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車芸について



 江戸時代の川之江村の祭礼には神輿太鼓や関船のほかに出し物として「車」が出ていました。約120年間の役用記の中にも「車」「車芸」「車狂言」などといった言葉でたびたび登場してきます。



 文化八年の役用記の記述が、現存している資料のうちでもっとも古い「車」の記述です。この年の神輿守は川之江村でした。
 文化8年(1811年)

  車順 
1.古町下、2.山下町、3.農人町、4.新町上、5.古町上、6.新町下

 この「車」がどのような形態のものであり「車狂言」とはどういったことをしていたのか、現在では記録が残っていないので全くわかりません。しかし他の地方の祭礼を調べてみると車(だんじり)を曵いて道路の真ん中や町の辻で芝居(狂言)をするというような山車の見せ方は少なからずあるようです。たとえば広島県世良の甲山の「にわか」は、道路の真ん中で山車を止めてにわか狂言芝居を行います。最後には必ずオチがあり、そのオチがついたあと「にわかじゃわいのう」と囃し立てて終わります。
 川之江の「車」もそういったものに近かったのではと想像しています。



 文化9年(1812年)

  一、十五日神事 当年御輿守 下分山田井
      車芸御下見ハ 十二日十三日両日二相定メ申候 車順に三町ツゝ可致趣申渡候


  車順 
1.新町上、2.古町上、3.山下町、4.農人町、5.新町下、6.古町下

 十五日の祭礼に車芸(狂言、芝居)をするにあたって、陣屋では前々日の12,13日に下見をしていたようです。12日には新町上、古町上、山下町。13日は農人町、新町下、古町下です。



 文化10年(1813年)

  一、十五日雨天 十六日神事 神輿守 上分金川


  車順 
1.古町下、2.山下町、3.農人町、4.新町上、5.古町上、6.新町下

 文化11年(1814年)

  一、十五日神事 神輿守 余木長須


  車順 
1.山下町、2.農人町、3.新町下、4.古町上、5.新町上、6.古町下

 文化12年(1815年)

  一、十五日神事 神輿守 川之江村


  車順 
1.農人町、2.新町下、3.古町上、4.新町上、5.古町下、6.山下町



 文政3年(1820年)

  十月廿六日 於御陣屋左之通 被仰渡
           川之江  村役人

  祭礼之節 車狂言入用割方之儀ニ付 若輩之者共 菊次郎を相手取 及口論 
  御上御苦労ニ罷成候様 押移候段 元来 右様過分之入用 
  入用等相懸候儀を 村役人とも 其侭差置候故 之儀 役前不念ニ付 
  急度呵 猶以山下若者とも 此度徘徊留〆 被仰付候とも 前ニ申付有之候付 
  不及其義 猶心得違無之様 申付置可申様 被仰聞候ニ付 組親中江申通し置

 文政4年(1821年)

  一、十五日雨天 十六日神事 御輿守
    当年ハ去歳山下騒動ニ付 車御指留メ



 天保4年(1833年)

  一、車芸之儀は御差留 六町之者共 申合セ壱弐ヶ所 小屋ヲ掛 小供芸可致儀ハ 見遁可申旨
    元締所ヨリ 大庄屋へ申渡
  一、車芸御差留ニ付 小屋掛候テハ 雑作ニ付 弐町宛組合 有来り之車ニテ 仕度段 願出之事

 この年車芸が差し止めになります。つまり車(山車)を曵いて辻々で見せる芝居が中止になったのです。文政3年の事例からも推察できるように車(山車)や衣装などがだんだんと華美になりそれに伴って費用もかかるようになったのでしょう。古町上下、新町上下、農人町、山下町の六町で相談して一、二カ所に小屋掛けをして子供芸をする事は許されます。ただ、小屋掛けをするのは大変なことなので、二町づつ組み合って、修理をした「車」で準備をして願い出ることとあります。



 天保13年(1842年)

  八月六日 祭礼太鼓 大名関船差留 念仏子供麻上下其余 華美成錺等 一切不相成
  俄等も不相成

 天保12年から13年にかけて老中水野忠邦によって天保の改革がおこなわれました。この天保の改革の特徴の一つとして、ぜいたくや風俗の乱れに対する取締りが非常に厳格であったことがあげられます。たとえば歌舞伎に対する弾圧や、寄席や祭り等の制限です。この改革によって庶民のささやかな娯楽が奪われていったのです。



 弘化2年(1845年)

  祭礼之儀ニ付古町組親中江申渡
  若者一党ト申儀 御陣屋より 再念入停止申渡
  喧嘩口論理非ヲ聞ズ 両々浜蔵入申付趣申渡
  車狂言者 先年公儀より被仰出 停止之事申渡 六町之所三町見迯申付ル
  但し弐町宛 組合相談之上 落合テ可致事ト申渡 新ニ揃ひ之事拵候儀 停止之事申渡

 車狂言は先年お上(おかみ)から停止の申し渡しがあったけれども六町のうち三町は許可します。ただし二町づつ組んで相談をして(芝居を)すること。新調をした場合は停止になります。
 この年を最後に車、車芸、車狂言など祭礼にたびたび登場していた「車」が一切出なくなり、以後「俄」、「芝居」、「狂言」などの表現に変わります。

つづく



 弘化3年(1846年)

  祭礼一件申渡
  若者一党ト申儀者
  御陣屋より再度之御沙汰有之 一党者 可為停止事
  喧嘩口論理非ヲ不改 両方共 浜藏入可申付候
  新二拵へ揃ひ二 致候儀者 急度 相成不申事
  贔屓トして 興行之小家江 弓張遣候儀者 五張二限可申候
  若此上数遣候ハヽ差留メ可申候
  ○高張小家ト遣候儀 不相成候
   当年迄目立候儀 相成不申事
  ○小家賑之儀 一切十七日限ニ 仕舞可申候
   若し内々ニ而 後而致し候ハヽ 急度咎方可申付候 外ニ上ヶ座之事
  近頃 若もの平生婦人ヲ打擲致 其上 潮又者 水杯ニ津希申儀 有之趣
  心得違故願ひ無之とも急度可申付事
  橘橋之上 往来心得候事
  大雨大風差支候ハヽ順延之事 

 弘化四未(1847年)八月八日申渡

  町々組親中江
  若もの一党ト申儀者 御陣屋より再び申渡候事
  一党者可為停止事 

 弘化5年申八月七日

  若者一党ト申儀 御陣屋より再急申渡趣ニ付 一党之儀者 可為停止事
  狂言仕舞ハ 十七日夜切之事

 嘉永2年

  一、若者一党と申義 例年申渡之通
  一、狂言仕舞之義 十二日より十七日限

 嘉永7年(1854年)

  芝居場 並太鼓江 贔屓登して…以下略

 文久4年(1864年) 

  一 当祭礼之儀 芝居并太鼓 関船等御差留

 慶応4年(1868年)

  一、狂言 当辰年番 新町上 新町下
       当辰年番 農人町 古町上 古町下 山下町



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