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「中央救急1よりN市消防」
「中央救急1、どうぞ」
「現在、中谷救急病院搬送中、負傷者は3名、男性1名重症、女性1名重症、乳児軽症、男性は出血多量、頭部骨折、下肢骨折、自発呼吸あり、心拍120、女性、呼吸停止、心拍微弱、胸部に激しい損傷、出血多量、危険な状態です。乳児は打撲、呼吸あり、心拍100どうぞ」
「N市消防、了解、搬送先の病院は受け入れ態勢準備中、どうぞ」
「男性、女性共に救命作業実施中、以上中央救急1」
「N市消防了解」
 救急救命士が輸液と止血を実施する。女性の心拍は微弱であり、心電図を見ても、かすかな痙攣しか認められない。
「AEDかけます」
 救急救命士が、除細動器のパッドを当てる。びくんっと筋肉が痙攣する。一度、二度、心拍の波形が出るがすぐに細かい痙攣に変わってしまう。胸部の損傷がひどく、心臓マッサージが出来ない。それでも血みどろの胸部に手を埋め、心臓の辺りを上下させる。全力で走っているため、最新の技術で調整されたサスペンションも路面の衝撃を吸収しきれない。時折激しく突き上げがくるため、細心の注意を払って心臓を扱う。
「あとどのくらいですか」
「4分強ってところだ」
 はげしくハンドルを操作する運転員。サイレンを鳴らしているとはいえ、交差点では出てくる車の可能性が常にある。そのたびにブレーキを踏み、開けられた車線で細心の注意をもって、しかし激しくアクセルを踏み込む。
「男性に輸液をあと2本追加、乳児の状態に注意してくれ」
「はい」
 救急救命士が他の救急隊員に指示する。女性の出血点を血の海の中から探り出し、圧迫止血する。出血量がすさまじいため、顔色は蒼白であり血の色が見えない。
「よおし、到着、搬出準備」
 救急車が救急病院の搬送口に横付けされる。急停車と同時に後ろのハッチを跳ね上げ、ストレッチャーに滑り込ませた。救急救命士は医師に負傷者の状況を説明する。
「渡辺先生と、小島先生は第一手術室で女性をお願いします。小児科の山田先生は乳児を、私は男性を担当します。」
 当直の医師がてきぱきと担当を分ける。
「よし、第一だ、行って、」
 さっと状態を見ると、渡辺医師が移動を指示。ストレッチャーが手術室に運び込まれる。
「心電図とCT、血液型は」
「A型、Rh+、しかし心拍微弱、脳死の可能性があります。人工心肺は」
 小島医師が答えた。
「そうだな、緊急手術を行う。心臓保護措置後、人工心肺の接続、全血バッグ至急」
 看護婦が手術室を飛び出した。
「はい、胸部洗浄、心臓術野確保、心臓マッサージ」
 血でいっぱいの胸部が大量の生理食塩水で洗い流される。出血部位を確認し、クリップで抑える。
 循環器科の技術員が人工心肺の機材を起動させる。
「凝固阻止剤、注入します」
「心筋保護液も準備してくれ」
「はい」
 渡辺医師は人工心肺のための回路の作成に入った。血管に専用のチューブを差込み固定する。全身からと脳からの血管をひとつの回路にまとめ、人工心肺への道を作る。もうひとつ、人工心肺から体へ戻る回路も動脈に作成する。
「人工心肺の準備は」
「準備できました。」
「よし、動脈遮断、体外循環開始」
 静かに人工心肺が動き始める。大量の輸血によって補充された血液が、酸素を得て環流を始めた。
「血圧と脳波に注意して、小島先生は頭部の処置を」
 渡辺医師は胸部の整復に入る。
「CT写真をください」
 小島医師が看護婦から、今撮られたCTスキャン画像を受け取った。出血箇所が数箇所、出血の箇所によっては手術が困難になる。小島医師の顔が曇った。
「渡辺先生」
「はい?」
「脳底の損傷なんですが」
 指差しながら、写真を見せる。脊髄と繋がる部分の出血はあまり大きくない。しかし脳外科の小島医師は重要な損傷を見逃さなかった。
「おそらく、この部分の出血は広がっていると思います。今まで、血圧がほとんどなかったため、大きい血腫になっていませんが、血圧上昇と共に出血が広がるでしょうね」
「そうだな、そうなると脳幹、小脳が問題か...」
 出血により、その部分の血流が阻害され脳死に至る可能性があった。ただでさえ、毛細血管の損傷により脳圧の上昇が問題になっているのに加え、出血した血液の凝固がその部分の壊死を引き起こす。渡辺医師がため息をついた。
「出血の確認と脳手術の準備をしておいてくれ、状態が悪ければ、別の方法を考えなければ」
 小島医師がうなずいて看護婦に指示する。
「MRIと脳手術の準備をお願いします。患者を装置ごと検査室へ移動します」
 検査室移動後、直ちに頭部のMRI撮影が行われた。ディスプレイに脳の状態が細かく撮影される。3D表示で脳全体の画像が表示され、出血点の映像を回転させて表示する。
「........」
「広がってますね」
 人工心肺により血流が復活したことで、損傷のある部分の出血が増加している。
「小島先生の所見は?」
「この部分の手術はかなり困難です。頭蓋底を穿孔してたまっている血を排出するのが、当面の最優先事項でしょう。それよりも心配なのが、この損傷で、全身麻痺の状態に陥る可能性が大きいことです」
「そうだな、このまま様子を見るか、開頭して機能保全をするかというところだな。」
「脳幹の機能保全は出来るかもしれませんが、患部にたどり着くまでに、神経を痛める可能性があります」
 脳幹には多くの神経が集まっている。脊髄からの神経はもちろんだが、顔面の運動神経、感覚神経、味覚神経などが脳幹に集まる。
「それよりももっと大きい問題が...」
 小島医師が言葉を濁す。
「なんだ?」
「義体化を考えた場合、神経の保全を考えないと、義体化が出来なくなる可能性があります。すでに下半身の義体化は考慮されていると思いますが、全身義体化の適用も考えておく段階だと思います。それを前提にすると、手術のやり方が変わってきます」
「うん...」
 渡辺医師は考え込んだ。しばらくして、静かに看護婦に尋ねる。
「患者の関係者は誰か来ていますか?」
「はい、患者さんのご両親がおいでのようです」
「よし」
 渡辺医師が顔を引き締めた。
「院長に連絡してくれ、それから帝東大の脳移植チームに連絡を、義体脳移植の適用といってくれ」
 全身義体化のための脳移植のスタッフと機材を持っているところは、全国でも10ヶ所を超えない。手術により多くの神経を再使用できる形で取り出し、それらの神経を保全。シリコンチップに接続するための機材を保有し、使いこなすためには多くの優秀な人員が必要である。
「このまま、上半身を保全できるか、全身義体か、...出来るだけ生身の部分を残してやりたかったが...」
 渡辺医師はぎゅっと手を握り締める。
「小島先生、患者のご両親に義体化の説明を行います。ついてきてください」
「わかりました」
 小島医師は静かにうなずいた・
 
「失礼します、これが今日の書類になります」
 秘書が古堅部長の机に毎日の書類を置いていく。開発部の報告書、提案書、企画部や上からの稟議書など、その中に、ケアサポーター部からのユーザーの要望書や分析レポートなどもある。ケアサポーター部からの書類は部内で分析、選択され、古堅部長の元に届けられる。
 開発部からの開発状況の報告書は、直ちに目を通され、それぞれの部署に適切な指示を与える。そのほかの書類は、ざっと目を通され、それなりの処理をする。
 ユーザーの要望書や分析レポートは開発部にとって重要な情報源でもある。ケアサポーター部では独自の分析を行い、企画部と開発についての提案を上げてくるが、ユーザーからの直接の情報やトラブル事例などは開発に役立つ情報が多い。開発部のスタッフにも回覧させるようになっている。
「うむ」
 あるケアサポーターから上げられたユーザーの要望書に目が留まる。
 ユーザーは古い和菓子屋の一人娘。若い職人と結婚しており、子供が一人。交通事故により全身義体となったことがケアサポーターの基本項目欄に記されている。
 古堅部長は要望書を読んでいった。味覚に対する要望が真剣につづられている。
 開発部の若い者が仮想食事体験機なるものを作ろうとしていることも知っている。基礎研究段階で雀の涙程度の予算しか付いていないが、何度か自分が体験させられ、すさまじい味の攻撃を食らったので、開発状況についてはよくわかっている。甘い、辛い程度の単純な味であり、加減については再考の余地があるが、とりあえず味覚を味覚として感じることが出来たことは評価してやってよいと思う。加減については今後改良していけばいいことだ。
 だが、実際の食物を味覚として感じさせることは、複雑さとしては桁が違う。
 要望書には、もう永久に奪われた和菓子の味、家庭の味についての欲求が綴られていた。
 以前に古堅自身がその可能性について、開発部総動員で調査研究したことがあった。しかし、そのときの技術では不可能に近く、個別の物質についてのセンサーはすでに存在していたが、混合物や化合物の分離が出来ず、関係の無い物質にも反応してしまう。細胞膜を模した高分子脂質膜センサーは混合物の認識が出来たが、膜の寿命が短く毎回の取替えと洗浄が必要であった。
「しかし...何とかならないものか」
 古堅は考えをめぐらす。ライバル企業のギガテックス社は高性能、高出力義体の方針を打ち出して、軍や宇宙関係への進出を進めている。イソジマ電工はその方針を採らず、医療器具、民生機器の方向で開発を進めている。一般の生活者としての義体を追い求めるためには、通常人の感覚に近づけていくことが必然でもある。困難であろうとも、イソジマはイソジマの道を進まなければ勝ちは望めない。
 実は、ギガテックス義体と比べると、イソジマ電工の義体の体感センサの数は3倍以上多い。ギガテックス義体は作業に必要な最小限のセンサに絞って搭載されているが、イソジマ電工義体は生活のための細やかな感覚を再現するため、人工皮膚表面にはかなり多いセンサが組み込まれている。それでも実際の人間よりははるかに少ない数である。
 このセンサの数は必然的に搭載コンピュータの能力にも関係しており、生命維持のコンピュータの性能は大差ないが、感覚系や大脳をサポートするコンピュータの性能は大幅に違っている。ギガテックス義体はどちらかといえば一世代前のコンピュータを信頼性重視で搭載しているが、イソジマ電工義体は開発時の最高性能のコンピュータを載せるのが普通である。というより、高性能でなければ多くの神経系の信号を処理できないのが実情である。
 味覚を実現するためには、多くの味覚センサ。嗅覚センサを搭載しなければならない。これを搭載することが出来れば、ギガテックスのサポートコンピュータでは同じセンサを使用してもまず処理しきれない。ギガテックスが大幅に義体の設計思想を変えない限り、数年間、おそらくは3年から4年程度、有利を維持できる可能性があった。そして、大幅に設計思想と変えるということは、莫大な開発費を投資することを意味する。その有利さと味覚の開発費用、精密に計算しなければわからないが、それだけの開発予算を計上して採算を取ることが出来るか良く考える必要があった。しかし、今のままでは、実現可能性、開発費用、製品のコスト、そのどれもが正確に算出できないのである。
「.....もう一度、やってみるか。」
 当時と比べれば、周辺技術も向上しており、センサ、計算機性能、アクチュエータ、どれも水準は上がっている。化学分野は専門ではないが、味覚、嗅覚のセンサについても新たな実現の可能性はあるかもしれない。古堅部長は静かに立ち上がると開発室へ向かった。
 
「味覚、ですか?」
 開発部リーダーの柏木は、古堅部長の顔を見返した。いつも表情を読ませない上司は何を考えているのかわからない。
「でも、味覚関係は時期尚早ということで、お蔵入りさせたのでは?」
「そうだな、3年前の調査では、まだ無理だった。だが、その間の技術の向上はどのくらいあるか。義体のサポートコンピュータの性能も上がっている。まだ無理かも知れん。だが、ギガテックスと差別化できるとすれば、かなり大きいアドバンテージとなる」
「たしかに」
 柏木はうなずいた。
「いきなり開発しろといっても無理なのはわかっている。しかし、いくつかの可能性となる種を見つけて、育て続けなければ、他社に追い越されたとき、致命的なダメージを負いかねない」
「その種が、味覚というわけですか」
「それだけではないぞ、義体の機械的電気的性能はわれわれで改良できるが、われわれの手に余る部分についても積極的に研究は進めておかなければ、突然ひっくり返されることもありえる。イソジマ電工社内での研究会だけじゃなく、外部からの情報を積極的に研究する必要がある」
「そうですね、公開情報は私たちも集めていますが、専門家の意見を聞きたくなることがあります」
 古堅部長はわが意を得たりとばかりに大きくうなずいた。
「そうだろう、それでだ、その手始めとして外部の人間との研究会を始めようと思う。食品工業などで使われている味覚センサを勉強して、その関連の専門家との情報交換をしなければならん」
「うまくいくようなら、そこから導入するわけですね」
「そうだ、ただ、義体用にそのまま導入できるとは限らんから、目処がついた段階でその研究を元に実用化することになる」
 諏訪が横から割り込んだ。
「そこで、目処がつけば予算が付くということですね」
「うむ」
「ところで、上の説得は出来るんですか」
「そこが問題だが、何とかする。そこで君たちに上を説得するための材料を調べてもらいたい」
「要は、味覚が実現できるかもしれないと上に思わせればいいわけですね」
 何かというと予算削減のあおりを真っ先に受ける部署である。柏木も諏訪もごまかし方についてはよく承知している。
「そのとおりだが、これは実際に実現したい企画だ。本当に実現できることを念頭にしてやってくれ」
「わかりました」
 柏木と諏訪は明るい声で答え、直ちにパソコンに向かった。
 
「むー」
 さっきから、お手紙をひらひらともてあそんでいる橋本、虚空をにらみながらパタパタと仰いだり広げたり、さっきからそのしぐさが目に入ってくる横田と三沢にとってはうっとおしいことこの上ない。
「あー、うっとおしい、やめてくださいよ」
「むー」
 聞こえるのか聞こえないのか返事にもならないような声を出しては、また広げる。
「横田君」
「はい」
「来週出張お願いね」
「へ?、わたしですか」
「そうだよ、うーん、うちら全員行きましょう。これ、かなり大物だよ」
 さっき横田と三沢に回覧させたイソジマ電工からの研究会のお知らせを示す。題名は“義体味覚機能の実現可能性について” NTLの橋本にも参加依頼があった。
「味覚って甘いとか辛いとかの基本形だけじゃないからね。同じ甘いでも、砂糖、ブドウ糖、麦芽糖、全部甘さが違うでしょ。合成甘味料もあれば、ピーナツバターみたいに脂肪も甘く感じるときがあるし」
「なるほど」
「イソジマさんはどこまでやるつもりなんだろ。限界見極めないと、泥沼に入っちゃったりしないかな」
「義体搭載が目的でしょうから、味がわかる程度で収めるんじゃないですか」
「開発する側としてみれば、味の感動を取り戻させたいところよねー」
「ちょっと、それは難しいんじゃないかと」
「現実問題として、舌に載せられるセンサがどのくらいあるかも問題だよね。今あるセンサってどのくらいの大きさなのかな」
「いま、ざっとネットを漁っていますけど、ベンチャー企業で出してる複合センサで、1cm四方くらいですね。厚さは2mmくらいかな。そもそもが食品会社の品質管理用ですから」
「舌の上に3〜4個ってところか。きびしいなあ」
 橋本は考え込んだ。だがとりあえずは研究会で情報収集してからでも良い。
「じゃ、横田君、三沢君、出張お願い。開けといてね。出来ればなにかお土産用意してくれるとうれしいなあ」
 この場合のお土産とは、NTL側で研究会に報告する情報のことである。
「わかりました。何か調べておきます。」
「ごめんね、こっちでも何かやっておくから...うちの会社でやってる人いないのかな」
 記憶を探るが、そんなテーマをやっていそうな部署が思いつかない。
「さあて、どんな手法がいいのやら」
 なんとなく考えながら、橋本はやりかけの仕事に戻っていった。

 イソジマ電工本社ビル、12階第1会議室、50名ほどの参加者が集まる、古堅部長は正面に進むとマイクを握った。
「お忙しい中、今回の研究会にご参加いただきありがとうございます。本日の研究会で司会を勤めさせていただく古堅です。よろしくお願いします」
 古堅部長が挨拶を始める。集まった面々はイソジマ電工の開発部から手の離せない人間を除いたほぼ全員、各部の部長、ほか数名、大学医学部の関係分野の教授数名、義体及びロボット研究者数名、食品工業用だが味覚センサメーカーの技術者数名、NTLから橋本たち、等であった。
「まず最初は、現在の味覚の基本概念と現在の研究状況に関して、当社の柏木からご報告させていただきます。その後、若干の討論をお願いいたします、そのあと、ご講演を順次お願いした後で、全体の討論に入らせていただきます。それではよろしくお願いします」
 柏木が壇上に立ち、諏訪がプロジェクタを操作する。大きくイソジマ電工の社章のあと、題名が表示される。
「イソジマ電工開発部の柏木です。味覚の基本概念と開発状況に関してご説明させていただきます。よろしくお願いします」
「えー、まず味覚の概念についてですが、一般的に味覚は4味または5味の基本的な味があると......」
 柏木の説明が終わり、いくつか足りない部分の補足が参加者からなされる。その後、医学部の教授から、舌と咽喉の構造についての一般的な説明が行われ、筋肉の構造やそれらの連係動作などが説明される。
 味覚センサメーカーの技術者が、センサの高分子膜の特性について説明し、使用条件などが示された。
 NTLからは直接の味覚に関する研究者がいないことを前置きした上で、国立研究組織の論文を紹介、高分子膜センサなどではなく、ただの電極から高周波パルスを舌上の食品分子に与え、エネルギーを受けた食品分子が電磁波でエネルギーを放出する際の信号を取り出す手法を説明した。この電磁共振式はただの電極であるため、高密度にセンサを設置できることが利点であったが、取り出される信号はさまざまな物質が出す信号が混ざった状態であるため、この分析にはスーパーコンピュータ並みの演算が必要になる。すぐに実用化できるとは思わないが、補助的には使えるかもしれないという読みがあった。

 各報告が終わり、討論に入る。柏木は味覚センサメーカーの技術者に小型化と耐久性の問題について質問した。味覚メーカーからは、電磁共振式のセンサの可能性について質問があり、橋本は計算量の見積もりを説明した。
 説明が終わったところで、古堅が司会の立場で橋本に質問を返す。
「大変興味深いお話でした。ありがとうございました。追加で、こちらからの質問よろしいでしょうか」
「はい、お願いします」
「今までの討論では、高分子膜型は高精度で味を認識できることが大体わかったと思います。ただし、耐久性が無い、センサのサイズが大きいという問題があるということだと思います。それに対して、電磁共振式は耐久性とサイズに対しては申し分ない特性を持っているようです。しかし、」
 古堅が周りを見渡した。
「シグナルの分析に強力な計算機が必要だということと、分析手法がまだ確立されていないという問題がありますね。失礼ですが、この手法はまだ基礎研究段階だという認識でよろしいでしょうか」
 橋本は軽くうなずく。
「そのとおりですね。この文献を見つけてから、簡単な追加実験を行ってみましたが、味覚成分以外の物質にも反応すること、温度や水分そのほかの要因でシグナルの傾向が容易に変化することがわかっています。膨大なデータを抽出して傾向をつかむことからはじめる必要があります。すぐに実用可能とは考えていません」
 古堅はじっと橋本の目を見つめた。
「私はこの手法はかなり大きい可能性があるように感じます。もし、実用化すると考えた場合の、実用化の可能性、期間、予算規模などは見積もることは出来ますか?」
「正直、今の段階ではわかりません。見積もるための時間が必要ですね。一週間あれば見積もれるかもしれません」
 古堅は嘆息した。
「わかりました、実現すればかなり大きいメリットになると思います。ありがとうございました」
 古堅は礼をすると、新たな質問者を探す。いくつかの手が挙がったところで、古堅は次の質問に移った。
 
 会議解散後、いくつかの専門家と談笑しているところへ、古堅が橋本を呼び止める。
「今日は、ご参加ありがとうございました。大変勉強になりました」
「こちらこそ、たいした報告も出来ず申し訳ありません。」
「いえいえ、大変興味深いお話でした。」
 ところで、と古堅は橋本に小声で話す。
「さっきの電磁共振法、開発するお考えはありますか?」
 橋本は考え込む。
「うちがやるかどうかという点では、なんともいえません。先ほど言われたように基礎研究段階なので、うちでやるとすれば学術研究枠での研究になります。もし、イソジマ電工さんが弊社に開発依頼されるというのであれば、すぐ出来ますが」
「そうですねえ、いま、イソジマの役員連中と話しをしてきたんですが、うまくいけば役員連中を説得できそうなんですよ。イソジマはセンサメーカと共同で、高分子膜型の小型化と耐久性の改良をやる、NTLさんのほうで電磁共振法を実用化する。そして、おそらくは両方のセンサを使ってハイブリッド味覚センサとする。こんなことを考えているんですが、どうでしょうか?」
「なるほど、できるかもしれませんね」
 橋本は古堅を見返した。この開発部長は真剣に考えていることがよくわかった。味覚などというものは正直雲をつかむような話だと思っていたが、彼は真剣に実用化を模索している。橋本自身面白いテーマだとは思ったが、完成はまだずっと先だという気がしていた。よく考えてみれば、いくつかの壁があるが乗り越えられない壁ではないかもしれない。そうなると開発する側としては面白いテーマであることは間違いない。
「わかりました。電磁共振式はこちらでやってみます。学術研究枠で希望が通れば、独自に開発することが出来ますからこちらでやります。通らなければまたそのとき考えましょう。」
「よろしくお願いします。」
 古堅は深々と頭を下げた。
 
 NTLの学術研究枠は、橋本が最近学術研究を行っていないこともあり、すんなり通ったといってよい。むしろ、審査委員会の委員がかなり乗り気であり、むしろ研究規模を拡大するように薦めてきた。橋本は目処をつけるため、最初の一ヶ月は調査に費やすことになる。そこで最初の壁にぶち当たる。
 初出の論文の研究者と会い状況を聞く。その研究者は信号の処理にニューロコンピュータを使用する方法をとっていた。橋本はニューロコンピュータを使う分析手法をとらなかった。信号の数が少なければニューロコンピュータの出力は容易に収束するが、信号が多ければ収束する結果を得ることは難しい。むしろ、スーパーコンピュータで徹底的に分析する方法を考えていた。しかし、スーパーコンピュータの性能を発揮するためにはかなり高度なプログラミングを行わなくてはならない。センサの数が増えれば当然演算能力も膨大になる。多少は理解できているものの橋本程度の能力では、性能を十分発揮するのは難しい。また、その分析結果から、少ない演算で分析が出来るような手法を考案しなければならない。そうでなければ義体に搭載できないという問題がある。
 これらの問題は橋本の手には余るものであった。スーパーコンピュータ、数値計算の専門家を探す必要があった。
「主任、こんな感じでいいんでしょうか」
 分析プログラムのソースコードを持ってくる横田。橋本はソースコードの流れを追っていきため息をつく。
「FFTはライブラリから持ってくるだけだから何とかなるとしても、そのあとの判断条件で多分引っかかるよねー」
「そうですね、普通はどんなテクニック使うんでしょうかね」
 スーパーコンピュータは多くの演算ユニットを同時に稼動させることで性能をたたき出す。しかし、計算結果によって処理が分岐する場合、その分岐のせいでほとんどの演算ユニットが停止してしまう。出来るだけ同時に、休ませずに、演算を続けるようにプログラムしなければ、高性能は望めない。
「あとはコンパイラが何とかしてくれるといいけど、ま、しかたないか、横田君、NX-9500の使用願い出しといてくれる?」
「わかりました」
 NX-9500はNTL本社が保有するスーパーコンピュータである。NTLグループ全てで使用することが出来る。演算能力は世界一とまでは行かないが、トップクラスの性能を持っており、実効効率が高い特性を持っている。
 
 次の日、朝のミーティングで、NX-9500の使用許可と使用アカウントが届けられた。中村室長が使用法と注意点を説明する。
「....シングルユニットのコマンドはこれを使います。マルチユニットで、フルの場合はこのコマンドで行列待ちに入ることになります。実行に入るときにメールで連絡が来るので、これでモニターしてください」
「住みませんが室長、スーパーコンのプログラミングわかる人を紹介して欲しいのですが」
 橋本が上目遣いで室長に聞いた。
「ん。スパコンのプログラミング?、行列演算ですか」
「はい、性能を出せる自信が無いんで、だれか、高速化手法をレクチャーしてくれるとありがたいんですけど」
「うーん、だれがいいかなあ、一応、僕もスーパーコンピュータセンターの委員をしてるけど、誰かに話をしてみようか?」
「お願いします...って委員?!」(やった、専門家いたあ!)
「室長、スパコンわかるんですか?」
 畳み掛けるように橋本が中村室長に食って掛かる。
「あ、ああ、一応専門は数値シミュレーションだから時々使うけど」
 怪訝な顔をする中村室長、それをものともせず尻尾を振った犬のようにまとわり付く橋本。
「お願いします。教えてください。」(というか、この研究一緒にやって)
 お色気攻撃で落とせるならそれでもかまわないとばかりに、迫る橋本であった。
 しばらくして、はっとわれに返る。しかし、目の前の獲物を逃す橋本ではなかった。
 中村室長の目をしっかりと見据えて言った。
「あらためて、お願いします。今やっている数値計算、室長の力が必要です。共同研究としてお手伝いいただくようどうかどうかお願いいたします」
 ということで、中村室長を自分の研究に引きずり込むことに成功した橋本であった。

 古堅部長の上層部への説得工作が成功し、試作品開発予算の編成がイソジマ電工で行われた。標準義体に搭載することは、コストと実用性をにらみ、その次の段階として行われる。予算はおよそ2億円、人件費や製作費用を含んだ金額であり、それほど大きい金額というわけではない。本来であれば開発依頼の形式でNTLに発注するはずのセンサや計算機も、NTLの学術研究枠となる自己開発という形で行われる。この部分の特許をイソジマ電工側で全て持つことが出来れば、販売の点では非常に有利になるのであるが、この費用では無理であった。開発が進んで実用化の目処が立ったところで、NTLから特許を買い取るか、一定期間の独占権の契約を行うことも考慮されている。ただし、この優先契約権はイソジマ電工が保有している。イソジマの了解を経ない限り、他社が契約をすることは出来ない。
 予算が正式に編成されたことで、全身義体用味覚機能の開発プロジェクトは正式に動き出した。いくつかの打ち合わせの後、プロジェクトの役割分担が決定される。
 
 総プロジェクト責任者−古堅
 義体口腔、舌、喉部構造設計−イソジマ電工開発部、諏訪グループ
 高分子膜味覚センサ−イソジマ電工開発部、柏木グループ、新永康電子工業
 嗅覚センサ−イソジマ電工開発部、小出グループ、新永康電子工業
 動作試験、評価−イソジマ電工試作部、長瀬グループ
 計算機、センサ制御回路設計−NTL第4開発室、橋本グループ
 センサ情報分析ソフトウェア−NTL第4開発室、中村グループ
 
 この陣容で味覚開発プロジェクトはスタートした。
 
 中村室長の協力を得ることで、電磁共振式のセンサ開発のための分析は、NX-9500の性能もあって強力に進められた。砂糖水から始まって、混合物の分析、温度や湿度、時間経過などの条件を変えてデータが取られ、分析されていく。それらの傾向から変化する特性を捕らえ、莫大な物質の特性データが蓄積されていった。

 内蔵コンピュータではどんな高性能の計算機を使っても、全てを分析する計算能力を与えることは出来ない。蓄積データを元に、少ない計算量で分析を行う必要がある。その結果と高分子膜式のセンサとの整合性を取ることも必要である。橋本は、その機能を満たす計算機とセンサアンプ、分析回路の設計が担当であった。想定される電磁共振式センサの数は40点程度、嗅覚に15点、舌に15点、喉口腔に10点程度である。
 
 橋本は横田と三沢を連れて、イソジマ電工の工場を訪れた。試作義体の状況を確認するためである。
 工場の守衛に訪問目的を説明し、駐車カードをもらう。守衛の指示された場所に車を止め、教えられた試作工場に向かった。
 「NTLの橋本様ですね。うかがっております。試作部門はこの中になりますが、まず、洗浄室に入っていただいてご案内します。」
 受付の指示で一室に通される。まもなくぶわっと風が吹き付けられ、ほこりが落とされた。そのあと、紫外線を当てられ、殺菌工程を経て工場への立ち入りが許可される。
「こちらです」
 案内されて、橋本は試作部門へ向かう。
「?」
 およそ工場には似つかわしくない声が聞こえる。その声は廊下を進むごとに大きくなっていった。
「猫?」
 三沢が頭をひねる。橋本は頭を振った。
「ちがう、子供の声よ。赤ちゃんがどっかで泣いてる。」
 こちらです。と案内された部屋のドアが開けられた。あけたとたんに大泣きする子供の声が響き渡る。
「こんにちは、NTLの橋本です」
 泣き声の中で、古堅と柏木が会釈する。その奥で母親に抱っこされて大声で泣き喚く赤ん坊、母親がすまなさそうに苦笑いしながら頭を下げた。
「すみません、何かびっくりしたみたいで泣き止まなくて」
「ああこちらこそ、大丈夫ですよ、おーい、赤ちゃん、どしたの?なにびっくりちたの?」
 橋本が、頭をそっとなでで、ほっぺをつつく。
 なにか知らない人がいるのを、じっと見つめる子供、なくのを忘れて母親にすがりついた。
「ああ。知らない人だからね、ごめんね」
 子供に軽く手を振って、古堅に頭を下げる。古堅は傍らの母親を紹介した。
「わざわざ、お疲れ様です。こちらは村岡さんです。味覚開発の味覚試験をお願いしています」
「はじめまして、NTLの橋本です。よろしくお願いします」
 村岡は子供を抱きかかえながら、頭を下げた。子供がじっと橋本を見詰めている。
「村岡です。まだ、義体になってから日が浅いので、お役に立てるかわかりませんがよろしくお願いします。」
 橋本は改めて村岡を見回した。見かけは子供を抱えた若い母親である。
「こちらの橋本さんにはセンサとコンピュータ関係の担当をお願いしています」
 橋本が頭を下げる。
「大雑把に予定して、私たちは3ヵ月後くらいにプロトタイプの試作を終え、試験をお願いすることになろうかと思います」
「え゛!!」
 たんたんと村岡に説明する古堅。その期間に橋本は度肝を抜かれる。そおっと柏木や諏訪のほうに視線を向けるが、柏木も諏訪も静かに頭を振った。その後古堅は橋本を説得する。どう説得したのか、橋本はその説得を受け入れることになる。そして、本来の予定である、頭部モックアップの検討が始まった。
 
 基礎研究レベルから3ヶ月で試作に持ち込むという、むちゃくちゃなタイムスケジュールは、全プロジェクトをパニックに陥れた。橋本グループと中村グループが開発密度を限界まで上げたのはもちろんのことだが、イソジマ電工側でもパニックは変わらない。ここで、他のグループの状況についてもすこし書いておく。
 
 義体頭部の機械機構、構造を担当する諏訪グループは、あごと舌の構造設計で苦吟中であった。
「これだめ、あごの力に構造が耐えられない。力いっぱいかんだら、顎関節壊れるぞ」
 ものをかむことを前提にしていない既存義体では、物をかんだときに構造強度が持たない。しかもかむのに必要となる強力なアクチュエータを入れると、アクチュエータも顎構造材も大きくなるため、既存の頭のサイズに入らない。しかも自由度が大きいため関節も小さくならない。各種機構の隙間を精密にCADで構成し、ぎりぎりの大きさを選び出すしかない。
 高分子膜味覚センサ担当の柏木グループと新永康電子工業のスタッフは、センサの小型化と耐久性向上を行っていた。
「3a膜は規定の時間で水素イオンが抜けないよ。通常の洗浄液で抜けないと次の味が知覚できない。2f膜くらいに抜けが良くて、それより耐久性があるものじゃないと、ええと次の試作品のオレフィン膜やらなきゃ」
 いくつかの高分子膜を試して、特性がよく、耐久性のある膜を探し出さなければならない。食品工業用味覚センサの生産実績を持つ新永康電子工業は、イソジマ電工と義体用味覚センサの開発を行っている。義体に合うセンサ用高分子膜をさまざまな材料で試作中であった。
 
 嗅覚センサ担当の小出グループは、嗅覚の主成分である揮発性物質の検出を行うセンサの開発を行う。小出女史は匂い物質の分子数の幅のあまりの大きさに途方にくれていた。
「物質量が1分子から検出なんて無理よっ!、しかも上限は飽和量いっぱいなんてどんな検出するつもりよ!」
 検出物質が揮発性物質に限られるため、高分子膜式の膜耐久性に関しては、舌部分と比べてだいぶ楽になる。しかし逆に極小量の物質を検出する必要があるため、検出範囲が異様に広くなる。微量の物質が香りのイメージを大きく左右する。しかもその量の違いで、別の香りのように認識するから始末が悪い。香りについての研究は洋酒メーカーなどでなされている。これらの文献を調べながら地道に積み上げていくしか方法はない。
 
 計算機、センサ制御回路設計担当の橋本は、規定の体積と電力制限の中、要求されるセンサ回路とコンピュータのシステムを構成する。
「このプロセッサじゃないと絶対足りない。でもプロセッサ間の通信速度が高すぎて安定した基板が作れない!」
「Ghzオーダーを低レイテンシでどうやって送ればいいんですか!」
 基板設計の横田と三沢は橋本の要求に根を上げていた。通信速度が高すぎて、マルチプロセッサ群とメモリ間で安定した通信を確保できない。しかもその通信路は速度を稼ぐため数千本にもなる。それらすべての信号を安定的に通過させる通信路を、基板上に載せるのはかなり困難であった。でも何とかしてもらうしかない。
 とまあ、こんな具合にそれぞれの部署で開発が進められていた。そして、各グループの悲鳴が古堅のもとに届けられ、それぞれの設計の整合性を取り調整するわけだが、開発が進むにつれて要求の調整が莫大な量になっていく。例えば、どうにもならないと泣きつかれ、目標値を現実的な値にまで下げる。それを受ける回路は、その範囲をカバーするために修正をする。当然ソフトウェアも変更になる。というように互いが連鎖反応的に変化する。クリティカルな場所では一部を変化させると全体の計画そのものが崩壊することさえありえた。その見極めをし、技術的な限界を超えないようにしながら、全体をうまく進めていくのは古堅の力量にかかっていた。
 
 2ヶ月を超えたところで、各部署とも何とか形がつくようにはなっていた。2ヶ月の修羅場で、それぞれの部署同士で散々やりあった中、ゴールが見え始めるとプロジェクト内のスタッフ同士、妙な連帯感さえ芽生え始める。
 工場に各部門のスタッフが集まっていた。それぞれが持ち寄る試作品を、諏訪のグループが組み合わせる。形状、構造、電力、発熱、配線などの問題がないかを逐次合わせていくのである。
「わー、みんな、目のくまさんひどいね」
「苦労しましたからね、徹夜のほうが多いくらいですから。橋本さんきれいですねえ」
「やだあ、わたしもくまさんすごいよ、お化粧たっぷりしてきたけどねー」
 目の周りは化粧のため目立たないが、髪の手入れはあまりよくない。適当だったのか毛先は変な方向に曲がっている。
「ところで古堅部長はいます?」
「さあ、そういえばいませんね」
「ここにいるぞ」
「うわあ」
 部屋の隅の芋虫がうごめく。意外なところから声をかけられ、スタッフが凍りついた。
「少し早めについたんで休ませてもらっていたよ」
 にこりともせずに起き出し平然と見回す。まだ表情が凍りついたままのスタッフは、何事かと固唾を呑んで見守った。
「どうかしたかな?、さあはじめよう」
 相変わらず何を考えているのかわからない古堅部長であった。

 スタッフは組立作業作業を再開した。組み立てを進めながら、それぞれの担当者が修正すべき点をチェックする。入るべきところに入らないものや、配線のまとめ方、組み付け工程などが確認されていった。
「何とかなりそうだな。」
 古堅部長は作業を見ながら、つぶやいた。
「来月頭には実際の義体ユーザーによる試作試験を実施したい。スケジュールが難しい人はいますか?」
 スケジュールははじめからタイトである。しかしほとんどのグループが大きい壁を乗り越えていた。後は致命的な問題が発生しない限り間に合わせることは可能であった。ほどなくして、来月初頭の実ユーザー試作試験が決定した。
 
「換装終了です」
 医師がほっとした顔でつぶやいた。
 胸部から上を味覚試験用に換装された村岡は、見かけ上は以前と全く変わらない。しかし、開発スタッフはわずかに動く喉や胸の違いを観察していた。
「よろしくお願いします。」
 村岡美由紀は静かにうなずいた。
「体調は変わりませんか?」
「大丈夫です。喉の感覚が今までと違いますが、これはすぐなれると思います。」
「わかりました。よろしくお願いします」
 村岡が首の後ろのプラグをつけると、橋本たちが覗き込むモニターに各種状況が表示されていく。
 義体単体での全体試験はすでに4回を超えており、義体ユーザーによる試験は今回が初めてとなる。義体単体での分析は行っており、どのように感じるかは予測できる。しかし実際の脳の感じ方と一緒であるとは限らない。
 村岡は、試験用食品の並ぶテーブルに着いた。
「それでは、はじめましょう。最初は液体からになります。1番は水です。感じたことは出来るだけ詳しく書いてください」
 水をそっと口に運んだ。ガラスの触感と冷たさが下唇に当たる。続いて上唇に当たる冷たい水。流れ込む水が舌の周りに回り込み、ひんやりとした感触が36度に維持された体温で暖められる。2台のモニターに分けて表示されるセンサ情報はその温度変化を映し出す。
 味覚センサ群は水に対して分析を開始する。舌の周りに配置されたセンサは水の存在を検知、若干の信号を送出するが、味がほとんど無いため、その信号のレベルは低い。
「よし、反応レベルは適正値内だ。」
 水であれば、強い味覚刺激が無いのが正常である。温度などの物理的な反応は起こっても味覚が反応してはならない。
 しばらく水を口に含み、舌の上で転がしてから、こくりと飲み込む。あご、舌、喉、食道に対応する反射手順が正常に行われなければ、飲み込み運動は出来ない。それぞれのアクチュエータの関係がうまく組み合わされ、適正な時間を持って仕事が行われなければスムーズな嚥下運動とはならない。しかも、それぞれの動きは半自動的に行われながらも、脳からの明示的な動作にも対応する必要があるため、制御ソフトウェアは非常に面倒なものになる。
「はい、OKです。知覚記録用紙の記録をお願いします。」
 村岡は鉛筆を握って記録用紙に向かう。橋本は健太郎くんを抱っこしながらその姿を見守った。小出女史が抱っこされた健太郎君をあやしている。
 記録が終わり、村岡が頭を上げた。それを見て柏木が次の指示をする。
「大丈夫ですか?次に行ってよろしいでしょうか?」
 村岡がうなずいた。
「それでは2番に移ります。次はブドウ糖の水溶液です。砂糖水のような....」
 順に味の複雑なものに移り、項目は香りの分野にまで広がっていく。そして、この試験が終わったのは、橋本と小出女史が健太郎君の世話でくたくたに疲れきった後であった。
 
 さらに数ヵ月後、さらに実ユーザーによる義体試験を繰り返し、一応の試作機の完成が宣言された。今の段階では開発費に2億、義体単独で販売するとしても口や喉の部分だけで5000万はくだらない。しかも、現時点では安定的な消耗品の確保は保証できない。改良を重ねられた試作義体はそのまま村岡に無期限貸与されている。消耗品は現時点では5年は持つ在庫が用意されているが、それがなくなったとしても、それ以降供給し続ける保障は出来ない。今後標準義体に搭載されることを祈って、それまで持たせるしかなかった。

 村岡家の朝は非常に早い。まだ暗いうちから村岡美由紀の父と夫は和菓子の仕込みに取り掛かる。朝食は美由紀の母が用意して、父と夫を作業場へ送り出す。空が明るくなる頃に子供がおきて、母の作ってくれた離乳食を美由紀が与えるのが毎日の日課であった。
 しかし、今日は美由紀が台所に立っていた。南瓜を出汁で煮て、わずかにしょうゆを加える。片栗粉でとろみをつけて、やわらかく煮込む。その煮汁をそっとスプーンですくい、わずかに舌に乗せた。
 やがて、子供がおきだして、笛のような泣き声が美由紀を呼んだ。美由紀は子供を抱き上げる。
「おはよう、健太郎君、お腹すいたでしょ、ご飯食べる?」
 そろそろつかまり立ちから、歩き始めそうなところまで成長している子供は、テーブルに並んでいる朝ごはんを指差して何かを伝えている。子供用のいすに乗せられ、手足をばたつかせていた子供は、取り分けて冷やしておいた南瓜がスプーンで差し出されると、おとなしくなった。
 スプーンがそっと子供の口に差し入れられる。しばらく何の味か考えていた子供は、その味がわかると喜んで手足をパタパタさせ、次を催促する。
 2つ目が子供の口に差し入れられた。あむっとスプーンをくわえて、にこりと笑う。
「1歳の誕生日おめでとう。健太郎君...」
 美由紀の声が詰まった。すこし震えながら続ける。
「健太郎君、おいしい?、これがママの味だよ」


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