このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 私の機械の身体には、いろいろと便利な機能がついている。時計機能にカメラ機能。暗視にズームに補助AI。この辺は、もうみんな知ってるよね? 今日はその他の機能の中の一つ、無線LAN機能のお話だよ。

 私の身体にはコンピューターが沢山使われている。義体と脳を繋ぐサポートーコンピューターを筆頭に、体内各所に身体の機能を補助する大小様々なコンピューターが配置されている。これはみんな義体専用に特別に設計された限られた機能しか持っていない。でも、義体に組み込むことができるのは、こういう専用機能のものばかりじゃないんだよ。
 脳ユニットにはサポートコンピューターと並んでいくつかの空きスロットが用意されている。特殊公務員になったら、火器管制モジュールとか量子暗号化モジュールとか物騒な物を挿すことになるんだけど、そんな物ばかりじゃなくて、私みたいにフツーの仕事をしている義体ユーザー向けのPCモジュールなんて物もある。
 小さくてもちゃんとしたPCで、無線経由で社内LANに繋ぐこともできるし、サポートコンピューターと連動させれば頭で考えるだけで文書を書いたり計算したりメールの読み書きだってできるようになる。どう、便利でしょ? まあ、一般生活限定の義体操縦免許でさえギリギリで取った私は、こんなモノを使うより手を動かしてキーボードやマウスを使ったほうがずーっと早いから、あっても宝の持ち腐れなんだけどね。会社からこのPCモジュールを支給するって話があった時は、特に使いたいとは思わなかった。でも先輩からあることを教えられて、俄然使う気になったんだ。何だと思う? 先に言っとくけど、えっちなことじゃないぞ!

 我が社のビル内にはセキュリティゲートが随所にある。なにしろ21世紀の先端産業を担うわが国有数の義体メーカーだから、情報漏洩には人一倍敏感だ。で、そのゲート。実は無線ALNにも対応してるんだ。PCモジュールに社員データを記憶させておけば、無線LAN経由で認証できちゃうってわけ。普通はゲートを通るとき、一度立ち止まってカードをセンサーにかざさなければならないんだけど、無線LANなら立ち止まる必要がゼンゼンない。
 特に1階入り口の義体社員専用ゲートなんか、私が全速力で走り抜けたって大丈夫なんだ。おまけにタイムカードのシステムも無線LANに対応してるから、私が何の操作もしなくたって傍を通りすぎるだけで出勤時刻が記録される。

 つまり無線LAN機能っていうのがさっきの答えなんだ。

 あ、そこ! 笑うなよう! 朝の私は1分どころか1秒だって争うんだから。ワープロよりメールより大事な使い道なんだよう! 実際、このシステムを使うようになってから遅刻回数が激減したんだもん。まさに無線ALNさまさまだよ!

 そう思っていたんだけど、やっぱり、いいことばかりでもなかったんだ。



「う……ん、藤原ぁ、そんなとこ舐めちゃ駄目だよう……」
pipipipipipipi...
「藤原ぁ、えっちしてる時は、携帯切ってよう……」
PiPiPiPiPiPiPi...
「携帯切ってって……え?」
PIPIPIPIPIPIPI...

「……7時52分?……ち、遅刻だあ!」

 しつこく鳴り続ける目覚ましを放りだして、ベッドから飛び起きる。7時52分。目覚ましをセットした時刻から30分以上たっている。その間ずっと目覚ましが鳴っていたのに、気づかなかった。昨日、2週間ぶりに藤原とデートして、終電の時間ぎりぎりまでラブホでえっちしてたのがまずかったか。

 今日は朝イチで月例報告会があるんだよ。遅刻したら課長からなんて言われるか分からない。なんとしても遅刻することだけは避けなくては! パジャマを脱ぎ捨てて寝押ししてあるブラウスの袖に手を通してストッキングにスカートに上着に……。
 私の人工毛髪は、いくら寝相が悪くても決して寝癖が付かないスグレモノ。歯を磨いたり顔を洗ったりする必要もない。化粧はとりあえず最低限のことを電車の中ですればいい。サポートコンピューターにアクセスして視界の端に時計を表示させる。ああ、これなら間に合うかも! いや間に合う。きっと間に合う。っていうか間に合わせるしかないんだよう!

 階段を3段跳びで駆け下りて玄関のドアを蹴破るようにして寮を飛び出す。寮から府電の電停まで歩いて17分。下り坂を全力で走れば6分が今までの最高記録。今日はそれをどこまで更新できるだろうか。いつもは立ち寄って雑誌を買ったりするコンビニの脇を通り過ぎた時点で25秒短縮してる。この調子、この調子。

Pi!

 あれ? なんだろう? 目覚ましの音がまだ耳に残っているのかな? 先週、定期検査したばっかりなのに、もう義耳の調子がおかしくなっちゃったんだろうか?

 銀行の角を曲がって信号待ち。ここまでで75秒短縮。

Pi! Pi!

 うーん。やっぱり変だ。会社に着いたら技術部の人に見てもらわなくちゃ。面倒くさいなあ。

 信号が青になった瞬間にダッシュして電停に着いた時には90秒短縮。新記録達成だあ! うん、やればできるじゃないか。偉いぞ、私。その勢いのまま改札を通り抜け小さなプラットホームに駆け上がる。

Pi! Pi! Pi!

 ああ、もう。鬱陶しい! 一体、私の身体、どうしちゃったの?

 でもそんなこと、この緊急事態に考えている余裕はない。ホームに上がると、電車のドアが今まさに閉まるところ。両手でドアを無理やりこじ開けて、できた隙間から車内に身体を滑り込ませる。みんな何事か!?って顔をして私の方を見てるけど、この電車を逃したら絶対に間に合わないんだから仕方ないよ。そうは言っても、あまりじろじろ見られるのは恥ずかしいから、ドアにもたれかかって、外の方に体を向けて知らん顔をしていよう。
 まさか、電車の中を走るわけにはいかないから(気持ち的には走りたいけど)、汐留電停に着くまではじっと立っているしかない。何も忘れ物してないよね。朝、慌ててると、大抵何か忘れちゃう。いつだったか、デートでお財布忘れた時は難渋したからなあ。まあ、そのおかげで藤原と出会えたんだけど。

 あ、そうだ! 昨夜メールチェックした時に、イソジマ電工の社員宛の緊急メールでウィルスがどうこうっていう件名のメールが来てたっけ。緊急メールは出社前に必ず読むように厳しく言われてる。昨夜はもう時間も遅かったから朝読もうと思ってたんだけど。どうせ機械の身体の私は病気にはならないんだ。ウィルスなんて関係ないよ。会社に着いてから読んでも大丈夫だよね。

 府電を降りた後も、至るところで同じ音を何度も何度も聞くことになったけど、もう、気にもならなくなっていた。

 汐留の本社ビルに着いたのは、始業時刻の3分前。エレベーターホールまで15秒。エレベーター待ちが45秒。私の居室がある18階まで4回停まったとしても90秒。エレベーターの出口からタイムカードの機械まで10秒ってところかな。その間に都合3箇所のセキュリティチェクが待っている。いちいち立ち止まる必要のない私なら、ぎりぎりで間に合うはず! ああ、無線LAN万歳!

 私が目指すのは右端の義体社員専用ゲート。いつもの通り全力で駆け抜けようとしたとたん。

ビーッ! ビーッ!

 けたたましい警報音とともに出口側の障壁が勢いよく閉じる。ゲートを駆け抜けようとしていた私は、閉じた障壁に挟まって身動きとれない状態に。どんなにもがいても、障壁が余計に身体に食い込んでくるだけで、意地悪な罠から逃れることはできなかった。

 え? 何? 何? 一体何が起こったんだよう! 私、何かしちゃったの?

 警報音を聞きつけて、黒ずくめの制服に身を包んだ警備員が駆けつける。いつもはにこやかな笑顔で挨拶してくれる警備員達も、こんな状況では口をへの字型にひん曲げて険しい目つきで私を睨む。
 私、ケアサポーター部の八木橋裕子だよう!いつも挨拶してるじゃないかよう!
 そんな言葉には耳も貸さず、3、4人がかりで、私を床に押し付ける。首筋のカムフ
ラージュシールが引き剥がされて、接続端子のカバーも荒々しくこじ開けられる。
 嫌だ、嫌だ。一体何するんだよう!じたばたもがいても、わめいても、警備員達は無言のまま作業を続けていく。接続端子に制御プラグが差し込まれ、義眼ディスプレイに、サポートコンピュータへの強制アクセスを示す警告マークが表示され……
 身体の感覚が一切なくなった。押さえつけられた状態のまま手も足も動かない。目と耳は働いているけど、もう私は自分では何もできない人形になった。私が何をしたか分からないけど、いきなり機能停止だなんて、あんまりだよう。

 そのまま警備員の手で大型台車に積み込まれ、何事かと集まった社員達の面前で、いずこへかと運ばれていく。
「あれ、八木橋さんじゃない?」
「ケアサポーター部の新人の?」
「今度は一体何をやらかしたんだろうなあ?」
 何だよう。何だよう。私がいつも騒ぎを起こしているみたいじゃないか! 私、何もしてないよう!

 エレベーターが停まったのは32階のシステムラボ。既に警備員から連絡がいっているのか、白衣の技術者達が私の周りを取り囲む。再び首筋の接続端子にプラグが差し込まれ、集まった技術者達が一斉にディスプレイを覗き込む。誰かが大きな溜息をつき、早く電源を切れ!と大声で叫ぶ声があがる。そのまま私は暗黒の世界の中に沈みこむ……。

 2時間後。

 私は課長にこってりと絞られた。原因は私の体内の無線LAN。昨日、無線LANのドライバーに脆弱性が発見され、それと同時にその脆弱性を突くウィルスがネットにばらまかれたのだそうだ。義体ユーザーには緊急のお知らせメールを送る一方、PCモジュールを使っている全身義体の社員に対しては対応パッチが出るまでの自宅謹慎が命じられたらしい。
 出社してから読めばいいと思ったメールがそれだった。ウィルスっていうのは病気を起こすウィルスじゃなくて、コンピューターウィルスのことだったんだ。私が街のホットスポットを通るたびに、そこから無線ALNを経由して、私の無防備なPCモジュールにウィルスが侵入していたというわけだ。あの、Pi! っていう音は、まだウィルスに対応していないセキュリティソフトが出す警告音。ラボでの検査の結果では、10を越えるウィルスが検出されたと聞かされた。あのままゲートを通っていたら、私は社内にウィルスをばら撒いていたことになる。
 コンピューターのデータが壊されるならまだましなんだ。もし、社外にデータを送信するタイプのウィルスだったら? もし、担当患者の個人データが社外に流出していたら? 普段は物静かな課長からそう怒鳴られて、改めて背筋がぞっとする思いだった。え? 背筋なんか無かろうって? もう、それくらい大変なことだったんだよ!

 その日の午後、社内向けの情報セキュリティ関係のメーリングリストには、早速、ウィルス侵入事例が報じられていた。ケアサポーター部のY橋さん。それ、私しかいないじゃないか。ゼンゼン伏字になってない。しかも台車で運ばれていく私の姿を撮った写真のURLがしっかりと書かれていた。小さいけれど私だってはっきり分かる写真だよ。これじゃ、しばらく顔を上げて社内を歩けない。ヤギー武勇伝がまた一つ増えたねって、みわちゃんが楽しそうに言ってきた。うー、武勇伝って何だよう!

拝啓
義体ユーザー各位殿

 このような事例もありますので、弊社からのお知らせメールにはきちんと目を通していただきますよう、重ねてお願い申し
上げます ○|‾|_

 新米ケアサポーター 八木橋裕子拝

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