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  太陽がまぶしい。 空がまぶしい。 草の緑がまぶしい。
  風が強い。 絵の具を溶かしたみたいな濃い青空の中を雲がすごい速さで流れていく。 私の膝くらいまで伸びた、 まわりの草が風にゆれて、 一斉にカサカサと耳に心地よい爽やかなメロディーを奏でる。
  ぐるっと周りを見回しても、 変わっていくのは太陽の位置だけ。 景色は何一つ変わらない。 緑の草、 青い空、 白い雲、 まるで世の中から三種類の色を残して、 他の色が消えちゃったみたいに、 草の海は見渡す限りどこまでも果てしなく続いていた。
  
  こんな風景、 私、 昔どこかで見たことがある。 そうだ、 中学生の時、 家族でモンゴルに旅行に行ったことがあるんだ。 その時に馬で行った大草原が、 ちょうど私が今みている景色そのまんまだ。 景色だけじゃないよ。 太陽のまぶしさも、 風のそよぎも、 全部その時と一緒だよ。 だって私は今でも、 その時のことを昨日のことみたいに思い出すことができるんだもの。 私は、 草原に沈む夕陽を見ながら、 いつかもう一度必ずここに来るんだ、 そう心に決めてたんだもの。 忘れるはずがないよ。
  私は帰ってきた。 あの時もう一度来るんだって自分自身に誓ったモンゴルの大草原にまた戻ってきたんだ。 でも、 前と違うのは、 私の周りに家族がいないこと。 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 逞しい身体つきの赤い顔をしたガイドさんも、 そして私があの時乗った馬、 イリンジバルも、 誰一人いない。 今、草原の中にいるのは私だけ。 私は一人ぼっちだ。
  どうして? 私、 どうしてこんなところにいるの? さっきまで一緒に車に乗っていたはずの、 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 みんな、 どこに消えちゃったんだよう。 私達、買い物をして、 家に帰る途中だったじゃないか。 なのに、 どうして私だけこんなところにいるんだよう。 私、 ゼンゼン分からないよ。

  そう、 今日は日曜日。 家族そろって、 近所のデパートに買い物に行く。 そんなありきたりな休日だったはずなんだ。 買い物を済ませたあとで、 家族一緒にデパ−トの最上階のレストランで食事して、 それから、 眼鏡屋さんに行ったんだよ。

  私ももう16歳。 成長期にコンタクトは眼に悪いって言われているみたいだけど、 身長もほとんど伸びなくなったし、 眼鏡をかけたままランニングするのもうざかったし、 何より、 眼鏡っ子なんて、 今時はやらないしかっこ悪いよね。 優等生のクラスの委員長じゃあるまいしさ。 武田君にも、 眼鏡なんてダサいからやめとけって言われちゃったしね。 はは。 だから、 今かけている眼鏡はやめにして、 コンタクトにするつもりだったんだ。
  でも、 いざコンタクトつけようとしたら、 眼が痛くて痛くて、 とてもつけられたものじゃなかった。 どうしても体質的にコンタクトは受け付けなかったみたいなんだよね。 だから、 仕方なく、 なるべくフレームの目立たない眼鏡を買ってもらったんだけど、 私面白くないもんだから、 せっかく買ってもらった眼鏡をかけようともしないでケースに入れっぱなし。 で、 車の中で一人でふてくされてたんだ。 家への帰り道、 車の中で親がいろいろ話しかけてきても、 ぜーんぶ無視してた。
  ちょうどその時だよ。 どこかで車が激しくブレーキをかける音がして、 それから誰かの悲鳴を聞いた。 お父さんかな、 お母さんかな、 ひょっとして家族全員の悲鳴だったかもしれないけど、 余りよく覚えていない。 次の瞬間私たちの乗っている車がいやな音をたてて潰れた。 私は全身に耐え難い痛みを感じて・・・覚えているのはそこまでだ。 まるでスローモーションを見ているみたいだったけど、 全部一瞬の出来事。 何が起こったのかさっぱり分からないまま、 次に気が付いたら私は、 この草原の中に一人で立っていたんだ。
 
  ひょっとして、 私、 死んじゃったのかもしれない。 人が死ぬ前に、 神様は、 その人が一番行きたい場所をもう一回だけ見せてくれるのかもしれない。 私が今ここにいるのは神様からの贈り物なのかもしれないよ・・・。
  ふと、 そんなことを思った。 だって、 そうでもなければ、 ついさっきまで、 日本で東京にいて車に乗っていた私が、 気が付いたら、 モンゴルの大草原にいるなんてことある訳ないもの。
  そうじゃなければ・・・、 そうだ、 私、 今、 夢を見ているんだ。 これは悪い夢なんだ。 そうに決まっている。 夢なら、 覚めればいいんだ。
  だから私は自分の頬っぺたをつねろうとした。 よく夢から覚めるには自分の頬っぺたをつねればいいって言うけど、 実際に自分がこんな事をするなんて思いもしなかった。 でも、 どんなに頬っぺたをつねろうとしても、 どうしてもつねることはできないんだ。 確かに頬っぺたがある場所に指先を持っていってるつもりなのに、 なんの感触もない。 ただ空間を虚しくかきむしるだけ。
  私、 それで、 あわてて自分の身体を確認した。 私の身体は、 確かにここにある。 自分で、 自分の手足を見ているんだもの、 それは間違いないんだ。 でも、 見えているはずの手にも足にも、 全く触ることができない。 まるで、 私、 幽霊にでもなったみたい。 そういえば、 こんなに太陽が照り付けているのに、 私はまるで暑さを感じていない。 本当なら黒々と地面に映っているはずの、私の身体の影がない。
  私、 本当に死んじゃったんだろうか。 ここは、 いわゆるあの世ってやつなんだろうか・・・。

「ねえ! ヤギー」
  私、 一人ぼっちだと思っていたから、 いきなり後ろから声をかけられてびっくりした。 こんな場所で、私のあだ名を呼ぶなんて、 一体誰だろう。 こんなところに友達なんかいるはずないのに。
  恐る恐る振りむいて、 もう一度驚いた。 そこには私自身が、 八木橋裕子が、 ニコニコ笑いながら、 でもなんだかとても寂しそうに立っていたんだ。

「こんにちは、 もう一人の私。 でも、 さようなら」
  眼の前の私は不思議なことを言った。 もう一人の私って、 私のこと? でも、 私の眼の前で立っているのも、 私だ。 鏡で見慣れた私の顔だもの、 間違えるはずないよ。 じゃあ、 眼の前の私が見ているはずの、 今、 こうして物を考えている私自身は一体誰なの? 考えれば考えるほど、 頭がこんがらがってきた。
「あ、 あんた、 いったい誰なのさ」
  うろたえた私はそう答えるのがやっと。
「私? ふふふ、 私はあなた。 あなたは私。 私とあなたはホントは二人で一つ。 いつでも、 どこでも何をするのも一緒だったよね。 いままで本当にありがとう。 私、 あなたと一緒でとっても楽しかった。 できれば、 これからもずーっと一緒にいたかったよ。 でも、 私、 もう駄目みたいなんだ。 だから、 最期にお別れを言いにきたの。 ごめんね。 私だけ、 先に行かせてもらうね。 お父さんもお母さんも隆太も、 もう向こうで待っているからさ、 あんまり待たせるわけにはいかないんだよね」 
「あなたは私? 私はあなた? お別れ? 先に行かせてもらう? お父さんもお母さんも隆太も待っているって? あんた、 何言ってるのさ。 ゼンゼン分からないよう」
「私はあなたの身体。 そして、 あなたは私の心。 離れ離れになるのは寂しいけど、 私はずーっと、 こっちで待ってるよ。 でも、 あなたは、 すぐに私を追いかけてこっちに来たら絶対に駄目。 あなたなら向こうの世界でも、 きっと一人でやっていける。 だってあなたはとても強い人だもん。 私は知ってるよ。 あなたが、 陸上部の誰よりもきつい練習に耐え抜いたってことを。 私だって音を上げてたのに、 あなた、 私を決して休ませてくれなかったよね。 私だって、 あなたについていくのは大変だったんだから・・・」
  もう一人の私は、 恨めしそうに私を見つめてからクスリと笑った。
「あなたが中距離ランナーだったのはどうして? 短距離より、 長距離より、 一番苦しい中距離を選んだのはどうして? あなたは自分が決して才能に恵まれているほうじゃないってことを知っていた。 だから、 短距離よりも、 長距離よりも、 なにより努力が、 練習量が物をいう中距離を選んだんだ。 どんなに苦しくても、 その練習は絶対に報われる。 そう信じて努力したんでしょ。 私の力が足りなくて、 結局補欠選手にしかなれなかったけど、 でもこの一年で持ちタイムを一番縮めたのはあなたと私だったよね。 もうあなたの練習につきあえないのは残念だけど、 でも、 あなたが誰よりも強くてくじけない心を持っているのを誰よりも知っているのはこの私なんだ。 大丈夫、 あなたなら一人でもきっとやっていける。 例え、 私がいなくても。 私はそう信じてるよ」
  彼女、 もう一人の私は、 私の手を愛おしそうに握り締めた。 彼女の手、 とっても暖かかった。
  手を握り締めたって? だって、 さっき私、 自分の頬っぺたにだって触ることができなかったんだよ。 今いるところが夢の中だか、 あの世だか知らないけど、 今の私は幽霊みたいな存在なんだよ。 それなのに、 あんたは、 どうして私の手を握ることができるんだよう。
  私、 きっと不思議そうに彼女の顔を見ていたんだろう。 彼女は何だか困ったような顔で、 はじめは静かに笑っていたんだ。 でも、 すぐに彼女の眼にみるみる涙がたまっていった。 そして、 いきなり、 私をきつく抱きしめたかと思うと、 声を殺して泣き始めた。
「笑顔でお別れしようと思ったけど、 やっぱり駄目だった。 ごめんね、 ごめんね・・・」 
  彼女はそう言ったっきり、 あとは声にならない嗚咽を漏らして泣き続けたんだ。
  私、 何がなんだか分からないよ。 いきなり自分自身が現れて、 あなたは私の心です、 なんて言われて、 励まされたかと思ったら、 こんな泣かれてしまって。 あの世ってこんなところなんだろうか? ちょっと変だよね。 それともやっぱりこれは夢なの?
「いきなり泣いちゃってごめんね。 でも、 最後は笑うことにする。 辛いけど、 あなたと笑ってお別れすることにするよ。 だって、 このまま泣いてお別れだったら、 このあとも生きていくあなたに失礼だもんね。 お願い、 私の分も幸せになってね! 私、 ずーっとあなたのこと見てるからね! だって私はあなたの一番の友達だもん。 今度生まれ変わっても、 私とあなたは一つだよ。 約束だよ。 じゃあ、 またね。 さようなら! さようなら! 本当にさようなら!」
  もう一人の私は手で眼をこすって涙を拭くと、 今度は私の両手を握りしめて、 そしてまだ涙が残る眼でじいっと私を見つめながら、 力強くそう言って笑ったんだ。 私って、 こんな顔で笑うことができたんだって、 私自身がドキっとするくらい素敵な笑顔で。
  そして、 彼女は突然消えた。 私の両手には彼女のぬくもりがまだ残っているというのに。 かき消えたって言葉があるけど、 まさにこんな時に使うんだろう。 本当にだしぬけに、 うまい手品でも見せられたみたいに、 彼女は私の目の前から消え去った。
「ねえ、 ちょっと。 私の身体っていったいどういうことなのさ。 お父さんは、 お母さんは、 隆太はどうなったのさ! 待ってよ! ねえ、 待って! 私を追いて行かないでよう!」
  私、 まだ彼女に聞きたいことがたくさんあったんだ。 なのに、 どうして消えちゃうんだよう。 私は必死で叫んだ。 私の気持ちをあざ笑うみたいに気持ちのいい青空に向かって声の限りに叫んだ。   でも、 もう何の答えも返ってこなかった。 私はまた一人ぼっちになっちゃった。 そう思ったら、 どうしようもなく悲しくなって、 両目から熱いものが溢れてきたんだ。


  眼が覚めたら私はベッドの上だった。 白い簡単な作りのベッド、 白い毛布に、 白い壁に白っぽい天井。 何から何まで白ずくめだった。ここは、どこだろう?
   ええと、私、何をしてたんだっけ。そう。 私は、 お父さんと、 お母さんと、 隆太と車に乗っていた。 そして、 多分、 何かの事故に巻き込まれたんだ。 最後に覚えているのは、 身体の内側から全身に針を刺されたような鋭い痛み。それから先のことは、何も覚えていない。

  そうだ、私、夢を見ていた。 とてもおかしな、 でもとても悲しい夢だったようなだったような気がする。 えと、 どんな夢だったっけ。 私は夢の内容を思い出そうとした。 でも、 うまく思い出せなかった。

  頭がはっきりしてくるにつれて、 自分の居場所がわかってきた。 そうだ。 ここは病院だ。 きっと、 事故にあった私は、 救急車か何かでここに運ばれたんだ。 ちゃんと、 眼が覚めているってことは、 私は無事だったみたい。 身体も痛くないし、 ちゃんと手も足もついてる。 五体満足だ。 良かった、 本当に良かった。
  自分の命が助かって安心したら、 今度は急に家族のことが気になった。 みんな、無事なんだろうか? 今どこにいるんだろう?私の事、 心配しているんだろうか?
  ひょっとしたら隣で寝ているかもなんて思ったんだけど、 私の寝ている部屋はどうやら個室みたい。 ベッドが一つと、 テレビと、 それからベッドの横にコンピューターらしい、 ディスプレイつきの機械があるだけの、 味も素っ気もない小さな部屋だった。 普通は病室っていったら、 洗面台くらいあると思うんだけど、 それもない。 変なの。
  きっと、 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 他の部屋にいるんだ。 それとも、 待合室にでも行っていて、 私が眼が覚めるのを待っているのかもしれない。 そう思ったら居ても立ってもいられなくなった。
(部屋には誰もいないみたいだけど、 勝手に起きていいのかな?)
   恐る恐る、 そーっと身体を上半身だけ起こしてみる。 私は、 白くてぶかぶかの服を着ていた。 入院患者が着る服なんだろうけど、 どうもかっこ悪い。 首筋のところに違和感を感じたから、 ちょっと触ってみたら、 なんか管みたいなのが私の首に刺さっているんだ。 その管を眼で辿っていったら、 ベッドの横のコンピューターらしき機械に繋がっていた。 これって点滴なんだろうか。 すごく邪魔だけど、 やっぱり、 勝手に取ったらまずいよね。
  今すぐにこんな管なんかぬいて、 ここを出ていきたい、 でも、 やっぱりそれはまずい、 どうしよう、 なんて私の心が葛藤しているとき、 ノックの音がして、 白衣姿の女の人が入ってきた。
「八木橋裕子さん、 お目覚め?」
  彼女、 小鳥がさえずるみたいな透き通った声で、 そう言って私に向かって微笑んだんだ。 リスみたいな人だなっていうのが第一印象。 年齢は20代の前半くらいかな、 でも小柄な人だから実際はもうちょっと年上なのかもしれない。 くるくるした巻き毛の、 やさしそうな眼をした人だった。 この人、 看護婦さんなんだろうか。
「うー、 おはようございます」
  窓の外は明るいから昼間なのは確かなんだろうけど、 正確な時間は分からなかった。 でも、 とりあえず朝って前提で挨拶。 うー、 ・・・挨拶したんだけどさ・・・、 でも、 私の声は、 いつも聴き知ってる自分の声じゃなかったんだ。 私じゃない、 誰か別の人の声。 でも、 その声を出しているのは確かに私なんだよね。 例えようもない違和感。 試しに、 あー、 あーってマイクをテストする時にたいに何度も声を出して見たけど、 やっぱり聞きなれた私の声じゃなかった。 どうしちゃったんだろう。 私の声、 変だ。
  よくよく考えて見たら、 おかしなことは他にもある。 私、 目の前の女の人の顔がはっきり見えているし、 部屋の中の様子もよく分かるんだ。 私の視力は両目とも0.1あるかないかなんだよ。 眼鏡がなきゃ、 居間のテレビだって見れないくらい眼が悪いんだよ。 それなのに、 眼鏡もかけてないのにどうしてこんなにはっきり物が見えるのさ。 おかしい、 私の身体、 絶対におかしい。
「あ、 あの・・・。 なんか私の身体へんなんですけど」
  看護婦さんは、 黙ってうなずいた。 なんだか、 私の質問を予想していたみたいだった。
「じゃあ、 ちょっと、 身体を動かしてみようか。 バンザイしてみて」
  看護婦さんは私の質問に答える代わりにそう言って両手を高く上げたんだ。 真似しろってこと?だから、 私、 そっくりそのまま、 真似してバンザイした。
「指は動かせるかな、 バンザイしたまま動かして見て」
  看護婦さん、 高く上げた手を握ったり開いたり、 指と指の感覚を広げたり狭めたり。 私も同じように真似して指を動かす。
「はじめてで、 そこまでできたら上出来でーす」
  看護婦さん、 満足そうに微笑んだ。 そして、 ベッドの脇のコンピューターに向かって何かを打ち込んだ。
「じゃあ、 次は首を左右に振って。 はい、 右見て、 はい、 左見て。 はい、いいでーす」
   こんなこと私にさせて、 何しようっていうんだろう。 私の身体が変なことと、 何か関係があるんだろうか?
「おおまかな基本動作は大丈夫みたいね。 じゃあ、 今度はちょっと難しいことをしてみよう。 ベッドから降りてスリッパを履いてみよう」
  この人は何を言っているんだろう。 ただ、 スリッパを履くだけでしょ。 そんなの簡単じゃないか。 内心馬鹿にするなって思ったけど、 とりあえずは素直にベッドの脇に置いてあるスリッパを履こうとした。 履こうとしたんだよ! でも、 私の足はただ、 スリッパの上をうろうろしたり、 逆にスリッパを蹴飛ばしちゃったり。 とにかくつま先がスリッパの穴にうまくはまってくれない。 見かねた看護婦さんが、 スリッパを履かせて、 私を立たせてくれたんだけど、 ショックだった。 スリッパを履く。 なんで、 そんな簡単なことができないんだろう・・・。 看護婦さん、 私を立たせたあとで、 またコンピューターに向かって何かを打ち込んだ。 どうせ、 「この患者は、 スリッパ一つ履けない」みたいなことを書いたに決まってるんだんだ。 そう思うと、 ちょっと腹がたった。
「はい、 じゃあそのまま歩いてみよう」
  普段だったら、 この人何言ってるんだろう。 私に向かってハイハイをやっと卒業したばかりの赤ん坊みたいなことを言うなんて、 人を馬鹿にするにもほどがあるってよって思ったかもしれない。 でも、 私、 歩くのが恐かった。 ううん、歩くのが恐くなったんじゃない。正確に言うと、歩けないことを思い知らされるのが恐くなっちゃったんだ。 スリッパ一つ自分の力で履けないのに、 歩くことなんてできるんだろうか・・・。
  一歩、 二歩、 おそるおそる足を前に出して見る。
「あっ!」
  案の定だった。 三歩も歩かないうちに、 バランスを崩して転んじゃったんだ。 どうしよう、 私、 歩くこともできなくなっていうの?
「はい、 八木橋さん。 大丈夫だよ。 大丈夫。 はじめは仕方がないよ。 そのまま起き上がれる?」
  看護婦さん、 私を励まそうと優しそうに声をかけてくれたんだけど、 なんかムカツク。 私は赤ちゃんじゃない。 高校生なんだよ。 それに、 走ることは私の本職なんだ。 ずっと寝てたから、 身体がなまっているだけなんだ。 私が歩けないなんて、 そんなことあるはずないんだ。
   ムッとした私は彼女の問いかけを無視して、 起き上がろうとして、 また転んだ。 どうしちゃったんだろう。 自分で立ち上がることさえできないなんて。 ベッドのへりをつかみながらようやく立ち上がったんだけど、 歩こうとしてまた転んだ。 足がうまく思い通りに運べないし、 すぐバランスを崩しちゃうんだ。 おかしい。 私の身体絶対おかしいよ。 これって事故の後遺症ってやつなんだろうか。
「まあ、 初日はこんなものでしょう。 動作チェックはOKです。 本格的なリハビリは明日から行いますから、 今日はとりあえずおとなしくベッドに寝ていること」
  手馴れたテキパキした動作で、 私の首についていた管を外したり、 コンピューターからディスクを取り出したりしたあとで、 ショックで床にへたりこんでいる私に向かって、 看護婦さんは優しく声をかけてくれた。
「これを飲んでください。 これが食事でーす」
  もう一度ベッドに戻った私に、 看護婦さんはピンク色の丸い小さなカプセルを手渡してくれた。 これ、 食事なの? まさか、 今、 食事って言った? ギャグだとしたら全然面白くないと思ったんだけど、 どうやら冗談じゃなくホントみたい。 はは。 入院中だから、 重い食事を取るわけにはいかないっていう事情があるのは分かるよ。 でも、 こんな薬みたいなものが食事だなんて、 あんまりだよ。 まあ。 まだお腹が空いているわけじゃないからいいんだけどさ。
「水はないんですか?」
  これだけで飲むってわけにはいかないじゃないか。 水くらいほしいよう。
「これだけで、 飲み込んで。 水は絶対飲んじゃ駄目でーす」
  看護婦さんは、 見かけによらず、 有無を言わせぬ強い口調で言った。 ちぇ。 仕方がない。 私はカプセルをそのまま口の中に放りこんだ。
「じゃあ、 またあとで来ますね。 とりあえず、 ゆっくり休んでください」
  私がカプセルを飲み込んだのを見届けると、 看護婦さん、 病室から立ち去ろうとしたんだ。
  ちょっと、 待ってよ。 私まだ、 肝心なこと聞いていない。
「私の身体、 どうなっちゃったんですか? 声が変なのも、 眼がよく見えるのも、 私が歩けなくなっちゃったのも、 ひょっとして全部事故のせいなの?」
  看護婦さん、 部屋のドアノブに手をかけたまま立ち止まった。
「そうね。 事故の後遺症といえば、 後遺症なのかもしれない。 でも、 あなたの足に問題があるってわけじゃいから安心して。 ちょっと今までとは身体の感覚が変わっているから慣れていないだけ。 詳しい説明はあとでします」
「お父さんは? お母さんは? 隆太はどうなったの? 看護婦さん、 何か知ってますか?」
  私が家族のことを聞いたら、 一瞬、 看護婦さんの小さな肩がぴくっと動いたんだ。 でも、 何も言わない。 ドアノブに手をかけたまま、 凍りついたように動かないんだ。
「私だって、 ちょっと足は思い通りに動かないけどさ、 でも手も足もちゃんとついてるし、 身体にだって傷一つついていないんだもの。 だからたいした事故じゃなかったんだよね。 みんなも無事なんでしょ」
「・・・ごめんなさい。 詳しい説明は、 あとでします。 ごめんね、 八木橋さん」
  そういって看護婦さんは、 後ろも振り向かずに部屋から出て行った。

  冗談じゃない。 このままベッドに釘付けにされるなんてまっぴらだ。 こんな時に、 おとなしく寝てられるわけないじゃないかよう。 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 きっとこの病院のどこかにいるはずなんだ。 私はそう信じてる。 病室の前には入院患者の名札が下がっているはずだ。 看護婦さんが意地悪して教えてくれないんだったら、 私、 自分で探して出してやるんだから。
  看護婦さんが出て行ったのをみはからって、 こっそりベッドから抜け出した私。 手も使ってさんざん苦労してスリッパを履いて、 壁にしがみつきながら、 不自由な足を必死に動かして、 廊下に出たんだ。
  でも、 いざ廊下に出てみると気が遠くなった。 私の部屋はこの病院でもかなり隅っこのほうにあるみたいで、 視線のはるか彼方まで延々と廊下が続いているんだ。 この病院の大きさを初めて実感する。 この階だけで、 いったいいくつ病室があるんだろう。 全部調べるのに、 いったいどれくらいの時間がかかるんだろう。
  だけど、 引き下がるわけにはいかないよ。 きっとどこかに私の家族がいるんだ。 病院らしく、 廊下に沿って手すりがついているから、 手すりにつかまりながらなら、 なんとか動くことだってできる。 どんなに時間がかかっても、 私は探すよ。 探し物が、 案外身近なところから出てくるみたいに、 意外と隣の病室にいるかもしれない。 隣の部屋からひょっこり隆太が「姉ちゃん、 どうしたのさ?」なんて言いながら出てくるかもしれないよ。
  だから、 私、 ちょっとだけ期待して、 隣の病室の入り口にかかってる名札を見てみたんだ。 でも、 この部屋の主は『佐々波玲子』っていう全然知らない人だった。 まあ、 うまい具合に隣の部屋にいるなんて偶然は、 なかなかない。 次だ、 次。 私が気を取り直して、 手すりにしがみ付いて、 次の部屋を見に行こうとした丁度そのとき、 病室のドアが開いて、出てきた女の人と鉢合わせする格好になった。 私もびっくりしたけど、 むこうもびっくりしたみたいで、 お互いに黙って、 しばらく見詰め合っていたんだ。
  とても綺麗な人だった。 化粧っけは全然ないし、 服は私と同じで入院用の白いかっこ悪い服を着ているけど、 こんな綺麗な人だったら、 お化粧なんかしなくても、 どんな服を着ても関係ないだろう。 もしも街中ですれ違ったら、 みんな振り返るんじゃないだろうか。 男の人だったら目の保養だ、 なんて言って目尻をだらしなく下げながら、 女の人だったら羨望と嫉妬で。 でも、 顔立ちが整いすぎてて、 人によってはお人形さんみたいで気持ち悪いっていう人もいるかもしれない。 私は、 こんな美人じゃなくていいよ。 決して嫉妬じゃなく、 本心からそう思った。
  先に声をかけてきたのは、 彼女のほうからだった。
「あんた、 新入りだろ?」
「は、 はあ」
  ずいぶんぶっきらぼうな話し方をする女の人だ。 見た目とのギャップでちょっと驚いた。
「この病院に来たばっかりだろってことだよ」
「うー、 そうです」
「オレは佐々波っていうんだ。 あんた、 名前は?」
  とっても綺麗な顔をした女の人が、 オレなんて男みたいな言葉使ってるから、 またびっくり。 なんだか宝塚みたいだ。
  でも、 素直に自己紹介。
「八木橋です。 八木橋裕子」
「オレの顔見てどう思った?」
「どうって・・・、とても綺麗ですね」
  いきなり、 この人何言うんだろう。 確かに美人なのかもしれないけど、 ちょっとおかしいよ。 とりあえず、 当たり障りない答えを返したけど、 私さっさと逃げ出したい気分。でも、 この足では走って立ち去ることもできない。 それに、 一応お隣さんにあたるわけだし、 あまり邪険にできないよなあって思いもあった。
「とても綺麗か。 それだけか。 ふん、 八木橋さん。 じゃあさ、 今から面白いもの見せてやるよ。 来いよ」
「え? ちょっと、 ちょっと」
  佐々波さんは、 私をバカにするみたいに鼻で笑ったかと思ったら、 強引に私の手を引っ張って廊下を歩き始めたんだ。
  でも、 私、 足がうまく動かないものだから彼女についていけなくて転んじゃった。
「まあ、 まだ慣れていないんだろうし、 しょうがないか」
  佐々波さんは、 今度は私の腕を肩にまきつけて、 まるで酔っ払いを介抱するような格好で、 私を引きずっていった。
  行き先は、 トイレだった。 変なの。 トイレなんか見せて、 どうしようというんだろう。 この人、 綺麗かもしれないけど、 話し方といい、 笑い方といい、 強引にトイレに連れて行くことといい、 やることなすことまともじゃない。 でも、 こんな不自由な足では逃げることもできないんだ。 私は彼女にひっぱられるがまま、 洗面台に備え付けられている大きな鏡の前に無理やり立たされた。
「この鏡見てみろよ。な? かなり面白いだろ?」
  そういえば、 私、 病院に来てから自分の顔をまだ見ていなかった。 だから、顔に変な傷が残ってなきゃいいなあ、 なんて思いながら恐る恐る鏡を見てみたんだ。
  鏡には佐々波さんが二人映っていた。 一人は意地悪そうに笑ってる。 もう一人は不安そうな怯えた眼で私を見ている。
                 え?
                 え?
   一瞬、 何が起こったのか分からなかった。
  私、 佐々波さんと全く同じ顔をしている。 まるで双子みたいに。 私、 あわてて顔を触ってみた。 そしたら、 鏡の中の佐々波さん瓜二つの女の人もやっぱり同じように顔を触るんだ。 鏡に映っている佐々波さんそっくりの女の人は、 間違いなく私.。 でも、 こんなの私じゃない。 どんなに綺麗な顔でも、 そんなのちっとも嬉しくない。 私の顔はどこへ行っちゃったんだよう。
「どうだ。 面白いだろ?」
  佐々波さんは私が動揺する様子をみて楽しんでる。 面白いはずない。 こんなのギャグにしたって全然笑えないよ。
  あなたは私にいったい何をしたんだ。
「何なの、 これ。あなたの仕業なの?」
  私は佐々波さんを睨みつけた。 いたずらにしても、 ほどがある。
「おお。 恐い。 いっとくけど、 オレは何もしてないぜ。 それが、 正真正銘、 今のあんたの顔さ。 ははは、 オレたちどうして同じ顔をしているんだと思う?」
「どうしてって、 ゼンゼン分からないよ! どうして私、 あなたと同じ顔をしてるのさ? こんなの私の顔じゃないよ。 私の顔は、 どこへ行っちゃったんだよう」
「どうしてか。 そんなの簡単さ。 それはオレたちがお人形さんだからだよ。 お人形さん。 この言葉の意味、 あんたに分かるかなあ」
  佐々波さんはお人形さんってところを妙に強調した。 そして自嘲気味に笑った。
「お人形さん?」
  佐々波さんが何を言いたいのか、 まるで分からなかった。
「汀の奴、 あんたに何か言ってなかったか?」
「みぎわ?」
「白衣を着た、 いけすかないチビ女だよ」
  ああ、 さっきの看護婦さんのことだ。 あの人、 汀さんって言うんだ。
「詳しいことは、 全部あとで話すって言ってたけど・・・」
「ふーん、 まだ何も聞いてないんだ。 ま、 これから楽しみだな・・・」
  佐々波さんは、 そう言うと、 私の肩をポンと軽く叩いて、 トイレから立ち去った。 私は一人、取り残された。
  一人になってみると、 今まで怒りで抑えられていた恐怖が、 じわじわ身体を蝕んでいった。 どうして、 私、 佐々波さんと同じ顔してるんだろう。 彼女の言った、 お人形さんって何のことだろう。 私の声が変わってしまったこと、 眼が突然よくなったり、 うまく歩けなかったりしたことと、 多分何か関係があるに違いないんだ。 なにより、 私、 本当に八木橋裕子なんだろうか? 私、 八木橋裕子としての意識は確かにここにある。 でも、 鏡の前の私はまるで別人だ。 私自身は確かに八木橋裕子だって思っていても、 それを証明する手段なんか何一つないんだ。
  私はただ事故に遭って病院に運ばれただけだと思っていたけど、 そうじゃない。 他に、 何か得体の知れないことが、 私の身体に起こっている。 私は、 恐ろしさのあまり、洗面台の下にうずくまって泣いた。 いや、 泣こうとしたんだ。 でも、 どうしてか涙は一滴たりとも流れてこなかった。

 どんなに恐くても泣けない。 どんなに泣きたくても泣けない。 そんな感覚って分かるだろうか。 泣くことで楽になるってよく言うよね。 昔は、 私もよく泣いたもん。 泣いて、 つらいものを全部洗い流して、 すっきりして気持ちを切り替えたりしてたもん。 でも、 それができないんだよ。 どんなに恐くても泣けないものだから、 恐怖はいつまでも身体から出ていかないで、 頭の中でぐるぐる回りながら、 どんどん大きくなっていくんだ。 私、 もう耐えられないよ。
  この身体は私のものじゃない。 鏡で見慣れた本当の私はここにはいない。 私は、 今の私は一体誰なの。 私は何者なの。 恐い。 私、 恐いよ。
(お父さん、 お母さん、 隆太、 どこにいるの。 助けて、 私を助けて。 このままだと、 私、 おかしくなっちゃうよう)
  家族を探してやるなんて息巻いていた、 さっきまでの私はどこにもいなかった。 私はもう、 洗面所の床に崩れ落ちて、 頭をかかえてうずくまることしかできなかった。

「八木橋さん、 ここにいたのね! 八木橋さん、 八木橋さん」
  いったい、 どれくらいの時間、 そうやって恐怖に苛まれていたんだろう。 どこかで誰かが私を呼んでいる。 ずいぶん遠いところから声がしたような気がしたけど、 ふと顔を上げたら、 目の前に、 さっきの看護婦さん、 汀さんが、 蒼ざめた顔で立っていたんだ。 きっと、 私のためだろう。 彼女、 空の車椅子を押してきていた。
「鏡、 見ちゃったのね・・・」
  汀さんは私の様子を見て、 全てを悟ったんだろう。 肩を落としてうなだれた。
「私の顔が、 私の顔がなくなっちゃったよう。 どうして。 どうしてなの。 こんなの私の顔じゃないよう。 ねえ、 私、 どうしてこんな顔をしているんだよう? 私は本当に八木橋裕子なの? 私がお人形さんって、 どういうこと。 答えてよ。 ねえ、 答えてよ」
  私がお人形さんって言ったところで、 汀さんの表情があからさまに変わったんだ。 はっとしたように口を押さえて、 そして今にも泣き出しそうな顔で私のことを見ている。 なんで、 お人形さんって言葉に、 そんなに動揺するんだよう。
「お人形さんだなんて・・・、 いったい誰がそんなことを・・・」
  汀さん、 しばらく黙っていたけど、 かすれた、 やっと聞き取れるくらいの声で、 ようやく、 それだけ言った。
「佐々波さんだよう。 私、 佐々波さんにここに連れて来られて鏡を見せられたんだ。 そしたら、 私、 佐々波さんと同じ顔をしてたんだ。 なんでなのって聞いたら、 佐々波さんが、 私達がお人形さんだからって言ったんだよ。 お人形さんってどういうことなのさ。 私の身体、 どうなっちゃったのさ。 看護婦さん、 知ってるんでしょ。 ねえ、 どうして? 教えてよ! 教えてよ! 教えてよ!」
  自分でも気がつかないうちに、 私は、 汀さんの足元で、 汀さんの膝を掴んでいた。 そして、 汀さんを見上げて、 非難めいた口調で詰問していたんだ。 もし、 私が自分で立ち上がれたとしたら、 きっと喧嘩ごしに、 肩をつかんで揺さぶっていたに違いない。
「そうなんだ・・・、 佐々波さん、 そんなこと言ったんだ・・・」
  汀さんは悲しそうにそうつぶやくと、 しゃがみこんで、 そっと私を抱いた。 そうして、 汀さん、 私が落ち着くまで、 何も言わずに黙ってくれたんだ。 小さな肩だったけど、 今の私にはとても大きく感じられた。
  汀さんは、 しばらく私を抱いてくれたあと、 私の眼をみつめて、 そっとやさしく私の肩に手を添えて、 穏やかに、 でもきっぱりと、 こう言ったんだ。
「八木橋さん、 落ち着いた? あなたは確かに八木橋裕子さん。 それは間違いないです。 あなたは人形なんかじゃないし、 ちゃんと生きてる人間です。 もちろん、 あなたが会ってしまった佐々波さんだって人形なんかじゃない。 あなたの顔が変わってしまった理由は、 佐々波さんと同じ顔をしてる理由は———、 その理由をこれから説明しなくてはいけないの。 今、 あなたの病室に今回の手術を担当した吉澤先生が待ってます。 そこで、 全てを話しましょう」

  結局、 私は汀さんに半ば強引に車椅子に乗せられて、 自分の病室まで連れていかれたんだ。 中ではすでに白衣姿のお医者さんが私たちの到着を待っていた。
「こちらが、 今回、 あなたの手術を担当した、 吉澤先生。 タヌキに似ているけど、 腕は確かなのです」
「こら、 タヌキは余計だ」
  汀さん、 おどけた調子でお医者さんを紹介してくれた。 タヌキ呼ばわりされた吉澤先生は、 口調ほどには怒っているわけではなく、 私に向かって大きな口を左右に広げて、 にいっと笑った。 私、 とてもそんな気分じゃなかったはずなのに、 つい、 くすりと笑っちゃったよ。
  吉澤先生、 汀さんのいうとおり、 失礼だけど、 タヌキそっくりなんだ。 それも、 動物のタヌキじゃなくて、 飲み屋なんかに置いてある瀬戸物の狸ね。 小太り体形で、 眼はまんまるで人懐こそう。 多分四十は越えているんだろうけど、 その割に肌はつやつやしてなんだか年齢不詳。 白衣姿よりもどっちかというと、 笠かぶって釣竿でも持ってるほうが似合いそうな風貌の人だ。
「元気そうで何より。 八木橋さん、 ちゃんと握手はできるかな?」
  吉澤先生はおもむろに手を差し出した。
「は、 はじめまして」
  いきなり握手を求められて、 ちょっとびっくり。 おずおずと吉澤先生の手を握る私。
「ホホウ、 強すぎず、 弱すぎず。 ちゃんと握れてるね。 まずはよし、 よしだ」
  先生は、 私の手の感触を確かめるように、 何度も握り返すと満足そうに眼を細めた。 さっきの汀さんといい、 今の吉澤先生といい、 私ができて当たり前のことをこなすだけで、 やけに嬉しそう。 いったいなんなんだよう。
「私はイソジマ電工という会社から派遣されたケアサポーターの汀です。 これから、 あなたのリハビリを担当することになります。 あらためてはじめまして」
  汀さんって名前だけは、 さっき佐々波さんから聞いて知っていたけど、 その他のことははじめて聞くことばかり。 汀さんって、 看護婦さんだとばかり思っていたけど、 どこかの会社から来た人なんだ。 つまり、 キャリアウーマンっていうやつなんだろうか。 ちょっと意外だった。
「ちなみに、 下の名前は環。 だから私は、 タマって呼んでいる。 本人は猫じゃなくて鼠だけどな」
  タヌキ呼ばわりされた仕返しだろうか。 吉澤先生は汀さんを鼠呼ばわりだ。 鼠はひどいけど、 汀さん、 確かに、 動物に例えたらリスみたいな可愛い顔をしているよ。 タヌキとリスかあ。 いいコンビだよね。 ははは。

「体の具合はどうだろう? 何かおかしいところはあるかな?」
  私の緊張がちょっとほぐれたところで、 吉澤先生は椅子に座って、 車椅子の私と向かい合う格好になった。 いよいよ診断開始だ。
「おかしいところって、 全部おかしいよう。 おかしいところだらけです。 先生。 私の身体、 どうなっちゃったんですか? 私の顔、 まるで別人です。 声だって、 私の声じゃない。 涙も出ないし、 眼はよくなっているし、 足は思い通りに動きません。 身体の感覚もなんだか今までとは違うみたいです。 どこがどう違うかは上手く言えないけど、 でも、 私の身体が私のものでなくなったような、 なんだかものすごい違和感を感じるんです。 教えてください。 私の身体、どうなっちゃったんですか?」
  お医者さんを目の前にして、 私の口から、 今までに感じた疑問の全てが堰を切ったように溢れた。
「それだけ話せる元気があってよかった。 とりあえず手術は成功だな。 安心した」
  吉澤先生は、 しきりにうなずきながら、 私の話に聞き入って、 最後にそう言って笑った。 私も、 先生にそう言われて、 なんだか分からないながらもホッとしてしまう。 だけど吉澤先生、 いままでの柔和な表情から、 急に真剣な顔つきになったんだ。
「八木橋さん。 これから私は、 八木橋さんにとって、 とてもつらい話をしなくてはならない。そして、 この話が、 先ほど、 八木橋さんが聞いた全ての疑問の答えになると思う。 最後まで落ち着いて、 よく聞くこと」
  いよいよだ。 いよいよ、 私が、 今まで感じ続けてきた自分の身体についての疑問が明らかになるんだ。 でも、 つらい話って、 なんだろう。 私は緊張で身を硬くした。 手をぎゅって握り締めた。
「交通事故に巻き込まれた八木橋さんは、 瀕死の状態でここ、 府南病院に運び込まれました。 全身の数十箇所を骨折、 内臓も七割が破裂、 正直なところ、 病院に運び込まれた時点でまだ息があるのは奇跡としかいいようがありませんでした。 それくらい、 八木橋さんの体は、 もう手の施しようがない状態だったのです」
「そうだったんですか・・・」
  私、 顔が別人のように変わってしまっているし、 足が思い通りに動かなかったり、 他にもうまく言葉にはできないけれど、 まるで私の身体が別人になったみたいな、 ものすごい違和感を感じていたので、 私の身体の怪我は見た目以上にひどかったのかなとは、 薄々気がつき始めていた。 だけど、 そこまでひどい状態だったなんて・・・。 死に掛けていたなんて、 今、 初めて知った。
  でも、 おかしいよね。 もしも、 私の身体がそんなふうに滅茶苦茶で手の施しようがない状態だったっていうのなら、 今、 曲がりなりにも五体満足で、 身体に痛みもないし、 ぴんぴんとはいかないけど、 ちゃんと動き回れるのはどうしてなんだろう。 私の疑問に答えるかのように吉澤先生は言葉を続けた。
「そんな状態だった八木橋さんの命を救うには、 義体化手術以外に方法はありませんでした」
「ぎたいか手術?」
  私の知らない言葉だった。 ぎたいかってなんだろう?
  一呼吸置いてから、 再び吉澤先生は話始めた。 その口から語られたのは、 私にはとうてい認めることができない、あまりにも残酷な事実だった。
「手足を失った人のために、 人工的に作った手や足を義手とか義足といいますね。 同じように身体を失った人のために人工的に作った身体を義体といいます。 そして、 何らかの理由で、 肉体を失った患者に、 義体を与えるための手術を義体化手術というのです。 八木橋さんに施した義体化手術は、 その中でも全身義体化手術といって、 もっとも高度なものでした。 具体的には、 あなたの脳を機械の身体、 義体に移植する手術だったのです。 いいですか、 ショックかもしれませんが、 落ち着いて聞いてください。 あなたの身体の中で、 あなたのもとのままの部位は脳だけです。 他は全て、義体に置き換わっています」
  汀さんが、 吉澤先生のあとを受けて話を続けた。
「八木橋さんの新しい身体はイソジマ電工で用意させてもらいました。 緊急で手術が必要だったから、 八木橋さんの義体を用意する時間がなくて、 とりあえず、 今のところは出来合いの義体を使ってもらっています。 八木橋さんの顔が別人になっちゃったのは、 そのせい。 それから、 佐々波さんがあなたと全く同じ顔をしているのは、 彼女にも、 あなたと同じタイプの既製品をとりあえず使ってもらっているからなの」
  脳を機械の身体に移植した? 一瞬、 吉澤先生と汀さんが何か悪い冗談を言っているんじゃないかと思った。 私の肌はぱっと見には人の身体そのままだし、 手触りだって軟らかいんだよ。 そんな私の身体が、 全部作り物だって言われても、 そんなの信じられるわけないよ。
  機械の身体って、 つまり吉澤先生、 私をサイボーグにしたって言ってるわけだ。 でも、 サイボーグなんて警察とか自衛隊とか宇宙開発事業団で働いている特殊な、 自分とは住む世界が違う人達のことだと思っていた。 だから、 いきなり、 こんなありきたりな、 なんのとりえもない女子高生の私がサイボーグになりました、 なんていわれても、 余りにも現実離れしていて、 冗談にしか聞こえないよ。
  でも、 でも、 自分の身体が機械になっちゃったとしたら、 全てのことが説明できるんだ。 私の眼が突然よくなったことも、 声が変わっちゃったことも、 私の顔が別人になっちゃったことも、 佐々波さんが、 お人形さんって言ったことも、 泣きたくても涙が一滴も流れなかったことも、 そして、 この身体が、 別人になってしまたような例えようもない違和感も、 全部。 でも、 まさか、 そんな・・・、 そんな・・・。
「この身体、 全部作り物だっていうの? 私の脳が入っているだけの、 ただの入れ物だっていうの? 佐々波さんのいう、 お人形さんってこういうことだったの・・・。 嫌だっ! そんなの嫌だ。 私は信じないよ。 絶対信じない。汀さん。 嘘でしょ。 嘘なんでしょ! 先生、 嘘っていってよう。 私の身体、 返してよう。 戻れるんだよね。 私、 元の身体に戻れるんだよね」
「残念ながら、 君の本当の身体はもう存在しない。 元の身体に戻ることはできない」
  吉澤先生の口から出たのは死刑宣告等しい冷酷な事実だった。 もう身体がないなんて、 脳だけしか残っていないなんて、 そんなの生きているなんてとても言えないじゃないか。 そんなの死んでるのと同じだよ。 いや、 このまま、 機械仕掛けの人形の中に魂を押し込められて一生を過ごさなければならないのなら、 いっそ、 死んだほうがまだよかったかもしれない。
  私の、 もとの血の通った暖かい身体。 胸だって大きいわけじゃなし、 足もすらっと長かったわけじゃなし、 おせじにもモデル並の体形なんて言えた身体じゃなかったけど、 でも、 やっぱり自分の身体が大好きだ。 だって、 かけがえのない、 たった一つの私の身体だよ。 決して才能に恵まれなかったけど、 それでも頑張って、 頑張って頑張りぬいて補欠であっても二年生で選手の座を掴んだ私の身体だよ。 その身体に、 もう二度と戻れないんだ。 もう二度と・・・。
「私に、 これから一生この人形の中に入って暮らせっていうの? こんなの私の顔じゃないし、 私の声じゃない! どんなに綺麗な顔でも、 どんなにスタイルのいい身体でも、 所詮ただの人形じゃないか。 ただの機械じゃないか。 嫌だ。 そんなのあんまりだ。 勝手に人の身体を機械に換えちゃうなんて、 ひどいよ、 ひどいよ、 ひどいよ」
  私は、 思わず自分の身体の状態も忘れて立ち上がって、 握り拳で吉澤先生の胸を叩こうとしたんだ。 そして、 案の定バランスを崩して床に倒れてこんで、 みっともない四つんばいの格好のまま床に突っ伏して、 吉澤先生の足を、 ひどいよ、 ひどいよって言いながら叩き続けたんだ。
「八木橋さんの言うように、 義体化手術は、 本来であれば本人の同意なしには行うことはできない。 しかし、 今回のように、 患者に意識がなく、 すぐにでも義体化しなければ、 命が危ない場合に限ってのみ、 本人の同意がなくとも、 医師、 つまり私の判断で義体化できることになっている。 八木橋さん、 すまない。 勝手に八木橋さんの身体を機械に換えたのは私だ。 全部、 私の判断で行ったことだ。 目の前で失われようとしている命を見殺しにすることは、 私にはとてもできなかった。 八木橋さんを救うにはこうするより他に方法はなかった。 すまない、 許してほしい」
  吉澤先生は、 私に叩かれるがまま、 私を怒りもしないし、 なだめたりもしない。 ただ、 静かに、 そう言って頭を下げた。
「今の義体はあくまでも緊急的なものなの。 これから、 イソジマ電工で八木橋さんのもとの身体そっくりの義体を作ります。 それができたら、 また改めて身体を交換してもらうことになっているの。 声だって、 ちゃんとデータを収集して昔のあなたの声を再現する。 だから、 今あなたが感じている違和感はだいぶなくなると思うの。 それまで、 ちょっとだけ我慢して。 お願い」
  そう言って、 汀さんは、 吉澤先生を叩き続ける私の手を掴んで、 ぎゅっと握り締めた。
  吉澤先生は、 私を機械にしたくて手術したわけじゃない。 私を救うために仕方なくしたことなんだ。 汀さんだって、 私のショックをできるだけ和らげようとして、 慰めの言葉をかけてくれている。冷静に考えれば、そういうことになるんだろう。 でも、今の私に他人の気持ちを察する余裕なんかない。 私の身体を勝手に機械にした吉澤先生が憎いとしか思えない。 汀さんの慰めの言葉も私にはただの嫌味としか聞こえない。 だから、 私の手を握り締めていた、 汀さんを乱暴に跳ね除けて、 睨みつけたんだ。
「汀さん、 嘘ついたね。 さっき、 私の事人間だって言ったばかりじゃないか。 人形なんかじゃないって言ったじゃないか。 身体を交換するだって? 私そっくりの身体を用意するだって? それだって結局機械仕掛けの人形ってことには変わらないんでしょ。 結局、 私は人形のままなんでしょ。 こんな身体になって、 私どうすればいいんだよう。 これからどうやって生きていけばいいんだよう。 答えてよ。 答えてよ」
「八木橋さん、 落ち着いて。 いくら身体が機械でも、 八木橋さんには心があるじゃない。 どんな身体になっても、 八木橋さんは八木橋さんなの。 あなたは決して人形なんかじゃないんだよ。 そんな悲しいこと言わないで」
「そんなこと言ったって、 私だけこんな身体になって、 お父さんやお母さんにどういえばいいんだよう。 そうだ! 私のお父さんは、 お母さんは、 隆太はどうなったの? 今どこにいるの?」
   そう、 私、 自分の身に降りかかったことの大きさに、 家族のことを忘れていた。 私のお父さんは、 お母さんは、 隆太は、 一体どこにいるんだろう。 私が、 自分の身体を失うくらいの大事故だったんだ。 みんな無事だろうか。 ううん、きっと無事に決まってるよ。 そして、 別人みたいな顔になって、 機械の身体になっちゃった私でも暖かく迎えてくれるよ。 そうに決まってる。
   でも、 汀さんも、 吉澤先生も何も答えてくれない。 私の家族の事、 知らないはずないのに、 何も教えてくれない。
   何故なの?
「なんで黙ってるんだよう。 黙ってたら分からないじゃないかよう。 どうしたの? お父さんは、 お母さんは、 弟は、 無事なんですか!」
  思わず私は、 汀さんの小さな両肩をつかんで揺さぶっていた。 でも、 汀さんは、 やっぱり何も言ってくれない。 ただ、 くりっとしたまつげの長い眼で私を見つめるだけ。 私を見つめる彼女の眼に涙がどんどんたまっていく。 そしてとうとう両目からポロポロポロポロ涙がこぼれおちたんだ。
  吉澤先生は、 そんな私と汀さんの様子を蒼ざめた顔でただ黙って見ている。
  私は、 汀さんの涙の、 先生の沈黙の意味に気がついていた。 もしも、 みんな無事だったとしたら、 真っ先に私のことをお見舞いに来てくれたはずだもの。 汀さんだって、 私を元気づけるために、 喜んでそのことを私に知らせてくれたはずだもの。 でも、 誰も私にそんなこと言ってくれなかったってことは、 きっと・・・。 私だって馬鹿じゃない。 自分も死にかけてたあげくに身体を全部失っちゃうくらいの大事故だったんだ。 みんなだって無事で済むはずはないんだ。
   ホントはみんな無事でいて欲しい。 お父さんに「裕子、大丈夫だったか」って、 抱きしめてほしい。 でも、 神様。 私、 贅沢はいいません。 お願いです。 一人でも無事でいてくれれば、 それでいいんです。 お父さん、 お母さん、 隆太。 誰でもいいんだ。
   お父さん、 お母さん、 もう、 私のことを娘と思わなくてもいいよ。 娘とは違う、 ただのお人形さんと思ってくれても、 いいんだよう。 それでも、 お父さん、 お母さんが生きていさえいてくれれば、 それだけで私どんなことにでも耐えられる。 私の事を暖かく迎えてくれなくてもかまわない。 機械だって蔑んでくれてもかまわない。 隆太。 私を醜い機械仕掛けの幽霊だって思ってもいいよ。 気味悪がってくれてかまわない。 それでも隆太が生きてさえいてくれれば、 私はそれでいいよ。 それでいいんだよう。 お願い、 誰でもいい、 生きていて。 お願いだよう。
   私は祈った。 地球にいる全ての神様に。 神様だけじゃない。 家族が助かるなら、 悪魔に魂を売ったってかまわない。
  ドア越しに誰かが楽しそうにおしゃべりをする声が部屋の中に響く。 でも、 今の私には現実感のない別の世界からの声みたいに聞こえた。 まるで、 時間を止められたみたいに、 私達三人はしばらくの間、 黙りこくっていた。
  汀さんが、 何か強い決心をしたみたいに、 唇をかみしめた。 そして、 ようやく小さな肩を震わせながら、 口を開いたんだ。
「事故で生き残ったのはあなただけなの。 あなたのお父さんも、 お母さんも、 弟さんもみんな、・・・即死だったそうです」
  一番知りたかったこと。 でも一番知りたくなかったこと。 知らなければよかったこと。 でも知らなければならないこと。 全てが、 一瞬のうちに分かってしまった。
  嘘だ。
  嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。 嘘だ。
「お父さんも、 お母さんも死んだ・・・、 隆太も死んだ・・・。 みんな死んだ・・・」
  私は、 病院で目覚めてから今まで、 家族が死んじゃったかもしれないなんて、 考えないようにしてた。 家族はみんな無事なんだって自分に言い聞かせて、 くじけそうな心を支えていたんだ。 まだ生きているって自分を信じ込ませて、 みんなを探そうとして病室を抜け出したりもした。 心のどこかで無駄なことかもしれないって思っていたけど、 でも、 私、 やっぱり認めたくなかった。 みんな死じゃったのかもしれないなんて思いたくなかった。 みんなとは言わないよ、 せめて、 誰か一人くらい、 無事でいてくれれば・・・、 少なくともそう思っていた。
  なのに、 なんでみんな死んじゃうんだ。 なんで私を一人ぼっちにするんだ。
  私は、 認めない。 みんな死んだなんて、 私は信じない。
「嘘だよね。 汀さん、 嘘なんでしょ。 お父さんが、 お母さんが、 隆太が、 みんな死んじゃったなんて嘘なんでしょ。 お願い、 嘘っていってよう。 みんなが無事でいてくれれば、 私、 自分がどんな姿になっても我慢する。 お人形さんって言われてもかまわない。 だから、 ねえ、 お願いだよう。 嘘っていってよう」
  不自由な身体で汀さんにしがみつく。 お願いだっていう声が裏返る。 汀さんに嘘でしたって言わせたかった。 力づくでも言わせたかった。 でも、 そんな無様な真似をすることで、 かえってはっきり気がついちゃうんだ。 汀さんが嘘突くわけない。 これは夢でもない。 私にはもう家族もいない、 身体もない、 だだの脳みその固まりだっていう動かしがたい現実に・・・。 私、 これからどうすればいいんだろう? 一人でどうやって生きていけばいいんだろう?
「八木橋さん。 つらいかもしれないが、 家族のぶんまで頑張って生きていくのが、 これからの八木橋さんの務めなんだよ。 天国で親御さんも、 弟さんも、 きっとそう願っているはずだよ」
  いままで黙っていた吉澤先生が私に優しくそう諭した。 汀さんも、 まるで吉澤先生の言う通りだというようにしきりにうなずく。 確かに、 吉澤先生の言うことは正しいのかもしれないよ。 いくら嘆いていても、 もうみんな還ってはこない。 だったら、 未来に向かって前向きに生きていくことが正しい生き方なのかもしれないよ。 でも、 そんなふうに吹っ切れるのは心が強い人だけだよ。 私みたいな、 臆病者の甘ったれにできるのは、 自分の身にふりかかった不幸を嘆くことだけ。 どうして私ばかりこんな目に遭わなければならないんだって運命を呪う事だけなんだ。
  どうして私だけ、 こんな目に遭わなきゃいけないんだろう。 私が何か悪いことをしたっていうの? 不公平だよ。 神様は不公平だ。
  私は憎い。 幸せな人が憎い。 妬ましい。 汀さんの顔も吉澤先生の顔を見たくない。 誰にも会いたくない。 誰とも口を聞きたくない。 汀さんだって、 吉澤先生だって、 どんなに口では同情してたって、 所詮他人だよ。 私の気持ちなんて分かるはずがないんだ。 どうせ、 汀さんだって吉澤先生だって、 何不自由なく幸せに暮らしているんでしょ。 五体満足な暖かい身体を持ってるんでしょ。 そんな人達に突然家族全員を失った私の気持ちが、 人形の中に一生閉じ込められることになった私の気持ちが分かるはずないんだ。
「出て行って・・・」
  自分でもびっくりするくらい刺のある声が口をついた。 そして汀さんを、 吉澤先生を、 親の敵みたいに睨み付けていた。
「すみません、 出て行ってください。 出て行って! 出てったら出てってよ! みんなこの部屋から出ていけ!」
  私は、 たががはずれたみたいに狂ったように叫ぶと、 ベッドに突っ伏して泣こうとした。 なんだか、 悪い夢を見続けているみたいに、 頭の中がふわふわして、 現実感がない。 ぜんぶ、 悪い夢であってほしかった。 でも、 どんなに泣きたくても涙の一滴も溢れてこない、 この機械仕掛けの身体が、 いままでの事は全て逃れられない真実だってことを何よりはっきり物語っていた。
「今は何を言ってもいいよ。 どんなに取り乱しても恥ずかしくないよ。 そうね、 いろんなことがありすぎたもんね。 それを全ていっぺんに受け入れるなんて、 無理な話だよね。 ごめんね。 つらい話をたくさんしちゃってごめんね。 しばらくの間、 一人にしてあげるね」
  汀さんは私の耳元でそうささやくと、 吉澤先生と一緒に私の病室から出て行った。

  部屋に一人残された私は、 しばらくベッドでうつぶせの姿のまま、 頭だけ起こして、 じぃっと自分の手を、 腕を見ていた。 ほっそりした、 白い指。 とっても綺麗。 そっと、 右手で左手の手のひらや、 腕をなでてみる。 暖かくて、 すべすべしてぱっと見た目には、 普通の人の肌と何もかわらない。
  身体を起こして、 恐る恐る、 白い入院服のボタンを胸元まで外す。 ブラはしてなかったから、 私の胸の膨らみがそのまま、 目に入ってきた。 私の元の身体についてたものより、 ちょっと大きめの、 桜色の乳首が可愛らしい、 整った形のおっぱいだった。 でも、 あまりにも整いすぎていて、 人間の胸というよりも、 むしろマネキン人形のそれみたいしか思えなかった。
  腕だって、 胸だって、 どんなに人間そっくりで、 どんなに見た目が美しくても、 所詮作り物の機械なんだ。 きっと、 指の長さも、 おっぱいの形も、 全部コンピューターで計算して出した、 理想的なサイズなんだろう。 ひょっとしたらきっちり左右対称なのかもしれないよ。 見た目が綺麗だからこそ、 かえって、 この身体、 作り物なんだって思いしらされてしまう。 私は、 こんなに胸が大きくなくていい。 肌だって、 こんな人形みたいに透き通るような白さじゃなくていいんだ。 もとの、 温かい私の身体がほしいよ。
  でも、 この身体を見ている私の目だって作り物だし、 指と肌が触れ合う感覚だって、 機械が作り出したものなんだ。 私に残されたのは、 今こうして物を考えている脳みそだけ。 本当の身体はもうどこにもないんだ。 もう元に戻れないんだ。
  こんな身体、 やっぱり見たくない。 私は、 そう思って、 入院服のボタンを締めた。 ボタンを締めながら、 自然と深いため息が出ていた。 それで、 気がついた。 私、 今まで息もほとんどしていなかった。 思い出したように一分間に一回くらいするだけ。 それでもゼンゼン苦しくないんだ。 そうだよね、 今の私は機械の身体なんだもの。 私に残されたのは脳だけなんだもの。 息をする必要だってあまりないよね。 全然トイレに行きたくならないのも、 さっきカプセルを口に入れたっきりだっていうのにお腹がすかないのも、 眼が覚めてから水の一滴も飲んでいないのに喉がかわかないのも、 全部私の身体が機械になっちゃったからなんだよね。 私の身体が機械仕掛けだとしたら、 もう生理もないだろうし、 赤ちゃんもできないんだろう。 はは、 もう私は女じゃないよ。 それどころか、 人間ですらない、 ただの機械仕掛けのお人形さんなんだ。
  こうして私、 嫌でも機械の身体なんだって気づかされていく。 自分が人間じゃなくなったことを時間を経つにつれて思い知らされていく。 きっと、 これから先もずっと。 そして、 そんな時、 私の心の支えになってくれるはずの家族はもういない。 私、 自分の肉体だけじゃなく、 たった一つのかけがえのない家族まで失った。 優しいお父さんも、 いつも明るかったお母さんも、 生意気な弟も、 もうこの世界のどこにもいない。 私の想い出の中にしかいない。
  せっかく命だけは助けてもらったけど、 私、 一人で生きていく自信なんかないよ。 汀さんは、 私の事を人間なんだって言っていたけど、 こんな、 前の私とは似ても似つかない姿になった私を見て、 友達はどう思うんだろう。 世の中の人たちは、 どう思うんだろう。 こんな私でも人間として受け入れてくれるんだろうか? 私は恐い。 この世界で生きていくのが恐い。
  どうして私だけ生き残っちゃったんだろう。 どうして、 私だけ助けたのさ。 私は、 こんな身体になってまで助かりたくなかった。 こんな身体になって、 みじめったらしく生きるより、 みんなと一緒に死んだほうがどれだけ幸せだったかもしれないよ。 ごめんなさい。 お父さん、 お母さん、 隆太。 私だけ助かってごめんね。 一緒に死ねなくてごめんね。 
  みんな今頃どこにいるんだろう。 仲良くやっているのかなあ。 私もそっちに行きたかったなあ。 私だけで、 この世界にいてもしょうがないよ。 きっと、 向こうの世界に行けば、 また家族みんなで楽しく暮らせるよ。
  そうだ、 どうして、 今まで気がつかなかったんだろう。 この世界が気に食わなければ、 私、 この世界にいなければいいんだ。 この世界から私の存在を消してしまえばいいんだよ。 だいたい、 本来私はこっちの世界にいちゃいけない人間だもの。 ホントは死んでるはずなのに、 機械の力で無理やり生かされているだけだもの。 ちゃーんと、 本来行くべきところに行かなきゃいけないよね。
  私は、 ふと頭に浮かんだ、 悪魔じみた考えを実行に移すことにした。 裸足のまま、 思い通りに動かすこともおぼつかない足をやっとのことで操って、 なんとか壁伝いに窓際まで進んだ。
  窓を開けてみた。
  いつの間にか夕暮れ時になっていた。 鳥の群れが、 茜色に染まった空を、 ぐるぐる飛びまわっている。 目の前に建ち並ぶ愛想のない高層ビル群からは、 明かりがちらほらつき始めている。
  ここは、 地上何階なんだろう。 眼下の通りを走る車はミニカーみたいに小さく見える。 道を行きかう人もとても小さくて、 どんな表情をしているのか、 ここからだと読み取れないけど、 それでも今の私にはみんな楽しそうな顔をしているように思えた。 私の身に起こったことになんかまるでおかまいなし。 何事もなかったかのように世の中は動いている。 この世界に私は必要とされていないし、 私もこの世界を必要としていない。
  ここから飛び降りたら、 死ぬことができるだろうか。 もとの生身の身体だったら、 間違いなく死ねる。 でも、 今の身体でも、 ちゃんと死ぬことができるだろうか・・・。

(ちょっと胸騒ぎがしたから戻ってみたら、 案の定だね。 変なこと考えちゃ駄目だよ)
  突然誰かが私の耳元でささやいた。 ちょっと怒ったような、 女の子の声。私以外に誰もいないはずの部屋で突然声をかけられたこと。 自分の考えを見透かされたこと。 二重にびっくりした私は、軽く悲鳴を上げるくらいうろたえて、 自分の病室を見回した。 でも、 やっぱり誰もいない。 おかしい。 今、 確かに私は誰かの声を聞いたはずなのに。 空耳だろうか? それとも耳の故障かなんかで、 聞こえないはずのない音が聞こえちゃったんだろうか? それとも、 考えたくないけど、 私に残された最後の人間としての部分、 脳みそまでおかしくなっちゃったんだろうか?
(そんなところから飛び降りたぐらいじゃ、 今のあなたは死ぬことはできないよ。 かえってみじめな思いをするだけだよ。 やめなよ)
  まただよ。 またさっきの声が聞こえた。 声の主の女の子、 やっぱり、 ちょっと怒ってる。 怒っているだけでなく、 どことなく物寂しげだ。
  今度は、 私は窓じゃなく部屋のほうを向いていたんだ。 だから、 部屋には私以外に誰もいないことは確認済み。 でも、 部屋には誰もいないのに、 私は、 はっきりと彼女の声を聞いたんだ。 いや、 聞いたんじゃない。 彼女の声を感じているんだ。 耳で聞くんじゃなくて、 頭の中に直接響いてくる。 なんだか、 とても不思議な感覚。
  誰もいないはずの部屋で、 誰かの声がする。 頭の中に誰かが居座って、 私に話しかける。 普通だったら、 恐怖ですくみあがっちゃうような体験だよね。 でも、 私は何故だか恐さを感じなかった。 それどころか、 声だけの得体の知れない誰かと一緒にいることで、 今まで、 理不尽な出来事が積み重なって自暴自棄になっていた私の気持ちがすーっと落ち着いていくような気さえしたんだ。 姿は見えない声の主は、 なんだかずーっと昔からの知り合いのような、 それこそ幼馴染よりも、 もっと身近な友達以上の存在のような気がしてならない。 私は、 あなたの事をとてもよく知っている。 そして、 あなたも私の事をよく知っているはずだ。 私はそう確信した。 何故だろう。 何故、 そう思うんだろう。
  そうだ、 私、 あなたの声を知っている。 うまく思い出せないけどあなたの声を聞いたことがある。 だから、 そう思うんだ。 あなたは、 一体誰なの?
「誰! あんた、 いったい誰なのさ。 隠れてないで、 出てきてよう」
  あなたに会いたい。 声だけのあなたに、 とても会いたい。 私は、 そう思った。 だから、 誰もいない部屋なのに、 思わず大きな声で叫んでしまっていたんだ。
(ごめんね。 私は隠れてなんかいない。 あなたのすぐそばにいる。 あなたが私を見ることができなくても、 私はいつでもあなたのことを見ている。 あなたの幸せを願っている)
  私の頭のなかに、 彼女の声が直接響く。 声が聞こえるだけじゃないよ。 私の事を誰よりも愛しいと思う気持ち、 私にこれからも強く生きて欲しいと願う彼女の思いやり、 私と離れ離れになる寂しさ。 そういった、 彼女の抱いている感情の全てが、 私の中で溢れかえったんだ。 だから、 私は彼女が誰なのか分かった。 そして、 私は事故で意識を失い、 生死の境を彷徨っていた時に見ていた夢の内容の全てを思い出してしまった。
「あなたは・・・、 あなたは私だ。 私自身だ。 そうでしょ。 そうなんでしょ」
  そう、 あなたは私だ。 世界で一つしかない私の大切な身体なんだ。 あなたの声は、 まだ生身の身体を持っていた時の私自身の声なんだ。 あの時見た夢、 自分が自分に別れを告げる、 とてもヘンテコな夢だった。 でも、 今になってみれば、 あの夢の意味が全て分かる。 あれは、 夢なんかじゃない。 あれは私の身体が、 永遠に身体と切り離されてしまった私自身に贈ったお別れのメッセージだったんだ。
(やっと思い出してくれた? そう、 私はあなた。 あなたは私。 あなたは自分のことを一人ぼっちになってしまったと思っているかもしれない。 でも、 それは、 間違い。 私とあなたは、 直接はあえないかもしれないけど、 あなたは私のことが見えないかもしれないけど、 私はいつだってあなたのことを見ている。 私だけじゃない。 お父さんも、 お母さんも、 隆太も、 あなたのことを見守っている。 目には見えないかもしれないけど、 とても遠くにいるのかもしれないけど、 でも、 とっても太い糸で、 繋がっているんだよ。 あなたは決して一人ぼっちなんかじゃないよ。 だから、 お願い、 そんなに悲しまないで! 死のうなんて思わないで! あなたは助かったじゃない。 せっかく助かった命を粗末にしないで。 そんなこと、 私達は望んでない!)
「でも、 でも、 私は、 助かったんじゃない。 機械の力で無理やり生かされているだけなんだ。 こんなの助かった、 なんて言えないよ。 私はあなたが欲しい。 こんな冷たい機械の身体じゃなく、 あなたと一緒にいたいよ・・・。 私は、 とても寂しいよ」
(あなたが助かったのは、 お父さんが、 お母さんが、 隆太が、 あなたにだけは生きて欲しいと強く願ったから。 そして、 あなたにはみんなの願いを受け止めるだけの強さがあったから、 何よりあなた自身が生きたいと強く望んだから、 だから、 あなたはここにいるんだ。 あなたは決して機械に生かされているんじゃないよ。 あなたは自分自身の意志で生きているんだ。 この先、 どんなに苦しいことがあっても、 決して逃げちゃ駄目。 私達のところに来たら駄目。 それは、 私達の願いを踏みにじること。 そんなことしたら、 私も、 家族のみんなもあなたを許さない。 本当は・・・、 本当は私だって、 あなたと一緒にいたかった。 あなたと一緒に、 これからもいろんな喜びも、 苦しみも分かち合えていけたらどんなに素晴らしかっただろう。 でも、 私にはそれは無理なんだ。 もう、 この世界には私の居場所はないもの。 でも、 あなたなら一人でも、 この世界で立派にやっていける。 そして、 幸せを掴むことができる。 あなたが私達の分まで幸せになってくれること。 それが、 私達のただ一つの願いなんだよ)
  そうだ。 吉澤先生は何て言っていた? 病院に運び込まれた時点でまだ私が生きていたのは奇跡としかいいようがないって言っていたよ。 そう、 確かに奇跡が起きたんだ。 家族みんなの私に生きていてほしいという願いが、 家族の絆が、 私の身体に奇跡を起こしてくれたんだね。 私、 分かったよ。 私が今生きていること、 それ自体が、 私達家族が生きていた確かな証なんだ。 弱音を吐いてごめんなさい。 せっかく皆に助けてもらったのに、 簡単に死のうとしてごめんなさい。 みんな、 見ていてね。 この先、 どんな苦しいことがあっても、 私は乗り越えてみせる。 耐えてみせる。 だって、 私は一人じゃないもの。 みんなが私を見守ってくれているんだもの。
(分かってくれたかな。 もう大丈夫かな。 じゃあ、 これで私は行くけど、 その前に、 あなたに二つ贈り物があるの。 私たちからあなたへの最後の贈り物だよ。 気に入ってくれるといいな)
  もう一人の私は、 さっきの厳しい口調とはうって変わった、 安心しきった穏やかな話し方で、 私にそう言ってから、 いたずらっぽく笑った。 贈り物って何だろう。 いったい、 何をくれるというんだろう。
「えっ?」
  突然私の瞳、 つくりものの機械の眼から、 一筋の涙が流れたんだ。 本当は涙なんか流せるはずないのに・・・。 私は、 びっくりして、 眼をこすった。 私の指は確かに涙で濡れていた。
「これは?」
(ふふふ。 それがあなたへの一つ目の贈り物。 気に入ってくれたかな? その涙は作り物じゃないよ。 あなたが流した正真正銘。本物の涙だよ。 私達、 これで本当にお別れだもの。 私だけ泣いて・・・、 あなたが・・・泣けないなんて、 不公平でしょ・・・だから・・・)
  もう一人の私は、 最後まで言い終わらないうちに声を詰まらせた。 私の頭のなかで彼女の泣き声が響く。 同時に、 もう、 これで話すのも最後なんだっていう、 彼女の深い悲しみも私の心に痛いほど伝わった。
「ありがとう。 今まで・・・ありがとう。 これで、 本当にお別れだね。 私、 頑張るよ。 あなたも元気でね。 みんなに宜しくね」
 ようやくのことで、 そこまで言うと、 私も泣いた。 声にならない声を上げてむせび泣いた。 ひょっとしたら、 これが私がこの世で流す最後の涙かもしれないんだ。 だから、 今は、 どんなに泣いたって恥ずかしくないよね。 ここで、 今、 流す涙の分だけ、 私は強くなれるよね。 ねえ、 お父さん、 お母さん、 隆太・・・、 そうだよね。
(二つ目の贈り物はねえ、 これからすぐ分かるよ。 楽しみにしててね。 じゃあまた、 いつか会うその時まで、 しばらくの間、 御機嫌よう。 さようなら)
  もう一人の私の声がだんだん遠ざかっていった。 小さくなっていってやがて何も聞こえなくなった。 行かないでって言う間も無く、 彼女の存在は消えちゃったんだ。 どこへ行ったんだろう。 行き先はねえ・・・、 私は後ろを振り向いた。 空は、 さっきと同じ夕焼け空だ。 彼女が行った先は、 あの空の上。 遠い、 遠い世界。 でも、 とても近い世界。 きっと、 そうに違いないんだ。
「さようなら、 さようなら、 さようならー」
  私は窓の外に向かって、 声の限りにさけんだ。 もう一人の私に届けとばかりに。
  愛想のない高層ビル、 ぐるぐる空を旋回する鳥の群れ、 眼下を行きかう車と人。 窓の外の景色はさっきと同じ。 でも、 私にとってはゼンゼン違う景色のように感じた。 私は一人じゃない。 みんなとは住む世界が違ってしまったかもしれないけど、 私達は繋がっているんだ。 そう思ったら生きる勇気が湧いた。 世界の色が、 さっきとは違って見えた。

  しばらくの間夕焼け空を見上げて夢心地に感傷に浸っていた私だけど、 ドアをノックする音で、 いきなり現実に引き戻されてしまった。 同時に今まで瞳いっぱいに溢れていたはずの涙は、 まるで魔法が解けたみたいにきれいさっぱり消え去ってしまった。 ノックの主は大方、 汀さんか吉澤先生だろう。 何か用事があるから部屋に来るんだろうけど、 お陰で、 せっかくのセンチな気分が台無しだ。 だから、 私は、 これから入ってくるに違いない、 無粋な闖入者を睨みつけてやろうと膨れっ面で、 ドアのほうを振り返ったんだ。
  でも、 ドアを開けて入ってきたのは、 私が予想もしなかった人だった。 そして、 私のとてもよく知っている人だった。 年はとっているけど、 年の割りにがっしりした身体つき。 太陽の光で自然に焼けた浅黒い肌。 そして肌の色とはまるで正反対の真っ白な髪。 風貌とは全く見合っていない借り物みたいなスーツ。
「おじい・・・ちゃん?」
 おじいちゃん。 青森のおじいちゃんだ。 私の大好きなおじいちゃんだよ。 お盆の時には、 毎年遊びにいってたよね。 弟とおじいちゃんと裏のりんご園で一緒に遊だよね。 近くの川で、 釣りを教えてくれたよね。 いつも、 いつも暗くなるまでおじいちゃんの家に帰らなくって、 よく心配かけたよね。 毎年、 美味しいりんごを箱一杯、 私の家に送ってくれたよね。 おじいちゃんの、 がさがさだけど、 とても大きくて優しい手。 私、 大好きだった。 おじいちゃんを一目見て、 昔の楽しかった想い出が胸いっぱいに溢れかえった。 私はすぐにでも、 おじいちゃんのところに駆け寄りたかった。 そして、 昔みたいに抱きしめてもらって、 頭を撫でてもらいたかった。
  でも、 壁伝いに二三歩、 歩いたところで、 私、 それ以上足を進められなくなってしまった。 足が動かないから歩けないんじゃないよ。 私は、 今の自分の姿を思い出してしまったんだ。 昔の私とは似ても似つかない、 変わり果てた機械仕掛けの私の身体。 こんな私を見て、 おじいちゃんはどう思うだろう。 私の事裕子だって分ってくれるだろうか? 裕子だって認めてくれるだろうか? もしも、 お前は裕子じゃない、 本当の裕子はもう死んでいる。 お前はただの機械人形だ、 なんて言われたら、 私、 どうしたらいいんだろう。 そう思ったら、 足がすくんじゃったんだ。 おじいちゃんの眼を見るのが恐くなってしまったんだ。 私は、 棒立ちに壁にへばりついて、 ただうつむくことしかできなかった。
「裕子、 本当に裕子なのか?」
  おじいちゃんは、 私の顔を見るなり、 ぎょっとしたように表情を強張らせて、 入り口に立ち尽くした。 こうしてわざわざ青森からお見舞いに駆けつけてくれている以上、 おじいちゃんだって私の身体に起こったことは全てお医者さんから聞かされているだろう。 外見が、 昔の私とはゼンゼン違うマネキン人形まがいの作り物の身体になってしまったことも、 今の私に残されているのは脳みそだけってことも、 全部知っているはずなんだ。 そして、 きっと、 覚悟を決めて、 ドアを開けたはずなんだ。
  それでも、 実際に私を目の前にしたら、 ぎょっとしてしまう。 部屋に入るのを躊躇してしまう。 おじいちゃんの反応は仕方がないことなのかもしれないけど、 でも、 おじいちゃんの驚きの表情を見ることで、 自分の身体が、 以前の私とは似ても似つかないお人形さんになってしまったことをあらためて思い知らされて、 まるで、 もうなくなってしまった心臓に太い針を突き刺されたような気分になってしまった。
  私のことをずっと可愛がってくれたおじいちゃんでさえも、 私のことが分からない。 私は、 八木橋裕子は、 ちゃんとここにいるのに。 おじいちゃんの目の前でちゃんと生きているのに・・・。 私がどんな姿をしていても私なんだって分かってほしかった。 この人形の中に入っている魂は確かに私なんだって知ってほしかった。 体のほとんどが機械でも、 やっぱり私は人間なんだもの。 心は生きているんだもの。 私だって、 肉親からの無条件の愛情が欲しい。 小さい頃みたいに、 やさしく私のことを抱きしめて欲しいよ。
「おじいちゃん・・・。 私、 裕子だよ。 裕子なんだ。 本当だよう! こんな姿してるけど、 裕子なんだよう!」
  悲しくて、 悲しくて、 私はそう叫んだ後で無意識のうちに拳をぎゅっと握り締めて、 唇をかみしめて、 涙をこらえていた。 そんなことしなくても、 もう涙なんか出ないのに、 涙をこらえる必要もないのに、 頭は昔の身体の事を覚えていて、 反射的にそんな仕草をしちゃうんだ。
「裕子!」
  ずーっと黙りこくって私のことを見ていたおじいちゃんの表情が変わった。 はじめに驚いたように目をまんまるにして、 次に顔をくしゃくしゃの皺だらけにして嬉しそうに笑いながら、 私のところに駆け寄ってきたんだ。 そして、 ガサガサした大きな手で頬っぺたを撫でてくれた。 昔、 同じ事をされたときによくそうしていたみたいに、 私は、 思わず眼をつむっちゃった。 目を閉じて、 そうやって肌の感触だけで、 おじいちゃんの手の平を感じていると、 遠い昔の記憶が頭の中で鮮やかに蘇って、 胸が一杯になった。
「目をあけて、 顔を上げてごらん」
  髪をかきあげておずおずと顔を上げる。 私のすぐ目の前におじいちゃんの顔があった。 今度は、 おじいちゃん、 さっきの見ず知らずの人を見るような、 不安そうな顔つきじゃなかった。 私がまだ小さかった頃、おじいちゃんの膝の上で甘えた時に見せたのと全く同じ、 孫を見る優しそうな眼で私のことをじいっと見つめていたんだ。 そして、 静かに、 でも力強くこう言ってくれんだ。
「見た目は変わってしまったかもしれないが、 間違いなくお前は裕子だ。 私の可愛い孫娘だ。 裕子! 生きていたんだな! 生きていてくれたんだな!」
「おじいちゃん、 私が裕子だって分かるの? 裕子だって信じてくれるの?」
「お前はおじいちゃん子だったんだぞ。 私は小さい頃から、 お前のことをずっと見ていたんだぞ。 それこそ、 お前がまだ覚えていないくらい小さい頃からずーっと。 泣き出しそうなときの顔つき、 しゃべり方、 頬っぺたを触ったら目をつむるところ、 髪をかきあげる時のしぐさ。 私のよく知ってる裕子そのものじゃないか! どんなに姿が変わったとしても、 どんなに声が変わっていても自分の孫娘のことを間違えるはずがない!」
  私は嬉しかった。 おじいちゃんは、 私の外見じゃなく、 私の仕草を見てくれたんだよ。 そして、 私の事を分かってくれたんだよ。
  例え機械の身体になっても、 私の心はこうしてちゃんと生きている。 だから、 私のちょっとした癖や仕草は、 昔と同じ。 それは、 私がやっぱり八木橋裕子なんだっていう確かな証なんだ。 どんな機械にだって、 私の心まで変えたり、 支配したりすることはできない。 おじいちゃんは、 この、 私に人間として残された最後のよりどころ、 私の心そのものを見てくれたんだ。 そして、 眼の前の女の子は、 姿かたちが変わっても、 確かに私なんだって認めてくれたんだ。 機械なのか人間なのかよく分からない、 あやふやな存在の私にとって、 こんなに嬉しいことはないよ。
「こんな姿になっても、 私のこと、 おじいちゃんの孫だって思ってくれるの?」
「当たり前じゃないか! 裕子、 生きていてくれてよかった。 本当によかった・・・。 おじいちゃんな、 事故の話を聞いた時は、 本当にショックだった。 みんな死んでしまったなんて、 そんな馬鹿な話があるかって思った。 おじいちゃんは、 お前のお父さんをずーっと男手一つで育てたんだぞ。 そのおじいちゃんの自慢の一人息子が、 可愛いお嫁さんをもらい、 裕子や隆太という子供ができて、 そして裕子や隆太がすくすく育っていく。 おじいちゃんは、 幸せだった。 おじいちゃんは、 お前たちがごく普通の、 ありきたりな、 でも幸せな家庭を築いているのを見るだけでも充分満足だったんだ。 そんな、 幸せな家族の命が一瞬でなくなってしまったなんて・・・、 みんな死んでしまったなんて・・・、 おじいちゃんにはとても信じられることじゃなかった 。だから、 裕子だけは生きていると聞いた時、 おじいちゃんどんなに嬉しかったか分かるか? 裕子にどんなに会いたかった分かるか? どんな姿になろうと関係ない! 裕子はいつだって、 これからもずーっと私の可愛い孫だ!」
  おじいちゃんはそう言って、 私の頭をわさわさとちょっと荒っぽく撫でてくれたんだ。 私の頭を撫でるおじいちゃんの両目に涙が溢れてくるのが分かった。 おじいちゃん、 涙を見られるのが照れくさかったのかなあ。 あわてて私の頭を両手で掴んで、 ぎゅっと大きな胸に押し付けたんだ。 でも、 どんなに泣いてるのを隠したって、 おじいちゃんの肩も腕も細かく震えているもの。 私にはバレバレだ。 おじいちゃんが泣くところ、 私ははじめて見たよ。 おじいちゃん、 いつも隆太のことを男は簡単に泣くもんじゃないって叱っていたよね。 そんなおじいちゃんだもの、 私の前で泣くなんてプライドが許さなかったのかもしれない。 でも、 こんなときは、 例え大の男でも、 泣いても恥ずかしくないんだ。 私はそう思うよ。
「おじいちゃん! ありがとう、 ありがとう!」
  私のこと裕子だって分かってくれてありがとう。 私、 おじいちゃんの孫でよかった。 本当によかった。
  私も、 もしも生身の身体だったら、 おじいちゃんと一緒にポロポロとめどなく涙を流していたに違いないよ。 私もおじいちゃんと一緒に泣きたかった。 でも、 私の作り物の機械の目から涙なんか流れない。 おじいちゃんと一緒に泣けないことが、 口惜しい。 でも、いいんだ。涙を流せない悔しさより 、おじいちゃんに会えて、 おじいちゃんに認められた嬉しさのほうがずっと大きいんだもん。 お父さん、 お母さん、 隆太、 そしてもう一人の私は、 向こうの世界で私を見守ってくれている。 おじいちゃんは、 こっちの世界で私を支えてくれる。 こんなにも沢山の人と、 私は見えない糸で繋がっている。
  寂しくないっていったら嘘になる。 泣けなくてもいいっていったら嘘になる。 だけど、 泣きたくても泣けない身体を嘆くくらいなら、 笑顔でいよう。 私が、 明るく前向きに生きて、 幸せになること、 それがみんなの望みなんだもの。 涙を奪われた私でも嬉しいときに笑うことはできるはずだよ。 だったら、 どんな涙よりも素敵な笑顔を手に入れればいいんだ。 私はおじいちゃんに抱きしめられ、 おじいちゃんの嗚咽を聞きながら、 そんなことを考えていたんだ。

  おじいちゃんは、 しばらくの間私を胸に抱いて泣いていたんだけど、 私が顔をあげると、 照れくさそうに顔を赤くして、 私から眼をそらして涙をぬぐった。 それから、 しばらく無言のまま、 持って来たバックの中を探って、 茶色の小さなプラスチック製のケースを取り出すと、 私の右手に押し付けたんだ。
「事故のあと、 車の中から出てきたものだそうだけど、 これは裕子のものだろう? 家族で眼鏡をかけていたのは裕子だけだったもんな」
  おじいちゃんに渡されたケースを開けると、 見覚えのあるフレームなしの眼鏡が入っていた。 そう、 これは私のもの。 間違いない。 私は、 眼鏡をケースから取り出して、 試しにかけてみた。 でも、 案の定ぼやけて何も見えなかった。 眼鏡なんて、 今の私には、 必要がないもの。 私、 自分があれほど望んでいた眼鏡いらずの新しい目を手に入れたんだよ。 良かったじゃないか。 それなのに、 それなのに、 こんな悲しい気持ちになってしまうのは何故だろう。
  この眼鏡は、 あの事故の直前に、 両親がデパートで私のために買ってくれたもの。 でも、 私、 本当はコンタクトレンズにしたかったから、 眼鏡をかける事が嫌で嫌でたまらなくって、 このケースに入れっぱなしにしていた。 そして、 一人でふてくされていたんだ。 あれが、 私が家族と過ごした最後のひとときだったというのに・・・。 私はなんて我侭だったんだろう。 なんて馬鹿なことをしたんだろう。 あれっきり、 もう家族と二度と会えないって分かっていたら、 もっと、 もっと話したかったことがたくさんあったのに。 お父さん、 お母さん、 隆太。 ごめんね。 せめて、 あと一回だけでいい。 みんなと会って話がしたい。 最後に、 みんなにごめんなさいって謝りたい。
  神様、 お願い。 最後に一回だけ、 家族の声を聞かせて欲しい。 それが無理なら、 家族からの手紙でもいいんだ。 お願い・・・。 でも、 もう取り返しがつかないよね。 分かってるよ。 過ぎた時間は二度と戻せないもんね。 そんなこと思うのは、 もうやめよう。 所詮かなわない願いだもの。 みんなが、 どこかで私の事を見守ってくれている、 私はそれだけで充分だよ・・・。
(きっと、 この眼鏡、 もう二度と使うことはないだろうな)
  私はそんなことを考えながら、 眼鏡をもう一度ケースにしまおうとした。 眼鏡と一緒に、 昔の家族との楽しかった想い出もすべて、 ケースの中に仕舞い込んでしまうような気がして、 胸がひどく苦しかった。 眼鏡をケースにしまおうとした私は、 ケースの中に小さな紙切れが入っているのに気がついた。 きっと、 眼鏡の説明書か、 保証書の類だろう。 ふつうは、 読まずにすぐ机のなかに放り込んで、 いつしか、 そんなものがあったことさえ忘れてしまうような、 取るに足らない紙切れ。 そのはずだった。 だけど、 私は、 その小さな紙切れが、 なんだかとても気になったんだ。
  ケースに眼鏡をしまいこんで小脇に抱えると、 私は早速、 二つ折りにたたまれた、 その小さな紙片を開いてみた。
  え? え? え?
  そこに書いていた言葉、 私は、 一瞬、信じられなかった。 だから、 顔を上げて、 眼をこすってから、 もう一度見直したんだ。 でも、 やっぱり同じことが書いてあった。 そこに書かれていたのは、 私が望んで、 でも結局無理なんだって自分に言い聞かせて、 諦めていたこと。 お父さんから私への、 最後の言葉だったんだ。

  裕子へ

  父さんも、 母さんも、 隆太も元気でやっている。 安心してほしい。
  結局、 この眼鏡が裕子のために買った最後の贈り物になってしまったな。 裕子はコンタクトにしたがっていたけど、 それは無理だった。 残念だったな。 そのあと車の中では珍しくふてくされていたな。 コンタクトが着けられないことなんて、 大した事じゃない、 なのに、 何故あんなにぶすっとした顔をしたんだ? それは裕子が、 今、 恋をしているからだろう? 図星かな。 否定したって、 駄目だぞ。 裕子は隠し事が本当に下手なんだから。 親の目から見たらバレバレだ。 隆太だって気付いていたぞ。大方恋のお相手から眼鏡は嫌いだ、 なんてことを言われたんだろう。 青森で、 山や川を走り回っていたお転婆娘も、 そうやって異性のために、 着飾ったり、 自分の外見を気にするようになったりするような年頃になったんだと思うと、 本当に感慨深い。 裕子も、 もう16歳だもんな。 でも、 一つ言っておくぞ。 女の子の顔が眼鏡かどうかなんて気にするような男は、 私から言わせれば大した男じゃないな。 私に言わせれば眼鏡をかけた裕子だってわが子ながら、 とても可愛らしいと思うぞ。 まあ、 それは父親としての愚痴だ。 気にしないでくれ。 ああ、 16年か。 長いようで、 今こうしてみると、 ほんの一瞬の出来事だったような気がするな。
  残念だけど、 私達とは、 これでいったんお別れだ。 私の意志を伝えることができるのも、 これが最後だと思う。 これからは、 裕子は一人で生きていかなきゃいけないんだぞ。 大変だろうけど、 しっかりしなきゃいけないぞ。 裕子が生きていく道のりは決して平坦な歩きやすい道じゃない。 時には挫けそうになることもあるだろう。 でも裕子なら乗り越えられる。 私はそう信じているよ。 でも、 どうしても、 挫けてしまいそうなときは、 時々は私たちの事を思い出してほしい。 同じ場所にはいないけれど、 お互い話したりすることはできないけれど、 私たちはいつでも、 裕子のことを見守っているんだ。 裕子は決して一人じゃない。 それを忘れないで欲しい。
  裕子、 お前は私達の誇りだ。 私達の太陽だ。 今まで16年間家族を明るく照らしてくれて有難う。 今度は、 明るく世の中を、 周りの人達を照らす番だ。 大丈夫。 裕子ならきっとできる。 裕子ならきっと幸せになれる。 そして裕子なら周りを幸せにできる。 私達はそう信じている。 裕子がいてくれてよかった。 裕子が私たちの娘でいてくれて本当によかった。 今まで、 たくさんの思い出を、 本当にありがとう。
  さようならとは、 言わない。 またいつか、 必ず会おう。 会って、 お前が、 このあとの人生の中で見てきたこと、 感じたこと、 楽しかったこと、 辛かったこと、 嬉しかったこと、 全てのことを私達に話して聞かせて欲しい。 いつか来る、 その日を楽しみに、 気長に待つことにするよ。 じゃあな。

                                                  父より


                    お父さん!
  お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!お父さん!
私は決して機械じゃない。 私には親がいるんだ。 こんなにも立派な親がいるんだもの。 そんな私が、 血の通わない、 ただの機械のはずがない。 大好きだったお父さん。 私はあなたの娘です。 私はあなたの娘だったことを決して忘れない。 そして、 どんなことがあっても、 挫けず、 強く、 誇り高く生きていく。 だから、 空のどこかで、 私の事をずーっと、 ずっと見守っていてください。 お母さん、 隆太。 私、 みんなと暮らせて幸せだったよ。 あなたたちの家族でよかったよ。 私達、 いつまでも、 これからもずーっと、 ずっと家族だよね。 たとえ離れ離れになっても、 心は繋がっているよね。
  みんなありがとう。
  私もさよならは言わない。
  いつか、また、会おうね。きっとだよ。

「裕子、 どうしたんだ、 裕子」
  おじいちゃんの声に、 はっと我に返った。
「眼鏡の保証書なんか眺めて、 いったいどうしたっていうんだ? 何が書いてあるんだ?」
  おじいちゃんは、 訝しげにそう言った。
「えっ? 保証書?」
  私は驚いて、 自分の見つめていた紙片に眼を落とす。
  眼鏡の保証書だって? 嘘、 そんなはずはないよ。 これは、 お父さんから、 私にあてた最後の手紙だよ。 おじいちゃん、 そんなことも分からないの?
  私は、 もう一度、 手に持った紙片に書いてある文字を眼で追った。
  えと、 お客様各位。 この度は、 弊社の眼鏡をお買い上げいただきまして、 誠に有難うございます・・・。
  あれ??? これやっぱり、 ただの眼鏡の保証書じゃないか。 じゃあ、 さっき私が読んだのは何なの? ただの幻? それとも義眼の故障で、 ありえないものが見えたっていうの?
   違う違う。 あれは、 幻なんかじゃない。 あれは、 私にしか分からない、 親から私への最後のメッセージ。 さっき、 もう一人の私が言っていた「もう一つの贈り物」ってこれのことだったんだね。 この世界にはいない、 私の親から私への言葉。 どんなにお金を積んでも決して買うことができない、 かけがえのない贈り物。 この世で一番高価な宝石だって、 こんなに美しくはない。 こんなに輝いてはいない。 お父さん。 ありがとう。 私に生きる勇気をくれて、 ありがとう。
  私は、 もう一度、 眼鏡をケースから取り出した。
  なぜだろう。私、今、この眼鏡がかけたくてしょうがないよ。 あんなにも、 眼鏡をかけた自分の顔が嫌だったのに。 コンタクトにしたかったはずのに。 今となっては、 私には必要のないもののはずなのに・・・。 でも、 今は眼鏡をかけたくて仕方がないんだ。 分かってるよ。 答えなんか分かってる。 この眼鏡は、 私と家族が、 これまで16年間培ってきた絆の象徴。 そして、 私が人間なんだってことの確かな証。 そうだよね。

  翌朝、 私がベッドの上で身体を起こして、 ぼんやりと朝のニュース番組を見ていたら、 汀さんが昨日と同じ白衣姿で私の病室にやってきた。 ああ、 汀さん。 私はあなたが来るのを待っていました。
「八木橋さん、 こんにちは。 今日は元気そうね。 おじいさんに会ったからかな? ちょっと安心しました」
  汀さん、 食事代わりの、 小さなピンク色のカプセルを私に手渡しながら、 小鳥みたいにほがらかに笑った。
「昨日は、 あの・・・、 ひどいこと言ってごめんなさい。 私、 どうかしてたんです。 本当にごめんな さい」
「いいのよ。 いろんなことが、 ありすぎたもの。 取り乱して当然よね。 でも、 あなたは強い子ね。 今日は、 すっかり落ち着いているじゃない。 あなたみたいに、 事故で義体になっちゃった場合はね、 普通は、 自分の状態を受け入れて、 ちゃんと会話ができるようになるまでには少なくとも一週間近くかかるんだから」
  私は強い子か・・・。 そうじゃない。 私は弱い子だよ。 私、 昨日は死のうとしたんだよ。 現実に眼を背けて逃げようとしたんだ。 そんな私を立ち直らせてくれたのは、 もう一人の私、 おじいちゃん、 それから、 お父さん、 お母さん、 隆太。 みんなの励ましのお陰なんだよ。
  そんな、 嘘みたいな話、 きっと汀さんに言っても信じてもらえないだろう。 だから、 私、 そうなんだって軽く相槌を打っただけ。 そんなことより、 汀さん、 私、 あなたに頼みたいことがある。 とても大事なお願いなんだ。 だから、 昨日からずっと汀さんが来るのを待っていたんだよ。
「あの、 汀さん、 お願いがあるんだけど・・・」
  おずおずと上目づかいに本題を切り出してみる。
「何でしょう? 私にできることかな? そんなに照れくさがらないで、 もっと遠慮なく聞いていいんだよ。 私は、 あなたのケアサポーター。 もっというと、 あなたのお姉さんでもあり、 友達でもある。 汀さんなんて他人行儀じゃなく、 もっと気軽にいきましょう。 私の名前は環っていうの。 だから、 吉澤先生は私の事タマって読んでる。 八木橋さんもタマちゃんって呼んでくれていいよ。 そのほうが、 親しみやすいでしょ」
「じゃあ、 タマちゃん。 あの、 私の視力って、 自由に変えられるのかなあ?」
「ああ、 そんなこと? 簡単にできまーす。 ちょっと、 眼が見えづらかったの? もう少し、 視力をよくしてみる?」
「ううん、 そうじゃないんだ。 そうじゃなくて、 今よりもっと眼を悪くできないかなあ?」
「え? わざわざ、 眼を悪くしちゃうの? できないことはないけど・・・、 そんなの聞いたことない。 何でそんなことしようと思ったの?」
  タマちゃんは目を丸くして驚いている。 当然だよね。 眼が良くなりたいって思う人はたくさんいるだろうけど、 わざわざ眼を悪くして、 なんていう人はいないよね。
「タマちゃん、 笑わないでね。 私、 眼鏡がかけたいんだ」
「はぁ? 眼鏡をかけたい? 何言ってるの。 ふふふ、 八木橋さんって面白い子ね」
 タマちゃんは大きな目を細めて、 歌うみたいに笑った。 私は、 笑わないでって言ったのに・・・。 私、 ギャグのつもりで言ったんじゃないよ。 第一、 そんなのギャグとしてもちっとも面白くないじゃないかよう。
「うー、 汀さん、 笑わないでよう。 可笑しくなんかないんだ。 私は本気だよう」
  私は、 ちょっとむっとして、 膨れっ面をした。 それを見たタマちゃん、 笑うのをやめて、 急に真面目な顔つきになって、 私にこう言ったんだ。  
「八木橋さん、 あなたは生身の身体の時は目が悪かった。 だから、 その時の感覚を少しでも取り戻したいんでしょ。 気持ちはよく分かりまーす。 でもね、 厳しいこというようだけど、 そんなことをしても、 昔の身体に戻るわけではないんだよ。 あなたは、 これからは、 今の新しい身体で生きていかなきゃいけない。 そのためには、 そんなことをするより、 今の新しい身体に一日も早く慣れるようにリハビリトレーニングをしなきゃ。 そうじゃない?」
「タマちゃん。 分かってる。 そんなこと、 分かってるんだ。 私は、 新しい身体に慣れるように努力します。 リハビリもちゃんとやります。 タマちゃんの言うこと、 なんでも聞きます。 だから、 お願い。 眼鏡だけは、 私から取り上げないで。 お願いだよう」
   私の気持ちに嘘はない。 私は、 もう自分が機械の身体になって、 二度と温かい生身の身体に戻れないってことは、 よく分かっている。 この新しい身体を一生のパートナーとして生きていかなければならないっていう覚悟も決めた。 それでも、 ううん、 だからこそ、 私は、 自分の身体がまだ生身だったときの、 ほんのわずかな痕跡でも大事にしたい。 眼鏡は、 私と、 私の家族が確かに繋がっていることを示す確かなあかしなんだ。 私が強く生きるための象徴なんだ。 だから、 これだけは、 譲れないよ。私は、 頑張った。 タマちゃんから 何を言われても聞き入れなかった。 そして、 とうとうタマちゃんは、 私に根負けして、 渋々だけど、 私が眼鏡をかけることに同意してくれたんだ。
  タマちゃんは、 部屋に片隅に置いてある大きなコンピューターから、 黒いコードを引っ張ってきた。
「八木橋さん、 いい? 今から、 あなたの視力を変えるために、 コンピューターと、 あなたの身体にあるサポートコンピューターを接続します」
「さぽーとこんぴゅーたー?何それ」
「サポートコンピューターっていうのはね、 あなたの脳と身体を繋ぐ仲立ちをするコンピューターなの。 あなたの脳から出るいろんな命令を身体が受け取りやすい信号に変えたり、 逆に身体が受けた刺激をあなたの脳が受け取りやすい信号に変えたりする、 まだ役割はいろいろあるけど、 まあ、 分かりやすくいうと、 神経回路の翻訳機みたいなものかしら。 このサポートコンピューターを使って、 八木橋さんの義体の様々な調整もするのね。 ま、 詳しいことは、 あとで、 おいおい教えていくとして、 これから視力の設定をいじるからね」
  タマちゃんは、 そういうなり、 私の首の横っちょをなにやらゴソゴソいじったかと思ったら、 手に持ったコードを私の首根っこに突き刺したんだ。 反射的に眼をつむっちゃったけど、 ゼンゼン痛くない。 あわてて、 自分の手で、 首のところを探ってみると、 小さな蓋が開いているみたいだった。 蓋の中に指をすべらすと金属みたいな手触りで、 いくつか小さな穴が開いていることが分かった。 その穴の一つに、 さっきのコードがしっかりと接続されている。 昨日ベッドで眼が覚めたときも、 確か、 同じ場所に管みたいなものがささっていた。 あの時は点滴か何かだと思っていたけど、 そうじゃなかった。 私の体の中のコンピューターと、 外に置いてあるコンピューターを繋いでいたんだ・・・。
  外見は人間そっくりでも、 こんなふうに一皮向けば機械の固まり。 そのことを、 日がたつにつれてどんどん思い知らされていくんだろう。 この身体で生きていくんだって覚悟はできているけど、 それはやっぱり悲しいことだった。 タマちゃんは、 私の気持ちを察しているのか、 余計なことは何一つ言わず、 コンピューターのキーボードを叩いている。
  と、 視界が、 急にうすぼんやりしたものになった。
「終わったよ」
  タマちゃんは、 私に向かってにっこり微笑んだ、 と思うんだけど、 彼女の顔の輪郭も  二重にも、 三重にもなってぼやけて、 表情がはっきりと分からない。 なんだかまだるっこしい。 でも、 懐かしい感覚。 私は、 戻ってきた。 視力0.1の世界に戻ったんだ。 これで、 やっと私も眼鏡がかけられる。
  私は、 傍らにおいてあったプラスチックのケースから眼鏡を取り出して、 眼鏡をかけたんだ。 その瞬間、 私に、 きれいな世界が蘇る。 タマちゃんは、 私のほうを向いて、 可笑しそうに笑っていた。
  ボタン一つで視力が良くも、 悪くもなる、 機械仕掛けの身体。 それが、 今の私。 そんな身体のくせに、 眼鏡がかけたいなんて、 やっぱり私って変? おかしい? 笑いたければ、 笑って構わないよ。
  でも、 眼鏡姿の私だって、 捨てたものじゃない。 そうでしょ?
  ふふふ、 お父さん、 そうだよね!

  世にも珍しい、 全身義体のめがねっ娘、 八木橋裕子は、 こうして生まれたんだ。

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