このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

■青梅鉄道公園■

 青梅鉄道公園は、昭和37(1962)年に鉄道開業九十周年を記念して、旧国鉄が開設したものである。九十周年とは、人間でいえば卒寿であり、相応に意味のある節目であるが、いささか半端なところかもしれない。実際問題として、百周年の際には梅小路蒸気機関車館が開設され、保存機材の数、動態保存の実施など、さらに発展したかたちでの保存事業が営まれている。

 では、青梅での保存事業に意味がないかといえば、決してそんなことはない。まずは、これら機材の写真を御覧頂きたい。

 

 

 

 左は 110(3号機関車)、右はE102である。この両形式の現存機は、青梅にしかないのである。しかも、110 は「最初の蒸気機関車」、E10 は「最後に新製された蒸気機関車」であり、歴史的意義も平仄もあっている。この2機材が存在するだけでも、青梅鉄道公園には充分意義があるといえる。

 また、このほかにも貴重な機材が揃えられている点に、青梅鉄道公園の特色がある。

 

 

 

 左はB6こと2100、右はピーテンこと5500である。いずれも明治期を代表する重要な機材でありながら、現存機はほとんどない。2100は、大井川鉄道を経て日本工業大学工業技術博物館に動態保存されている2109、及びここ青梅の2221を除き、健全な状態で保存されているものはないらしい。5500も、東武博物館に保存中の2両と、ここ青梅の5540を除き、現存機はないはずである。

 

 

 左は9608、中は8620、右はC515、いずれも大正期を代表する重要な機材である。ことに9600は、蒸気機関車の国産技術を確立させたという点において、技術史的意義はたいへん大きい。これら機材の現存機は C51を除き少なくないが、若番車を揃えた点に意味がある。8620はトップナンバーである。9600の初期車は中国に渡ったまま還ってこなかったので、9608はおそらく国内最古参車である。 C51は廃車の時期が早かったため現存車が少なく、初期車が保存された意味は大きい。

 

 

 

 左はC111、タンク機を代表する機材のトップナンバーである。右はD51452で、公園開設当初はまだ第一線級の機材だった、日本の蒸気機関車を代表する名機である。

 

 

 

 左は ED161、国産黎明期の電気機関車である。現存機はおそらくここ青梅にしかない。右は新幹線0系先頭車、車両の大きさを考えれば、完全なかたちで保存されるのは数例にとどまるだろう。東海道新幹線から引退し、山陽新幹線での運用終了も時間の問題という今日においては、ますます稀少化必至の車両である。

 

 

■保存の意図■

 ここで想起してほしい。昭和37(1962)年という時機を。いわゆる蒸気機関車ブームに火が着くはるか以前であり、そもそも鉄道史や鉄道趣味じたいが社会的に充分認知されてはいなかった。そして、蒸気機関車がいずれ第一線から駆逐されていくことが明白に認識される段階でもあった。

 青梅鉄道公園に集められた機材は、当時の状況からすると、そのままではスクラップにされていた可能性が高い。蒸気機関車は効率の悪い前時代の遺物、という認識さえあった時代である。蒸気機関車は保存に値する対象、と認識されていた方はごく少数派であったと思われる。

 いくら価値ある機材であろうとも、スクラップとなってはただの鉄塊に帰してしまう。歴史的意義を持つ機材にその価値を見出し、一箇所に集積して保存したことは、まぎれもなく青梅鉄道公園の功績である。

 国鉄部内において、青梅鉄道公園を発起された方は誰であろう。その方には素晴らしい先見の明があったといえる。

 

 

■理念と実践の乖離■

 青梅鉄道公園開設の背景には、高邁な先見と理念があったことは確実である。しかし、その実践となると心許ない部分がある。

 それは、全機材が屋外露天での保存という点である。風雨霜雪に曝される機材は、劣化の進行が早い。除煙板や煙突など保存後に交換されたことが明瞭な部品もある。これらの細工は「ほんもの」と比べどうしても弱々しく、往年の輝きが感じられない。ボイラーの底部など、見えない重要部分で腐食が進んでいる懸念もある。

 110 が開腹されている、というのも信じがたい措置であるが、公園開設前の段階で既に大宮工場で教材となっていたというから、長い歳月に渡って開腹されていることになる。ビニールシートによる養生は決して万全でないし、見た目も良くない。蒸気機関車の構造を示すための教材としては、C111など他にも適任車もあるのだから、原型復旧を望みたいところである。
 (この件は、三菱大夕張鉄道保存会の石垣様から懇切なる御教示を賜りました。ここに御礼申し上げます。なお、情報の原典は「日本最初の機関車群」(金田茂裕)だそうです)

 「公園」としては、現状でもよいだろう。しかしながら、「保存事業」としてとらえるならば不充分という観がある。貴重かつ稀少な機材が揃っているのだから、後者に重点を置いてもよい。動態保存は無理としても、せめて屋内保存を望むものである。

 

 

 

 

元に戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください