このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
高原庄六教昌(坂本屋庄六)について |
高原家の墓地の一画に「安政六年没高原庄六教昌」と刻まれた立派な墓石が残っています。この庄六は七代前の人で、渡海船を持って廻船業を営んでいました。 |
文政五年(1822年) 壬午 正月ノ年行司合田屋正兵衛、中常屋吉左エ門 連中総人員二十七名 総石高千四百六十五石 石持筆頭 東屋伊右衛門 (別ニ東屋茂兵衛分百石有リ) 次位 坂本屋庄六 百三十石 (佐平次七十石、文七五十石) ーー以下略ーー |
石持筆頭の東屋というのは後に三好半兵衛を輩出した三好家で、伊右衛門とは別に茂兵衛も百石を有していました。坂本屋の方でも庄六が百三十石、その他に坂本屋一統と思われる左平次と文七の石高が書かれています。この佐平次は後に登場してくる庄蔵の父親「佐平」ではないかと想像しています。 |
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この廻送船は、帆の広さにより一反について幕末では銀三分の運上(税)を納めていました。 何十石積という呼び方のほかに何反帆という呼び方もあり、船の速さや強さとともに 課税対象としての呼び方でもあったのでしょう。 |
また、江戸時代にもかかわらず「安政六年没高原庄六教昌」と墓石に高原の名字を刻んでいるということは、この庄六は名字帯刀(脇差)を許されていたのでしょう。興味のあるところです。 |
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