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1号機関車について

 

 

■百年の謎

 鉄道唱歌の冒頭「汽笛一声新橋を……」で広く知られているとおり、日本で最初に開業した鉄道は新橋(※)を起点としていた。開業当初の終点は横浜(*)で、開業した年は明治 5(1872)年である。新橋−横浜間鉄道で使用された機関車の一両が「1号機関車」であり、現在は交通博物館に保存されている。
   ※のちの駅名では汐留に相当
   *いまの駅名では桜木町に相当

 新橋−横浜間鉄道の開業は、鉄道史における最重要事項の一つである。同鉄道は、機関車の鋼製車体・煙と蒸気・汽笛などを通じて、視覚的・聴覚的に人々の心に大きな衝撃を与えた。実物の見聞を通じての認識であるため、近代交通のあるべき姿−−大量性・高速性−−の周知効果は大きかったといえる。また実際のところ、当時としては極めて利便性の高い交通機関であった。結果として、同鉄道の規格は大きく見直されることなく、全国に鉄道網が拡張・展開され、これが幹線鉄道網の原型となっている。

 つまり、日本の幹線鉄道は、新橋−横浜間鉄道の規格を長短所ともに継承していることになる。この事実、特に新橋−横浜間鉄道に1067mm軌間が採用された理由は、世界標準が1435mm軌間であることに比べ対称的であり、昭和以降格好の研究対象となっている。その中には優れた成果が得られているものも少なくない。

 ところが、これら諸研究が乗り越えられなかった壁がある。当時の建設技師長モレルは新橋−横浜間鉄道の開業を待たずに早逝したため、後日の回顧談等を含めモレルの意志に関する記録がほとんど残されていない。そのため、新橋−横浜間鉄道に1067mm軌間が採用された理由は、今日もなお不明のまま解明されていない謎となっている。

交通博物館に保存されている1号機関車

 

■今までの研究

 升田は、その著作中において、大正 9(1920)年の大隈重信の帝国鉄道協会会長就任時の講演を紹介している(参考文献(01))。この講演からは、当局の意志決定者だった大隈においてさえ、新橋−横浜間鉄道の建設当時には軌間の概念を理解していなかったことが読みとれる。

 なぜモレルが1067mm軌間を採用したのか、なぜ当局が1067mm軌間採用を受容したのか、これら意志決定に関する一次資料は存在しないと認定されている(参考文献(01)〜(04))。著作編纂の意図・時期が異なる複数の文献において、一次資料が存在しないと認められている以上、今後新しい資料が発見される可能性はないに等しいと考えざるをえない。

 一方の当事者が早逝し、もう一方の当事者に明確な理解・認識がなかった事柄が、後世の解明されざる謎として残るのはやむをえない。しかしながら、当事者の肉声のような、一次資料の入手じたいが研究の目的ではない。モレルが残した一次資料がなくとも、客観的事実を追うことは可能である。これらに技術的評価を加えて、1067mm軌間採用の理由を考察することは、相応に意義があることと考える。

 新橋−横浜間鉄道の建設当時における客観的事実は、下記のとおりである。

   当局との合意形成前にモレルが企業家レイに1067mm軌間採用を指示(04)
   レイ麾下の技師ホワイトが1067mm軌間の機関車と資材を調達(02)(05)(06)
   後に当局が1067mm軌間採用を追認(01)(02)
   モレルは同鉄道の開業時期を明治 5(1872)年に設定していた(07)

 また、同鉄道の線形や規格には、下記のような特色があった。

   枕木を鋼製ではなく木製とするなど鋼製部材の採用を極力控えた
   その典型例としては六郷川(多摩川)・鶴見川には木橋が架けられた
   高輪沖・野毛沖の海中に築堤しこれを路盤とした

 

■考察

 以上の諸点を総合すると、新橋−横浜間鉄道に1067mmを採用した理由は、以下のように推測できる。

 1)軸重の極小化
 当時鋼製部材を入手するためにはイギリス等からの輸入に頼らざるをえず、費用の増嵩となるばかりか、調達までに長期間を要した。初期投資を抑え、かつ目標年次までに開業させるためには、代替可能な箇所には木製部材を使用する必要があった。
 上記により、ほんらいは鉄橋構築が必要であった六郷川・鶴見川に、木橋を架けざるをえなくなった。また、海中での築堤が路線延長の相当部分を占めていることともあわせ、輸送力の要求を満たす範囲内で、可能な限り軸重を軽減する必要があった。

 2)工費の極小化
 また築堤に関連していえば、工費を極小化するために施工数量を抑える必要があった。このことから、線路敷の幅はなるべく狭い方が望ましかった。
 なお工費極小化については、六郷川・鶴見川の鉄橋ではなく木橋としたことも該当するように見えるが、両橋は開業後早々の明治 8(1875)年、鉄橋に架け替えられていることから、早期完成が優先されたと考えるのが妥当であろう。

 3)将来計画との関連
 新橋−横浜間鉄道が重要な路線であることは確かであるが、幹線鉄道網と比べれば局地的な路線であることは否めず、需要には相当な開きがあったはずである。しかし、当時はまだ、幹線鉄道網の計画はまったく具体化していなかった。
 また、路線延長に大きな差があることから、幹線鉄道網には新橋−横浜間鉄道の規格をそのまま継承する必然性は乏しかった。

 4)考察
 もしモレルが、鉄道という交通機関の実物大見本として新橋−横浜間鉄道の早期開業を最優先させ、幹線鉄道網計画を具体化させる際には規格の全面見直しをしてもよいと割り切っていたならば、1067mm軌間採用の理由は以下のように要約できる。
「より早くより安く」
 1067mm軌間には建設速成が可能という長所がある反面、軸重が軽く輸送力が落ちる短所も無視できない。この長短は建設段階では相半ばするといえるが、長期的に見れば短所の方が明らかに大きい。ここでモレルの意志を敢えて推測するならば、豪州での実績を経ていたことから、複数軌間の使いわけを容認−−幹線は1435mm・ローカルは1067mm−−していた可能性を指摘できる。

 つまり、新橋−横浜間鉄道は暫定的な規格で早期開業を図り、幹線鉄道網の計画を審議する際には改めて規格を検討するという構想が、モレルにはあったのではないか。しかし不幸にして、モレルは早々に世を去ってしまった。当局には1067mm軌間を幹線鉄道に採ることによる問題点に気づく者はなかったし、当時その問題を指摘できるのはモレル以外にいなかったであろう。かくしてその問題点は、百年以上経った今日もなお温存されることになったのである。

 

■まとめ

 新橋−横浜間鉄道に1067mm軌間が採用された理由の研究は、その多くが「より安く」という結論を示している。本稿では、これに加え「建設速成」と「幹線とローカルでの複数軌間の使いわけ」という観点を呈示した。残念ながら確証はないが、客観的事実を総合し、技術的評価を積み上げれば、必然的に導きうる妥当な結論だと確信している。

 新橋−横浜間鉄道に1067mm軌間が採用された理由に関しては、確証に欠けるがゆえに、様々な俗説が呈されている。そのなかには、モレルが日本の国力をあなどりコロニアル・ゲージ(1067mm軌間)で充分だと判断したとか、1号機関車はセイロンの注文流れだったのでその軌間に合わせたとか、珍説は枚挙にいとまない。しかしこれらは証拠に欠け論拠が甘いばかりでなく、モレルの技術者としての良心を冒涜するものである。

 日本人技術者の育成を進言したモレルは、まぎれもなく良心ある技術者である。筆者は「当時の良心ある技術者ならばどのように判断したか」という観点から考察を加えてみた。この考察が技術者としてのモレル像に、別角度から光を当てるものになれば幸いである。

 

 

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■参考文献

 (01)升田嘉夫、「鉄路のデザイン−ゲージの中の鉄道史」
 (02)鉄道省、「日本鉄道史」
 (03)原田勝正、「日本鉄道史−技術と人間」刀水歴史全書53
 (04)田中時彦、「明治維新の政局と鉄道建設」
 (05)金田茂裕、「日本蒸気機関車史−官設鉄道編」
 (06)The Engineer, p126, 1871.2.24(注:5)中の引用文献)
 (07)おのつよし、「日本の鉄道 100ものがたり」

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