
梅小路のC622は可動機。北海道では草の根レベルからC623を可動機に復活させる取組が興り、本線運転を行うまでに至り、蒸気機関車保存史上のエポックとなった。この取組は全般検査を乗り切る資金を確保できず頓挫し、蒸気機関車保存の難しさをも如実に示した。C623は再び苗穂にて据置保存に戻っている。
○ JR西日本×1(梅小路)
△ 手宮×1
梅小路蒸気機関車館に保存されているC622
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