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「はあ、きつかったねえ」
 大西知美は鮨づめのワゴン車から這い出して、背伸びをした。同じ研究室の学生も、一人、二人と車から這い出す。
「ああ、重かった、さすがともっち、全身義体なだけあるわあ」
「ごめんね、しっかり握っていたんだけど」
 大西の横に乗っていた三島絵里は、痣にでもなっていやしないかと、ノースリーブで丸出しの腕を撫で回す。男子学生の荒っぽい運転で一度ならず、普通より重い大西にのしかかられた三島はかなり災難であった。
 しばらくして、研究室の助教授と講師が大衆セダンで滑り込んでくる。
「おまえたち、早すぎ、むちゃすんなよー」
 などと、文句をつけながらスマートに降りてくる教員たち。ワゴン車に鮨詰めの学生たちと比べれば、ちょっと殺意が沸くほどの違いであった。這い出した場所は港の中。星修大学海洋センター所属の海洋調査船、星修丸が来週の出航を待っていた。
「全員いるかあ、何人か落としてないよな、点呼してくれ」
 教員の指示で、同じ研究室の学生たちが集まる。わやわやとひとしきり雑談の後、金子助教授が説明を始める。
「あー、あそこに見えるのが本学の海洋調査船、星修丸だ。あの船に積まれている海中探査機に、うちの研究室の測定器を載せてもらうことになっている。本来の調査は海流観測なんだが、それに便乗して、低周波通信の実験を行う予定です」
 金子助教授は男子学生と大西にちらりと視線を送る。
「来週から一週間、私と島村、大西があの船に乗り込んで、海流調査の合間に通信実験をすることになります。その間は講師の杉浦先生の指示に従ってください。いいですか」
 とくに異議があるわけでもなんでもないから、学生たちはあいまいな返事を返す。
「それでは、海洋センターの見学に入ります、まず最初は海洋センターのセンター長に挨拶に行きますから、静かについてきてください」
 金子助教授が学生を先導して、海洋センターに向かう。大西は潮風にさらされ赤錆が浮いた海洋センターを見渡した。
「ともっち、海洋調査って本当に行くんだね。大丈夫なのお」
 三島が、大西の背中を突っついた。
「うん、電気はあるみたいだし、大丈夫だよ」
「いや、そうじゃなくて、...」
 大型客船でもない限り、このような船の中は男所帯というのが普通である。もっとも、偶然ではあるが星修丸の一等航海士は女性であり、少なくとも船内の規律と美化は他の同様の船と比べて、高く維持されていた。そうでなければ、くじ引きで決まった乗り組みの担当を降りたかもしれない。
「一応、船室もあるから、プライバシーは大丈夫だよ。もっとも、私なら、甲板に寝てても大丈夫だけど」
 ふっ、と遠い目をして、さびしい笑いを返す。
「それに、何も危ないことがあるわけでもないしね。誰もなにもしないしできないよ」
「うん。それはそうなんだけど...」
 三島が、まずいことを言ったなと心の中で思いながら、次の言葉に考え込む。
 それを察して大西はにぱっと笑って、三島に言った。
「それに、私はくじ引きに当たってよかったと思ってるよ。船に一週間も乗り込むなんて初めての経験だし、退屈するだろうけど、船で退屈することも体験してみたいし」
「ともっちらしいね」
「うん、そうかもしれないね、もともと好奇心は強いみたいだよ。冒険大好きっ子だから」
 小学生の頃に図書館で読みふけった冒険譚やSF、ミステリーなどが脳裏をよぎる。もちろん、そんなハプニングなど望むべくも無いが、それでも未経験の世界には胸が躍った。
 前のほうで助教授がセンター長と談笑していた。講師の先生の指示でいっせいに挨拶。そんななか、一つのアイデアを思いついていた。その内容に、ちょっといたずらっぽい不敵な笑顔をもらしてしまう大西であった。
 
 
「はあ、サポートコンピュータの仕様書見せろってこと?」
 橋本のブースを訪ねてきた大西が求めてきた要望に、いやそうな声を上げる橋本。
「仕様書って...、内容にもよるけど、ある程度から上は企業秘密じゃなかったかな」
 後ろの棚からファイルを取り出す橋本、ぱらぱらとめくりながら、イソジマ電工の企業秘密の範囲を確かめる。もとより流出させるつもりなど全く無いので、その範囲なんか頭に入っていない。ついでに範囲がはっきりと書かれている項目が見つからない。
「首の後ろのプラグがありますよね。下のほうの」
「なんかあったわね」
「上のプラグは専用なんですが、下はPC用の汎用プラグなんです」
「ああ、そうか、IPコネクタね。それで何かやるの?」
 大西はどう説明しようか少し悩んだが、考えながら口に出す
「内蔵記憶装置のデータを外に出したいんです。ちょっとデータ変換して」
「へえ、だけど、標準アプリで画像とか動画のデータは出せたとおもうけど」
「なんか、データフォーマットが違うみたいで、うまく表示できないんですよ」
 橋本は、内蔵アプリの全てを把握しているわけではない。制御と関係ない部分はどーでもいいので、軽く斜め読みした程度である。
「へー、そうなんだ」
 深く考えることも無く、うなずく橋本。
「すみません、その部分見せていただけますか」
 いくつかの書類から、大西がファイルを選び出す」
「ん、いいけど、企業秘密があるかもしれないから貸せないよ。読むだけならいいけど」
「はい、それでいいです。ちょっと興味がありますから」
 ぱらぱらとめくる大西。しかし橋本は気づいていなかった。義体には画像記録の機能が付いていることに。
 
 
 出航の次の日、調査海域に到着した星修丸からつり降ろされる海中探査機WaveExplorer3の準備が始まった。金子助教授と男子学生の島村が、WaveExplorer3に取り付けられた、低周波音波通信機のチェックを行う。大西は星修丸側に取り付けられた送受信機のテストを行っていた。
 画像として映し出される低周波数の音波。2箇所の受信機からの信号が表示機を真っ白に埋め尽くす。ほとんどは船自身が発生する信号である。しばらく記録しておいて信号の特性を切り分け、船体から発生するノイズをフィルタする。船体からのノイズ、砕ける波のノイズ、それらを除去するとノイズのカーテンは薄まり、少しずつなにか規則性のある信号が浮かび上がってくる。割とはっきり写っているのは、フィルタでも除去しきれないスクリューのノイズ。それ以外のは海流なのか、それとも何かの渦か。

 一通り作業が終わったのか、WaveExplorer3はクレーンで海上に釣り下ろされる。
「ぺこん...ぺこん...」
 WaveExplorer3の送信機が海中に沈むと、大西の装着したヘッドホンから発信信号が伝わってくる。
「ようし、始めようか」
 金子助教授が汚れた手をタオルで拭いながら、大西の後ろに立つ。島村はまだWaveExplorer3を見守っているようである。隣の部屋では本来の作業である海流調査のスタッフが会話を交わしていた。
「位置測定は出来るね」
 助教授の言葉に、大西は2つのマイクから拾われた信号を、つまみで照合させる。2つの受信機の時間差が一致したところから、距離と方向を求める。しかし大西にはそれをする必要は無かった。左右のヘッドホンから聞こえる音が自然に大西に位置を伝えていた。
「受信機から見て、左30度くらい。距離は50mってとこですねえ」
 義体の作り物の信号を、自分の感覚と合わせるテクニックはすでに身に着けている。耳からの信号を心理的な位置関係に表し、その比率を計算して現実の距離を出す。
「おお、すごいな」
 間髪いれず答える大西に、助教授が目をむく。機械で測定しているわけでもないのを見て、耳だけで判断したことを知る。助教授がつまみを操作して、確かにその位置にあることを確かめた。
「ぴったりだね、大西さん。たいしたもんだ」
「いえ、こういう機械の使い方は慣れてますから」
 大西が照れた。しばらくの沈黙の後、内心の動揺を隠しながら、助教授に他のいくつかの表示について質問する。
「こことか、ここに目立つ信号がありますけど、これはどう処理しますか?」
「うーん、ここは、50Hzの10dbあたりか、これは海流の渦だね。そのままにしておいていいよ。海流同士がぶつかって渦を巻いているんだ。場所が変わるからそのうち無くなる」
「こっちは?」
「これは、...よくあるゴーストノイズかな。魚か鯨じゃないかと思うけど、まだ僕にはわからない。これもそのうち消えるよ」
 大西は、助教授の指導で通信機の操作を続けていく。WaveExplorer3が距離をとるにつれて、通信信号がノイズにまぎれていった。信号が弱くなると緻密な操作と適切なフィルタリングが必要になっていく。
「距離は?」
「1000m位です」
 うーむ、と助教授は考え込む。信号の減衰が激しいことは予測していたが、今回使用した通信機での周波数領域では予想外に減衰が大きい。対策をしなければ、表示機に映し出される信号はノイズに埋もれてしまう。しかし大西はそれとは別の感触を持った。
「............」
 ヘッドホンを押さえつけて、じっと耳を澄ます大西。ノイズの中ではあるが、発信機からの信号は大西の耳にはしっかりと聞こえていた。
「大丈夫です。まだ聞こえます」
 ボリュームを上げ、ノイズも大きさを増す中、その中に身を隠そうとする信号を大西は聞き取る。
「距離2000m、方向変わりません」
 表示機に映し出される信号はもう区別が付かない。しかし、大西の脳はそのノイズの中から必要な信号を篩い分ける。
「大丈夫です、聞き分けられます」
 助教授はスピーカを止め、別のアンプからヘッドホンをつなぐ。
「ああ、大西ほどじゃないが、なんとなく聞こえる気がするな。...パーティ効果?」
 使い古された音響学の単語が口を付いた。人はパーティのたくさんの人の会話のざわめきから、特定の相手の言葉を聞き分けることが出来る。これをパーティ効果と呼ぶ。昔から使われてきた言葉で、音声認識の重要な要素でもある。
「5000m、停止したのかな、止まったみたいです」
 しばらく、真剣な顔で耳を澄ます助教授。しばらく息を止めて聞き続けたが、ついに、ぶはあっと息を吐いた。
「さすがにそこまではわからん。なんとなくしか聞こえない。すごいね、何でわかるのか調べてみたいね」
 助教授も大西の体のことについては知っている。しかし、原理的にいって、義体にそんな分析機能があるわけが無いことはわかっていた。これは、大西の脳がなせる業であった。
 大西は助教授の賞賛に戸惑いながら、助教授に聞いてみる。
「すみません、すこし試してみたいことがあるんですが、よろしいでしょうか」
「ん、なんだい」
「その音声信号を、直接義体につないで聞いてみたいんです。スピーカやヘッドホンで音声が歪みますから、それをそのまま空気を伝えないで聞いてみたらどうなるかと思って...」
 ほう、と助教授が興味深そうに大西を見つめる。
「そんなことが出来るの?」
「はい、知り合いにやり方を教わって、プログラムを作って見ました」
 もちろん、実際にはやり方を教わっているわけではない。ちゃっかりとデータを盗みだしただけである。
「大丈夫なら、やってみてもいいよ」
 助教授の許可を得て、アンプからノートパソコンにケーブルをつなぎ、その信号をノートパソコンでデジタル化する。大西は髪をかきあげ、首の後ろのコネクタを露出させる。そして、そっとノートパソコンからのケーブルを差し込んだ。
「じゃあ、やってみますね」
 ノートパソコンの変換プログラムを起動。義体の受信プログラムも起動。ノートパソコンで変換されたデジタルデータが、大西の体に流れ込み、そのデータを受信プログラムが神経パルスに変換して直接大西の脳に流しこむ。
「...............」
 さーっというノイズが、直接脳内に流れ込んでくる。脳がこの信号に戸惑う様子がわかる。しばらく聞き続け、脳がその新しい刺激に慣れたとき、音として聞いたときよりはるかに大きな空間が心の中に広がった。
「......すごい...」
 波のうねり、船がかき分ける波、力強いスクリュー音、遠くに聞こえるWaveExplorer3のかすかな動き。そして、それ以外にも何かの気配を感じる。その空間が大西の心の中にはっきりと映し出された。その感覚はしばらくの間、大西を朦朧とさせていた。
「.........はっ」
 はっとわれに返って、かなりあわてて振り向く。きょとんとした助教授の表情を見て、大西は無理やり平静を装った。
「え、えっと、うーん、すっごくよく聞こえます。船が上にあるとか、遠くに調査機が進んでいるとか。直接聞くとこんなに違うんだということがよくわかります」
「ほおー、うーん」
 助教授が考え込む。
「そんなに違うんだねえ、僕も聞いてみたいなあ」
 ちょっとあっけにとられた金子助教授であったが、気を取り直して、先生の顔に戻る。
「それはそうと、通信音波はわかるんだね」
「はい、わかります。遠くのほうからこちらに信号を送っている感じがしっかりわかります」
「そっか、それじゃ、また分析の方法を考えてみるよ。すくなくとも情報は来ているわけだから方法はあるはずだ」
「はい、そうですね」
 大西は、うなずく。助教授はその大西の姿に満足し、大きくうなずいて返した。
「さ、それじゃ今日出来ることはやってしまおう。その後で次のことは考えよう」
「はい」
 男子学生の島村が戻ってきた。大西の首につながれているケーブルをみて、一瞬ぎょっとしたようであったが、平静を装って大西の横に座る。それをみて助教授が言った。
「おう、お疲れ、今日の分のデータ取りやるぞ。ゲイン調整してくれ」
「は、はい」
 島村はアンプの調整に入る。
「大西さん、20dbmくらいでいいの」
「OKだよ。それくらいが一番聞こえるよ」
「了解、じゃそれくらいで...」
 島村は調整に集中する。しかし、いまいち集中しきれず、耳が真っ赤になっているのは何が理由なのか。
 ちなみに、大西にはずっと前から彼氏がいるのであった。
 
 
 調査最終日、データ取りを進めていた大西と、島村であったが、通信が安定しないことに悩まされていた。レベルメータを見ながら、必死でゲインを調整する島村だが、予想外のところで信号の強度が上下する。大西が直接義体に接続しても、いまいち原因がわからない。カーテンに包まれたように信号の発信源がぼやけてしまうのである。
「今日はうまくいかないな」
 助教授が後ろからその姿を見ながらつぶやく。
「データはしっかり記録しといてくれ、帰ってからの分析材料だから」
 言われるまでも無く、記録テープは常に回り続けている。距離は7000m、大西が直接義体に取り込まなければもう聞こえない。かすかなささやきは位置を変え、時折位置を失う。大きいうねりのように変化する信号は、何か巨大なカーテンに翻弄されているように変化する。大西と島村が、受信機を操作しても、もうほとんど足しにならない。
「もう限界だな」
 助教授が静かにいった。
「何かがそこにあるように感じるんですよ。でも信号はこないです」
 大西はもどかしげに助教授に訴える。直感が何かを使えていることを教えている。しかし、それが何かわからない。
「周波数特性が悪いのかな」
 島村が受信機を操作する。通信帯域をいっぱいまで広げるが、大西の耳にはほとんど変化が無い。受信機は帯域が広がる分、白いノイズの量を増やす。
「これでも変わらない?」
「うーん、聞いてる分には変わらないね。もう耳では聞こえないかな」
「そうだろうな、ここまで低いと、体感サウンドの方が効くだろーな」
 島村は自分のオーディオセットをイメージした。超低音は強力な低音スピーカでは体を振るわせるような効果を出す。それを狙った、いすにつける低音システムもある。
 助教授はあきらめて、自室に戻っていった。
「そうか、耳には、フィルタがかかっているのかもしれない」
 大西が気づく。生身でも、そもそも20Hz以下の音波は一般的に可聴領域の外になる。超低音ではそもそも聞き取る神経が存在しなくてもおかしくない。たとえあったとしても、その神経が接続されているとは限らない。
「耳で聞こえないなら、測定器で読むしかないよね」
「そうだな」
 島村が大きくあくびをして、いすの上でのけぞる。
「ちょっと休憩」
「うん」
 大西もケーブルをつけたまま目を閉じた。意識がすうっと消えていく。
(超低音、体感...)
 !!!
 半分まどろみながら消えていく意識の奥で、何かがごちゃ混ぜになる。その中で耳と体が一緒になる。
(体で聞く?...そうだ!)
 大西はパソコンからの信号を受け取るソフトウェアを見直した。聴覚神経に行くように設定されているプログラムを書き換え、体感神経系にセットする。低周波が耳に聞こえないとしても、体感神経は触感として信号を受け入れることが出来る。ちょっと不安なので、信号の強さをうんと小さくし、注意しながら、プログラムを再起動した。
「......」
「何にもわからないね。失敗したかな」
 サポートコンピュータを意識の中だけで操作して、信号を強くしていった。それに応じて、しびれたようにたくさんの神経が規則性の無い刺激を脳に伝えてくる。全身をぴりぴりと刺激が襲う。
「はふう」
 大西が、刺激に身を任すと、全身の刺激の規則性がなんとなく見えてくる。ふわっとなでるような刺激、周りからちくちくと覆うような刺激。
 体全体を撫で回すような刺激は、彼との営みを思い出させる。生身をなくし性感を無くした、それでも彼に応じる大西。そのときに受け入れる前戯がまさにこんな感じであった。
「ひょっとして」
 つい声に出して、大西はあわてて目を開く。横では、島村がうたた寝している。たった今思いついたたくらみを実現するには、ここではあまりにも危険である。しかしそのたくらみを放棄するには、そのたくらみはあまりにも魅力的であった。
「かたん」
 わざと音を立てて、いすを動かす。浅い眠りの島村ははっと目を覚ました。
「ごめん、起きちゃったね」
「いや、いいけど...」
 ちょっとぼーっとしている島村、その島村に向かって大西が両手を合わせる。
「ごめん、ちょっと席を外してくれないかな。充電しなくちゃならなくなっちゃった」
 媚びるようにみつめて、大西が“お願い”する。それが何を意味するのかを考えて、島村はあわてて立ち上がる。
「すまん、気づかなくて」
「ごめんね、いつもはそんなこと無いんだけど」
 島村があわてて立ち去った後、ドアを閉め、言い訳のとおりにわき腹からソケットを出して電源につなぐ。そのあとで、サポートコンピュータを操作し、体感神経系に送られている信号を、性感神経系にも送り込んだ。
「あ」
 小さい声が漏れる。抑えようとしながらも、残る正気に刺激がきりきりと食い込んでくる
 小さい刺激からだんだんと大きな刺激へ、巨大な舌が全身を嘗め回すような刺激が、大西を襲う。
「はあっ」
 寄せては返す波のような刺激が大西の体を翻弄する。高まっていく刺激。思わずボリュームを上げていく。強くぴりぴりとした刺激も大西にとっては心地よい。
「ふうっ、ふうっ」
 全身の刺激が、脳を攻め立てる。ゆっくりと高まっていく快感が小さな絶頂を破裂させる。
「あんっ」
 すこし落ち着いて息をつく。しかし刺激の強さは変わっていない。いやむしろ体が慣れた分だけより大きい快感が全身をうねる。二度、三度、小さな快感がそのたびに脳内で熱く破裂する。しかし、最後はまだ来ない。
「うえええん」
 もうそこまで大きい絶頂が近づいているのに、性器の無い大西は性器にだけ強い刺激を送り込むすべを知らない。多くの神経系で、その部分がどこなのかわからない。近づいても近づいても、そこにはたどり着けない。何も無い股間に手を伸ばす。どんなに押さえても、こすっても期待したものは何も返ってこない。
「ひっく、ひっく、うええん」
 あまりの切なさに涙がこぼれる。
 しかし、刺激は止まらない。全身の刺激がうねる。そしてまたうねる。永久とも思える時間に気が狂いそうになる。
「ひーん、欲しいよおおっ」
 そのとき、全くの偶然か、欲しい部分の刺激が大西の脳を大きくかきまわした。
「はあああっつ」
 大西の脳内が真っ白の光であふれた。そして焼け付くような感覚が神経の限界を超えて飽和した。
「はあっ......」
「はあっ..」
「.......」
 行為の後の興奮が冷めていく。今も全身を覆う刺激は、どこか遠いところのものに感じられる。また高まりそうな刺激に身を任せそうになりながら、でも、大西はあわてて、刺激を送り込むプログラムをとめた。
「こんこん...こんこん...」
 ドアをたたく音が聞こえる。
 ここでわれにかえって真っ青になる大西。(顔色変わらんけど)変な状態でないかあわてて見回して、わき腹の充電ケーブルを外し、シャツで隠す。
「はいはーい、こめんなさい」
 首の後ろにつながれているケーブルに引っ張られて倒れそうになりながら、大西はドアを開けた。
 空けたとたん、助教授と島村が真剣な顔で通信機に向かう。そのいつもと違う雰囲気に大西は今のがばれたかとあせる。
「どうしたんですか」
「なんだか、WaveExplorer3がトラブルらしい。操縦できなくなったそうだ。こっちの記録に何か残っていないかと思ってね。大西さん、なにか変化なかったかな?」
「!」
 そういえば、イク瞬間は何か大きな刺激があったような気がする。それまでは物足りなかったのに、その瞬間だけ十分な刺激があったから。
「たった今、強い信号が入ったように見えました。いままでは、ほとんど聞こえなかったんですが、その瞬間だけはっきりとわかるほど大きい信号でした」
 内心の動揺を押し隠しながら、気取られないように出来るだけ正確に報告する。助教授は大西の言葉にうなずいて、 テープを巻き戻した。
「.........」
「これですかね」
「これだろう」
 島村と金子助教授が信号波形を覗き込む。広い帯域の信号が重なった波形は、形がうまく読み取れないが、レベルが大きくなっているのはよくわかる。しかし何が起こったかはさすがに読み取れない。
 助教授が船内電話を取った。
「金子です。山内教授をお願いします...ああ、金子です。こっちの記録でも波形が大きくなっているのを確認しました。はい、まだ何かまではわかりませんねえ...」
 海流調査の山内教授と連絡を取る金子助教授、そのやり取りを聞きながら、大西はサポートコンピュータを操作し、入ってくる信号をまた体感神経系へ接続する。もちろん性感神経系にはつながない。ざわっとしたノイズが入り、大西は島村に頼む。
「もう一度、さっきのとこ再生できるかな」
「ああ、いいよ」
 ぽんぽんと二度、つまみを動かして記録時間を戻す。再生
「おおっと」
 全身に広がる空間感覚。聴覚としては聞こえない水圧を全身で感じる。くるくると体の周りで渦を巻く。そして全身に圧迫感。巨大なものが近づいてくる。
「?...くじらさん?」
 大西たちが乗っている船と同じような圧迫感。しかしそれよりははるかに敏捷に変化する。そしてがつんっと音にまで聞こえる硬い音。

「くじらに叩かれた?」
 そして、ふっと再生が終わる。神経を集中していた大西は、とたんに脱力した。
「ふう」
「なにかわかった?」
 島村が聞いた。
 大西はしっかりとうなずくと金子助教授に行った。
「WaveExplorer3はくじらに叩かれました。近づいてきた得体の知れないものに、うちの子供に手を出すなと母親が怒ったみたいに感じます」、
「.........」
 予想外の説明をされてぽかーんとしている金子助教授。助教授もくじらやほかの海棲生物の可能性を考えなくもなかったが、見てきたように話す大西の姿のほうが予想外であった。島村も度肝を抜かれたが、彼はこの状況がどれほど非常識であるかはいまいちわかっていない。
「わかるのか?」
 かすれたような声で助教授が聞く。
「はい」
 笑顔で答える大西。
「そうか、わかるのか...」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいた助教授は、今の音声を通信機から出力させる。
「すまんが、いまの調査機の状態をみてくれないか?」
「やってみます」
 入ってくる信号を耳と体で真剣に聞き取る。暗闇の海の中、そこで息づく生き物が大西にささやきかける。
 WaveExplorer3は、新たな命令を受け取って、ひっくり返った機体をゆっくりと戻し始めていた。
「ああ、あぶないよ、ゆっくりと動かないとお母さんがまた怒るよ」
「そうだよ、ゆっくりと、そうそう、赤ちゃんくじらが遊びに来たよ」

「......」
 助教授と島村は目配せした。助教授は船内電話をWaveExplorer3を操作している部署につなぐ。島村は状況を説明するために直接操縦室に走った
「くじらさんごめんね、この機械を帰らせてくれない?」
「大西さん、どのように動けばいいか指示して」
「わかった、このまま、そのままのスピードで動いて。はやくもおそくもしないでね」
「そうだよー、大丈夫だよ。くじらさんに悪いことなんてしないよ」
 大西の指示をきいて、調査機の操縦が行われていく。びっくりさせないように静かに、しかし存在ははっきりと示すようにメリハリのついた操縦である。位置がわからないほどに静かだと、相手を警戒させてしまう。
「うわあ、コミュニケーションしてるよ」
 魚群探知機の映像を見ながら島村がつぶやく。気を取り直して大西に呼びかける。
「大西さん、WaveExplorer3のマイクの音を聞けるそうですが、どうしますか」
「ありがとう、入れてください」
 魚群探知機から見える魚群とくじら、それらの間を縫うようにWaveExplorer3は、緩やかに姿勢を変えながら進む。さあっと左右に分かれる魚群、その中をエスコートするようにくじらの家族が調査機についていく。時々ロールするのにあわせて、くじらの一家もくるりとついてきた。
「WaveExplorer3の右後方スクリュー故障です。音を立てていて苦しそうだよ。左スクリューは正常なので、右後方スクリューを止めて、操舵で調整してください」
 数十秒後、右後方のスクリューが停止する。その分だけ速度が落ちるが、それ以上に静かになった。
「どうしたの?」
 巨体が機体の下に回りこんでいる気配を感じて、大西が怪訝な顔をする。WavwExplorer3のマイクの音は、調査船からの遠距離音波よりはるかに明瞭に入ってくる。その信号は一度超音波に変換され、調査船との通信回線に乗る。その後、音声に戻され、大西の体に送られてくる。
 (ふわっ)、もって行かれるとしか言いようがない速度で、WaveExplorer3が強い海流に押し流される。本来このような渦流には無防備な機体は翻弄されやすい。
「あらら」
 回転による渦と、あわ立つ音、ごぼり、ごぼりと音を立てて機体が回転する。その中で、寄り添う気配に大西は驚いた。
「フオーン、きゅいっ、きゅうう」
 初めての肉声が耳に通じた。
「!」
 その声に大西は全身がしびれたような錯覚を覚えた。
「助けてくれてる。ありがとう。だいじょうぶだよ」
 大西がつぶやく。大西の声が相手に伝わるわけではない。しかしそれを聞いて、操縦するスタッフが相手に答えるように機体を波打たせる。
 それにほっとしたのか、「きゅーっ」っという声を一言。それを最後にその気配は遠ざかっていった。
 

 細心の注意を払い、できるだけ低速で近づく調査船、星修丸。普通より多くの時間をかけたもののWaveExplorer3の回収はほぼ問題なく成功した。研究の成果については、ノイズも多いが、情報量も多いので新たな通信法を考案する必要があることが当面の課題となった。そして、それからしばらくして金子助教授の論文発表により、この事項が公にされた。もちろん大西の個人情報などはまったく公表されていない。
「ひっく、ひっく」
 しかし、企業秘密が流出したことは、イソジマ電工とNTL社のわかるところとなった。
「ぐすん、ぐすん」
 ライバル社に悪用されたわけではないから、イソジマ電工は寛大にも、ほとんど不問としてくれることになった。しかし、NTL社としては、それだけではすまされることはなかった。
「ふえーん」
 そのため、橋本は始末書と余計な仕事を、引き受けさせられることになったのである。


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