このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

昔の太鼓の喧嘩

戦後(昭和25,6年頃)、農人町太鼓台(左)と井地太鼓台(右)の喧嘩。
(写真提供 鉄砲町匿名希望T
様)



昔から祭りに喧嘩はつきものだったようです。下の資料は『川之江村役用記』からのコピーで、時代は江戸時代。弘化三年(1846年)の8月(旧暦)です。

8月21日の夜、裏ノ丁(裏ノ町は現在の旭町)の兵吉が怪我をしたので御陣屋に報告をし、高原に診察を申し付けた。8月22日に、下に書いてある6人を浜の蔵に入れて昼は二人、夜は三人で番をさせた。と書かれてあります。


「濱蔵」は昔から博打などをした人がよくお世話になっていたみたいです。



口上の覚え書き



この度の祭りの時、西濱の太鼓と当町(裏ノ町)の太鼓が諍いをおこし、その場に居合わせた兵吉が怪我をしました。お役場へ申しあげたのですが、日をおって(兵吉の)病気も回復にむかっております。しかしながら宝積寺様(今の八幡神社)が間にはいって良いように取り計らってくれましたのでその意をくんで、今後兵吉の体がどのようになっても(私どもは)一言もつげ知らせることはありません。のちのあかしの為に親類が連名で一礼いたします。

というようなことを書いてあるのだと思いますが…



怪我をした兵吉の容体書


8月21日に怪我をして26日にはほとんど治っているのだからたいした怪我ではなかったのでしょう。容体書の最後に医師のサインがありますが、この高原首令という人まさかうちの御先祖さんではないと思います。三宅一學さんの子孫は今も古町に居を構え、次男の方は高松で開院しております。



京都在住の18代目三宅氏から「三宅一學」についてのメールをいただきましたので紹介させていただきます。

この文書が1846年ということからすれば、三宅一學は、川之江の三宅13代目、医師としては3代目の「吉重一学(後改 又輔)」51歳の時と思います。

高原首令は、吉重一学の父「吉明一覚(後改 水哉)」の次男で
高原淳伯さんのご養子となった「吉淳主禮」だと思われます。

古町の家の表門は、4代目「家経」の時、一柳公が播磨に転封時、陣屋の表門を拝領したもので、もう360年位経過しています。家経は、川之江八幡宮の大鳥居にも名前があります。(1651年献上とか?)
家経も、吉祥院を建立したその先代の「吉次」も井地山にお墓があります。


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