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祭礼のきめごと



文政12年(1829年)
 文政期になると幕府から倹約令が出されます。江戸では文政5年に山王・神田の両祭礼の華美を禁じられたり花火が取り締まられたりします。また新居浜では文政10年に祭礼行列の華美を戒める旨の御触がだされています。川之江村でも倹約令が申し渡されますがその中に太鼓台に関する記述があったので書き出します。

 ー略ー 太鼓之儀も 近頃金銀を費し 仰山之餝 甚心得違らく至ニ候 乍併 右願も有之ニ付 上ハ餝ふとん尺其侭 しめかざり金銀不用紙ニ限り 下餝蒲団は 不残取除ケ 跡麁抹之餝方も以来拵候義 不致候様 一統勇間敷 舁同儀見逢可被申付候 若右ニ相背候餝方 いたし候ハヽ 其品取揚 差留可申付候 元来祭礼之義は 神慮をいさむる為に候 其元は 氏子一統和順ニ右風を守 万代不易 国家安全を祈候事本心ニ而 神慮ニも相かなふへき事 皆人存知之事候 いさむる為に 色々賑合として 金銀を費し 不益物入いたし候而は 都而 神慮ニもかなわさるして 自然と所衰微いたし 困窮迫り 終ニ其果は 離散之もといニも 成る事 御上被仰出ニも相背 不軽事候 聊心得違無之様 費成義 致間敷候 町々 相互ニ睦じくいたし 争論かましき義 出来不致候様 若又太鼓を舁 喧嘩口論等いたし 神祭をけがし候ハヽ 曲事申付 其太鼓取揚 永代停止 可申付候 右之趣 夫々心得候様 御申触有之度存候 尚御陣屋より 改方之もの 申付置候間 此段可被相心得候

 『太鼓台においても近頃金銀を使って仰々しい飾りをつけているがこれは非常に間違った考えである。上の「飾り蒲団」はそのまま、締め飾りは金銀を使わず紙に限ること、下の「飾り蒲団」は残らず取り除くこと。あと、古くなった飾りをこののちに造る場合は同じようにすること。もしこれと違った飾り方をしたときはその飾りを取り上げて太鼓台(の運行)を差し止める。
 もし太鼓台を舁いて喧嘩、口論などをして神祭を穢したときは罰を申し渡し、その太鼓台を取り上げ永代の(運行の)停止を申し付ける。』というようなことが書かれています。




天保14年(1843年)

 老中水野忠邦は天保12年〜天保14年にかけて、いわゆる天保の改革をおこない倹約をすすめ風俗を正しました。川之江村でも祭礼の太鼓台、関船、大名行列、俄芝居を禁止しました。ただし神輿の渡御はおこなっていたので壱、貳、三の神輿の賀与丁(かき夫)はそれぞれの町から一人づつ出していました。この年は川之江村が神輿守になっていました。

 八月六日祭礼一条之儀組中親江申渡
 右之通

  太鼓関船大名俄等 一切不相成事
  当歳御輿守二付 一組より壱人ツヽ 差出組親
  警固之事 御輿守人名扣


  壱御輿   農人町 五郎右衛門組 平兵衛 …略… 〆 拾七人
  貳御輿   山下町 貞右衛門組 民藏 …略… 〆 拾六人
  三御輿   古町下 善太郎組 徳兵衛 …略… 〆 拾六人

 天保の改革は「上知令」や「株仲間の解散」など幕府本意の厳しい改革だったのでわずか2年あまりで失敗に終わってしまった。とまあ社会科の勉強のようになってしまいましたが、いかな四国の片田舎といえども中央と密接につながっていたようです。


嘉永二年(1849年)八月七日 祭礼申渡




同じ年(嘉永二年)の「祭礼申渡之覚」では祭礼のときの色々な決めごとがいつから施行されたかが書かれてあります。興味深いので全文を載せておきます。

   嘉永二酉八月

               祭礼申渡之覚

 一 太鼓出シ来り 町之儀は 昨年之通 青黄赤白黒之印ヲ 付可申事
   右は一昨年 御陣家より御沙汰ニ付 申渡候

 一 祭礼狂言之儀は 都て当年も 此内之通ニ申付候事
   右は天保四己年 御見迯ニ被仰付候

 一 当歳は 村方御輿守ニ相当り候ニ付 先年之通 壱組より壱人ツヽニ申付 
   猶警固として五人頭中 罷出可申様 申付候事
   右は先年 御伺之通ニ御座候

 一 祭礼節は 若ものとも 心得違之儀 間々御座候ニ付 他町掛合 何等之儀は 
   其年之年行司ニ 相定り居候ものより 都て掛合可申様 申渡候事
   右は文化九年己八月 御沙汰御座候 尚天保四己年ニも 同様ヒ仰出候事

 一 祭礼当日 喧嘩口論仕候ものハ 理非之不及沙汰 浜蔵入申付候事
   右は天保四己年 御沙汰ニ付 申付候事 右之外 村役人共より 申合之上 
   相決メ沙汰仕候事

 一 先年より 太鼓祭礼狂言等ニ付 贔貭之町と申儀 御座候て 祭礼当日 并狂言中 
   其町之印ヲ 入候弓張等 差遣候儀 御座候所 追々増長仕 数張ニ相成候ニ付 
   昨年より 五丁ニ限り可申と 申付候得共
   又々 当年相減シ 三丁ニ限 可申旨 申渡候事

 一 御輿守共 壱弐三之輿へ かヽり居候もの猥りニ入替り 可申事
   相成不申段 申渡候事

 一 狂言日限之儀は 祭礼之前は 幾日たりとも 不苦候得共 十六日限りと 
   先年ヒ仰付候ニ付 其旨申付 居申候処 右限りニては 町々迷惑之事も 
   御座候由ニ付 近年は 十七日限りと 申付居申候ニ付 当年も同様 申付候 
   右之通御達奉申上候 以上



嘉永7年(1854年)

  祭礼申渡

 太鼓々々 外町より加勢 一切不相成候事
 芝居場 並太鼓江 贔屓登して 弓張又者 高張 外町より遣候儀 是又 一切不相成候事
 芝居相済候節 堂殷堂して 贔屓之町之若もの大勢 案内致 酒宴致候儀 以来決而 致間敷候事
 其余 都而 此内申渡之通 相心得可申事
 浦町太鼓 五ケ年休之処 昨年二而相済 当年出候様 願二付 任其意事
 塩谷大名 先供江相成候様 昨年願出 先二相成候処 当年も同様 先供任其意事
 昨秋祭礼の砌より 太鼓太鼓間江 鉾壱ツヽ入候事  
 
 毎年祭りのたびにもめごとが起こるので太鼓にはよその町から加勢しに来てはいけないというお触れです。また贔屓(ひいき)として弓張や高張提灯をだしてはいけない、芝居が終わったあと贔屓の町の若者を大勢招いて酒宴をしてはいけないということも書かれています

 浦町の太鼓台は嘉永2年から嘉永6年までの5年間出場を休んでいたのですが、本年から出すにあたっては町に任せることとなっています。

「塩谷大名 先供江相成候様 昨年願出」ですが、これは塩谷の大名行列の順番を太鼓のまえにしてほしいというお願いではないかと思います。事実、文化8年の行列次第では大名は最後から2番目の35番に位置していますが慶応4年の行列次第を見ると神輿太鼓の前の12番目に位置しています。

 それから、これが興味深いのですが最後の行に太鼓と太鼓の間に鉾(ほこ)を一基づつ入れる事となっています。現在でも太鼓台が連なっているとき太鼓台の前のかき棒のかき夫と前をいく太鼓台の後ろのかき棒のかき夫同士がもめることが間々あります。そのトラブルを避けるための策だと思います。


安政2年(1855年)
 翌年の「祭礼申渡」に。前年に決まった「太鼓と太鼓の間に鉾(ほこ)を一基づつ入れる事」に関しての記述がありました。

 太鼓々々へ鉾壱ッ宛入候処 若シ心得違二而 右鉾守人足江 縺ヶ間敷申者 有之候ハヽ
 急度可申付候事其余都而 此内申渡之通相心得可申事

 「心得違いの者がいて太鼓と太鼓の間で鉾を守る人足との間で諍いがおこらないよう気をつけておくこと。」ということでしょうか?
 翌年この一文が付け加えられたということは「鉾を守る人足」と「かき夫」との間でなにかトラブルがあったことと思われます。太鼓同士のトラブルを減らすために太鼓の間に入れた鉾なのですが新たなトラブルの火種をかかえたみたいです。事実、この2年後に以下のような記述がありました。

 八月廿三日
 御陣屋二おいて
  一、其方儀祭礼之節村役人より              中須町
  兼而申聞候を 不相用鉾江手掛候段             岩 吉
  不埒二付於居宅 急度押込申付ル


安政5年(1858年)
 8月23日に陣屋において、祭礼の時に『役人から申し聞かされているにもかかわらず鉾に手をかけたのは不埒である』ということで中須町の岩吉が自宅謹慎を言い渡されました。


 この太鼓と太鼓の間に鉾を一基入れることに関しての記述は文久3年(1863年)の祭礼まで書かれていますがその後はどうなったのでしょうか。



安政5年(1858年)



 八月十一日祭礼申渡
 一、祭礼当日之儀者 御陣屋 御検使場へ 御出張之儀二付
   都而何事も御差図与相心得 心得違無之様可致事
 一、芝居場并太鼓へ 贔屓として高張 又者 弓張打燈 差違候儀 不相成段申渡
 一、太鼓江 外町内より加勢致候儀 決而 不相成段申渡
 一、塩谷大名 先供當歳も同様申渡ス
 一、太鼓間鉾守へ縺ヶ間敷儀申者有之候ハゝ急度可申付事
 一、狂言并太鼓へ 若者一統与して酒出候儀決而 不相成段申渡ス
 一、芝居場役人座敷取置可申事
   右之余都而此内之通 相心得可申事
   八月十一日
       村役人中
           組親へ申聞ル

 この年の申し渡しもまた例年と同様のことがかかれています。最後に「芝居場に役人の席を取っておくこと』という一文に当時の身分制度の一端がのぞきます。



安政7年(1860年)

 凶作が続いて諸物価が高騰してきているのでこの年(安政7年)の芝居や太鼓は中止になりました。おもしろいのは関船のくだりで、『伊吹屋町 関船』となっています。昔は東浜町のことを伊吹屋町と呼んでいたのでしょうか。

 當歳祭礼之節 芝居并町々太鼓之儀 何分 米麦諸品高値ニ付 小前迷惑不少候ニ付 御陣屋窺之上 右何レ茂 当歳ハ差扣へ候様 七月廿五日 組親呼取之上 差留申付ル 然ル處 伊吹屋町 関船之儀も 当歳ハ休ミ度段 歎出候ニ付 住其意候事

 
そういえば亡くなった私の曾祖母は東浜のことを「えぶっきゃ(伊吹屋)」と云っていましたし、今でも太鼓の連中は関船のことを「えぶっきゃ」とよびます。このころの名残なのでしょうか。





 文久2年(1862年)
    祭礼申渡
                 戌八月十日
 一、祭礼当日は 御検使場へ 御出張之儀二て すべて御陣屋御差図与相心得可申事
 一、塩谷大名先供之儀 当年も同様二申渡候事
 一、太鼓々へ 外町より加勢之儀 決而不相成 尚亦 太鼓へ酒出候儀 堅不相成候事
 一、狂言并太鼓へ 為贔屓弓張打燈 差違候儀 都而不相成候事
 一、太鼓々間へ入レ候鉾守へ縺ヶ間敷儀 申立候ハゝ急度可及沙汰候事 

文久3年 
祭礼申渡之事


 文久3年(1863年)
    祭礼申渡之事
 一、祭礼当日は 御検使場へ 御出張之儀二て すべて御陣屋御差図与相心得可申事
 一、塩谷大名先供之儀 当年も同様二申渡候事
 一、狂言并太鼓へ為贔屓 弓張弐張二相限り可申事
 一、太鼓々間へ入レ候鉾守へ縺ヶ間敷儀 申立候ハゝ急度可及沙汰候事 
 一、喧嘩口論之節 町中一統寄合候儀 訳て相成不申事 
                  若願筋等之節は 当人并二組親限 罷出可申事




文久4年8月(1864年)

 文久3年8月、京都において公武合体派によるクーデターがあり三条実美ら公卿7人が都落ちし尊攘派は京都から追放、このとき御所警護に参加していた壬生浪士組は功績を認められ「新撰組」の名を下されました。
 この京都の動乱を受けての翌文久4年の陣屋からのお達しです。

  先年申触候通 去月十九日京都働乱ニ付ては 自然と人気立登り居候場合ニ付
  村々氏神当祭礼之節 俄狂言 物似等一切不相成 御供太鼓之儀も差控 
  御神輿守のみ静渡 御相営可申 ー以下略ー

 昨年8月19日の京都の動乱について(公武合体派の)人気が立ちのぼっているので、村々の祭りではにわか狂言や物まねなど一切してはいけない。お供太鼓も差し控え、御神輿だけ静かに渡御をすることとなっています。このような不穏な時勢なので陣屋のほうでもピリピリしていたみたいで祭礼のあと庄屋のほうから報告がされています。

  当祭礼之儀 芝居並太鼓 関船等御差留 当日大名計 御供 御神輿 十五日上分村神輿守
  十五日祭事無滞修行相済候事 農人町天秤之儀二付 塩谷大名と少し差縺二相成候処 中須町
  新町下 中老曖二相成 十七日相済候事

 この年の祭礼は芝居、太鼓台、関船等は差し止め。当日は(神事を)大名とお供、御神輿で無事にとりおこなう事ができたようです。しかし塩谷の大名行列と農人町の天秤との間で小さないざこざがあったみたいで、中須町と新町下の中老が仲裁にはいって事なきを得たようです。なお、この年の神輿守は上分村でした。



 1868年、時代は慶応から明治に変ります。川之江村役用記も明治4年をもって役目が終わってしまいます。それでは明治時代の秋祭りや太鼓台はどうだったのでしょう。『愛媛県警察史第一巻(神社祭典につき県よりの布達)』によると

 明治7年(1874)神輿を運行して他人の門戸の破壊などの悪弊の制止布達。
 
 明治9年(1876)かき夫の人数制限を指令

 明治11年(1878)平和運行の誓約書提出を義務づけ

 明治18年(1885年)「祭典神輿渡御ノ祭自粛方」を出し厳重な取り締まりを指示する。

となっています。

下の文書は、明治13年。金生の総代による太鼓台奉納に際してのきめごとです


 明治33年(1900) 太鼓台・屋台取締りの県令

祭典にあたって、太鼓台・屋台などを出す時は3日前に届け出る。かき夫の氏名、運行時間の認可を受ける。
運行中粗暴の恐れある場合は運行認可の取り消し、運行の停止を命ずることになる。
           (愛媛県令 資料48)


      つづく

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