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二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
<完全改稿版>

そのⅠ  天塩の炭礦前史





■日本史における北海道そして留萠

 江戸時代までの日本では、地域の力をあらわす指標は石高、即ち米の収穫高であった。石高は動員可能な兵数に比例していたともいわれているから、力(軍事力)を表現するのに最適な指標だったのかもしれない。このように石高で力をはかっていたという事実は、日本が稲作本位制の国であり、日本人が稲作本位の世界観を持っていたことの証である。

 冷涼というよりもむしろ寒冷な地である北海道は、江戸時代の日本人にとって、世界観の外側にある地であったろう。なにしろ当時の北海道では稲作ができないというのが常識だった(※)のだから。松前藩という北海道のほんの一隅のみが、日本人の拠点であるにすぎなかった。ただし松前藩は、アイヌとの交易を通じ活動の範囲は広かった。交通不便と危険を冒し、千島列島まで出向いていたというから驚く。これは松前藩にとっての利益の大きさを示す有力な状況証拠であって、アイヌとの交易にはきわめて不公平・不平等な取引が多かったという定説を裏づけている。

   ※江戸時代における北海道での稲作は、函館−松前付近の狭い範囲に限られていた。

 稲作ができなかった以上、北海道は日本人にとって価値の低い土地であったはずだが、状況は次第に変わってくる。ロシア帝国が極東に版図を拡大しつつあり、北海道はロシアとの境界領域となってきた。鎖国下の江戸幕府体制は暗愚・無知蒙昧・頑迷固陋の権化のように描写されることも多いが、一方には実は国際感覚にすぐれていたとの評価もある。実際のところはどうだったのか。

 年表−1を見てみよう。文化 4(1807)年にルルモッペ場所(現留萠)を含む西蝦夷地が天領(幕府直轄領)となったあたり、江戸幕府がロシアとの「国境」として、北海道を如何に重視していたかがうかがえる。しかも文化年間には、足かけ15年に渡り間宮林蔵が派遣され、沿岸測量を行った実績もある。江戸幕府はロシアを警戒し、かつ北海道を版図として確保しようとしたわけだ。今日的視点から見ても、実にまっとうな反応ではないか。なお、以下の年表は基本的に参考文献(13)によっている。

年表−1 留萠関連年表(文政年間まで)
年(元号)年(西暦)できごと
寛永11年1634年松前景広がルルモッペ場所の知行主に
元禄 2年1689年松前藩工藤家がルルモッペ場所の知行主に
安永 8年1779年ルルモッペ場所の工藤家知行地から松前藩領に
寛政 4年1792年大黒屋光太夫根室に帰国
文化 4年1807年ルルモッペ場所含む西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)に
文化 5年1808年フェートン号事件(於長崎)
文化 8年1811年ゴローニン事件
文政 4年1821年蝦夷地が天領から松前藩領に復帰


 文化年間にはフェートン号事件、ゴローニン事件などが相次ぎ、国際緊張が高まる局面が続いていく。その国際緊張も文政年間に入ると解け、北海道は再び松前藩の帰属となる。その後束の間、といっても30年ほどの長さはあるが、平和で穏やかな時代となる。

 「太平の眠りを覚ます上喜撰」とうたわれたペリー艦隊が浦賀に来航してからは、まさに字義どおり激動の時代に突入していく。幕末から明治維新にかけては、既に多くの名作が活写しているところであって、筆者が屋上屋を架しても意味あるまい。しかし、留萠に着目した著作はほとんどないはずで、その点では意義少なからじと考える。

年表−2 留萠関連年表(明治維新まで)
年(元号)年(西暦)できごと
嘉永 6年1853年ペリー艦隊浦賀に来航
安政 2年1855年蝦夷地が再び松前藩領から天領に
ルルモッペ場所は函館奉行所管轄・秋田藩警護地に
安政 4年1857年ルルモッペ場所詰金井満五郎によるオビラシベ川上流の石炭調査
安政 6年1859年ルルモッペ場所は庄内藩警護地に
万延元年1860年ルルモッペ場所は天領から庄内藩領に
慶應 2年1866年ルルモッペ場所は庄内藩領から天領(函館奉行所管轄)に
オビラシベ川上流の炭鉱開採廃業
明治元年1868年明治維新・ルルモッペ場所より庄内藩引き揚げ
増毛商人八川喜七によるオビラシベの石炭試掘
明治 2年1869年ルルモッペ場所は天塩国留萠郡(当時はルルモエと呼ばれた)となり山口藩支配地に
明治 4年1871年山口藩によるオビラシベ川上流の炭鉱開採
山口藩支配被免(廃藩置県)・留萠郡は開拓使管轄に


 留萠もまた、幕末維新期の激動の渦に巻きこまれていたことがわかる。松前藩領→天領(秋田藩警護)→天領(庄内藩警護)→庄内藩領→天領(庄内藩警護)→明治政府(山口藩支配)→開拓使と、実質的な統治者がわずか20年足らずの間に 6回も入れ替わっている。

 松前藩領から再度天領に召し上げられたのは、ペリー来航を受けて沿岸防備を強化する動きと考えられる。もっとも、安政 2(1955)年当時のルルモッペ場所は、函館奉行支配調役 1名、下役 1名、同心 3名という体制にすぎなかった。なんとも微弱で心許ない体制にも見えるが、実際の警護は秋田藩が担当していたわけで、沿岸警備にあたってはそれで充分だったのかもしれない。

  4年後の安政 6(1859)年には、事由不明ながら警護役は秋田藩から庄内藩に交代する。さらにその翌年の万延元(1860)年、ルルモッペ場所の領有が幕府から庄内藩に移ったのは、江戸幕府弱体化の象徴といえよう。ちなみに、同年(改元前の安永 7年)には桜田門外の変が起きている。

 せっかくルルモッペ場所を領有した庄内藩だが、慶應年間に再び天領に召し上げられ、明治維新により撤退を余儀なくされる。かわりに乗りこんできたのは明治維新の勝者たる山口藩である。その山口藩でさえ、明治 4(1871)年の廃藩置県によって、支配者の地位を失ってしまう。

 この経緯はあまりにも劇的すぎ、諸行無常とさえ形容できない。当事者は目が回る思いだったろう。特に山口藩が失脚する展開など、どんでん返しどころではない極端な変化といえまいか。勝者ですら解体されてしまう大激変期。国のかたちを基礎の基礎からつくりなおし、のどかでおおらかな封建体制からどこか尖った近代国家へと移行した過程こそが、明治維新なのであった。





■留萠から小平蘂川上流へ

 幕末から明治維新にかけての激動は前項に記したとおりだが、小平蘂川流域において、この時期に石炭採掘の試みが始まっていることは注目に値する。年表に最初に名を刻んだのは函館奉行麾下の金井満五郎なる人物で、安政 4(1857)年に小平蘂川上流(おそらく達布付近)にて石炭調査を行っている。

 余談ながら、参考文献(15)箱館奉行所文書の簿書72「函府御用留/従安政五年至元治元子年」の中には「箱館奉行支配定役金井満五郎病気快気次第講武所勤番申付の件」(万延元(1860)年 7月)という件名が見える。これから推測するに、金井満五郎は幕府事業として石炭調査に携わり、その結果として病を得る羽目になったのではないか。当時の調査の労苦のほどがしのばれる。

 海の交通手段が帆船から蒸気船へと進化するなど、動力近代化が求められる時代のなかにあって、石炭の入手は必要不可欠であった。しかし、年表−2に示されているとおり、小平蘂川上流での石炭採掘は不調傾向を示していた。安政年間に始められた炭鉱開採は、出炭量が少なかったため、慶應 2(1866)年に早くも頓挫してしまう。

 達布より上流には石炭沢という沢があり、また参考文献(16)など山歩きのHPには沢筋に石炭が転がっている旨の記述もあるから、小平蘂川上流には石炭の露頭が存在していたのであろう。また、石炭に限らず資源の存在は、一旦知られれば共有の知識として世間に流布するものである。その一方、採炭事業は典型的な労働集約産業でもある。江戸時代にさえ採炭が事業として成立しなかった事実は、小平蘂川流域の地層における石炭含有率の低さを如実に示すものである。

年表−3 明治以降の採炭関連年表
年(元号)年(西暦)できごと
明治 7年1874年開拓使雇ライマン(アメリカ人)による地質調査
明治16年1883年小樽の大竹作右衛門による小平蘂川流域石炭調査
明治20年1887年大竹作右衛門によるヲキナイ上流石炭開採
明治27年1894年田中北海道鉱山株式会社による小平蘂区石炭試掘
明治34年1901年北海道炭礦鉄道株式会社(後の北海道炭礦汽船)による石炭採掘権所有
明治38年1905年大和田で石炭採掘始まる
明治44年1911年地質調査所による小平蘂川流域の炭田予察調査
大正 9年1920年地質調査所による小平蘂川南部炭田調査
大正11年1922年地質調査所による小平蘂川北部炭田調査


 幕末維新の疾風怒濤が落ち着き、明治期に入ってからも、状況に大きな変化はなかった。年表−3に示されているとおり、「調査」という文言ばかりが目立ち、本格的な事業化には至ったものは、留萠川流域の大和田のみである。幌内・夕張などの炭礦が明治期に本格稼働している一方、小平蘂川流域での採炭活動の不活発さは、相対的な条件の悪さを示す証左といえるだろう。かような状況のなか、明治34(1901)年に北海道炭礦鉄道株式会社(後の北海道炭礦汽船/以下北炭と略称)が石炭採掘権を確保したのは、将来に向けての遠大なる布石だったのだろうか。

 この北炭による石炭採掘権確保の意味は決して小さくない。なぜなら、明治・大正期にこそ具体化しなかったものの、のち昭和に入ってから天塩炭礦及び鉄道の事業を推進したのは北炭だったからである。





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