このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
祭礼のきめごと
天保14年(1843年) 老中水野忠邦は天保12年〜天保14年にかけて、いわゆる天保の改革をおこない倹約をすすめ風俗を正しました。川之江村でも祭礼の太鼓台、関船、大名行列、俄芝居を禁止しました。ただし神輿の渡御はおこなっていたので壱、貳、三の神輿の賀与丁(かき夫)はそれぞれの町から一人づつ出していました。この年は川之江村が神輿守になっていました。
天保の改革は「上知令」や「株仲間の解散」など幕府本意の厳しい改革だったのでわずか2年あまりで失敗に終わってしまった。とまあ社会科の勉強のようになってしまいましたが、いかな四国の片田舎といえども中央と密接につながっていたようです。 |
嘉永二年(1849年)八月七日 祭礼申渡 同じ年(嘉永二年)の「祭礼申渡之覚」では祭礼のときの色々な決めごとがいつから施行されたかが書かれてあります。興味深いので全文を載せておきます。
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嘉永7年(1854年)
毎年祭りのたびにもめごとが起こるので太鼓にはよその町から加勢しに来てはいけないというお触れです。また贔屓(ひいき)として弓張や高張提灯をだしてはいけない、芝居が終わったあと贔屓の町の若者を大勢招いて酒宴をしてはいけないということも書かれています 。 浦町の太鼓台は嘉永2年から嘉永6年までの5年間出場を休んでいたのですが、本年から出すにあたっては町に任せることとなっています。 「塩谷大名 先供江相成候様 昨年願出」ですが、これは塩谷の大名行列の順番を太鼓のまえにしてほしいというお願いではないかと思います。事実、文化8年の行列次第では大名は最後から2番目の35番に位置していますが慶応4年の行列次第を見ると神輿太鼓の前の12番目に位置しています。 それから、これが興味深いのですが最後の行に太鼓と太鼓の間に鉾(ほこ)を一基づつ入れる事となっています。現在でも太鼓台が連なっているとき太鼓台の前のかき棒のかき夫と前をいく太鼓台の後ろのかき棒のかき夫同士がもめることが間々あります。そのトラブルを避けるための策だと思います。 |
安政2年(1855年) 翌年の「祭礼申渡」に。前年に決まった「太鼓と太鼓の間に鉾(ほこ)を一基づつ入れる事」に関しての記述がありました。
「心得違いの者がいて太鼓と太鼓の間で鉾を守る人足との間で諍いがおこらないよう気をつけておくこと。」ということでしょうか? 翌年この一文が付け加えられたということは「鉾を守る人足」と「かき夫」との間でなにかトラブルがあったことと思われます。太鼓同士のトラブルを減らすために太鼓の間に入れた鉾なのですが新たなトラブルの火種をかかえたみたいです。事実、この2年後に以下のような記述がありました。
安政5年(1858年) 8月23日に陣屋において、祭礼の時に『役人から申し聞かされているにもかかわらず鉾に手をかけたのは不埒である』ということで中須町の岩吉が自宅謹慎を言い渡されました。 この太鼓と太鼓の間に鉾を一基入れることに関しての記述は文久3年(1863年)の祭礼まで書かれていますがその後はどうなったのでしょうか。 |
安政5年(1858年)
この年の申し渡しもまた例年と同様のことがかかれています。最後に「芝居場に役人の席を取っておくこと』という一文に当時の身分制度の一端がのぞきます。 |
安政7年(1860年) 凶作が続いて諸物価が高騰してきているのでこの年(安政7年)の芝居や太鼓は中止になりました。おもしろいのは関船のくだりで、『伊吹屋町 関船』となっています。昔は東浜町のことを伊吹屋町と呼んでいたのでしょうか。
そういえば亡くなった私の曾祖母は東浜のことを「えぶっきゃ(伊吹屋)」と云っていましたし、今でも太鼓の連中は関船のことを「えぶっきゃ」とよびます。このころの名残なのでしょうか。 |
文久3年 祭礼申渡之事
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文久4年8月(1864年) 文久3年8月、京都において公武合体派によるクーデターがあり三条実美ら公卿7人が都落ちし尊攘派は京都から追放、このとき御所警護に参加していた壬生浪士組は功績を認められ「新撰組」の名を下されました。 この京都の動乱を受けての翌文久4年の陣屋からのお達しです。
昨年8月19日の京都の動乱について(公武合体派の)人気が立ちのぼっているので、村々の祭りではにわか狂言や物まねなど一切してはいけない。お供太鼓も差し控え、御神輿だけ静かに渡御をすることとなっています。このような不穏な時勢なので陣屋のほうでもピリピリしていたみたいで祭礼のあと庄屋のほうから報告がされています。
この年の祭礼は芝居、太鼓台、関船等は差し止め。当日は(神事を)大名とお供、御神輿で無事にとりおこなう事ができたようです。しかし塩谷の大名行列と農人町の天秤との間で小さないざこざがあったみたいで、中須町と新町下の中老が仲裁にはいって事なきを得たようです。なお、この年の神輿守は上分村でした。 |
1868年、時代は慶応から明治に変ります。川之江村役用記も明治4年をもって役目が終わってしまいます。それでは明治時代の秋祭りや太鼓台はどうだったのでしょう。『愛媛県警察史第一巻(神社祭典につき県よりの布達)』によると 明治7年(1874)神輿を運行して他人の門戸の破壊などの悪弊の制止布達。 明治9年(1876)かき夫の人数制限を指令 明治11年(1878)平和運行の誓約書提出を義務づけ 明治18年(1885年)「祭典神輿渡御ノ祭自粛方」を出し厳重な取り締まりを指示する。 となっています。 下の文書は、明治13年。金生の総代による太鼓台奉納に際してのきめごとです 明治33年(1900) 太鼓台・屋台取締りの県令 祭典にあたって、太鼓台・屋台などを出す時は3日前に届け出る。かき夫の氏名、運行時間の認可を受ける。 運行中粗暴の恐れある場合は運行認可の取り消し、運行の停止を命ずることになる。 (愛媛県令 資料48) つづく |
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