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ここはNTL社ED事業部第4開発室。橋本和美(27歳)は第4開発室主任技師として所属していた。ちなみに主任技師は下っ端の次であることを付け加えておく。
主に航空宇宙部門、軍事向けの組み込み計算機を開発している部隊である。
「おーいはじめるぞー、ミーティング始めまーす」
中村室長が太目という程度ではかなり無理がある巨体を揺らせながら、開発室のスタッフを呼び出した。めんどくさそうにぞろぞろと集まってくるスタッフが、大方集まってきたことを確認したところで、朝のミーティングが始まる。
「えー、新規案件が一件あります。イソジマ電工さんからの開発提携依頼ですね。イソジマ電工さんの全身義体用生命維持装置、及び義体制御用大脳補助計算機、あ、ともに義体内蔵用です。イソジマ電工さんが開発したコンピュータもあるようですが、それに加えて、高性能化が予定される新規義体用の計算機と高信頼性の確保に関する開発、研究を行うという用件のようです」
橋本は室長の話を少し真剣に聞いていた。橋本の抱えていた案件が、すでに終了状態に入っており、今週で終了案件に対する報告書の作成が終わる予定であるからである。
室長はくるりとあたりを見渡すと、橋本に視線を合わせ、少し微笑んだように見えた。
(やっぱり来たかな....)
橋本は心の中で、うわーきついなー、という自分と、少し興味のある自分がいることを感じていた。どちらにしても今の案件が終わったら、新たな案件に移ることになる。基本的には産業的な案件と学術的な案件を交互に選ぶことになっているが、ひとつの案件が長期にわたったり、多くの開発依頼が重なった場合にはそうも言っていられないこともある。他にすぐに別の案件に移れるような状況のスタッフはいなかった。
今の橋本の抱えている案件は、NTL社AC事業部からの社内案件である。その内容は先行試作型軌道航空機用制御コンピュータの構成とアーキテクチャの設計であった。だが試作機の試験飛行は半年前に終わっている。実機の生産とテストはすでにNTL.ACのスタッフに移っていた。
室長は橋本を眼で捉えながら言った
「橋本さん、この案件お願いしていいですか」
橋本は全身義体のわずかな知識と記憶を振り絞りながら考えていた。
そしてしばらくの躊躇の後、橋本は言った。
「はい。この案件検討させていただきます」
橋本はイソジマ電工から送られた資料に目を通し始めていた。最終報告書の作成は、2人の部下に丸投げした。とんでもないことを書かない限りは承認印を押せばそれで終わる。イソジマ電工からの資料は厚さにして5cm、この程度の資料は検討開始時の資料としては少なめである。過去のイソジマ電工の全身義体の機体構成、アクチュエータの仕様書、生命維持装置の仕様書、計算機の仕様書、そして多くの使用事例と故障、トラブルの実例など。
「うわあ、これはみていられないなあ」
故障、トラブルの実例の部分にいたると、故障による死亡の例などが散見される。その報告書に本人の写真が載せてあるので、それが子供だったりしたらやりきれない。突発的故障、事故による不具合、一歩間違えば普通の人間よりも脆弱なのが現実であった。死亡例よりも正常復帰できた例のほうが多いことは、多少なりとも橋本の救いにはなっていた。
「・・・・・・・・・」
電話が鳴った。部下の高橋が電話を取る。
「はい、第4開発室です。橋本ですか? はい、代わります」
橋本は手元の電話の外線スイッチを押した。
「はい、橋本です。ああ、イソジマ電工の古堅様ですね。はじめまして、現在、貴社の
提案の検討をさせていただいております、橋本と申します」
「どうも、古堅です。唐突ですみませんが、全身義体の現状を見ていただきたくて、
ご連絡を差し上げました。事故事例はN市中川病院、義体使用者は20歳女性、今朝8時30分頃に交通事故による義体トラブルで運び込まれました。お時間が空いているようなら事故の状況を見ていただきたいのですが」
橋本は一瞬目の前が暗くなったように感じた。おそらくはこのような事例に遭遇する事態がたびたびおこることになるだろう。その重たい世界に入ることに耐えられるかという恐怖があったことは否めない。しかし、橋本ははっきりといった
「ただちに向かいます。よろしくお願いします。」
「ありがとうございます。状況は一刻を争います。できるだけ急いでください」
「わかりました」
橋本は室長に連絡をいれ、さらにED事業部長に連絡を入れた。
N市立中川病院がヘリポートを持っていることを確認するとヘリの使用許可を取る。
同じ敷地内にあるNTL本社のヘリポートまで自分の車を飛ばすと、準備ができたヘリがジェットエンジンのうなりを上げた。
「できる限り、安心できるシステムを作らなきゃね」
橋本はそうつぶやいた。
これが、ずっと協力してもらうことになる大西知美20歳との最初の出会いであった。
ヘリを降りた後、屋上のヘリポートからICUのある2階に降りる。ナースセンターで来訪の意図を説明してICUの入り口まで来た橋本は、看護婦の案内でそっと中に入った。中年の医師と看護婦、それに作業服の男性と若い女性が一人ずつベッドの周りで作業中である。いくつかの医療機器が並んでいる中、ベッドの中の患者がわずかに見えた。修理はすでに終わったのかどう見ても普通の女性にしか見えない。体の下から伸びているいくつかのケーブルが違和感を感じる程度である。
「LC-201,1番、2番、正常動作中」
作業服の男性がディスプレイを見ながら、医師に報告する。医師は別のモニターに映し出された脳波を見ていた。脳波は不気味なほど平坦で、若干の微小な変化が見られる程度である。
「吉澤先生、サポートコンピュータ起動終了しました。全チェック正常終了です」
吉澤医師は酸素濃度、炭酸ガス濃度などのバイタル値のグラフから目を離した。
「バイタルもよさそうですね。起こしてみましょう。スローシーケンスでやってみますので、義体の可動部の電源を切ってください」
「わかりました」
若い女性がノートパソコンのキーをたたく。同時にかすかな物音が義体から聞こえた。ふと、人の気配を感じると後ろに男がたたずんでいた。
「すみません、橋本です」
あわてて名刺を出そうとする橋本、男は軽く手で制して、患者に立ち向かうスタッフの方に目を向けた。
「古堅です。話は後にしましょう」
「はい」
それきり、だまって患者とそのスタッフを見つめることになる。吉澤医師は慎重に作業を進めていく。
「脳幹パルスを入れてください。ゆっくりと」
「脳幹パルス入れます。」
初めは聞き取れるかどうかわからないほどの、ぴこっ、ぴこっと言うモニター音がだんだん大きくなっていく。脳幹パルスは休眠状態となっている脳を起こす刺激を与えるためのものである。基本的に脳は外部からの刺激がなければ反応しない。普通の人間であれば眠っていても何らかの刺激が全身から入ってくるわけだが、サポートコンピュータが稼動していない状態では何の刺激も入ってこない。かといってサポートコンピュータの情報をいきなり脳に与えてしまっては、パニックを起こす可能性がある。とくにこのような事故の場合、意識が戻ったとたんにパニックの再現となる可能性がある。先に意識をゆっくりと復活させ、低刺激の情報から与えていく必要があった。
「脳波でたね」
吉澤医師はわずかに表情を緩めると、脳波モニタを見守った。モニタにはパルスとともに大きく変化する脳波が映し出されていた。
「覚醒レベルです」
看護婦が報告する。吉澤医師はそれに応じた。
「サポートコンピュータの動作に移行します。汀さん、ゆっくりとね」
「了解です」
先ほどの沈痛な面持ちから、すこし笑顔が浮かんできた汀は、サポートコンピュータの設定を慎重に変えた。変えていくうちにまぶたや頬が動き始めるのがわかる。
「...あ...」
かすかな声が漏れた。吉澤医師が患者の枕元に立つ。うっすらと目を開ける彼女は吉澤医師を視界に入れると、激しい瞬きの後、弱々しい笑顔を浮かべた。
「かえってきちゃいましたね」
「そうですね。よくがんばりました。ありがとう」
「知美さん、お帰りなさい。それとごめんなさい。私には何もできないかもしれないけど、少しでもこんなことが起こらないように努力します」
汀が涙目で謝罪する。橋本はこれ以上ないほどの緊張感の中、笑顔を見てはじめて緊張を緩めることができた。
「ふーっ」
これは、橋本のため息ではなかった。後ろの古堅の鼻息なのであった。それも橋本の髪がたなびくほどの。
「さ、いきましょう」
古堅が橋本を導いた。古堅の後から橋本がおずおずとついていく。
「どうも申し訳ありません。われわれの技術が足りないばかりに、危険な状況にさせて
しまいました。当社を代表して謝罪させていただきます。それと今回の件はすべて当社が負担させていただきます」
深々と頭を下げる古堅、その後ろにいた橋本もどうしようか迷ったが、結局一緒に頭を下げた。弱々しい笑顔を浮かべて、うなずいていた大西知美、だが橋本の顔を見ると少し首をひねった。
「なに?知美さん」
汀が知美に話しかけようとするところへ、重なるように知美が口を開いた。
「橋本先生ですか?」
「へ?」
橋本が一瞬虚を突かれて目を白黒させる。しばらく考えた後、その原因に思い至った。先生と呼ばれるような仕事はそう多くはない。
「星工大の学生さんですか?」
大西知美は初めていっぱいの笑顔で答えた
「星工大、応用物理学科3年、大西知美ですっ」
イソジマ電工、NTL.ED方針決定会議は3回をすでに終え、計算機本体の仕様や信頼性、要求強度などの必要項目が煮詰められ、CS-15型(仮名)に必要な機器の構成が決定していった。CS-10までに進められてきた、“人間と同等の生活を目指す”は多くの課題を解決できないままではあったが、同等の生活に向けて着実な改良が進められていた。
そして、サポート計算機を含む多くの機材の大幅な性能向上が求められていた。そのため新たにNTLの提携交渉が行われたのである。続く目標は“より人間らしい生活を目指す”ことであった。見かけ上は人と同様に見える義体も、実際の生活ではさまざまなところで人と違うことを意識させられることになる。人とあわせるための精神的な負担はかなり大きく、ケアサポーターの必要性はますます高まることになる。
例をあげれば、味覚、スキンシップ、性行為などがあげられる。人の真似をするだけならばこれらの機能はそれほど必要ではない。しかし人間らしい生活を行うために必要なものであるということは、特に議論をする必要はないだろう。
しかもこれらの機能は実現のためにセンサーや計算機の能力など、かなりのコストがかかるものであった。計算機の設計を行うNTLの立場としては、これらの機能を実現するための手段、手法を考え、必要な計算機の能力を見積もり、コスト計算にまで踏み込む必要があった。そのまま必要な機能を追加していてはコストは無制限に上がってしまう。必要な機能はもちろん実現しなければならないが、同時に少なくとも患者がある程度の努力の範囲で支払える程度には抑える必要があった。
はじめのうちは精力的に仕様検討のための会議をこなしていた橋本であったが、だんだん表情に陰りが見えていった。検討から提携調印に伴い、検討担当から開発計画副室長に抜擢される。開発計画室長はベテランの相沢課長であったが、実際の実務の長は橋本が行うことになっていた。
「つかれてるね。あんまり根詰めないほうがいいよ。ほどほどにね」
相沢課長は、暗い顔の橋本に声をかけた。橋本ははっと気がついたように顔を上げると、相沢課長に振り向いて笑顔を見せた。
「いえ、まったく疲れてませんから。むしろこんなテーマは好きなほうなので、やっているほうが楽しいです」
実際のところ橋本はその仕事自体にはそれほど疲れは感じていなかった。別の大きな問題があったのである。
橋本の机に加えて、その周りのテーブル、果ては床にまでプリントアウトした各種論文、報告、雑誌記事、その他の資料が山積みになっていた。次から次に印刷した資料はざっと目を通されると二つの山に分けられていく。憂鬱な表情はさらに濃くなり、思いつめた結果、橋本は電話に手を伸ばした。
「すみません、NTL社の橋本と申します。ケアサポーター課の汀様をお願いしたいのですが」
しばらくして、いくつかの取次ぎの後、やっと当人が電話に出る。
「はい、汀です。橋本さん?」
「橋本です。先日はお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそ、それで、きょうはなにか」
なんていおうか少し言葉を捜して黙り込む。できるだけビジネスライクに言わなければ、と考えながら、でも途切れ途切れになるのは隠せない。ついでに言えば男に聞きたくもない
「えー、今、義体のSEXに関する情報を集めているのですが、うーん、えっと、計算機のSEX処理に関する情報で、どのくらいの感覚神経が必要かの概略の調査をしているんですが、あー、早い話、SEXにどのくらい感覚神経が必要かわかりますか?」
「はあ?」
思いっきり引かれてしまった。そんなに親しいわけでもない相手に、こんなことを唐突に聞けば、引かれるのは当然だろう。
「あ、ええっと、いまSEXに必要な感覚神経の見積もりをしていてですね、...」
パニックを押し殺そうとしながら、そろそろ自分を見失いそうになりそうな橋本の話の隙をついて汀が制する。
「なんとなく、わかりました。橋本さん?」
「は、はい。わかっていただけましたでしょうか?」
こほんと咳払いをする汀の声が聞こえてくる。
「結論から言えば、私はそのようなことはまったく知りませんし、そのような情報を知りうる専門家でもありません」
「は、はい。そのとおりだと思います。申し訳ありません」
かあっと体温が上がり、汗が噴出す橋本。その雰囲気を知ってか知らずか、汀はくすっと笑って、話し始めた。
「ある程度の基礎知識はあるつもりですが、そんな直球ど真ん中の知識はありませんから、直感で考えると、数千本のオーダーだと思います。これは性器だけの話で、じっさいにSEXを行う場合には全身の触感が重要になりますよね」
「そ、そうですね...」
触感と聞いて、なんとなく体が熱くなる橋本である。
「前戯で気持ちを高めるために必要な触感がありますから、どの刺激がどのくらい必要かというのは専門家の領分でしょうが、胸、わきの下、太もも、唇、それくらいかな。それくらいはないと、さびしいですね」
「はい」
「基本的にはSEX経験のある義体ユーザーにお願いして、データを取らせてもらうことになると思いますがどうですか?」
「はい、そうですね」
完全に主導権をとられていた。それがどういうことになるかよく考えもせずに、うなずくばかりの橋本。それを感じたのか汀は小さくつぶやいた。
「橋本さん? ひょっとしてまだ経験ない?」
「はい、そうですね...って、ええっ」
思考停止状態の橋本がわれに返って、さらにその内容にパニックになる。
「そっかあ、経験ないんだ。じゃあわからないのも無理ないですよね」
「!?!?!?」
あわあわ、となにか返答しなければと口を動かすが、まともな言葉が出てくるはずもない。
「一人での経験は?」
「!!!!!!!!」
直球ストレートどころかデッドポールの勢いである。
橋本和美、27歳、世間的にはそろそろ適齢期も過ぎようかという年齢であった。色っぽい話はまったくないわけではないが、橋本自身が仕事そのものに完全に興味を奪われていたこともあって、全く、完全に発展しないままに終わっていた。しかも本人はそういう状況にあったことすら気づいていなかったかもしれない。
もっとも、夜中の一人での行為はそれはもう、ものす..あwせdrftgyふじこlp;@:
「え、えーっと、それについてはノーコメントにさせてください。すみませんけど」
汀は妖艶な笑みを浮かべた。
「いえ、そちらからのご質問に答えるためには、重要な情報ですっ、義体ユーザーさんにデータ収集をお願いする以上、無駄なことはできません。どのような状況で、どのような項目をどのくらい収集するのかはあらかじめきちんと決めていただかなくでは、協力してくれるユーザーさんのデータを生かすことができません」
なぜか突然正論を並べる汀さんであった。
「それについては、よく検討して、後日説明させていただきますから...」
橋本は涙目である。それを見越して汀は橋本にやさしく言った。
「それじゃ、今日、飲みに行きましょう。ユーザーさんにお願いする以上、細かいことまでよく話し合ってわかりあわないと、ちゃんとしたお仕事ができませんっ」
「え、あのう、今日は、その」
橋本はかなり明確な危険を感じたが、とっさに否定的な言葉が出てこない。しかも協力してくれるとあっては、こちらから断るのもおかしいように感じた。
「い い で す ね !、じゃ6時30分くらいでいいかな、N市線MX駅前に集合、どう?」
「はい、わかりました」
もはや、蛇ににらまれたかえるであった。
...その後?
そのあとのことを描写する能力は作者にはないので、飲みとその後のシーンは省略させていただきます。
「でね、汀さんから調査してもらったんだけど、あなたを推薦してくれたの」
「はい。でも...ちょっと怖いです。経験があるといっても他の人と比べてそんなにわかると思えないし」
「まだ予備調査だから、開発終了までには1年以上かかります。完成してからは会社からの謝礼で、導入費用を負担するわ。もちろん本来の謝礼も付けるし」
ここはNTL.EDの応接室。商談用の応接室のひとつで、橋本と大西知美はひそひそ話を続けていた。SEXに必要な神経の数なんてそんな論文は存在しない。性器や性感帯に集まる神経節の数に関する論文はたくさん見つかったが、実際に行為を行う際に必要な性感帯のニューロン数や密度を実際の体と同じだけ確保するわけには行かないのである。
一般的に脊髄を構成する神経細胞は10億個程度といわれる。これらはそれぞれが一本の神経というわけではなくいくつかの神経細胞のつながりを通して線を形成するため、いわゆる通信回線としてみた場合には1/100程度となる。1000万回線である。しかもそれぞれの線はお互いにつながり合ったり、また分岐したりして、事実上同じ回線になっていたりもするから一本の線として脳までたどり着く線は脊髄に限れば100万本程度となる。このうち内臓、温覚、触覚、痛覚などを外し、性感帯及び性器の神経系に限れば10万本程度、うまくいけば一万本程度まで抑えられるのではないかというのが、橋本の考えであった。
もちろん実際に10万本の神経に対応する電線を、全身に張り巡らせることは不可能に近い。特徴的な性感帯と性器に限って性感神経系を張り巡らせ、部分での信号を集約して、1万本程度の線をまとめて光ケーブル一本で送れば、配線の爆発は防げる。ここまで考えて、橋本は性感システムの実現可能性を見出した。
性感センサはイソジマ電工開発部が以前から研究を続けている。これまでは使用する目処がついていなかったが、今回の能力向上計画によって日の目を見る可能性が生まれてきたのである。
快感を得るだけなら、実は快感中枢はすでに発見されている。ここに電極をいれ、刺激するだけで快感自体は得ることができる。しかし橋本のみならずイソジマ電工側もその方法をとることには難色を示した。この手法は人間の尊厳を冒す。あくまでも人間らしい行為の結果得るものでなくてはならない。それがたとえ一人行為であっても、そしてSMなどの行為であってもだ。
予備調査は計算機シミュレーション上で行われる。脳に接続されている神経系のうちの性感に関する神経を、サポートコンピュータを通してつなぎ、大型計算機からのシミュレーションによる計算結果から対応した神経を刺激することで行われる。したがって特に手術などは必要ない。
脊髄神経系は全身義体化のときにシリコンチップ上に接続されている。膨大な神経線維を必要な分だけ配線するのは事実上困難であり、シリコンチップ上に微小かつ莫大な電極を設置し、多穴質高分子構造材(寒天のようなもの)を接着し、電気泳動法によって、神経線維を誘導接着する。電極は神経より十分小さく、太い神経は複数の電極にまたがることもあるが、それの纏め処理は計算機側で行う。したがって、このとき手術時のすべての神経はシリコンチップ上に接続されており、その中から必要な神経系のシグナルをサポートコンピュータで処理するわけで、シリコンチップ上に接続されていても、事実上使用されていない神経系のほうが大多数を占める。その中から性感に関する神経線維を新たに使用するわけである。
「でも.........」
大西知美は正直言って、そんな調査に参加したくはなかった。しかし彼女には彼氏がいた。義体化してからも何度かデートに誘われた。性行為もした。大西は自分が性行為について快感を得ることはあきらめていたが、彼が抱いてくれる安らぎは十分に感じていた。これに性感を得ることで少しでも以前の状況に戻れることはうれしいことだったが、彼氏とだけの時間を表に出すには勇気が必要だった。
橋本は橋本で、ここまでして、わずか20歳の娘を調査に引き込むことは苦痛であった。経験があるといっても20歳の小娘でしかも、このくそまじめな理系女がそれほど簡単に性の内面をさらけ出せるとは思えない。元水商売のような慣れている女のほうがいいのではないかと考えていた。
「はあ...」
「ふう...」
くそまじめな理系女二人が同時にため息をついた。
それと気づいた二人が目を見合わせてにやりと笑う。
「まったくたいへんですね。大西さん。この件については、しばらく保留にしましょう。すぐに結論が出ないということもわかります」
「え、ええありがとうございます。この調査そのものが嫌いなわけじゃないんですよ。でも、ちょっとすぐには...」
「そうですよね。わたしだってこんなこと言われたら、悩みまくると思うから」
ここで普通であればコーヒーでも勧めるところだが、大西が飲めないので、手持ち無沙汰になってしまう。何にもすることがなく、しばらくぼーっとしているところに大西が顔を上げた。
「すみません、その資料見せていただけますか?」
指差した先の資料は次回のイソジマ電工との会議資料。いくらかの社外秘情報があったが、彼女には問題なかろうと考え、同時に衝撃となるような情報は入ってないかと考えながら、橋本は大西に会議資料を渡す。会議資料だからそれほどレベルの高い情報が入っているわけではない。
「.........」
大西は資料を真剣に読んでいた。性感に関する基本知識、要求される機能、構造、快感を得るまでの基本的手順、計算機に要求される機能、性能、そして性的快感を得ることによる生活の変化
しばらく真剣に呼んでいた大西は不意に上を向いた。
目をつぶっている。
「う」
「どうしたの?大西さん?」
「う」
もう一度小さくかすれ声。
橋本は大西の様子を見つめた。上を向いたままゆっくりと目を開ける大西。
しばらくして大西は静かに口を開く。その声はかすかに震えていた。
「この体になってから、涙が出ないですね」
あきらめたような薄笑いを浮かべる大西は橋本に体を寄せた。
「もう、あきらめていると思っていたのに、感覚を取り戻せるかもしれないと思うと、昔のことを思い出しちゃいました。」
「昔は暖かかったです。夏の焼けるような暑い日も、冬の凍える寒い日もその、生きているという感覚が暖かかったんです」
「ん」
淡々と独白する大西知美、橋本は大西をそっと抱き寄せ、かすかにうなずいた。
「生きていけるからよかったんだと理性が言います。でも感覚は必要最小限にしか確保されていません。理性は今のままでも居場所があります。でも感覚はまだ居場所がないんです。サポートコンピュータを切り離されて一切が闇の中の不安感、これは感覚についてはそのまま続いているんです」
「はっきりいいます。私の中で感覚が暴れています。それを理性で必死に抑えているんです。もう感覚とはさよならしたつもりでした。でも、さよならできません」
いつしか大西の独白は叫びになっていた。
「私は感覚が欲しい! 昭一と思いっきり感じたい。抱きしめて体温を感じたい。甘いものも食べたい。何もかもが欲しい!」
大西は橋本をぎゅっと抱きしめた。
橋本は大西の背中をなでた。わずかなセンサーをたどるように、そしてセンサーが反応するように力強く。
大西が静かになる。体の震えは止まらない。
「すみません、先生」
「大丈夫よ、そのままで」
橋本は抱きしめたまま静かに答えた。
どのくらいの時間がたったのか、大西の震えはいつの間にか止まっていた。大西の力が抜けていたのを確認した橋本は、そっと大西の頭をひざの上に乗せた。義体の力で抱きしめられた体が悲鳴を上げる。
「いたた、結構強烈だったね」
背骨が折られたんじゃないかと思うくらい強烈に締め付けられて、肋骨あたりに違和感を感じる。呼吸のペースは変わらないが、おそらく眠っているのだろう。
橋本は大西の頭をなでた。
「ごめんね、無力で、できる限りのことはするからね」
つぶやきながら、橋本の目から涙が落ちる。
ずっと見守り続ける橋本。
そして大西が目を覚ましたときには深夜に近い時刻になっていた。
「はふ」
今日何度目かのため息。仕事をしながらも集中力が続かない。次の会議資料は中途半端に止まったまま。ポケットの携帯電話に手を当て、また深く息をつく橋本であった。
昨夜は大西を家まで送り届け、自宅までたどり着くと、橋本は珍しくブランデーをタンブラーに満たした。つまみを用意するような余裕は今の橋本にはない。酒を少しずつ流し込む。焼けるような刺激がのどを通りすぎた。
「橋本先生、いや、橋本さん。今度の調査やってもいいです」
別れ際のつぶやくような言葉が耳に残っている。このときの、泣きそうで、しかも聖母のような表情を見たとき、橋本は完全に、大西に依頼したことを失敗だと思った。命に別状があるわけではない。性体験を再現してもらうだけである。しかし、他人が踏み込んではいけない領域というものが確かにある。
「エンジニアの十字架」
こんな言葉がふと口から出た。ものづくりを生業とする以上、その作品は少なからず他人の人生にかかわることになる。兵器、航空機などは典型的な例である。作品の出来は即、使用者の人生にかかわってくる。何かのミスで旅客機が墜落でもすれば、数百人が命を失う。その原因が自分の担当だったとすれば、その責任はどのように償うことになるのであろうか。
大なり小なり、エンジニアは自分の作品に対して責任を持つ。しかし実際のところ“自分の責任はここまで”と割り切って、それ以外は自分の問題ではない、と知らん振りしなければやっていけないし、実際自分の担当以外のところまで手を出せない事情もある。橋本がこの仕事を引き受ける際に躊躇したのは、この責任の重さを量りかねたのが理由であった。
外国の最大手航空機産業の副社長にインタビューした記事があった。インタビューしたのは某大学の航空工学の教授で、彼も航空機の安全性の問題点については知り尽くしている人物である。その彼が、「旅客機の安全性に関する費用は異常な状態になっている。確率的にはこれほどの費用をかけなくても同程度の安全性を確保できる。コストの面についてもう少しかんがえてはどうか」と聞いた。その結果は次のようなものであった。
すっくと立ち上がり、胸に手を当てて宣誓のように答える。
「航空機はどんなに安全であっても安全でありすぎることはない」
これが彼の答えであった。
手の中の酒がなくなるまでにはそれほどの時間はかからなかった。アルコールが体を火照らせても、意識はまだはっきりしていた。
全身義体、これにかかわることは、患者の命に対しての責任のいくらかを負うことを意味する。そして、性感帯プログラムに関しても、大西知美、そして今後開発にかかわる義体協力者、エンドユーザーとなる義体利用者の人生にかかわることになる。この仕事を引き受けたとき、いつかは十字架を背負うだろうなという確信があった。大西の協力は彼女の人生に対するはじめの十字架になるかもしれない。
橋本の提出した性感帯プログラムの調査提案は会議中、それほどの問題もなく通過した。味覚に比べれば性感のほうが、まだ実現性は高いと考えられた。橋本の提出した企画案が割りと無理なく実現できそうな記述であったせいもある。調査が済んで見通しが立たないと開発には進めない。イソジマ電工義体開発課、NTL.ED第4開発室、同開発計画室は直ちに性感プログラム調査のための情報収集システムの開発に入った。
「ようこそ、大西さん、予備調査よろしくお願いします」
「こちらこそ、わがままいってすみません」
汀が明るい声で大西をベッドまで誘った。
ベッドに腰掛ける大西、橋本も笑顔を浮かべながら、機器の設定に没頭する。データ収集中は汀と橋本の二人以外、一切研究室には出入り禁止、システムの操作は、別室の大型コンピュータも含めてすべて橋本が行う。収集したデータもすべて橋本が管理し、分析結果以外は公表されない。情報収集中のトラブルに関する責任はすべて橋本が負う。この二人以外にはプライバシーは一切公開されない。
大西はやわらかい笑顔で橋本を見つめていた。
「それでは、調査を開始しまーす。えーはじめに言っておくことがあります。いいですか?」
大西は静かにうなづく。汀は手元のマニュアルに目を走らせた。
「この調査は、女性の性感を調べることにあります。現在当社では性感システムの開発を行うことが予定されていますが、そのために必要な性感神経系を調べて、開発に役立てます」
「はい」
「今回、予定されている調査は次の項目になります」
「まず最初に、一般的な女性の性感帯、胸、お腹、性器に対応する神経系にサポートコンピュータを通して、弱い刺激を加えます。実際に行うことはここに寝てもらって、サポートコンピュータと外部のコンピュータを接続してもらうだけです。実際にさわるわけではありません」
「サポートコンピュータから性感に関する神経に刺激を送ることで、感じる状態を作り出します。調査全般にかかわることですが、もし異変があったら、直ちに声を出すとか、手を動かすとか、またはサポートコンピュータの緊急信号でもいいです。そういう意思表示をしてください。そんなそぶりが確認されたら調査を直ちに中止します」
「はい、わかりました」
「それから...」
汀が大西の目を真剣に見つめた。
「いまでも、やめたくなったらやめていいからね。どんな理由であっても私たちは絶対にあなたの味方をします」
大西は橋本のほうを見た。橋本は大西のほうを向いてしっかりとうなずいた。
大西は汀に礼をした。
「大丈夫、はじめてください」
汀が、思わず礼を返す。そして少しあわてたようにマニュアルを見直した。
「状況しだいですが、結果が良好であれば、いくつかの刺激を組み合わせるパターンに移ります」
「十分に高まることが出来れば、イクこともあるかもしれません。そして順調であれば、性器への刺激を徐々に増や
して」
汀がぺろりと唇をなめる。
「イッてもらいます。」
汀はそこまで言って、にやりと笑った。心なしか頬が紅潮しているのは、想像のせいだろうか。
「よろしくお願いします」
汀と橋本はあらためて頭を下げた。
「手順1から、はじめます」
「手順1了解、サポートコンピュータ、IFモードに切り替え」
橋本の指示の元、汀がサポートコンピュータを操作する。サポートコンピュータは外部接続されたコンピュータの通信を受け入れた。
「接続完了、状況モニター確認、問題ありません。」
「はい、それではシミュレーション開始します。」
大西の身体データが入力された大型コンピュータは大西の体に与えられる刺激を計算して、脳に与えられる刺激と同じものを作り出す。同時に脳のどの部分が活性化するかを観測し、予定外の部分が活性化した場合は、神経回路の再計算と修正を行う。予想外の反応が大きい場合には、刺激を抑え、場合によってはカットする。
「刺激投与します」
「はい、了解」
汀は大西を見つめている。
「ん..」
小さな声が漏れる。
「また、信号が小さいから、ほとんど感じることはないはずなんだけど」
「今まで、ほとんど使ってないから、敏感になっているのでは?」
「むしろ、使ってない場合は鈍感になるはずなんですけどね」
橋本がコンピュータを操作した。
「ううっ、なんか押されているように感じます」
大西がつぶやいた。
「大丈夫?大西さん」
「大丈夫です。というよりまだ圧迫感だけで、まだ感じているような感じはしません。」
「そうよねえ、いきなり触られても気持ち悪いだけだからねえ」
橋本はモニターから目を離さない。
「大西さん、彼氏とSEXしてたときは、どこから触ってもらってたの」
「え、えー 胸です。揉んでもらってから、乳首をすって、それからあそこになりました。」
「胸ですか..うーん、じゃあ、ぽんっと」
シミュレータのモニターで胸の辺りに刺激を加える。
「あ、すこし感じます。でも弱い。もっと、ああ、もっと」
その言葉で橋本が刺激のゲインを上げる。
「ああ、感じるけど、何か服の上から触られている感じです。胸全体がもやっとしています」
「そういうことですか、じゃダイナミックレンジを上げます。差分強調」
「うっ、前よりいいです」
いつのまにか、手順も何もなくなっている橋本であった。二人のお姉さまに攻められている構図は、本人たちが正気に戻ったとき、どう写るのか楽しみである。
「.............」
様子をみていた汀だったが、橋本に耳打ちした
「まだ刺激が足りないみたい。物足りないみたいだから、胸の周りをぎゅっと揉んでみて、かなり強めに」
「そうですね、胸を握り締めるようにぎゅっと」
マウスで抑える点を5点指定して、圧力パラメータを増やす。
「あ、そうそう、少し痛いくらいでもいいわよ」
「えー、難しい注文しますね、あ、そうだ、触覚神経と痛覚神経もこの上に重ねて、同じように刺激を加えれば」
触覚神経マップと、痛覚神経マップを性感神経シミュレータに重ね合わせる。圧迫パラメータをそのマップにも加え、痛覚と触覚の情報もシミュレーションして、サポートコンピュータに送り込む。
「あ、痛い」
とっさに橋本が緊急停止ボタンに手を伸ばす、その手を汀が止めた。
「大丈夫、感じているから」
大西の体が実際にもまれているかのように悶えている。その表情に苦痛はない。
「どのくらい興奮しているかなんてわからないですか?」
「いまの状態ではわからないですね。脳波を見るくらいしかないけど、脳波見ても興奮とは限らないから」
「でも、もうかなりキテいるとは思うけど」
「それじゃ、性器のほうに移ります?」
「そうね、お願いします」
橋本はシミュレーション上のパラメータを性器のほうに書き換える。
「あっ」
大西の体がビクンと跳ねた。
「強すぎです、痛い、痛いっ」
「ああっ、胸と性器じゃ感じ方が違うんだ」
刺激の強さを下げ、様子を見る。
刺激のパターンを揉み行為からピストン運動に変更。
「はふう、うむっ、うん、うん」
自分から、性器を突き出すように体を揺らす大西、それを見ながら、じわりじわりと刺激を強め、ピストン運動の速度を上げていく。
「うんっ、んっ、うんっ、んっ、はふ、うんっ、んっ、うんっ、んっ、」
様子を見ながら、ともに体を熱くする汀と橋本
「もうちょっとかな」
「そうですね」
「うううっ、あーーっ」
ひときわ大きく声を上げる大西、それを聞きながら、ピストン運動の速度を下げ、刺激を若干強めにして、絶頂を待った。
「あああーっ」
義体がビクン、ビクンと跳ね回る。義体の出力を絞るように調節しながら、汀と橋本は、大西のイク様子をじっと眺めていた。
「...........」
「...........」
「はあ」
「終わりましたね」
刺激をゆっくりと沈めながら、橋本が答える。
快感の余韻はまだ大西を包んでいるようで、ときどきぴくっと動きながらも、全体としてはぐったりと力がない。
「大西さん、お疲れ様」
汀が声をかけるが返事がない。
「まだ無理ですよ。このまま寝ちゃうかな?」
橋本は刺激をゼロにまで戻し、データの記録に入る。大西の生体反応自体は特に問題は見受けられない。すべて正常である。
「寝ちゃったら、しばらくこのままですね」
「そうね、橋本さんもお疲れ様でした」
「お疲れ様です」
橋本は微笑んだ。
「さあ、また目が覚めるまで付き合わなくちゃいけなくなるかな」
橋本はいすの上で体を伸ばす。
「つきあいましょう、おきたらお疲れ様って言ってあげなくちゃいけないからね、それまではこれで待ってましょう」
汀がワインを取り出した。
「社内は本当はアルコール禁止だけど、今日のこの部屋だけは治外法権だから」
いただきましょうと橋本がコップを取り出す。
「こんなものしかないんで悪いけど」
「OK,OK,今の私たちには上等」
夕方のオレンジ色の光がカーテンの隙間から漏れる。
いつしか眠ってしまった二人と大西が目を覚ましたのは、また深夜に近くなってからであった。
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