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《生命維持装置パラメーター設定》
ピッ

《ガス交換器動作設定》
ピッ

《供給系・酸素抽出モジュール》
ピッ

 サポートコンピューターが出す、私の頭の中だけに響く操作確認音がいつも以上に無機質な音色に聞こえるのは気のせいかなあ。

 分厚い取り扱い説明書とにらめっこすること1時間半。ようやく探しあてた解説ページの意味不明な単語の羅列と格闘すること45分。ただでさえ残り少ない時間を費やして、とにかく操作方法だけは理解した。サポートコンピューターにアクセスして、この身体になってからまだ一度も開いたことがないメニュー画面をいくつもいくつも操作して、やっと目的の設定画面にたどり着いた。

《酸素濃度設定=6 (1〜12/13〜20)》

 えーと? これを最大にしちゃえばいいんだよね。

「設定値=20」
ピッ

【*この設定には管理者権限が必要です*】

 うー、やっぱり、これって重要な設定なんだろうなあ。でも、もうこれだけ時間を使ちゃったんだから、迷っている暇なんかないよ。
「パスワード=●●●●●●●●●」

えいっ。

ピッ

【正常に設定されました】

ふう……。

 もともと、手足を動かさずに頭の中で考えるだけっていうサポートコンピューターの操作は苦手なんだけど、こういうのはホント気疲れしちゃうなあ。普通の設定なら、首の後ろの接続端子に繋いだパソコンからでもできるのに、これは私の脳から直接操作することしかできないみたい。それだけ、重要な設定だってことなんだろうけど……。あー、もう2時過ぎだよ。今夜は徹夜だなあ。
 明日は、私が一番苦手な英語の試験の日。私の身体のことで急にバイトをやめなきゃならなくなって、この1週間は必死で次のバイト先を探してた。バイトをちょっとでも休んだら、病院の定期検査のお金が払えない。銀行の口座には、事故の時の保険金があるけれど、それはなるべく使いたくない。一度、保険金に頼ったら、もうバイトを続けようって気持ちがなくなっちゃうかもしれない。保険金は家族の命と引き換えの大事なお金なんだ。私が怠けるためなんかに使えっこないよ。だから、たとえ夜中までだろうと、土日の休みがなくなろうと、私はバイトを続けなきゃならないんだ。
 結局、今日の午後までかかって、やっと見つかったバイトは建設現場の力仕事。私の身体、見かけは非力な女の子かもしれないけど、中身は機械。そんな身体の私にとっては、多少の力仕事はゼンゼン苦にならない。現場の担当の人は胡散臭げな目つきだったけど、粘りに粘って、なんとか様子見ってことでしばらく働かせてもらえることになった。実際の働きぶりさえ見てもらえれば、きっと担当の人も納得してくれるはず。これでもう、バイトの方は大丈夫。

 別に、試験のことを忘れていたわけじゃない。でも、バイトのことが気になって何も手につかなかった。試験は明日の午前中。ようやく他の事に気をまわす余裕ができて、今更になって焦る私。この試験の成績が悪かったら……。もしかしたら単位が取れないかもしれない。英語は必修科目なんだ。単位が取れなきゃ落第だよ。まずいよ。まずすぎる。日ごろの修学状況だってバイトのせいで芳しくない。教授の覚えも良い方じゃない。……どうしよう……。

 その時、つけっぱなしのテレビのくっだらないバラエティ番組の画面が目にとまった。

「高濃度酸素の摂取により、記憶力が向上することが、実験により証明されています」

 科学的根拠が皆無ってわけじゃないけど、たった一つの事実だけからあることないことこじつけて、面白おかしく紹介して視聴者の関心を誘ってる。普段だったら、こんなこと信じるつもりはゼンゼンない。でも、今は藁にもすがりたい心境なん
だ。

 私の身体には、もう心臓はない。肺も胃も腸も腎臓も肝臓も何も無い。私が女の子だっていう象徴の子宮や卵巣さえ、事故の時に失くしてしまった。そんな機械の塊の身体の中で、生命維持装置という堅苦しい名前の小さな機械が、私にたった一つ残された生身の部分の脳みそに酸素や栄養を与えてくれている。機械だから、サポートコンピューターを操作すれば、設定を変えることができるはず。たとえば、私の脳みそに送られる酸素の量をほんのちょっとだけ増やす、とかね。
 機械の身体の私が眼鏡をかけているのだって、義眼の性能が悪いからじゃない。私が義体になったばっかりの頃、担当ケアサポーターのタマちゃんを説得して、半ば無理矢理に義眼の視力設定を悪い方に変えてもらったんだ。もともと視力0.1の私にとっては、これがニンゲンだっていう証みたいなものだから。そんな風に義眼の設定が変えられるものなら、生命維持装置の設定だって、きっと変えることができるはずだよ。
 そう考えて、義体の取り扱い説明書のページをあちこち辿って、ようやく酸素濃度の設定を変えるための操作方法を見つけだした。それでなくても残り少ない貴重な時間を使っちゃったけど、これで私の脳みそには沢山の酸素が送られているはずなんだ。さっきのテレビの番組で言っていた通りなら、きっといつもよりも勉強の効率が上がってる。今は、そう信じるしか私に残された道はない。バッテリーの充電はさっき終わったし、このまま試験の時間まで試験対策に集中して、できる限りのことをするだけだよ。
 翌朝。確かに酸素の効果はあったみたい。普段よりも沢山の単語を覚えることができたような気がするよ。これで、また居眠りして試験の時間に遅れたり、試験を欠席なんてことになったら、今までの努力が水の泡だ。まだちょっと早いけど、後で時間がなくなって慌てなくてもいいように、もう学校に向かっちゃおう。
 途中、何事もなく、教務課でのお決まりの儀式も済んで、後は教室で試験が始まるのを待つばかり。
 正直言って、義体の便利な機能を勉強に使うのは後ろめたい。義眼カメラの機能なんかは、あからさまにカンニングになるから当然封じられちゃうけど、こんな機能を使うのだってズルイって気はしてる。でも、あの番組の中では、ひとしきり酸素の効用を大げさに紹介したあげく、番組のスポンサーが売っている酸素発生器の宣伝をしてたんだ。私は、そんな物を買うような贅沢をする余裕はない。でも、少しでも良い成績をとるために、そういう物を使っている子は私のクラスにもいるのかもしれない。私の身体で同じ事ができるんだったら、それをやって悪いことなんて何もないよね。さすがに試験中にまで使うつもりはないけどさ。せっかく苦労して覚えたコトを少しでも残して置きたいと思うのも人情ってものだよね。生命維持装置の設定を変えるのは、試験が始まる直前まで待つことにしよう。

「おはよう、ヤギー」
「あ、ジャスミン、おはよう」
「ヤギー、今日はずいぶん早いのね。試験の準備は大丈夫?」
「うん! ジャスミンがコピーさせてくれた試験対策ノートでバッチリだよ! ジャスミン、ありがとう」
 英語がペラペラなジャスミンは、そんなノートを作る必要なんかないはずだ。いつも落第すれすれの点を取っている私のために、わざわざ作ってくれたってことくらい分かってる。でも、ジャスミンの好意を無駄にしたくはないから、私もそんなことには気づかないふりをする。ジャスミン、本当に、本当にありがとう。
「ふーん、相変わらず血色のいい顔つきしてるねえ。ヤギー、夕べもよく寝たってことか。さすが、余裕だね。けけけ」
 隣から佐倉井が茶々を入れる。機械の身体が疲れることがないのと同じく、私の作り物の顔も、どんな時も健康そのものっていう血色のいい顔つきなんだ。外から見る限り、1日中寝た後だって、何日も徹夜をした後だって、ゼンゼン違いが分からない。だから、佐倉井がこんなことを言うのも当然だろう。
 私と似たり寄ったりの成績の佐倉井は、いかにも徹夜明けっていう疲れきった顔をしてる。それだけ努力をしたんだね。その一方で、私がろくに準備もしないで寝たなんて思ったら、皮肉の一つも言いたくもなるよね。でも、私だって外からは分からなくても、ちゃーんと努力したんだよ。もしかしたら、ジャスミンも佐倉井と同じコトを考えているのかもしれないと思ってちょっぴり悲しくなったけど、試験の結果さえ出ればジャスミンにも胸をはって、もう一度、ありがとうって言えるんだ。ジャスミン、私、頑張るよ。

 試験用紙が配られて、試験が始まる前の一瞬。自信と不安と緊張が入り混じる魔法の時間。大丈夫、大丈夫。努力はきっと報われる。もう、酸素の力は無いけれど、自信を持って焦らず確実に答えを書けば、こんな試験、なんてことないよ!
 用紙に書かれた設問をざっと見て、これならできる!と思った瞬間、世界が突然、白と黒だけになった。そして視界の真ん中で、赤い大きな文字が踊りだす。

「バッテリー残量:12% 省電力モードに移行します」

……そんな……バカな……。

 私、夕べはちゃんとバッテリーが満タンなのを確認したんだよ。普通だったら、今日の夜になっても、まだ70%以上残っているはずなんだ。なのに、どうして……。
 これ、きっと、バッテリーが壊れたちゃったに違いない。それで、身体をほとんど動かしてないのに、電気がどんどん減ってるんだ。このままいったら、試験が終わる前に、バッテリーが空っぽになっちゃうかもしれない!
 たとえそうなったとしても、すぐに命の危険があるってわけじゃない。私の身体は電気で動いているけど、生命維持のための予備のバッテリーがあるし、いざとなったら救援メールが自動的にイソジマ電工に送られて、スタッフがすぐに駆けつけて来てくれるんだ。でもね。そんなことになったらさ。私、それこそ壊れたロボットみたいな姿をみんなに晒してるってことだよね。身動きしない冷たい身体になっちゃったら、居眠りしているとか、そんなごまかしがきくわけない。駆けつけて来たスタッフだって、私の身体のことを隠すわけにはいかないだろう。
 嫌だ! 今、クラスのみんなに、私が義体だってばれるなんて、絶対嫌! ましてや、ここにはジャスミンも佐倉井もいるんだよ。せっかく仲良くなったのに、また高校の時みたいにヘンな目で見られるようになっちゃうんだ。そんなことことになったら、私、もう耐えられないよ。これが大事な試験だってことは分かってる。でも、今の私には、ジャスミンや佐倉井の方が、ずーっと、ずーっと大事だよ。
 そうとなったら、すぐに行動に移らなきゃ。今にもバッテリーが空っぽになっちゃうかもしれないんだ。解答用紙を白紙で出したら、監督員の先生に何て言われるか分からない。万一、それで足止めを食らったりしたら、もうおしまいだ。さしさわりのない範囲で、適当に解答欄を埋めて出すしかないよ。試験の結果は、もうあきらめよう。

 試験開始から、わずか7分。立ち上がった私を見て、みんな驚いた顔をしてる。そりゃそうだよね。私の英語の成績はみんな知っている。まだ最初の問題さえ終わっていない子もいるだろうに、私は試験会場を退席しようとしてるんだ。どう考えたって、試験を投げてるとしか思わないよね。監督員の先生も顔をしかめてる。でも、仕方ないんだ。私には、他に選択肢がないんだよ。省電力モードで、思うように動いてくれない足に毒づきながら、精一杯の速さで教室の出口に向かう私。室内の誰とも顔を合わせることができなくて、ずーっと俯いたままだった。せっかくジャスミンが作ってくれたノートも無駄になっちゃった。ジャスミン、ごめんね。本当に、ごめんね。
 こんな時のために、キャンパス内で人目につかずに充電できる場所をいくつか確認してある。一番近いところに向かって、のろのろと歩きながら、鞄から携帯を取り出して松原さんの番号を呼び出す。私が松原さんにかける電話は、いつもいつも、トラブルに関するものばかり。今日は松原さん、なんて言うだろうか。でも、義体の故障でこんな酷い目に会ってるんだ。ちゃんとした対応をしてもらわなきゃ、気がすまないよ。

「はい、松原です」
「八木橋ですけれど」
「ああ、八木橋さん。今日はどんな御用件ですか?」
 松原さん、ホントは『御用件』じゃなくて、『トラブル』って言いたいんじゃないだろうか。
「あのね、夕べ充電したばっかりなのに、もうバッテリーが空っぽに近いんだ。省電力モードになっちゃったんだよ。バッテリー壊れちゃったんじゃないのかなあ」
 先週、検査したばかりなのに、という言葉が喉元まで出かかったけど我慢した。担当ケアサポーターにいきなり喧嘩をふっかけるようなことは、こんな時でもしたくはない。
「え? それは変ですね。ちょっと、サポートコンピューターを操作してみてもらえますか?」
 私は、バッテリーが壊れてるんじゃないかって言ってるのに、松原さん、何をしたいんだろう? 私の言うコトを信じてくれてないのかなあ。
「いいですか? その他→メンテナンスモード→状態監視→電力関係→消費電力→リアルタイムモニター」
 うー、待ってよう。そんな早口で言われたって、私、操作できないよ。
「ちょ、ちょっと。松原さん、もっとゆっくり」
「仕方ないですね。そのた。めんてなんすもーど。じょうたいかんし。でんりょくかんけい。しょうひでんりょく。りあるたいむもにたー」
 今度は、子供に向かって話すみたいに、一語一語、ゆっくりと発音してくれた。
「松原さん、それで?」
「表示されている数字を上から順に読み上げてください」
「二つ並んでいるのを順番に読めばいいんだね?」
「そうです」
 義眼ディスプレイには、9桁の数字と4桁の数字が一組になってずらーっと並んでる。
「067955420, 0023, 560154699, 0018, 776531008, 0011, 114573345, 0008, 279……

 携帯からは、キーボードをたたく音が聞こえてくる。きっと、コンピュータで情報を検索してるんだ。
「八木橋さん、もういいです。各デバイスの電力使用状況は正常です。何も問題は無いずですが」
 だったら、なんでバッテリーが空っぽになっちゃうのさ。松原さん、私に意地悪してるのかなあ。
「念のため、ログも見てみましょう。トップに戻って、めんてなんすもーど。じょうたいきろく。でんりょくかんけい。しょうひでんりょく。さんしょう」
 こんなこととして何になるんだよう。今にもバッテリーが空っぽになっちゃうかもしれないっていうのにさ。
「また数字を読み上げればいいのかな?」
「そうです」
「988765654, 0003, 330941108, 0055, 654000000, 6923, 501289643, 0……」
「八木橋さん!」
「は、はいっ」
「生命維持装置の設定をいじりましたね? ガス交換器系統の電力使用量が異常です。一体何をしたんですかっ!」
 うわっ。松原さん、もの凄く怒ってるよう。私が自分でいじれる設定なのに、なんでこんなに怒るんだよう。
「あ、あの、酸素濃度をちょっとだけ高めようと思って、酸素抽出ナントカの設定をいじったんだけど……」
「設定値はいくつですか?」
「えと、その、20にしました」
 松原さん、絶句したみたい。な、なんだよう。私にも分かるように説明してよう。
「その設定を変更したということは、取り扱い説明書を読んだのでしょう? 注意書きがあったはずですよ。それに、設定を変えるには管理者パスワードの入力も必要なはずですが」
 さっきの怒った声とは一転した静かな声。でも、こっちの方がもっと怖いような気がする。
「説明書は読んだけど、注意書きなんてあったかなあ。パスワードは、自分のを入れたんだけど、何かヘンなの?」
「……その話は後にしましょう。今は、バッテリーの充電をしてください」
 松原さん、声に疲労が滲んでる。私、そんなに大変なことしちゃったのかなあ。

 それから10分後。とりあえずバッテリーを充電できる場所にたどりついた後で、松原さんのお説教が始まった。カンタンに言えば、私がいじった設定は、確かに脳に送る酸素を増やす効果があるけれど、本当は、空気の薄い場所なんかで作業する時に、電気をたくさん使って無理矢理空気中から酸素を取り出すためのものだった。普通の何百倍もの電気を使う代わりに、脳が必要とする酸素が手に入る。重い酸素タンクを使わずに活動しなきゃならない特殊な状況を想定した、特殊公務員の業務用の設定。そういうことがちゃーんと説明書の注意書きに書いてあったはずなんだって。私は、夜中から試験が始まる直前までずっとその設定のままでいたから、バッテリーが空っぽになるのは当たり前。どこも壊れてなんかいなかった。松原さんから、そんな危険な設定を不用意にいじったことも、説明書の注意書きをちゃんと読まなかったことも、どっちも義体ユーザーにあるまじき行為だって怒られた。単に怒られただけじゃなくて、私の命が危険に晒されていたことが、とっても悲しいとも言われた。だって、もしもこの設定のままでいたら、予備のバッテリーだってすぐになくなっちゃう。救援メールを受けたスタッフが到着する前に、生命維持装置を動かす電気がなくなっていたかもしれないんだ。そうしたら、私は死んでいたんだよ。
 松原さんの説明で、ようやく私も自分がしたことの本当の意味を理解して、身体が震え出すくらい怖くなった。
「八木橋さん」
「……はい」
「少しまとまった時間がとれますか?」
「え…と、週末ならバイトの予定はないけど、どうして?」
「二度とこんなことがないように、説明書の読み方と、日常生活で使ってはいけない機能のおさらいをしましょう。リハビリの時に汀先輩から講習を受けているはずですが、とても、それだけでは足りないようですから。まずは週末の2日間で、基本的な部分はおさえられるでしょう」
「え、いや、松原さん、週末はお休みでしょ? そんなことしてもらうわけには……」
「八木橋さんっ!」
「はいっ」
「私達ケアサポーターの責務は、担当患者が日常生活において直面するあらゆる障害に対して、それを解決するための支援をすることなのです。たとえその日に3ヶ月ぶりのデートの予定が入っていようとも、担当患者にとって必要であるなら、全てをキャンセルして必要な処置を講じるよう努力するのが、私達の義務であり喜びなのです。だから、八木橋さんは、何ら気にする必要はありません。ええ、ありませんとも!」
 松原さん、デートを楽しみにしてたんだろうなあ。それを私のためにキャンセルしちゃうんだ。こうなったら、断るなんてできないよ。たとえ1日中でも、松原さんのお話を聞かなきゃ悪いよね。
 松原さん、手間のかかる子で本当にごめんなさい……orz
 
後日、教務課から英語の追試の連絡が来た。ホントは追試なんて無いはずなんだけど、体調が悪かったのではないかと監督員の先生が口添えしてくれたらしい。この身体になってから病気なんかしたことない。だから、追試の理由を聞いてびっくりした。確かに、省電力モードで身体の動きが鈍くて不自然だっただろうし、部屋を出るときはずーっと俯いていた。それが身体のどこかが悪くて辛いせいだって見えたんだろうね。ジャスミンも佐倉井も、試験の後ではとても優しかった。てっきり佐倉井に、「あんな時間で退出するなんて余裕だねえ」とか、からかわれると思ってたのに。

 追試は1週間後。今度こそ、私の留年をかけた最後のチャンス。ジャスミンがつきっきりで勉強をみてくれている。佐倉井も自分の試験対策テクニックを伝授してくれた。やっぱり、持つべきものは友達だ。私の選択は間違っていなかった。
 こんなことになったのも、元はと言えば、バイト先で私の身体のことがみんなにバレで居づらくなったなったから。そんなことは気にしない。私の前ではそう言いながら、陰では人形だの機械女だのって私のことを哂ってたんだ。そんなの耐えられないよ。いつかジャスミンや佐倉井も、私から離れていってしまう時が来るんだろうか……。
「もう! ヤギーったら、またぼーっとして! 今の、ちゃんと聞いていた?」
……聞いてませんでした。ごめんね、ジャスミン……。
「まったく、ヤギーには危機感とか緊張感とかないのかね」
「そ、そんなことないよう。私、真剣にやってるよう!」
 先のことなんか考えても仕方ない。今は、このかけがえのない時を大切に過ごすんだ。こうやって、楽しい思い出を一杯作れば、いつか二人に身体のことを言わなきゃならなくなっても、きっと笑顔でいることができるよ。
「じゃあ、次いくよ?」
 ジャスミンがネイティブそのままの発音で例文を流暢に読みあげる。
「わあ、ちょっと待ってよう。そんな早口で言われても、私、ついていけないよう!」
 神様。もう少し。もう少しだけ、身体のこと隠したまま、この二人と一緒の時間を過ごすことをお許しください。私が、人を信じられるようになるその時まで……。


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