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 12時11分。イソジマ電工汐留本社ビル21階社員食堂。
 配属から1ヶ月。顔見せはもう十分、ということで出席する会議も必要なものだけになり、それなりの仕事も任されるようになって、決まりきった日常という言葉が当てはまってもいいかな、と思い始めた今日この頃。
 あの日から、空とは食堂で一緒に過ごすのが習慣になっている。空は、もちろん食事をするわけではなく、相変わらず水が少し入ったコップを置いて、僕の向かいの席に座っている。僕が食べるのを、空がぼんやり眺めながら、取り留めのない会話をするだけの時間。でも、空と一緒にいられるこの時間は、僕にはとても大事なものだ。

「今日は君に頼みたいことがある」
 今日のメニューは僕の好物のビーフ・ストロガノフ。食べることに気を取られて、つい生返事をしてしまう。
「ん〜〜。それって、僕にできること?」
「そうだ。正確には君にしか頼めないことだ」
「じゃあ、いいよ。いつもクーには世話になっているし」
「そうか! よかった。君のことだから、きっと断ると思っていた」
 ん? なんか引っ掛かる言い方だなあ。ああ、何をするか聞いてなかったっけ。
「あの、クー。僕に何をして欲しいの?」
「私と寝て欲しい」
……空の言葉を聞いて、一瞬固まった。近くの席にいる人たちも、お喋りをやめて僕達の方を見つめてる。賑やかな食堂には似つかわしくない静寂がその場を支配する。
「あ、あの、クーさん? 今、何と?」
「私と寝て欲しいと言ったんだ」
 とんでもない台詞を、平然と繰り返す空。
「わあああっ! ちょっと、クー、なんて事を!」
「何か問題でも?」
「大有りだよっ!!!!」
 大慌てで食器トレーを持ち上げると、ぽかんとした表情の空を促して、その場を去る。一気に喧騒の場と化したテーブルでは、口々に勝手な言葉が交わされる。
「ねえ、今の聞いた?」
「あー、空ちゃん大胆だねー」
「もう、そこまで進んでたのか orz」
「彼氏の方、真っ赤だったわよ」
「あの野郎、今夜は審問会だぁ〜〜〜」
 聞こえない、聞こえない。

 空の手を引いて早足で向かったのは、32階にあるシステムラボの電波暗室。重い扉を閉じれば、外界からは完璧に遮断される。今、空と話すには、これくらいの環境が必要だ。まったく、空ったら、何を言い出すか分からない。
「一体どうしたんだ? まだ食事の途中だったのに。今日のメニューは君の好物なのだろう?」
「クー! さっきのアレ!」
「アレとは?」
「もう、何でいきなり、あんなコト言い出すのさ!?」
「あんな事……? 君と寝たいということか? いきなりというわけではないんだが」
「だって、だって、僕、まだクーとはキスだってしてないよ!」
「それは君が隙を作ってくれないからだ。私はいつでもOKなのだが」
「そういうことじゃなくって! そんなことするの、まだ早いと言ってるんだよ」
「早くなどない。もう来週に迫っている」
「え?」
「来週から、試験項番1092が始まるだろう?」
「え? え?」
 空が何を言っているかわからない。
「性感機能の試験が来週から始まるということだ。君も試験工程表には目を通していると思ったが? 先週からずっと、君が言い出してくれるのを待っていたんだ。でも、今日がリミットだ。今日中に、誰を相手にするか課長に申請しなければならない」
……性感機能の試験……? そうだ、そういう項目があるのは気づいてた。でも、それと、空の言葉との対応がつかなかった。まさか、実地の試験があるっていうことじゃ……。
「来週は機械的な刺激を使った機能試験だから、まだいいが」
「もしかして、その先は……」
「もちろん、男性を相手にして、実際に性行為をすることになる。運用試験なんだから当然だろう? もっとも、私の身体では厳密に言えば性行為には該当しないがな」
 空とセックス、する? あまりに意外だったので、何も言葉が出てこない。そんな僕の様子を見て、空は溜息をつく。

「やっぱり駄目か。仕方が無い。検証チームのメンバーの他の者にあたってみよう。相手が誰であれ、刺激さえあれば性感信号が発生する仕組みだからな。相手が君でなくて残念だが、試験には支障ない」
 え? 空が他の男性と……。だ、駄目だ。駄目だ! そんなこと、させるわけにいかないよ!
「クー!」
「ん、どうした」
「駄目だよ。駄目! クーがそんなことするなんて、僕は嫌だ!」
「そんなことを言われても、試験をしないわけにはいかないだろう。この試作義体を作るのに、一体どれだけの費用がかかっているか知らないわけではなかろうに。試験せずに製品化して、不具合が出たら遥太郎の責任になるんだぞ? 私には、そんないいかげんなことはできない」
「……それは……」
「君が嫌なら、誰か他の者を選ぶ。私には、そうするしかない。いいんだよ。嫌なものを無理強いするつもりはない」
「違うんだ! クーとしたくないんじゃない。ただ、急だったから、びっくりして……」
「本当か? 本当に私としたいと思ってくれるのか?」
「当たり前だよ! だって、僕は……」
「僕は?」
「……クーの事が好きなんだ! 誰よりも! だから、他の人とそんなことして欲しくない!」
「これは作り物の身体だぞ? 刺激さえあれば、誰を相手にしても同じように快楽を感じる身体だぞ?」
「でも、クーの心は違うでしょ!」
「……君の言う通りだ。すまない。君に少し意地悪をした。君が私のことをどう思っているか、不安だったんだ」
「クー……」
「では、私の相手をしてくれるんだな?」
「うん」
「最後まで?」
「うん。どんな事だろうと、クーと一緒なら」
 空が僕の身体を抱きしめる。
「君にそう言ってもらえて、私はとても嬉しい。この気持ちを、言葉だけでしか表すことができないのが悔しいよ」
 空の義体は、涙を流すことも、顔を赤らめることもできない。動悸が早まることも、嗚咽で言葉が詰まることもない。嬉しい時も悲しい時も、ただ普段と同じように、言葉と表情と行動でしか、その気持ちを表せない。
「クー」
「ん?」
「僕も嬉しいよ」
「そうか……。ありがとう」
 僕も空の身体を抱きしめる。間近で見る空の顔は、いつもの通り、いやいつも以上に綺麗だった。どちらからともなく、顔を寄せ、唇が重なり合う。空の唇は、暖かくて柔らかかった。
 しばらくそうして身体を寄せて、お互いの温もりを確かめ合った後。
「では、少し早いが、ここで事前確認をしてみようか? 何事も、十分な備えをするのは大事なことだ」
「クーってば……」
「こんなことを言うのは恥ずかしいが、実のところ、私は初めてなんだ」
「え?」
「義体になる前には、したとがない。だから、これが初体験ということになる」
「クー……」
「優しく、して欲しい」

……

 その日の午後の打ち合わせは、二人とも45分も遅刻して、それぞれ、上司から大目玉をくらったのは言うまでもない。食堂での空の発言は、瞬く間に社内に広がった。当然、いろいろと聞かれたけど、二人ともしらを切り通した。空の方は、あまり気にしていないようだったけど、説得する僕の必死の形相を見て、それなりに理解はしてくれたらしい。どうせ試験が始まれば同じことするのに、という空の言葉はもっともだけど、社内恋愛は、やっぱりまずいです。分かってください…… orz

 そんなこんなで、一気に空との距離が縮まった。この先も、空に振り回されっ放しになるのは、ご想像の通り。それはまた、別の機会を見て。



 一つだけ、忘れていたことがある。電波暗室は、扉を閉じると外界からは完全に遮断される。だから、万一の事故に備えて、小さな監視カメラが設置されていて、その映像は警備センターのモニターに常時映し出されているし、レコーダーにも記録されている。そして、守秘義務が課せられるのは、企業秘密に関することや、個人情報に関することだけだ。当然、社内の情事なんかは、守秘義務の対象外。3日後には、僕と空の関係を社員全員が知るところとなっていたのは、まあ、不可抗力ということで…… orz

 イソジマ電工の社風が、こんなにリベラルでなかったら、と思うと今更ながらに背筋が寒くなる。もちろん、左遷させられることじゃなくて、空と離れ離れになることに耐えられないっていう意味で、だ。古堅部長に呼ばれた時は、正直、もう駄目かと思ったけど、あの穏やかな笑顔で、空をよろしくと言われた時は、それこそ世界がひっくり返ったような気分。空曰く、遥太郎なら当然の反応だ、とのことだけど……。まったく、あの二人の考えていることは分からない。互いの理解の深さを見て、血の繋がりというのはそんなに強いものかと改めて感心した。

 もうしばらく、空と一緒の時間が過ごせる今、僕の最大の関心事は、

「ん? 何を書いているんだ」
 わわわ!
「な、何でもないよ。ほら、スケジュールの確認をしてただけ!」
「そうか?」
 空は、一瞬、疑わしげな目をして僕の手の中にある手帳を見つめたけど、すぐに僕の顔に視線を移して、いつものように、唐突に話題を振ってくる。
「今度の週末は空いているか?」
「週末? うん、何も予定はないよ」
「手帳を確認しないのか?」
「い、いや。ほら、今まで見てたから、大丈夫」
 やっぱり、疑わしげな視線を手帳に向ける空。
「で、クーは、どこに行きたいの?」
 もはや公認のカップルになった今、僕と空は週末毎にデートする日々が続いてる。結果オーライということだと思うけど、こんなに心臓に悪いことはもう二度とごめんだ。空の僕に対する気持ちは疑いようがない。でも、もう少し周囲への配慮というものがあってもいいんじゃないだろうか。もっとも、そうなったら、それはもう、空じゃなくなっちゃうか。

 僕が好きになったのは、いつも冷静沈着で、感情をほとんど見せず、誰にも頼らない。それでいて、僕のことは地球上の誰よりも愛してくれていて、いつでもどこでも自分の気持ちをストレートに僕にぶつけてくる。どう見ても矛盾の塊としか思えない。そんな人。

 空。君と出会えて本当に良かったよ。願わくば、君も僕と出会えて良かったと、心の底から思えるような人生を送ることができますように。

 今度こそ、了



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