このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

坂本屋半兵衛

過去帳によると、天保五年十二月四日に坂本屋半兵衛が亡くなっています。そして、その三年後の天保八年に半兵衛の家族、親子三人が隣の下分村に仕事に行っています。当時の大家族のなかにあって主をなくした家族は居場所がなかったのかもしれません。

天保八年 川之江村大庄屋役用記より

一筆致啓上候 春寒未ダ難過御座候得共 愈御堅勝可被成 御勤珍重奉存候
然者 村方坂本屋半兵衛家内之者 親子三人 其御村方西下分 久左ェ門世話で
御村内へ稼ニ罷越申度段 願出申候間 御差置可被下候
万一右之者如何躰之義出来仕候共 当方へ引取 少も御村方御厄介相掛申間敷候 
為後日 以印状 御頼旁如斯御座候 恐惶謹言  

                      酉二月廿八日 猪川 弥次兵衛

  下分村御庄屋  忠 兵 衛 様



天保八年の役用記中、半兵衛の家族に関する記述のすぐ後に続けて「大塩平八郎の人相書き」の記述がありました。おもしろそうなので載せておきます。


態与致廻達候

然ば 去ル十九日 大坂表ニおゐて 所々放火乱妨いたし 彼地迯去候由
未タ松山表より 御沙汰は無之候得共 別紙人相書 被仰出候由ニ候間
此段御承知之上 胡乱之もの有之候ハバ相改 見当次第召捕 
其段早々御申達可有之候 右為可申入如此候 以上
                         重松 伝蔵

人 相 書
大塩 平八郎
一年令 四十五

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