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  ちゃりん、 ちゃりーん。 私達の投げ入れたお賽銭は、 かろやかな音をたてて賽銭箱の中に消えていく。
  ぱんぱん。
  私とジャスミンと佐倉井の三人は、 お賽銭箱の前で仲良く横並びに並んでかしわ手を打った。
(今年こそステキな彼氏ができますように。 それで、 キスくらいできたらもっといいな)
  私は神棚に向ってお辞儀をしながらそんなことを考えていた。

  年も改まって永康26年のお正月。 私達は八軒坊の町外れにある名前も知らない小さな神社に初詣に来ています。 もちろん八軒坊から電車に乗ってちょっと行ったところには、 参拝ついでに海から昇る初日の出も同時に見れちゃう火環大神宮なんて超有名どころもあるけど、 そんなところに行こうものならラッシュの菖蒲端にも負けないくらいのものすごい人出で、 参拝するのに2時間待ちなんてことはザラ。 お参りに来たのか人混みにもまれに来たのかよく分からないことになっちゃうのは目に見えてる。
  だから今回は、 甘味追及の旅以外のことになると途端に出無精になる佐倉井の提案もあって、 彼女の家のすぐ近所の神社に行くことにしたんだけど、 これが大当たり。
  今はすっかり葉っぱも落ちて幹だけになっちゃった鎮守の森に囲まれた江戸時代から続いているっていう古びた小さなお社。 普段は訪れる人もまばらな、 時の流れに取り残されて神様だけがひとりぼっちで暮らしているみたいな寂しいところだけど、 今日だけは別の顔。
  お社に面したブランコとかすべり台みたいな遊具も置いてある近所の公園も兼ねた小さな広場には縁日がたっていて、 初詣に来た近所の人らしい家族連れでどこの露店もそれなりの賑わいを見せている。 空を見上げれば、 雲ひとつない冬ばれの空に隣の河川敷から上がっているんだろう、 カラフルな凧が、 二つ、 三つ、 真っ青な空にほどよいアクセントを与えている。 足もとはといえば、 何百年分もの枯葉が積もってできた鎮守の森の黒い土。 都会では滅多に味わえない、 ふんわり柔らかな土の感触が足に心地よい。
  眼に入る光景の一つ一つが、 まるで、 ♪もーいくつ寝ると、お正月っていう有名な歌の、 そのまんま一シーンみたい。 大きな神社には大きな神社なりの良さがあるんだろうけど、人の暮らしに密着したこういうお正月風情はやっぱり小さなところじゃないと味わえないよね。

  私とジャスミンは苔むした小さな石灯籠によっかかりながら、 食べ物を仕入れに縁日の人だかりの中に消えていった佐倉井の戻りを待っていた。 いかにもお正月らしい鮮やかな花柄の晴れ着を着たジャスミンは、 さっきから歯の根をカチカチ鳴らしている。 さむいさむいとしきりにつぶやく彼女の口から白い息がこぼれる。
「今日は久々の冷え込みなんだって。 最高気温は5度らしいよ」
  ぽってりとした厚手のフェルト地のグリーンのコートを着込んで、 いかにも寒そうにマフラーに顔をうずめながらそう答える私は、 実はちっとも寒さなんか感じていない。 悲しいかな、 私の義体には外気の温度を肌で感じる機能はついていないんだ。 だからジャスミンみたいに寒さに震えることもないかわりに、 冬という季節を肌で感じることは、 もうできない。 私の脳を補助するサポートコンピューターの容量では生身の人間の感覚を100%忠実に再現するのは難しいんだってさ。
 でも、 私がこの身体になって三年半。 こうやって毎日毎日天気予報の最高気温を記憶しては、 今日は寒いとか暑いとか言って、 友達に向かって演技することにも、もう慣れっこだよ。
「ちなみにヤギーは、 さっき何をお願いしたの?」
  ジャスミンは指がかじかんでいるのか、 はめている赤い毛糸の手袋に息をふうふうふきかけながら言った。  
「えと、 それは、 秘密です。 ひみつ」
  私は曖昧に笑ってはぐらかす。
  今年こそは彼氏が欲しい、 キスがしたいってお願いした、 とは、 なかなか答えにくい。 ましてや、 その先のこともちょっとは期待してる、 なんて言えるわけがない。 そんなことが二人にバレた日には、 それをネタにずーっとからかわれ続けちゃうのは目に見えてるからね。
「ははーん。 口に出して言えないくらい、 いやらしいことだね。 けけけ」
  突然背後からそうささやかれて、 あわてて振り向いたその先に、 佐倉井がニヤニヤ笑いながら立っていた。 彼女が大事そうに抱えている小さな紙包みから、 本日の釣果、 湯気のほかほか上がっている美味しそうな鯛焼きが半分顔をのぞかせていた。
「ちちち、 違うよう。 なんでそうなるのさ」 
  佐倉井に自分の内心を見すかされた気がして動揺した私はハゲしくどもってしまう。 余りにも分かりやすい私の反応に 二人はお腹をかかえて笑った。
  私の、 このいじられキャラって立場、 どうにかならないだろうか。 まったく!

  三人揃ったところで次にやることといえば、 おみくじをひくこと。 小さな神社だから巫女さんがいるわけじゃなし、 おみくじは自動販売機で買う仕組みになっていてちょっと味気ないけど、 初詣といえばコレがなくちゃ始まらないよね。
  手にそれぞれが買ったおみくじを握り締めて小さな輪を作って向かい合う私達三人。 買ったおみくじはジャスミンの提案で、 「いっせーのせ」で、 三人いっぺんに開くことに決まったんだ。
「じゃ、 用意はいい」
  やけにまじめくさった表情で問いかけるジャスミンに向って心持ち緊張気味にうなづく私と佐倉井。 ジャスミンの作り出す雰囲気に飲まれて、 なんだか試験の合格通知の封書を空けるみたいに、 ドキドキしてるんだ。 おみくじを開く。 ただそれだけのことでも、 こんな芝居がかった儀式をして楽しんじゃう私達なのだった。
「いっせーの、 せっ!」
  掛け声とともに一斉に丁寧に折りたたまれているおみくじを開封。
「げげっ」
  あからさまにうろたえた声を出したのは私だ。 私のおみくじから現れたのは字面からして禍々しい『凶』の一文字。 
「へぇー、 私、 凶なんてはじめて見たよ」
  佐倉井は自分の引いた中吉のおみくじの中身を読むより先に、 ひょいっと私のおみくじをひったくると書かれている内容を読み上げた。
「えー、 遊びは熱中しすぎに注意。 探し物、 見つかりません。 願い事、 強く望めば実現の可能性あり」
「巧言令色少なし仁。 少なくとも願い事はかなうってことでしょ。 私のおみくじみたいに不気味なくらい良いことばかり書いてあるよりよっぽど信用できそうじゃない」
  ジャスミンは自分の引いた大吉のおみくじを見せながら言った。
「うー、 ジャスミン、 それ、 ひょっとして慰めてるつもり? それとも自慢してるの? 大吉を引き当てたアンタにそんなこと言われても、 ちっとも嬉しくないよ」
  私は不満げに口をとんがらせた。 でも、 書かれていることが悲惨なことばかりではなかったので、 実は、 ちょっとホッとしてるんだ。 ステキな彼氏とキスをするっていう願いがかなうのなら、 この際、 遊びに熱中しすぎてひどい目に遭っても我慢するよ。 探し物なんか見つからなくていいよ。
「ヤギーのいやらしい願い事、 かなうといいね。 けけけ」
  佐倉井は、 今度は意味ありげにウインクして肘で軽く私をこづいた。 この親父ギャルめ!
「お正月早々凶なんかを引いちゃった可哀想なヤギーには、 これをあげちゃう」
  ジャスミンは財布から一枚のカードを取り出すと、 かっこよく二本の指で挟むように持って、 顔の前でひらひらさせた。
「何、 コレ」
  ジャスミンから手渡されたのはクレジットカードサイズの厚手の紙でできた緑色のカードだった。
「ハチ銀(八軒坊銀座)のカラオケボックス『ムーンライト』のポイントカードよ。 だいぶ通いつめたから、 それ使えば一人分は無料になるの。 どう、 今から厄払いに行かない?」
「厄払いね・・・ははは」
  ホントはジャスミンにとって厄払いなんてどうでもいいこと。 何かカラオケに行く理屈をつけたいだけなんだろう。 それが分かっている私は思わず苦笑い。 でもさ、 ジャスミンの言う厄払いじゃないけどカラオケに行ってぱーっと騒いで、 おみくじのことなんか忘れるのっていいアイディアかもね。
  私だってジャスミンに負けず劣らずのカラオケ好き。 だって歌を歌うってことは、 美味しいモノを食べたりスポーツをして気持ちのいい汗を流すなんていうヒトとして当たり前の喜びを奪われた私にとっては、 数少ない普通のヒトと同じように楽しめる娯楽の一つなんだよ。 私の声は作り物の電子合成音にすぎないかもしれない。 でも、 歌を歌って楽しいって思う私の気持ちは決して作り物じゃないもの。
「OK。 行こう。 行こう」
  明日は朝からアルバイトが入っているからホントは今日は早めに家に帰るつもりだった。 でも、 好きなカラオケをただで楽しめちゃうなんて、 そんなうまい話を私が断れるはずがない。 バイトと、 無料カラオケ、 秤にかけるまでもないよね。

  こうして私は正月早々カラオケに行くことになったんだけど、 後から思えば、 これが全てのケチのつけはじめだったんだ。

「ごめん。 私、 もう帰らなきゃ」
  夢崎ひなたとか喜国更紗みたいなキーが高くてアップテンポで、 いかにも消費カロリーが激しそうな曲を5曲連続で歌いきったあと、 さすがにネジが切れたみたいにソファの上でうつぶせにぐったりしているジャスミンに向って私は言った。
  いつの間にか私の腕時計の針は11時45分をまわっている。 菖蒲端行きの終電の八軒坊発は12時10分。 まだゼンゼン歌いたりないけど、 明日は朝からバイトだから、 さすがにもう帰らないとマズイ。 そのくらいの理性は私にだってある。
「りょうかーい」
  だるそうに片手だけ上げてバイバイするジャスミン。
「に、 してもヤギーはタフだねえ。 あれだけ大騒ぎしてヤギーだけはなんともないわけ? 別に帰らなくてもいいじゃん」
  佐倉井はマイクを握り締めたまま床にしゃがみこんで苦しそうに小刻みに息を吐きながら、 私を見上げた。
「うー、 そんなことないよ。 私も疲れたよ」
  佐倉井の指摘にぎくりとした私は、 つい、 わざとらしく息が切れているふりをしてしまう。 一緒に歌っていた三人のうち二人がぐったりしてるのに、 私だけケロリとしてるのは、 なんか変だもんね。
  私の声は喉の奥にあるスピーカーから出る肉声を真似た電子合成音だから、 いくら声を出し続けても喉がかれることはないうえ、 稲城修吾の渋いバリトン調の曲から喜国更紗のエッジのきいた透明感あふれるキーの高い曲まで自由自在に歌いこなせちゃう。 三人の中で持ち歌のレパートリーが一番多いのは実は私だったりするんだよね。
  だからカラオケに行くとノリノリになってしまい、 ついつい終電に帰りそびれて始発電車が動き出すまでエンドレスで熱中してしまう私だけど、 さすがに明日の朝からバイトっていう情況でカラオケにのめりこむわけにはいかないよ。
  と、 部屋に備え付けのスピーカーからヘビメタの重低音が鳴り響く。
「おっし。 ジャスミン君。 次いくよ。 次。 OERの『スケベニンゲン』」
「オッケー。 さやか。 今日はエンドレスだね!」
  今までぐったりしていたくせに音楽が鳴ったとたん二人はマイクを握り締めて弾けたように立ち上がる。
  ♪オレはスケベニンゲンじゃない、 スケベニンゲンじゃない! スヘフェニンゲンだぁー!!
(あんたたちのほうがよっぽどタフだよ)
  私は苦笑いしながらカラオケボックスのドアを閉めた。

  昼間あんなに天気が良かったのに外に出たら小雨がパラついていた。 カラオケボックスに、 かれこれ8時間くらいいたからね。 それだけの時間が経てば、 中で脳天気に歌っている間に外の天気がすっかり変わっちゃっても不思議はないよね。
  傘なんか、 もちろん持ってきてるわけないんだけど、 幸いなことに東八軒坊の駅は八軒坊銀座のどんづまりにあって、 ここからさほど離れてはいない。 コートのフードですっぽり頭を覆った私は、 人気のない夜の商店街を駅に向って駆け出した。
  駅にはものの2分足らずでついた。 でも、 なんだか様子がヘン。 普段、 客待ちのタクシーが列をなしているはずの駅前ロータリーはガランとして車が一台も止まっていない。 終夜営業の駅前コンビニのこうこうと光る白い明かりが、 やけにもの寂しく感じる。
  東八軒坊といえば宮の橋なんかと違って急行も止まるような大きな駅なんだ。 いくら夜中の12時近いっていっても、 もう終バスが出たあとのこんな夜更けなら、 終電で帰宅する酔客目当てのタクシーが必ずロータリーに止まっているはずだよ。 この駅から菖蒲端や入舸浦の方向に帰るお客さんだっているはずだよ。 なのに、 なのに、 いくらお正月っていっても、 まだ終電前なのに、 駅前に誰もいないなんてことがあるだろうか? なんだかいやな予感がする。
(なんで? なんで?)
  焦る私をあざ笑うかのように今まで小ぶりだった雨足が突然強くなる。 足を速めた私の顔に、 眼鏡に、 大粒の水滴がぶつかってはこぼれ落ちた。
  私の不安は駅の入り口に来て現実になった。
  駅は真っ暗で入り口のシャッターも、もう閉まっちゃってる。 おかしい。 私がカラオケボックスを出たのは11時45分。 だから0時10分に出る菖蒲端行きの最終にはまだ余裕をもって間に合う時間のはずなのに。
  あわてて腕時計を見る私。 そこで、 私は気がついた。 さっき見たときと同じ11時45分をさしたまんま秒針がピクリとも動かないってことを・・・。
  電池切れ? それとも故障? いずれにしても、 この時計は、 もうあてにならない。
  私はサポートコンピューターにアクセスして義眼のディスプレイに現在時刻を表示させてみた。 こういう機能を使うと嫌でも自分の身体が機械だって思い知らされちゃうし、 視界の中を数字がチラつくのもうざいし、 サポートコンピューターにアクセスした瞬間に一瞬だけ目が変な色に光るみたいで、 特に暗いところだと目立っちゃうから普段はほとんど使わないんだけど、 非常事態の今、 そんなこと言ってられない。どうせ周りには人っ子一人いないんだ。
  0:42
  視界の右下に緑色の文字が浮かんだ。
  0時42分だってさ。 ははは。 電車なんか、 とっくに終わってるよ。
  身体の力が一気に抜けた私は、 その場にへなへな座りこんでしまった。
  私の脳裏に、 昼間にひいたおみくじの「遊び・・・熱中しすぎに注意」ってコトバが浮かんだ。 カラオケは大好きだけど、 ジャスミンや佐倉井と一緒に遊ぶのも大好きだけど、 アルバイトはもっと大事なんだ。 一生懸命働いて、 お金をかせがなきゃ、 義体の検査代が払えないんだよ。 検査できなかったら、 義体の故障で、 突然死んじゃうかもしれないんだよ。 そんなに大事なことなら、 私、 どうしてもっと帰る時間に気を配らなかったんだろう。 バカバカ、 私のバカ。 ちょっと気をつければ時計が止まっちゃってることなんて、 すぐ気づいたはずじゃないか。
  今の私の気持ちを代弁するみたいに、 ずぶぬれの顔の瞳のあたりから水滴が涙みたいに頬っぺたを伝って流れ落ちた。
  ここからタクシーに乗って帰るだけのお金なんかもってるはずがない。 もし持っていたとしても、 そんな無駄金使えるわけがない。 タクシーが使えないなら家まで走って帰るしかない。
  星ヶ浦、 星修大学前、 団子坂、 宮の橋。 駅にしたら、 たったの四つ。 距離にしたら10キロないくらい。 どうせ、 私は機械女なんだ。 いくら走っても、 身体が疲れることなんかないし、 どんなにずぶ濡れになっても風邪をひくことなんかないんだ。 私、 この身体で、 ホントに良かったよ。 はは。
  正月早々、 おみくじいきなり当たりです・・・orz


  じりりりりりりりりりりりりりりりりり。
  入舸浦の露天骨董市で買った小さな赤いブリキの目覚まし時計の、 7時を告げるベルの音で私は目を覚ました。 枕元に置いてある眼鏡を手探りして掴むと、 今度は寝転んだ姿勢のまま、 右手だけ動かして、 脇腹から伸びる充電用のコンセントプラグのコードを引っ張る。 軽い手ごたえとともに壁のコンセントからコンセントプラグが外れた。
  『バッテリー残量75%』
  寝転んだまま、 天井の梁をぼんやり見つめていた私の眼に、 体内のバッテリーに蓄えられた電気の残量を報告する文字が浮かんだ。 満タンにほど遠い数値に、 思わずため息をつく私。
  昨日の夜、 終電に乗り遅れた私は、 東八軒坊から宮の橋のはるにれ荘まで雨の中を走って帰ってきたんだ。 全身ずぶ濡れになりながらはるにれ荘についた時には結局2時半をまわっていたから、 正味の充電時間が4時間もないくらい。これじゃ、 バッテリーがフルチャージになるわけない。 今日はバイトなのに、 全く先が思いやられるよね。
  朝から憂鬱になることが、もう一つ。
  たいていの人がそうしているように、 私も二度寝しないように、 わざと寝床のすぐ横じゃなくて、 寝ながらじゃ手の届かない机の上に目覚ましを置いているんだ。 で、 その目覚ましを止めるために立ち上がったついでに、 眠気を覚ますために窓を開けたんだけどさ。
(晴れてる・・・)
  長い歳月を経て、 ちょっとだけ歪んで建てつけの悪くなった窓枠をカタカタ両手で交互に揺らしながら、 ゆっくり窓を開けた私の目に飛び込んできたのは冬のやわらかな日差し。 昨日の夜、 空をあんなに厚く覆っていた雲は、 二三のきれっぱしを残して、 すっかりどこかに消えうせてしまった。
  すがすがしい朝、 なんて思えるはずがない。 結局、 あの雨は、 私が走っている間だけしか降っていなかったってことじゃないか。 トラックに水しぶきをかけられながら必死で夜中の峠道を走った昨日の私は一体なんだったんだろう。 しみこんだ雨水を拭うために、 夜中のはるにれ荘の流しで雑巾みたいにシャツを絞った昨日の私は一体なんだったんだろう。
  神社で凶なんか引かされたうえに、 雨にまでたたられるなんて、 私、 ひょっとして、 思いっきり神様に馬鹿にされてる? 正月の二日からアルバイトしなきゃいけない、 けなげで、 か弱き女子大生に向かって、 そんな仕打ちをするなんて、 神様も情け容赦ないよね。

  もうこれ以上、 外なんか眺めたくなくって、 膨れっ面で窓をピシャリと閉めた私は、 気分転換にテレビのスイッチを入れた。 どうせ、 正月三が日の朝なんて、 録画の、 世にも下らない番組しかやってないって分かってるけど、 晴れ上がった空を見上げているより、 よっぽど気がまぎれるような気がしたからね。
  そのテレビ、 三流お笑いタレントのちっとも笑えないお決まりのギャグでも流れるかと思ったんだけど、 なんだかちょっと様子がおかしいんだ。
  テレビ画面に映し出されたのは、 14インチサイズのブラウン管一面を覆い尽くさんばかりにもくもく広がるドス黒い煙。 それから真っ赤な炎。
(なんだ、 なんだ?)
  予想もしなかった画像に思わず息を呑む私。
  ヘリコプターからの中継だろうか。 テレビカメラは、 だだっ広いコンクリートの広場を、 空から見下ろしている。 画像の中心にあるのは、 翼のかたっぽがもげた飛行機の胴体。 灰色のお腹を上に向けて、 裏返しにひっくり返ったまま、 機体のちょうど真ん中くらいのところから炎と黒煙を高々と吹き上げている。 飛行機の残骸を遠巻きに取り囲んで消防車が放水しているけれど、 火勢は一向に衰える気配はない。
  余りにも非現実的な画像だったから、 私は、 はじめ、 ゴヅラか何かの怪獣映画でもやっているのかと思った。 でも、 画面にはいつまでたってもゴヅラも地球防衛軍も登場しないし、 勇ましい調子のバックミュージックが鳴ることもない。 淡々とした、 感情のこもらない平坦な口調で、 ひたすらどこの誰かも分からない名前を読み続けているアナウンスが続くだけ。
“138名の搭乗者の名前をお伝えします。 ナカタヒデヒトさん、 32歳男性。 ホンマアキエさん、 26歳女性。 イチカワサユリさん、 44歳女性。 シマダユキヤさん、 68歳男性”
  テレビ画面の下にテロップが浮かび上がる。
『全日航501便千歳行き、離陸に失敗。横転炎上』
  ここまできて、 起きぬけで、 ぼんやりしている私の頭でも、 ようやく事態が飲み込めた。
  飛行機の墜落現場だ。 ってことは、 あのコンクリートの広場は羽田空港。 墜ちたのは旅客機。
“スガワラサトシさん、 40歳男性。ク ドウフミアキさん、 17歳男性。 ノザワマコトさん、 45歳男性。 イシヌキシゲヒサさん、 25歳男性”
  次々に読み上げられていく名前。 この人たちのうち、 何人が生きているんだろうか? あの、 飛行機の状態を見たら、 正直あんまり希望がもてそうにない。
  それに、 もしも助かった人がいたとして、 私みたいな身体になってしまったとしたら、 どうだろう。 それでもやっぱり命が助かって良かったと思ってくれるんだろうか? 季節の移り変わりを肌で感じることができない、 美味しいものを食べることもできない、 悲しいときも嬉しいときも涙を流すことができない、 正月の二日でもアルバイトしなきゃ、 命をつなぐことさえできない、 機械の身体になってしまったとしても・・・。
“タナカカズマさん、 31歳男性。 タナカキヨミさん、 30歳女性。 タナカユウキくん、 4歳男性。 タナカタイキくん——“
  私はテレビを消した。 これ以上、 画面を見ていることに耐えられそうになかった。 別に、 搭乗者の家族のことを思うと胸が張り裂けそうとか、 そういうごたいそうな気持ちじゃない。 ただ、 事故の画像を見ていると、 私、 どうしても思い出してしまうんだ。 自分の肉体や家族と、 永遠に別れることになってしまったあの事故の瞬間とか、 自分の身体が機械になってしまったって知った、 あの日のこととかをね。 自分では、 もうとっくに過ぎ去った昔のことなんだって、 割り切ってるつもりだったけど、 やっぱり駄目。
  きっと今頃、 全身義体の人だけで構成された特別レスキュー隊の人たちが、 いつ大爆発を起こしてもおかしくない機内で、 危険を顧みず懸命の救出活動を続けているはず。 でも、 同じ機械の身体なのに、 私にはそんな勇気も、 能力もない。 私は、 現場から何十キロも離れた小さなアパートの中で、 テレビ画面に映る事故現場さえ直視できずに震えることしかできない臆病者だ。 みんな、 私のことを知ったら機械の身体のくせに何もできない弱虫って罵るんだろうか。 それとも、 国民の税金をなんだと思っているんだって怒るんだろうか。
  全身義体なんていう先進技術のカタマリは、 とても個人の負担で賄いきれるシロモノじゃない。 当然、 この身体の大半は、 国の補助金でできている。 月々のメンテナンス費用だって、 決して安くないけれど、 国の負担する分に較べれば、 個人負担分なんてほんのチョッピリだ。 目の飛び出るほど高価な義体を与えられて、 みんなの払ってくれる税金で生かされて、 それでも特殊公務員の道に進まなかった私は、 国に対する裏切り者なのかもしれない。 生きているだけで迷惑な存在なのかもしれない。
  でもね、 例えそうだったとしても、 私は、 死にたくないよ。 生きていたい。 ジャスミンや佐倉井と遊びたい。 恋だってしたい。 だから、 国民のみなさん、 ごめんなさい。 私は、 みんなのためには何もできないけれど、 自分が生きるために、 アルバイトに出かけます。

  今日のアルバイト先はネジ工場。 学生相談所のアルバイト紹介の掲示板によれば、 商品の簡単な運搬作業って書いてあったから、 まあ、 単純な肉体労働だよね。 ガテン系の仕事なんて、 フツーの女の子なら嫌がるのかもしれないけど、 私は結構好き。 だって、 コンビニのバイトなんかより、ずっと時給が高いもの。 もちろんホステスさんとかコンパニオンみたいな水商売系なら、 もっと給料がいいのは分かってるけどさ、 外見年齢16歳の私は、 まず見た目で断られてしまいそうだし、 だいいち、 この身体じゃ、 お酒やジュースを飲むことなんかできやしない。 そんな私にとって、 肉体労働は、 一番わりのいいアルバイトなんだ。
  肉体労働なら実入りがいいぶん身体がキツいって思うかもしれないけど、 機械の身体なら、 いくら酷使したところで、 普段より電気を多めに食うくらいで疲れを感じることはないし、 翌日筋肉痛に悩まされることもない。 腕力だって、 いくら日常生活用に義体出力を抑えられているっていっても、 並みの男の子に負けないくらいはあるんだからね。
  ま、 決して疲れない機械の身体での肉体労働なんて、 他の人が一生懸命汗水流して働いているのに、私だけ道具を使ってラクしてるみたいで、 ちょっとずるい気もするけど、 私だって、 労働のあとの美味しいご飯やビールとは無縁なんだ。 だから、 おあいこだって思うことにしてる。
  ネジ工場のある山王橋は、 小さな工場がたくさん集まった町。 私の住む宮の橋からだと、 山王川っていう二級河川のドブ川を越えてすぐの隣町だけど、 こっちの方に来る用事なんて滅多にないから、 ご近所さんとはいえ、 実は余りよく知らないんだ。 学生相談所でもらった、 縮尺のデタラメな地図に頭を悩ませつつも、 なんとなくそれらしい方向に自転車を進めていったんだけど、 細い道が、 やたらに分岐しているから、 この道で正しいのかどうか、 だんだん自信がなくなってくる。 人に聞いちゃえば早いのかもしれないけど、 道を聞こうにも、 お正月休みの真っ只中の工場街に、 外を出歩く人なんかいるわけないから、 頼れるのは自分の方向感覚だけ。  
  細い道の脇に無造作に転がっている赤錆びたドラム缶や、 道にせり出して整然と積み上げられた木箱なんかに気をつけながら、 私は、 ゆっくり自転車を走らせて、 道の両側の工場に出ている看板を一つ一つ確認していった。
  大きな工業団地なんかと違って、 このあたりの工場には塀も、 広々とした駐車場もない。 道のすぐ両側は、 小さな町工場の、 くすんだ灰色っぽい壁。 だから、 何かを叩く音やら、 金属を切る耳障りな音が、 そこかしこからひっきりなしに漏れ聞えてきそうなものだけど、 さすがにお正月だけあって、 どの工場も火が消えたみたいに静かだった。
(あった、 あった)
  なかなかお目当ての工場が見つからなくって、 おまけにどこの工場もお休みみたいだったから、 学生相談所に騙されたんじゃないだろうかって不安になりかけた頃、 ようやく目指す『セノハチネジ工業』という、 白地に黒いペンキで書かれた、 所々錆びの浮いた看板を探し当てた。
  屋根があって壁さえあればいいだろうという、 すがすがしい開き直りさえ感じられる、 真っ青なトタンの壁でできた工場。 窓は一応あるけれど、 建物の大きさにくらべたらずいぶん小さくって、 まるでトイレの窓みたい。 ずいぶん陰気な建物だなあというのが第一印象。
  この辺の工場がみんなそうであるように、 ここも個人経営の工場みたいで、 工場と母屋が繋がったつくりになっている。 母屋のほうの玄関には「瀬野」っていう表札がかかっているから、 きっと社長は瀬野八郎さんとでもいうんだろう。
  母屋と、 工場とどちらの呼び鈴を鳴らすか一瞬迷ったあと、 私は工場のほうの呼び鈴を鳴らした。
  ちょっと緊張しながら、 工場の入り口のすりガラスのついた引き戸の前で返事を待っていると、 意外なことに母屋の玄関のほうのドアが開いて、 スリーサイズがぜんぶ100cmを越えていそうな、 丸々と太ったおばさんがドアの隙間から顔をのぞかせた。  
「どちらさま?」
  私のことを新興宗教か何かの勧誘に来たんだと勘違いしたんだろうか。 おばさんは露骨に疑わしげな視線を私に向けた。
「あ、 あの、 星大の学生相談所でアルバイトの紹介をされて来たんですけど」
  私は鋭い視線に気おされたように、 二、三歩後ずさりしながらおずおず切り出した。
「ええっ! あなたが、 アルバイトさんなの?」
  おばさんは、 今度は、 肉で埋もれそうな眼を大きく見開いて驚きの声を上げた。 まあ、 これは予想通りの反応。 私って、 選ぶアルバイトがアルバイトだから、 どこに行っても初めは驚かれる。 雇い主は、 男の子が来るんだと思い込んでることが多いからね。
  おばさんは、 私が「そうです」と答える前に、 「ちょっと待ってて」と言い残してドアを閉めた。 ドスドスとあわてて廊下を走る地鳴りのような音が、 私のところまで響いてきた。
「ねえ、 なんか、 女の子が来ちゃったんだけど」
  なんて、 困ったように誰かに相談するおばさんの声も、 ドア越しに、 こっちまで聞えてきて、 思わず苦笑する私。   
  しばらくして、 再びドアが開く。 さっきとは打って変わって申し訳なさそうなおばさんの顔。  
「ごめんねー。 せっかく来てもらって悪いんだけど、 力仕事だから男の子を希望しているのよね。 こっちは、 男の子を頼んだつもりだったんだけど、 何かの手違いだったみたい。 少ないけど、 これ、 交通費」
  そう言って、 おばさんは、 千円札を一枚、 私の手のひらに押し付けた。
  女の子だったら、 働いてくれても邪魔になるだけ。 無駄な給料は払いたくないから、 できれば帰ってほしい。 そんなふうに話がついたんだろうか?
  私が女の子でも、 渋々働かせてくれるところがほとんどなんだけど、 今日はいつもと勝手が違う。 私は焦った。 ここで追い返されたら、 昨日何のために楽しいカラオケを切り上げて、 雨の中走って帰ってきたのかわからないよ。 それに、 たかがバイトかもしれないけど、 こっちは命がかかってるんだ。 千円札一枚もらったっだけで、 ありがとうございますって素直に引き下がるわけにはいかないんだ。
「わ、 私、 力なら男子に負けないつもりです。 使ってくれればわかります」
  私は押し付けられた千円札をもう一度おばさんの手に戻しながら食い下がった。 ちょっと挑発的なもの言いになっちゃったかもしれないけど、 そんなこと気にしてられない。
「とてもそう見えないけど」
  おばさんは、 私のことを値踏みするように頭から足のつま先までゆっくり眺めたあとで、 疑わしそうに、 そう言った。
  おばさんがそう思うのも無理はない。 もしも私が、 女子プロレスラーみたいな男顔負けの肉体だったら、 まだしも私の言うことを信じてもらえたかもしれない。 でも、 私、 見た目はフツーの女の子とおんなじ。 こんな細っこい腕の女の子が、 力なら男の子に負けないなんて言ったって、 滑稽なだけで、 説得力なんかまるでありはしない。 分かってる。 そんなこと、 分かってるんだ。
  でも、 義眼でも光らせてみせて、 私の身体が全身義体だってばらしちゃえば雇ってくれるかといえば、 絶対そんなことはない。 そんなことしたって薄気味悪がられるのがいいオチだ。
「信じてもらえないかもしれないけど、 ホントなんです。 もし、 役に立たなかったら、 お金は、 いりませんから。 働かせてください。 お願いします」
   私は何度も何度も繰り返し、 おばさんに向かって頭を下げた。 自分の身体が義体だってばらせない以上、 私にできるのは、 やる気と誠意を見せることだけだもの。
「いやー、 そう言われても私も困っちゃうんだよねえ」
  おばさんは、 すがるような眼つきで必死に食い下がる私から眼をそらすと、 困ったように曖昧に笑った。
  しばらく玄関先で、 そんなやり取りを繰り返していただろうか。 不意に背後の工場のドアが開く音がして、 私はあわてて後ろを振り返った。
(誰だろう)
  振り返った私の目の前に、 油で所々黒ずんでいる青い作業服を着た、 おじさんが立っていた。 背は、 私と同じくらいで、 男にしては小さいかもしれないけど、 腕も首も眉毛も、 何から何まで太い、 がっしりした体つきのおじさんだった。
  おじさんは、 鷲か鷹を思わせる鋭い目つきで、 ちらりと私を一瞥したあと、
「来な」
  と短く一言だけ言うと、 くるりと私に背を向けて、 工場に入っていった。
  私はおずおず、 おばさんのほうを振り返る。
「全く、 あの人は・・・」
  おばさんは、 あきれたように軽く笑って、 そうつぶやいたあと、
「行ってきなさい」
  と言って、 私の肩を押した。 

  工場の中は、 ちょうど私が通っていたような1クラス40人くらいの学校の教室を横にぶち抜きで二つ繋げたくらいの大きさ。 でも、 何に使うかよく分からないけど、 薄緑色のレバーがたくさんついた、 いかにも機械らしい機械が何台も置いてあって、 そのせいで、 広さの割には随分狭く感じた。
  私は、 足元にでたらめに這い回るコードを踏まないように気をつけながら、 おじさんの後ろをついて歩く。
「あ、 あの、 私、 ここで働いてもいいってことですか?」
  ずーっと黙って歩くのも気まずかったから、 私はおじさんの背中越しに遠慮がちに声をかけてみた。 でも、 おじさん、 何も答えてくれない。 私のことを振り返りもせず、 機械の隙間を縫うように早足で歩いていくだけ。
(何も無視しなくたっていいじゃないかよう)
  むっとした私は、 心の中でアッカンベーをした。
  この人が、 さっき私を追い返そうとした張本人だよね。 私をフツーの女の子だと思って馬鹿にしてるに決まってるんだ。 大方、 重いものでも持たせて、 私を試そうっていうんだろう。
(ふん、 今に見てろ。 今、 その気難しそうなへの字口が、 あんぐり開いて、 間抜け面をすることになるんだからね)
  私は、 パドックで気合充分、 荒々しい鼻息をはきながら、 今か今かとスタートを待ち構える競走馬みたいな気分で、 おじさんの背中をにらみつけた。
  
  ようやくおじさんが立ち止まったのは、 工場の一番奥の本棚のお化けみたいな大きな棚が何列も並んでいる一角。 棚の中には、 ダンボール箱が、 隙間無くぎっしり収められている。
「この箱を、 棚から引っ張り出して、 持ち上げる。 一人でできるか? 無理なら、 邪魔になるだけだから、 この仕事はあきらめろ」
  おじさんは、 一番手近な足元にある箱を指差しながらそんなことを言う。 案の定、 私をテストする気だね。
  箱の大きさは、 幅はギリギリ両手で抱えられるくらい、 高さは、 箱を抱えたら、 箱のてっぺんが丁度頭のてっぺんと同じくらいになりそうだった。 中に何が入ってるのか知らないけど、 確かにフツーの女の子なら、 持ち上げられそうもない。 フツーの女の子なら、 ね。
  でも残念でした。 私は異常な女の子なんだ。 たとえ中に本みたいな重いものがぎっしり詰まっていたとしても、 この程度の大きさなら私にとって持てない大きさじゃない。 箱の大きさを見て、 私が怖気づくとでも思ったんだろうけど、 そうはいかないんだから。
「これくらいなら、 まあ、 なんとか持てると思います」  
  私は、 箱をポンポン叩きながら、 つぶやく。
  緊張感のかけらもなく、 スイカの中身でも確かめるかのような私の仕草を見て、 おじさんの口元がわずかに緩んで、 その分だけ皺が深くなる。 おじさん、 今、 笑ったね。 私が強がりを言ってるだけだと思ってるね。
  論より証拠だ。 私は、 しゃがみこんでダンボール箱を引き出すと、 両手で抱えた。 中にはモノがいっぱい入ってるんだろう。 さすがにズシリと重い手ごたえを両腕に感じた。 でも、 まだまだ私の義体出力からすれば、 余裕がある。
  顔色一つ変えずに 箱を持ち上げる私を見て、 おじさんの顔から笑いが消えて、 その代わり太い眉毛のはしっこが、 ぴくっと動いた。 表情は変えなかったけれど、 ゼッタイ驚いてる。 ふふふ、 でも、 まだまだ驚くのは早いよ。 本番はこれから。
「これでいいですか?」
  私は、 バーベルでも持ち上げるみたいに肘をびしっと伸ばして箱を掲げ上げた。 そして、 まだ余裕なんだぞって分からせるために、 笑ってみせたんだ。 いつもなら、 こんな馬鹿な真似はしないんだけど、 この気難しやのおじさんの驚いた顔が見たくって、 ついつい調子に乗ってしまった。
  笑顔の私と高く持ち上げた箱を交互に見比べるおじさんの顔は、 驚きをとっくに通り越した、 あきれ顔。 作業服の胸ポケットから取り出したタバコに火をつけるのも忘れて、 呆けたようにあんぐり口を開けている。 しばらく、 金縛りの魔法でもかけられたみたいに、 そのままの姿勢で固まったあとで、 ようやく我にかえって
「わ、 わかった、 わかった。 充分分かったから、 箱を下ろせ」
  うろたえたような上ずった声で、 やっと、 それだけ言った。
  どうだ、 まいったか。

  こんな力が出せるのは、 私の身体が機械だってことの証明みたいなもの。 だから、 この男まさりの腕力、 昔は大嫌いだった。
  でも、 義体ってこと以外に何のとりえもない私が手っ取り早くお金を稼ぐには、 やっぱり義体の力を借りるしかなかったんだ。 それで、 大学に入ってから力仕事のアルバイトを嫌々はじめたんだけど、 慣れてくると、 これはこれで結構楽しい。 義体の力がいくら強いっていっても、 一般生活用にリミッターがかかっているから、 力はあくまでも人間の常識の範囲内。 義体だってばれない限りは、 気味悪がられることはないし、 それどころか、 女の子なのにすごいねーって、 みんな驚きながらも褒めてくれるし、 頼りにもしてくれる。 ホントは私がすごいんじゃなくて、 イソジマ電工製の義体がすごいだけなんだけどさ、 それでも、 人から頼られたり、 驚かれたりすることに嫌な気分はしないよね。
  だけど、 このときの私は図にのりすぎた。
  予定通り、 おじさんのへの字口をこじ開けることができたことに気分を良くした私は、 つい気が緩んで、 持ち上げた箱を胸の位置から放り出すように床に落としたんだ。
  それを見ていたおじさんの顔、 みるみる真っ赤になって、 太い眉毛がつりあがって、 次の瞬間、
「バカヤロー!!」
  カミナリが私の頭の上に思いっきり落ちていた。
「ひっ!」
   怒鳴られた私は、 さっきまでの得意げな顔はどこへやら、 情けない声を出して、 亀の子みたいに首を縮めた。
「貴様っ! この部品が何か分かってるのか!」
   おじさんは、 箱についていたラベルを乱暴にびりっと剥がすと、 私の鼻先につきつける。 私はおじさんの剣幕におどおどしながらも、 そのラベルに書いてある文字を眼で追いかける。
(イソジマ電工義体専用ネジ、 納入先、 イソジマ電工・・・。 使用義体形式CS-20・・・)
  これってまさか——まさか——
  私は、 驚きのあまり、 声も出せなかった。 おじさんの手から、 そのラベルをひったくるようにして取ると、 そこに印刷されている小さな文字をじぃっと見つめた。
  なんて偶然なんだろう。 ラベルに書かれていたのは、 私のよく知ってるメーカー名。 私のよく知ってる商品名。 この箱の中に入っているのは、 私が使っているのと同じ、 イソジマ電工のCS-20形義体に使うネジなんだ。
  私が、 そのラベルに書いてある言葉が理解できなくて固まってしまった思ったんだろうか。 おじさんは、 私に向かって説明をはじめた。
「義体って知ってるだろ。 事故とか、 病気とかで身体を失くしてしまった人のための機械の身体だ。 これはな、 その義体を作るのに使うネジなんだ。 つまり、 人様の命を預かる大切なネジってことだ。 人の身体も同然ってことなんだ。 もっと大切に扱わんか!」
   最後に、 おじさんは、 もう一度私を怒鳴りつけた。
   私は、 とてもおかしな気分だった。 おじさんに思いっきりカミナリを落とされて、 しゅんとしてしまっている自分がいる一方で、 喜んでいる自分もいる。 いや、 むしろ、嬉しさのほうが大きいかもしれない。
   だって、 おじさん、 義体用のネジを、 人の身体の一部も同然で、 もっと大切に扱えって私を怒ってくれた。 人の身体でも何でもない、 ただのネジなのに、 義体に使う部品だからって、 人の身体のように思えって言ってくれたんだよ。 自分には、 ホントの身体なんかなくって、 私の身体のように見えるコレは、 ただの機械のカタマリ。 事あるごとに、 それを思い知らされるばかりの私にとって、 そんな嬉しい言葉が他にあるだろうか?
  私の身体に使われているネジも、 きっとこの工場の人たちが作ってくれたんだ。 私の命の恩人は、 吉澤先生やタマちゃんだけじゃない。 この人だって私の命の恩人。 義体を組み立てるたくさんの人がいて、 その部品を作るもっともっとたくさんの人がいて、 そうして、 いろんな人の力が合わさって私は命をもう一回もらったんだって、 今更ながら気がつかされたんだ。
「ありがとうございます!」
  私は思わずおじさんに向って深々と頭を下げていた。 だって、 私、 嬉しかったんだ。 お礼を言わなきゃ気がすまなかったんだ。 たとえ義体でも人の身体とおんなじ。私の身体に使われているちっぽけなネジの一本一本に、 そんな想いが詰まっているってことが分かったんだもの。 この義体のネジは、 ただ機械部品を繋ぐためのものじゃない。 きっと、 もっと大きな何かを繋ぎとめてくれている。 私、 そんな気がした。
  でも、 顔を上げて、 ぽかんとした表情のおじさんと眼があって、 私は自分がとてもヘンなことを言ったことに気がついた。 おじさんは、 私が、 まさにその全身義体障害者なんだってことを知らない。 ネジを雑に扱って、 怒鳴られているのに、 何でお礼を言ってるんだろう、 変な子だな、 なんて思ってるよね、 きっと。
「あ、 いや、 その、 本当に、 すみませんでした」
  あわてて、 もう一回、 神妙な顔つきで頭を下げる私。
「人の身体に使われる部品なら、 人の身体も同然。 本当にその通りだと思います。 私は、 ただネジを投げたんじゃなくって、 人を放り投げたのと同じことをしてしまったんだと思います。 だから、 私はホントは、 このネジを作った人だけじゃなくて、 このネジを使うことになる人にも謝らなきゃいけないんです。 本当に、 本当に申し訳ございませんでした」
  許してもらえなくてもいいや。 もう、 ここで働けなくてもいいや。
  私、 いつの間にか、 そんな気分になっていた。 決して投げやりになったからじゃないよ。 だって、 私、 それだけのことをしちゃったんだし、 おじさんが怒るのも当然だ。 私が、 ここで働く資格なんかないこと、 よく分かってる。
  許してくれなくってもいい。 私は謝りたい。 心をこめてネジを作っているおじさんにも、 それから、 これからこのネジを使うかもしれない全ての人に対しても。 私の義体は、 法律の上では、 ただのモノにすぎないかもしれないけど、 でも気持ちの上では私の身体も同然。 私のかけがえのないパートナーなんだ。 私だって、 やっぱり自分のパートナーが雑に扱われたら嫌だもんね。 ごめんなさい。
  それから、 おおっぴらにはいえないけど、 ありがとうおじさん。 おじさんみたいな人が、 私の体の一部を作ってくれているってわかっただけでも、 なんだか生きていく勇気が湧いてきた気がしたよ。
  私は、 頭を下げながら、 そんなことをずーっと考えていたんだ。
  しばらくの沈黙の後、 おじさんは、 手に握ったままの煙草に思い出したように火をつける。 そして、
「ま、 分かればいいってこった」
  そうつぶやくと、 美味しそうに煙を吐き出した。
「ところで、 お前、 靴のサイズはいくつだ?」
  煙草の吸殻を灰皿代わりのコーヒー缶に入れながら、 おじさんは私に聞いた。 なんなんだろう、 藪から棒に。
「24センチです」
  いきなりの質問に、 戸惑い気味に答える私。
「ちょっと、 ここで待ってろ」
  おじさんは、 私の言葉をきくなり、 そう言い残してこの場から立ち去った。

  しばらくして戻ってきたおじさん、 両手に一つずつ黒い靴を持っている。
「ほれ」
  おじさんは、 私の足元に、 きちんと揃えて靴を置いた。
「あの、 これは・・・」
「安全靴だ。 つま先のところに鉄板が入ってる。 それ履きな。 もしさっきの箱がお前の足にでも落ちたら、 どうなってたと思ってる! ヘタしたら骨折するぞ! 作業するなら、 きちっとした靴をはかないとな」
  そう言って、 おじさんは白い歯をむき出しにしてニヤっと笑った。
「それじゃあ・・・」
  私は息を飲んでおじさんの顔を見つめる。
「——いいよ。 雇ってやる」
  おじさんは、 なんだか照れくさそうに鼻の頭をこすった。
「だがな」
  急に厳しい顔に戻るおじさん。
「もう一度、さっきみたいな真似をしてみろ。すぐたたき出すからな」
「ハ、ハイ」
  あわてて背筋を伸ばす私。
「お前、名前は?」
「や、八木橋裕子と言います!宜しくお願いします!」

  安全靴のヒモをしっかり結んで、 続いておじさんが持ってきてくれた軍手をはめて、
「男物しかないけど、 サイズは合うか?」
  と苦笑いしながら手渡してくれた、 おじさんが着ているのと同じデザインの、 胸に小さくセノハチってオレンジ色の糸で刺繍がしてある青い作業服の袖に腕を通す。 これで、 たちまち私も立派なガテン系の女の子にヘンシン。
「おっ! 女の子がこの服を着ているのを見るのははじめてだけど結構板についてるな。 さすがに、 こういう仕事をやり慣れてるって言うだけのことはある」
  おじさんは作業服姿の私を見て、 腕組みしながら感心したようにうなづいた。 でも私はフクザツな気分。 おじさんは褒めてくれたつもりなのかもしれないけど、 綺麗な服を着ていて似合ってるって言われるならまだしも、 こんな服を着ている姿が板についてる、 なんて言われても、 ちっとも嬉しくないよね。
「私、 どんな仕事をすればいいんでしょうか?」
  私は、 苦笑いしながらおじさんに聞いてみた。 大学からは、 簡単な運搬作業ってことしか聞かされていない。 試験代わりにあんな箱を持たされるなんて、 今日のバイトは一体どんなことをするんだろうって気になったからね。
  おじさんは、 うむ、 と軽くうなづくと説明をはじめた。
「正月明けすぐに新しい機械を入れることになった。 だから、 それを置くスペースを作らなきゃいけないってわけだ。 で、 ここ」
  おじさんは、 私たちの立っている、 棚の並んでいるあたりをぐるりと見回した。
「今、 ここにネジやネジの材料になる鉄板とかステンレス板が置いてある。 これを全部裏の倉庫に持っていく。 簡単だろ。 この程度の作業で正月から社員を呼ぶのも面倒だからアルバイトを雇うことにしたってわけだ」
  おじさんは 私を手招きすると、 私たちが入ってきた入り口とは反対側の裏口のドアを開けた。
  倉庫は工場のすぐ裏手にある、 工場と同じようなつくりの青トタンでできた建物だった。 でも、 窓はゼンゼンないから中は昼間なのに真っ暗。
  パチン。
  おじさんが倉庫の電気をつける。
  蛍光灯の白い明かりに照らされた、 ちょっとしたコンビニくらいの広さの倉庫の中には、 図書館みたいに、 工場の中にあったのと同じような棚がいくつもいくつも並んでいた。
  おじさんは、 つかつかと一番近くの棚に歩み寄る。 後ろをついていく私。
  図書館みたいっていったけど、 近づいて見ると上中下三段に分けられた棚自体は図書館の本棚なんかよりずっとごっつくて大きい。 上段なんて、 私が背を伸ばしてやっと届くかどうかっていう高さだ。
「さっき八木橋が持ち上げた箱にラベルがついていただろ。 ネジの入っている箱には全部あんなふうにラベルがついてる。 で、 ラベルに印刷されている商品番号と同じものが、 こっちの棚にもそれぞれ貼ってある。 向こうから持ってきた箱を、 こっちの棚の同じ商品番号のラベルが貼ってあるところに入れる。 いいか、 間違えるなよ。 同じメーカーへ納品するネジでもいくつも種類があって、 それぞれ商品番号が違うから、 商品番号は下一桁まで、 しっかり見て確認するように」
  おじさんは、 棚に貼られたラベルを指で指し示しながら言った。
(なるほど。 商品番号が重要・・・と)
  心にしっかり刻み付ける。
「えと、 棚は三段になっていますけど、 一番上の段まで私の背、 届きません」
  私は棚を見上げながら苦笑い。 いくら力があったって背が届かなきゃ箱を置くなんてことは物理的に無理だよね。
「そのときは、 あれを使え」
  おじさんが指差した倉庫の隅には脚立が置いてあった。なるほど。
「ま、 上の段の作業は俺も手伝ってやるから、 とりあえず一段目と二段目からうめていきな。 脚立に登りながら重い箱を持つなんて芸当は、 さすがの八木橋サンでも難しそうだからな。 じゃ、 頑張れ」
  おじさんは私の肩をポンと叩くと、 そそくさと倉庫から消えていく。
(まだ私の力が分かってないみたいだね。 いいよ。 三段目も一人で全部終わらせて、 おじさんを驚かせてやるんだから)
  私は、 倉庫の中で一人ほくそ笑んでいた。

  作業自体はおじさんの言うように簡単なもの。 でも、 実際やってみると、 思った以上に大変な作業だってことが分かった。 別に重たい箱を持ち運ぶのが大変ってわけじゃない。 並みの男の子なら音を上げちゃうくらい重くて大きな箱でも、 全身義体の私にかかれば鼻歌交じりに発泡スチロールの固まりでも持ち運ぶような感覚で簡単に持ち上げることができるんだ。 それに、 さっき私が試しに持ち上げた全身義体用のネジが入った箱は特別大きかったみたいで、 あそこまで大きい箱は実はそんなに多くなかったしね。
  やっかいなのは箱を倉庫に持っていくことよりも、 倉庫の中で、 その箱を収めるべき正しい位置を探し出すこと。 こんな小さな町工場でも、 作っているネジの種類は私が思っている以上にたくさんあって、 私は持っている箱のラベルと、 倉庫の棚に貼ってあるラベルを交互に見比べながら、 迷路の中に放り込まれた
ハツカネズミみたいに倉庫の中をあちこちウロウロしなければならなかった。
  でも、 大変なことは大変だけど、 ネジの中には誰でも知ってる超有名電機メーカーの製品に使われるものもあったりして、 例えば、 私が今運んでいる電子ジャー用のネジは、 将来どんな家にいってご飯を炊くことになるんだろう、 なんて思いをめぐらせたりして、 私と社会が繋がっているんだって実感できるのは決して悪い気分じゃないよね。
 
  はじめ、 工場からいちいち一つ一つ箱を持ってきては倉庫の棚に入れていた私だけど、 工場と倉庫を何度も出入りするのは面倒だから、 作戦を変えることにした。
  工場にある箱をいったん全部倉庫の中に運び入れてしまう。 倉庫の入り口のあたりに、 ちょっとしたスペースがあるから、 とりあえずいったんそこに箱を積み上げちゃうんだ。 そして、 脚立を使わなきゃいけないやっかいな三段目の棚は後回しにして、 とりあえず一段目と二段目の棚に入るべき箱を片付けていく。
  普通の身体なら、 一時間くらい働いたらちょっと疲れたから小休憩ってことになるのかもしれないけど、 義体なら疲れを感じることもないから作業はすこぶる順調。 時折倉庫にやってきては、 仕事のはかどりっぷりに目を丸くするおじさんを横目で見て、 なんだか自分が義体であることが誇らしげな気分になっていた。 いつもいつも、 この機械の身体にコンプレックスを感じてばかりだけど、 こうして作業に没頭していれば、 そんなことは忘れてしまえるし、 こうやって人の役に立つことができるんだ。 だから、 どんなに友達に変わり者って思われようが、 私はこういうアルバイト、 好きだよ。
  
  こうして、 お昼前には、 三段目を残すばかりになっていた。
  お昼の休憩を挟んで作業再開。 いよいよやっかいな三段目にとりかかる。
  まず一番手前の棚から埋めていくことにした私。 脚立を登って、 棚に貼られたラベルを確かめる。
(あ・・・)
  そこに、 書かれた文字に私は思わず息を呑んだ。
『イソジマ電工義身体専用ネジ、 納入先、 イソジマ電工。 使用義体形式CS-20。 20ケース4000個入り』
(例の義体用のネジだ!)
  私は、 脚立から飛び降りると、 さっき工場でおじさんに向かって抱えてみせた、 ひときわ大きな箱を探す。 そして、 ちょっと緊張しながら、 ゆっくり抱くように持ち上げた。
 ここにあるネジは、 どのネジ一つ取っても世の中の役に立つとても大事なネジ。 だけど、 この義体用のネジは、 全身義体の私にとってはやっぱり一番大事。 将来人の命を繋ぐことになるかもしれない部品。 人の命そのもの。 心を込めて丁寧に運ばなきゃと自分に言い聞かせながら私は脚立を登っていった。
  ちょうど、 その時だ!
『バッテリー残量50%、 節電モードに移行』
  私の視界の片隅を電気が切れかかっていることを警告する赤い文字が流れていく。 次の瞬間、 私は箱を抱えていた右腕に、 妖怪こなきじじいがぶら下がりでもしたかのような重さを感じて、 思わず箱を取り落としてしまった。
(しまった!)
  どん!
  重たい箱が床に落ちる鈍い音に、 思わず一瞬目をつむってしまう私。 上下逆さまに落ちた箱の中から、 安っぽいお弁当箱みたいな、 ネジを収めた半透明のプラスチック製のケースが、 いくつもいくつも雪崩みたいに溢れ出ていった。
  それだけでも充分冷や汗ものの大失敗。 なのに、 神様はまだ私を苛めたりないらしい。 床に落ちたショックで、 一つのケースのフタが開いちゃって、 中から、 ざらざらざらざら大粒の雨が降るような音をたてながら、 銀色のネジが倉庫の床一面に散らばっていく。
(どどどど、 どうしよう、 どうしよう、 どうしよう)
  あわてて脚立から飛び降りた私だけど、 まるでバケツで水をぶちまけたみたいに床一面に広がったネジを見つめたまま、 どうすることもできず立ち尽くすばかり。
  よりによって、 こんな時に節電モードになっちゃうなんて、 私ってなんてついてないんだろう。 それも、 私にとって一番大事なはずの義体用のネジを運んでいるときに・・・。

  義体の動力源はバッテリーに蓄えられた電気。 だから、 生身の身体のヒトがご飯を食べなかったら力が出なくなっちゃうのと同じように、 私たち全身義体障害者は電気がなくなったら当然身体を動かすことはできなくなっちゃう。 私のように一般生活用に使われる義体だとバッテリーに貯蔵できる電気の量はそんなに多いわけじゃない。 たとえ満タンでも普通に生活しているだけで二三日。 もしフルに身体を動かし続けたとしたら24時間くらいしかもたない。
  もちろんバッテリーに蓄えられた電気がなくなっても最低限の生命維持用の電力は補助電源から供給される仕組みになってるらしいからしばらくの間は死ぬことはないし、 たとえ誰もいない山奥で電気が無くなって行き倒れになっちゃったとしても頭についてるアンテナからイソジマ電工のカスタマーセンターに向かって救難信号が発信される仕組みになっていて、 カスタマーセンターの人が私を探し出してちゃーんと助けてくれることになってるんだけどさ、 だからといって、 毎回電気がなくなるたびにぶっ倒れてカスタマーセンターの人に迷惑をかけてるわけにはいかないよね。 突然死んだように動かなくなって、 そのせいで自分の体の事がバレても困るし。
  そういうことを防いで、 少しでも長く義体が活動できるようにするために、 バッテリーに蓄えられている電気の残りが50%を切ったら自動的に節電モードに移行することになっている。 節電モードになると、 ごく自然な人間らしい体温を維持するための機能とかエッチをしたときの性感信号とか、 そういう人間らしさを装うためのお飾りの機能がまず制限されちゃう。 それから、 義体出力にもリミッターがかけられて、 ある一定以上の力が出せなくなるようになっちゃう。 今まで軽々と運んでいた箱なのに、 突然重さを感じるようになって、 落としちゃったのはそのせいなんだ。
  昨日はさんざんぱらカラオケで騒いだあげく時計が止まっていたせいで終電に乗り遅れて走って家に帰るなんて真似をしちゃったから電気をいつもよりたくさん使ってた。 家に帰ってから一応充電はしたけれど、 朝起きた時でもまだバッテリーは満タンにはほど遠い状態だったんだ。 なのに、 こんな力仕事をしたら、 すぐ節電モードになっちゃうに決まってるよね・・・。 電気の残りの量には気をつけるようにいつも松原さんから口酸っぱく注意されてるっていうのに、 調子に乗って重いものを運びまくって、 そんな基本的なことが頭からすっぽり抜けちゃうなんて、 私って何て馬鹿なんだろう。
(今度同じことをしたら叩きだすからな)
  ふと、 さっきのおじさんの厳しいコトバを思い出して身震いする私。
  あれだけネジを大切に、 人の身体のように扱えって繰り返したおじさんのことだ。 もし、 私がまた義体のネジの入った箱を落としちゃった、 なんて知ったら、 今度こそ間違いなくクビなんだ。
  私は看守の出迎えを待つ死刑当日の死刑囚みたいな絶望的な気分で倉庫の入り口のドアを見つめた。
  けれど、 おじさんはいつまでたってもこっちに飛んでくる様子はない。 今の箱が落ちる音、 どうやら隣の工場にいるおじさんにまでは届かなかったみたい。
(助かった・・・)
  胸を押さえてほっと安堵のため息をつく私だけど安心するのはまだ早い。 私が箱を落としてネジを床にこぼしたってバレないように、 今のうちに早く片付けなきゃ。 こんなところで、 ぼーっと突っ立ってる場合じゃないよ。
  私は足元に転がっている、 中のネジをすっかりぶちまけて空になったケースを拾い上げた。 ケースには、 『二百本入り』というラベルが貼ってある。
  要は、 床に落ちたネジを二百本拾い集めてこのケースに入れればいいってことでしょ。 それで万事元どおり。 大丈夫、 ちゃーんと二百本、 見つかるに決まってるよ。
  私は作業服を腕を捲りをすると床に四つんばいになって、 散らばったネジを一本一本数えながらケースに入れていく。 作業服の膝のところが白く汚れちゃったけど、 そんなこと気にしてる場合じゃない。 早く全部拾わなきゃ。 おじさんが来ないうちに一秒でも早く。
  ほとんどのネジは脚立の近くで一かたまりになっていたから、 百九十本くらいまではあっという間にケースの中に収まった。 苦労したのは残り十本を切ってから。 ネジの頭は丸いから、 落ちどころが悪いと棚の下とか倉庫の隅っことか、 とんでもないところまで転がっていっちゃう。
  私は床に頬っぺたをこすりつけんばかりに近づけて、 棚の底を覗き込んでは、 作業服を埃だらけにしながら棚の底に腕を突っ込んで、 ネジを一つ一つ拾い上げていく。 棚の底なんて、 光がほとんど差し込まなくて真っ暗だけど、 それでも私の機械の眼にかかれば丸見えだ。 どんなところに隠れたってゼッタイ探し出してやるんだからね。

  そして、 十数分という時間が経過。
  埃まみれになりながら見つけたネジの数は百九十九本。 百九十九本目のネジを見つけ出してから、もう五分が過ぎていた。 あと一本、 あと一本がどうしても見つからないんだ。 見つからないんだよう。
(ひょっとしたら、 数え間違えただけで、 もう二百本集めてるのかもしれない)
  私は藁にでもすがる思いで、 ケースの中に入れたネジをもう一度イチから数え直してみた。 でも、 やっぱり一本足りない。 どう数えても百九十九本しかない。
『探し物、 見つかりません』  
  昨日引いたおみくじに書いてあった不吉な言葉が唐突に頭に浮かんだ。 これだけ探しても見つからないなら、 もう、 自分で見つけるのはムリなんだろうか?
(私は、 おじさんの言いつけをちゃーんと守ってネジを大切に扱ってたじゃないか。 悪いのは私じゃなくて私の義体だよ。 義体が私の言うことを聞いてくれなかっただけなんだから、 しょうがないよ。 私は悪くない)
  途方にくれる私に、 頭の中にいるもう一人の私がささやく。
  そうだよ。 義体がいきなり節電モードになっちゃうからいけないんだ。 私は悪くない。
(それに、 どうせ、 誰に見られたわけでもないんだ。 このまま黙ってれば分からないよ)
  このまま放っておく。 そして、 何食わぬ顔をして作業を進めちゃう。 黒ヤギーの提案は、 とても魅力的だった。 幸い、 おじさんにはバレていない。 そ知らぬ顔をしていれば怒られることもクビになることもない。
  私はネジが一本足りないケースを元通りに箱に収めて、 もう一回箱を持ち上げた。 さっきまでなら片手で箱を抱えて片手で脚立を握るなんてことができたけど、 節電モードになった身体では、 もうそんなことはできない。 両手でようやっと箱を抱え上げて、 うまくバランスをとりながら脚立をよじ登る。
  でも・・・でも、 やっぱり・・・
  脚立を三段登ったところで、私の足が止まった。
  ひょっとして、 このネジのことを何も知らされてなかったとしたら、 頭に住み着いた黒ヤギーの言うがまま、 おじさんには黙っていることができたかもしれない。 それで何食わぬ顔して働いてアルバイト料をもらって、 満足して家に帰ることができたかもしれない。 私だって自分が一番可愛いんだ。 バカ正直に本当のことを話してバイト料をふいにしちゃうことはないんだ。 せっかく頑張ってここまで働いたんだもの・・・。
  でも、 私は、 このネジが義体に使われるネジだって知ってしまった。 私の義体にも使われているネジだって知ってしまったんだよ。 もしも、 ネジが一本足りなかったせいで、 ホントなら完成するはずの義体が完成しなくて、 そのせいで助かるはずの命が一つ失われたらどうする? そうなったら私は人殺しだ。 直接手を下さなくたって私が殺したのと同じことなんだ。
  私はもう一度後戻りすると、 箱をそっと床に置いて、 思わず自分の顔を両手で覆った。 節電モードになって体温維持機能の切れた私の顔は、ひどく興奮しているはずなのにひんやり冷たかった。 そう、 今の、私の身体は機械仕掛け。 この義体のお陰でやっと生きられてるくせに、 自分のミスを義体のせいにして私は悪くないなんて、 そんなことがよく言えたもんだ。
  私のせいじゃない——そんなふうに言い訳して知らんふりするなんて、 最低の人間のすることだ。 そんなことしたら私を信じて雇ってくれたおじさんを裏切るだけじゃなく、 義体の人たちみんなを裏切って、 大切な自分の身体さえも裏切ることになるんだ。 そんなこと私にはできないよ。 身体がこんなふうに冷たくなってしまっても、 心まで冷ややかになんかなれっこないんだ。
(ちゃんとホントのことを話しておじさんに謝ろう)
  私は立ち上がって、工場に向かってとぼとぼ歩きはじめた。
  怒られるかもしれないし、 アルバイト料ももらえないかもしれない。 でも、 私がホントの事を言えば、 少なくともおじさんは新しいネジを作ってくれるだろう。 そして、 私が、 身体だけじゃなく心まで人でなしになることもないんだ。
  私は、 ありったけの勇気をふりしぼって、 工場の入り口のドアノブをまわした。

  おじさんは、 私が中身を持ち去って、 空になった棚を片付けているところだった。
「おう、 八木橋。 どうした、 作業は順調か?」
  おじさんは、 棚を止めているネジをドライバーで外しながら言った。
「あ、 あの・・・」
「どうした」
  おじさんは、 ようやく私に向かって顔を上げた。 その、 おじさんの太い眉毛と鋭い目を見ていたら、 やっぱり私は怖気づいちゃって、 後に続く言葉を出せなくなった。
「なんだ、 黙ってちゃ分からないぞ」
  おじさんは苛立ったようにそう言うと、 再び棚のネジを外しはじめる。
  正直に言うんだ。 頑張れ私。 私は両拳をぎゅっと握って唇をかんだ。

「わ、 私・・・」
  ついに思い切って私が口を開きかけたそのとき、
「ちょっと、 あなた、 あなた」
  太っちょのおばさんが血相を変えて母屋に繋がる廊下からバタバタ大きな足音をたてながら工場に入ってきた。 よっぽど急いできたんだろう。 おばさんの声は荒々しい息で途切れ途切れ。
「あなた、 大変。 今、 イソジマさんから、 電話があって、 CS-20義体用の、 ネジ、 四千本、 大至急、 工場まで届けてくれ、 だって」
  よりによって私がなくしちゃった義体用のネジが必要になるなんて、 私って何て間が悪いんだろう。 それも四千本だってさ。 ちょうどさっき私がこぼした箱、 一箱ぶんじゃないか。おばさんの言葉を横目で聞きながら思わず頭をかかえる私。 だけど、 よくよく考えたらとってもヘンだ。
  今はお正月。 お正月なら、 いくらイソジマ電工の工場だってお休みのはず。 急に義体を作らなきゃいけない、 なんてことがあるだろうか? しかもネジが四千本分の義体だなんて・・・かなりの数だよね。
(あ・・・!)
  私は朝に見た映像を思い出して、 思わず叫びそうになる。
  私の頭の中に、 滑走路の真ん中で飛行機がひっくり返って炎を吹き上げている今朝の凄惨な光景が鮮明に浮かび上がった。
  あの事故だ。 あの事故のせいで緊急に義体が必要になったんだ。 あの飛行機の様子を見たら、 私みたいな素人でも五体満足で助かる人はそんなに多くないだろうなってことくらい想像できる。 義体化しなければ命が助からない人だって、 きっと何人もいるはずなんだ。 普通の病院に常備されてる標準義体だけじゃ、 とても足りないくらいね。
  おじさんは、 すぐさま、 工場のはじにあるデスクがいくつか並んでいる一角に走る。 そして、 その姿に似つかわしくない慣れた手つきでコンピューターを操ると画面を見つめながら力強くうなづいた。
「四千本? よかった。 CS-20用の義体のネジなら在庫ストックがちょうど四千本分あるはずだ」
  ゼンゼンちょうどよくない。 あの箱の中のネジ、 一本たりないんだよう。 言わなきゃ。 私、 一本ネジをなくしちゃったって言わなきゃ。
「あの・・・、 わ 「八木橋!」
  私がもう一度おずおず口を開いた瞬間、 おじさんの声が上からかぶさった。
「ハ、 ハイ」
  思わず気をつけの姿勢で返事をしてしまう私。
「さっきの義体用のネジの入った箱、 分かるな? 悪いが、 あの箱を丸ごとここまで運んできてくれ」
「わわわ、 わかりました」
  おじさんの言葉の勢いに気おされて、 私は、 まわれ右して倉庫のほうに走ってしまう。 倉庫のドアを閉めた私はドアによっかかったままの姿勢で頭を抱えて床に崩れ落ちた。

  どうしよう。 言いそびれちゃったよ。 今更、 私ネジなくしちゃいました、 なんて言えるわけないよ。
  もう一回落ち着いてこの中を探す?
  でも、 さっきあれだけ探したんだ。 そんなカンタンに見つかるとも思えない。 ネジはすぐに必要なんだ。
  やっぱりそしらぬ顔してネジが一本たりないこの箱をおじさんのところに持っていっちゃおうか?
  駄目だ、 駄目だ。 駄目駄目。 人の命がかかっているんだ。 そんなことできるはずがないよ。
  じゃあ私、 どうすればいいんだ? どうする? どうする? どうする?

  名案なんか思いつくわけないのに気ばかり焦って、 今度はあてどもなくウロウロ倉庫を彷徨う。 足元がお留守になって、 何かに蹴つまづいて転んだ。
(痛いじゃないかよう)
  こんな時に転んじゃうなんて泣きっ面に蜂。 私は苦々しい思いで私を転ばせたモノを睨みつけた。
  私を転ばせたものの正体は30cmくらいの細長くて頑丈そうな黒い箱。 なんの気なしにその箱をあけると、 いかにもネジ工場らしく中にはいろんな大きさのドライバーが入っていた。
 (ドライバー?)
  ふと手にしたプラスドライバーを見て、 私、 急にひらめいちゃった。 なんで今まで気がつかなかったんだろう。 よく考えたらCS-20形義体のネジなら、 ここにいくらでもあるじゃないか!私の身体の中にいくらでも!

  ネジの一本くらい抜いたところでたいしたことはない。 次の定期検査の時、 松原さんにちょっとガミガミ小言を言われるのを我慢すればいいだけのこと。 とはいえ、 ネジを外すのはちょっと厄介。 いくら私の身体が機械でも、 安っぽいロボットじゃあるまいし、 見かけは一応普通の人とそっくりにできているから、 身体の表面のカンタンに取れそうな場所にネジがついているわけじゃない。 まさかこんなところで腕を外すってわけにもいかないし、 だいいち私が腕を外したらいったい誰がネジを外すんだよってことになる。
  自分一人でなんとかネジを外せそうなところで私がぱっと思いついたのは電源の入出力端子。 私の左脇腹には、 まるで家の壁みたいに電気出力用のコネクターが、 右脇腹には掃除機みたいに充電用のコンセントプラグが納まっている。 確か両方ともコネクターやプラグの横のすぐ外せそうな位置にネジがついていたと思う。 右利きの私が外しやすそうなのはやっぱり右脇腹ってことになるのかな。
  そう思った私は例の二百本入りのネジケースとドライバーを持って、 棚の陰になって倉庫の入口から直接見えない位置まで移動した。 これで、 いつ誰が入ってきてもなんとか身づくろいする時間の余裕があるはず。 着ている作業服の右側の裾をちょっとだけまくり上げて端子カバーの継ぎ目を隠すために貼られた肌色のカムフラージュシールを剥がす。 そして、 シールの下から現れた肌と同じ色に塗られたコンセントカバーを指先でそっと押すと、 安っぽいオモチャみたいにバネ仕掛けでパカっとカバーが開いて、 皮膚の下に隠されているコンセントプラグやら暗灰色の機械類が顔をのぞかせる。 外見をどんなに普通の身体に似せようとも結局自分の身体は機械なんだって思い知らされるいやーな瞬間。 でも、 ここまでは、 毎晩充電の時にやってる動作だから慣れっこだ。
  いつもなら、 このあとズルズルとコンセントプラグを身体の中から引っ張り出して充電することになるわけだけど、 今日はちょっと勝手が違う。 私は身体を「くの字」に折り曲げて、 コンセントプラグの横っちょに確かに銀色のネジがついているのを確認したあと、 手に取ったドライバーのさきっちょでためらいがちにネジ山に触れる。 でも緊張の余り身体が強張って、 うまく手が動いてくれない。
  義体の中身の部品一つ一つにまで痛覚センサーがついてるわけじゃないから、 別にネジを外したところで身体に痛みを感じるわけじゃない。 だけど、 自分の義体に使われている部品を自分で外すのはやっぱり恐いし、 気持ち悪いよね。 でも、 ためらっている場合じゃないんだ。 早くしないとおじさんが来ちゃうよ。
(大丈夫、 大丈夫に決まってる。 ネジ一本抜いたくらいで壊れちゃうほど義体はやわじゃない)
  私は、 そう、 強く自分に言い聞かせたあとドライバーを握り直して、 ようやく慣れない手つきでネジを外し始めた。 工作なんかてんで苦手な私だからドライバーを使って作業するなんて今までまるでしたことないのに、 まさか自分自身の身体でこんなことをする破目になるなんて夢にも思わなかったよ。 とほほ・・・。
  ある程度ネジがゆるんだところでネジの頭を指でつまんでくるくる回すと、ネジは思いのほかカンタンに外れた。 ネジを取ってしまったけど、 とりあえず身体が動かなくなることもないし、 義眼ディスプレイに義体の異常を知らせる情報が表示されることもなかったから、 とりあえずほっと胸をなでおろす。 でもまだ油断は禁物だ。 念のため箱から新品のネジを一本ケースから取り出して自分の身体から外したネジと見比べる。 長さも太さも見た限りは全く同じ。 試しに新しいネジを、 今外したばかりのネジ穴に突っ込んでくるくる回してみると、 確かな手ごたえとともにネジは穴の中に入っていった。 どうやら間違いなく同じネジだ。
  私はふうっと一つため息をつくと、 今まで自分の身体の一部だったネジと、 新しいネジと二本、 ケースの中に入れてパチンとフタを閉じた。

「こら、 遅せえぞ! 何やってる! 急ぎだって言っただろうが!」
  義体用ネジが四千本、 ようやくのことで一本たりとも違わず揃えたその箱を私が抱え上げたのとほぼ同時に、 勢いよく倉庫のドアが開いて、 おじさんの怒号が飛んだ。
「す、 すみません。 三段目に載せた箱を下ろすのに手間取ってしまいました・・・」
  私はとっさに思いついた嘘をつく。 その瞬間足元がふらつき、 よろめいた。 節電モードになってしまった私の義体出力は普段の半分くらいに制限されてしまう。 そのせいで、 さっきまで軽々と運んでいた箱が今はやけに重たく感じる。
  おじさんは、 あわてて私に駆け寄ると、 反対側から箱を抱えてくれた。
「どうした、 さすがにへばったか?」
  私と一緒に箱をかかえたおじさんは、 私と向かい合う格好で後ろ向きに歩きながら、 さっきとはうってかわって優しげな声を私にかけた。
「すみません。 ちょびっとだけ」
  私は、 思いのほか優しいおじさんを意外に思いつつも、 まだ平気なんだってことをアピールするために笑ってみせた。
  ホントはゼンゼン大丈夫。 ちっともへばってなんかいない。 義体は疲れなんか感じないんだ。 ただ、 電気がなくなっていつものような力が出せなくなっちゃっただけだよ。 でも、 おじさんには、 私のも笑いはただの強がりと受け取られたらしい。
「無理するな。 あれだけの量の箱を、 これだけの時間で片付けたんだ。 疲れて当然だわな。 気付かない俺が悪かった」
  おじさんはくるくる変わる私の顔を見て、目尻と口元を緩めた後、 急にまたもとの鋭い目つきに戻って、 低い声で言った。
「今朝の飛行機事故、 知ってるよな?」
「はい」
「人が大勢死んだ。 それから大勢大怪我をした」
「はい」
  私の頭に、 また今朝の凄惨な光景が蘇る。
「このネジはな、 大怪我をした人たちを助けるために出荷されるんだ。 一分でも早く届けにゃならん。 だから俺も焦っていた 。お前のことまで気が回らなかった。 すまんな」
  おじさんはそう言うと、 じっとおじさんのことを見つめていた私から、 照れくさそうに目をそらした。
  私の思ったとおり、 やっぱりこのネジは今日の飛行機事故で大怪我した人を助けるためのものだった。 だったら一刻を争うのは当然のこと。 頭の中が真っ白けになって、 他のことなんか何にも考えられなくなっても無理ないよ。 私ごときに気が回らなくてもしょうがないよ。
  私、 最初おじさんのこと、 なんて愛想のない人なんだろうって思った。 恐いだけの人かと思っていた。 でも、 違うよね。 私には分かる。 おじさんが厳しいのは自分の仕事に自信と誇りを持っているから。 でも、 それだけじゃない。 おじさんは、 ネジ一本でも人の身体と同じだと言ってくれ、 義体用のネジを一秒でも早く納めるために他のことになんかまるで気が回らなくなってしまう。 それはおじさんが、 見ず知らずの人の命でさえも、 まるで自分のことみたいに考えてしまうとっても優しい人だからだよね。
  そんなふうに物思いにふけりながら、 おじさんに導かれるままに歩いていくうち、 私はいつの間にか工場の外に出ていた。

  門の外に白い軽トラックが一台止まっている。 きっと私が倉庫で自分の身体のネジを外しているときに、 おじさんが用意したんだろう。
  二人がかりで荷台に箱を載せるのももどかしく、 おじさんはトラックの運転席に飛び乗った。
「助かるといいですね! このネジで人がいっぱい助かるといいですね! たとえ機械の身体になってしまっても、 生きてさえいればきっといいことありますよね!」
  私はトラックの窓に手をかけると、 窓ガラスを隔てて運転席に座っているおじさんに聞こえるように大きな声で叫んだ。 半分はおじさんに向けて、 でも半分は、これから義体化手術を受ける私の知らない人たちに向けて。
  たとえ命が助かっても、 生身の身体を失って、 機械仕掛けの身体になってしまうなんて死んだほうがまし。 せっかくもらった命なのに、 ひょっとしたら昔の私みたいにそんなふうにを考えてしまう人もいるかもしれない。 もしそういう人に会ったなら私は言ってあげたい。 あなたの身体の中のネジは、 こんな心の暖かい人が作ってくれたものなんだよって。 だから、 義体は決して冷たい機械なんかじゃない、 ちゃんと心の通った立派な身体なんだって言ってあげたい。
「そうだな」
 おじさんは、車の窓を開けると、窓越しに青い空を見上げた。
「いっぱい助かるといいな。助かってくれてよかったと思ってくれるといいな」
「あなた、急ぐのはいいけど、気をつけてよ。あなたが死んだら元も子もないんだからね」
 いつの間にか、私の横に来ていたおばさんが、心配そうに声をかけた。
「大丈夫、じゃ、あとはたのんだぞ。八木橋も頑張れよ」
 おじさんは軽く手を上げたあと、挨拶代わりにクラクションを一回鳴らす。おじさんの運転するトラックはみるみる小さくなって、やがて曲がりくねった道の向こうに消えた。
 
 さあ、もう一頑張り。
 気合を入れなおすために私はその場にしゃがんで靴紐を結び直す。
(あれ?)
 紐を結ぶ私の視界の端っこに、気になるものが見えた。
 男ものの、ちょっと大きめの作業服を着ている私は、裾のところを折って丈を短くしてズボンを履いている。その、えり状に折ったズボンの裾の中に何か小さな物が入っている。
(なんだろう)
 袋状になった裾に手を入れて、その小さなものを手にとる。
 ネジだった・・・。それも二個。なんで二個?
 機械の身体のくせに、背筋を冷たいものがすうっと走った気がした。
 これ、間違いなくさっきの義体用のネジだよね。何度探しても見つからないと思ったら、こんなところに紛れ込んでいたなんて・・・。四つんばいになってネジを探していたときに紛れ込んじゃったに違いない。でもさ、何で、二個も出てくるのさ。見つからなかったネジは、一個だけのはずなのに。私、ひょっとしてネジの数、数え間違っちゃったんだろうか?あんなに何度も数え直したのに・・・。
「うー」
 私は靴紐を結びかけたまま固まってしまう。
「あら、 どうしたの?」
  おばさんが心配そうに私に声をかける。
「なんでもないです。 なんでもない」
  私はあわてて立ち上がると、 手にしたネジをポケットの奥に突っ込んだ。
(どうしよう、 今、 ここにネジが二本あるってことは、 おじさんの箱の中のネジ、 確実に一本たりないよ)
  私は一瞬走ってトラックを追いかけようかな、 と思ったけどすぐに思いなおす。 今更トラックを追いかけたって、 いくら私の足でも追いつけるはずないし、 この電気の残量じゃ、 行き倒れて恥をさらすのがいいオチだ。
「義体用のネジなんて、 とても大事なものですよね。 あの、 もしも、 もしもですけど、 ネジが届いてみたら一本少なかったなんてことになったら、 やっぱり大変なことになっちゃいますよね」
  私は恐る恐る、 おばさんに聞いてみた。
「ずいぶん心配性なのね」
  おばさんは、 まあ、 あきれた、 とでも言いたげに目を丸くしてみせる。
「ネジはとっても小さい部品だから失くしやすいの。 だから最初から失くすのを見越して、 例えば二百本入りのケースだったら二百本きっちり入っているわけじゃなくて、 二三本多く入れることになってるの。 だから一本くらい少なくても何の問題もないわ」
「なんだ、 そっかー。 そうなんですねー。 はははは、 はぁー・・・」
  私の力ない笑いが途中からため息に変わる。
  あんなに一生懸命ネジを探したのに、 自分の身体のネジを外してまで二百本ネジを揃えたのに、 私の血のにじむような(いや血なんか流れてないけど、このさいそれは置いておいて)努力は結局無駄だったってことだよね。 あー、 どうして私っていつもこう間抜けなんだろう。
  緊張が解けて身体中の力が抜けた私は、 そのまま地面にへなへなへたりこんでしまう。 
「あら、 どうしたの? もう疲れちゃった? でも、 あともう一頑張り。 お給料分はきっちり働いてもらいますからね」
 おばさんは私を見下ろしながら、 大きな身体を揺さぶって笑った。

  ネジ工場でのアルバイトが終わって私がはるにれ荘に戻ったのは、 夕陽が団子坂峠の山の向こう側に沈んで空が薄黄色から黒味がかった深い青色へと徐々に色合いを変えて、 星が輝きはじめた頃。
  玄関のドアを開けた私の耳にまず入ってきたのは、 みんなの楽しそうな笑い声。 ちょうど玄関から真っ直ぐ続く廊下の突き当たりにある食堂から漏れ聞こえてくる。 私の足は、 その声に引き寄せられるように一瞬食堂のほうに向きかけたけど、 あわてて思いなおしたように立ち止まる。
  きっと、 この時間だったら、 みんなアニーの作った美味しい晩御飯を食べているに違いない。 そんなときに食堂に行ってもちっとも面白くないし、 かえってみんなの気をつかわせてしまう。
  そう思った私は帰ってきたことをみんなに気取られないように(と、 いってもアニーにだけはバレバレだと思うけど)、 わざと明かりをつけずに暗いままの階段を、 足音をたてないように気をつけながらゆっくり登って、 二階の自分の部屋のドアをそっと閉めた。 そして、 机に座って、 引き出しから栄養カプセルの入ったプラスチックの瓶を取り出すと、 一粒だけを口に放りこんでいつものように一人ぼっちの夕食を済ませた。
  今の私に残された人間としての部分は脳みそだけ。 その脳みそを維持するためには、 この小さな栄養カプセルさえ飲み込んでおけばことたりる。 っていうか、 それ以外の食べ物を食べられるように、 この義体はできていない。 たとえ食べることができたとしても、 飾りでついているだけの舌で味なんかわかるわけない。 でも、 そんな私でも脳みそだけはもとのままだから、 むかしむかし、 まだ私が生身の身体を持っていた頃の、 美味しいごはんを食べた時の味とか舌触りとか歯ごたえなんていう記憶は頭の中にちゃーんと残ってる。 陸上部の練習が終わったあとの晩御飯みたいに、 一日ずーっと身体を動かして、 身体がクタクタになって、 お腹もぺこぺこになったところで、 ほかほか湯気の上がった炊き立てのご飯を食べたらどんなに美味しいんだろうか、 なんて考えては時々ひどく虚しくなるんだ。 どうせ、 どんなに望んだって適わない夢なんだから、 いっそのことそんな記憶、 なくなってしまえばラクになるのにね・・・。
  食事なんてとても言えないだたの作業を終えた私は、 机に頬杖をついてはぁーっと深いため息を一つ。 節電モードになったことで擬似体温を失なって、 冬の冷たい外気に当たりっぱなしだった私の頬っぺたは、 まるで氷みたいに冷たい。 それで、 今の私には暖かい肉体はもうない、 今の身体はただの冷たい機械なんだってことをあらためて思い知らされてしまう。

(駄目だ、 駄目だ。 こんなことばかり考えてちゃいけない)
  私はいやいやするみたいに大きくかぶりを振ると、 頬っぺたから手を放して自分の頭をコツンと拳固で叩いた。 
  いったん鬱モードに入ったら際限なく落ち込んじゃうよ。 もっと楽しいことを考えなきゃ。
  えと、 昨日ひいたおみくじの内容、 今のところけっこう当たってるよね。
  カラオケに熱中しすぎて時計が止まっていることに気がつかず電車に遅れてしまったことも、 結果オーライだったとはいえ肝心なときになくしたネジが見つからなかったことも、 全部おみくじの預言どおりだった。
  だったらさ、 おみくじにたった一つだけ書いてあったポジティブなこと。
『願い事、 強く望めば実現の可能性あり』
  これだって、 ひょっとしたら当たっちゃうかもしれないよ。
(ひょっとして私、 キスなんかできちゃったりして。えー、神様、私はキスがしたいキスがしたいキスがしたい)
  現金なもので、 私はすぐ機嫌を直すと、 かっこいい男の人とキスしている自分を思い描いて一人ニタニタ。 ハタからみたら、 さぞかし薄気味悪い光景だろう。
  いくら私は人間なんですっていっても、 結局全身義体なんて機械仕掛けのお人形さん。 そんな私の事を不気味に思う人は多いだろうし、 この身体も一つの個性って認めたうえで私のことを好きになってくれるなんて滅多にいないだろう。 そんなこと、 私にだって分かってる。 でも、 妄想することだけは私の自由だもん。
  それに、 セノハチネジのおじさんみたいに義体のネジ一本だって心をこめて作ってくれる人だっているんだ。 この世の中だって、 そんなに捨てたものじゃないはずだよ。 きっと、 この世界のどこかには、 私の身体が機械だって知っていても、 私のことを好きになってくれる人だっているはずだ。 いや、 きっといる。 いるに決まってる。
(人様の命を預かる大切なネジ。 人の身体も同然)
  私はおじさんの言葉を思い出しながら、 ポケットをごぞごそさぐって中からネジを二本取り出すと、 机の上に転がす。 義体用のネジはスタンドの明かりを反射してキラキラ光った。
  節電モードになってしまって荷物を運ぶ足取りがおかしくなった私を見かねたおばさんは、 仕事が終わるまでずーっと私と一緒に棚の整理を手伝ってくれた。 その時の私の力じゃ、 一人でネジがぎっしり入った箱を片付けるなんてとても無理だったから、 ものすごく助かったんだけど、 そのお陰で隙を見て義体の充電をすることも、 ネジをもう一度元の場所にはめ直すこともできなかったんだ。 だから、 結局ネジを外したままの状態で自分の部屋まで戻ってきちゃったんだよね。
  まあ、 いいや。 あとで須永さんからドライバーを借りて、 もう一度ネジをもとの場所にはめ直せば万事元通り。 なくしたネジの代わりに自分の身体のネジを外したときには、 定期検査のとき松原さんにどんなに怒られるかと思ってびくびくものだったけど、 これでそんな心配もしないですむ。
(でも、 その前に充電しておかなきゃね)
  私は机から立ち上がった。
  いくらおばさんに手伝ってもらって二人がかりでの仕事だったとはいえ、 節電モードになった身体で午後も働きづめ。 いくら節電モードで普段よりは電力消費量が少いっていっても、 もう電気は、 ほとんど残っていないはず。 今から朝までずーっと充電しておかないと、 次の日の生活にも差し障っちゃう。 それに、 いつまでも擬似体温が失われたままの冷たい身体でいるなんて私は嫌。 所詮作り物の体温だって分かっていても、 暖かい身体に戻しておきたい。
(ネジは明日締めなおせばいいよ。 とりあえず、 今日はのんびり寝ながらテレビでも見て、 ずーっと充電してよう)
  私は押入れから布団を引っ張り出すとテレビの横に敷く。 もちろん布団なんて義体の私には本当は必要ないもの。 だけど、 寝るとなったらやっぱり毛布にくるまって眠りたいよね。 たとえ、 身体を冷やして風邪をひくなんてこととは無縁な身体だったとしてもさ。

  テレビはどこのチャンネルも予定を変更して今朝の飛行機事故の特番をやっていたけど、 テレビ帝都だけは相変わらずマイペースで、 こんな時でものんきに味めぐり温泉紀行。 普段は、 美味しいだけじゃなくて見た目も派手な郷土料理が出てくるような番組なんて見る気もしないけど、 事故のレポートを延々と聞かされるよりはずっとまし。
  私は布団の上に正座すると、 リアクションばかり大げさなくせに美味しいを連呼するしか能が無いボキャ貧の女性タレントを横目でみながら、 慣れた動作で右脇腹から充電用のコンセントプラグを引っ張りだした。
(あれ?)
  なんだかいつもとコードの手ごたえが違う。 っていうか、 引っ張っている手ごたえ自体ない。
  不思議に思いながらも、 私はそのままコンセントを引き出していく。 ところが、 いつものように、 これ以上コードを伸ばせないっていう印の、 コードに巻かれた黄色いビニールテープのところでコードは止まらず、 そのまま・・・、 義体から抜けちゃったんだよう!
(どうしよう、 どうしよう)
  コードの断端から顔を覗かせている茶色の銅線を見つめながら固まってしまう私。
『警告:充電用ケーブル断線』
  義眼ディスプレイ一杯に義体の異常を報告する真っ赤な文字が流れる。
  きっと私がコンセントプラグの横のネジを外しちゃったからだ。 だから、 充電用のコードと義体の接続が緩んでコードが取れてしまったんだ。 原因は、 それしか考えられない。
  どうしよう、 これじゃ充電できないじゃないかよう。 もうバッテリーの電気の残りも少ないっていうのに。

  どうしよう。

(そうだ! 須永さんに直してもらえばいいんだ!)
  私は一階に住んでいるサングラスがトレードマークの大家さんの顔を思い浮かべた。
  はるにれ荘の大家の須永さんは、 ギガテックスでロボットのAI開発に携わっている人。 ひょっとしたら義体のことは専門外かもしれないけど、 でも義体化一級障害者用の全身義体と人間型ロボットは、 脳で身体を動かすかAIで身体を動かすかっていう違いだけで、 構造自体に大きな差はないって言っていたことがある。 だったら須永さんにだって、 外れたコンセントをもう一度義体に取り付けるくらいのことはできるだろう。 自分の担当医師でもない人に身体の中をいじられるのは余り気が進まないけど、 今はそんなこと言ってられる場合じゃないよね。
(私って冴えてるう)
  思い立ったが吉日。 私は早速、 机の上に置いたままのネジと身体から抜けてしまった充電用のコンセントプラグを握り締めると、 部屋から飛び出して階段を駆け下りて、 管理人室の隣の須永さんの部屋のドアをノックした。

「須永さん、 須永さん、 須永さん!」
  何度ノックしても返事がないからドアごしに名前を呼びかける。 須永さんは勤務時間が不規則な人で、 変な時間に寝ていることもあるからノックだけじゃ起きないのかもしれない。 寝ている人を無理やり起こすのは悪いと思ったけど、 そうも言ってられない。
「浩一さんなら、 今、 いないよ」
  私の背後で声がした。
  あわてて振り向く私の後ろに立っていたのは、 台所で洗い物の仕事を終えたばかりなのか、 水はねのしみが目立つエプロン姿のアニー。 見た目はひな人形を思わせるような色白の肌に真っ黒い髪が目立つ、 可愛らしい女の子。 でも、 この子の正体が、 実は、 はるにれ荘の全てを掌握している天下無敵のスーパーコンピューターだなんて、 分かっていてもなかなか信じられることじゃない。
「お正月から仕事だってさ。 泊り込みで二三日は帰って来ないんじゃないかしら」
  生みの親がここにいないことを語るアニーの口調はちょっぴり寂しそう。 でも、 今の私にアニーの気持ちを推し量ってやれるような心の余裕なんかあるわけない。
(留守だなんて、 二三日帰って来ないだなんて、 そんな・・・、 どうしよう)
  アニーの言葉を聞いて動揺した私の手からコードがポトリと床に落ちた。 いくら節電モードになっているとはいっても、 須永さんの帰りを待っていたら間違いなく電気切れだ。
  ちょうどその時だよ。
『バッテリー残量20%、 節電モード第二段階に移行』
  私の視界いっぱいに例の警告分が表示されたかと思うと、膝が力を失ってがくりと折れて、 そのままへなへなへたりこむように床に崩れ落ちてしまう。 同時に私の視界に一瞬ノイズが入ったかと思うと世界が色を失った。 天井をともす白熱灯の黄色い灯りも、 使い込まれてつやつや光るこげ茶色の廊下も、 黄ばんだ白壁も、 何もかもがまるで古い写真みたいな白黒画像になってしまった。
(やばい、 やばい、 やばい)
  私はドアノブに手をかけて、 腕の力も借りて、 やっとのことで半病人みたいにふらふら立ち上がる。 でも、 壁にもたれて身体を支えてなければ、 すぐにでも倒れてしまいそう。
  節電モードも第二段階になったら義体出力が普段の五分の一に制限されちゃうんだ。 そうなったら、 走ることはもちろんできないし、 ただ立ち上がることさえ、 こんなふうに支障をきたすありさま。 さっきまで普通の女の子だったらとても持ち上げられそうもない重い箱を自慢げに持ち上げていたくせに、 バッテリーの電気がなくなりかけただけで小学一年生にも腕相撲で負けちゃうくらいの力しか出せなくなっちゃうなんて、 義体も便利なんだか不便なんだか分からない。 残り少ない電気を使い果たさないために、 無闇やたらに動かずにじっとしてろっていう義体からの警告なんだろうけど、 それにしたって、 今の私は余りにも情けないよね。
「どうしたの? 義体の調子でも悪いの?」
  私の様子を心配そうに見つめるアニーの顔は、 今の私の目には大昔の映画に登場する銀幕スターのような白黒画像でしか映らない。 力を失ったのと同時にサポートコンピューターは、 電気を食う画像のカラー処理をしてくれなっちゃうんだ。
「充電用のコードが身体から抜けちゃったんだよう。 だから、 須永さんに直してもらおうと思ったのに、 いないなんて・・・。 このままじゃ充電できなくて電気がなくなっちゃって、 私動けなくなっちゃうよう」
  私は、 もう半べそ状態。 いや、 半べそどころじゃない。 この身体は涙を流せるってわけじゃないけど、 気持ちは大泣きだ。 こんな時に須永さんがいないなんて、 どうして私はいつもこう間が悪いんだろう。
「ああ、 そういうこと」
  床に落ちてくるくるとぐろを巻いている黒いコードを見ながら、 アニーはくすりと笑った。
「そういうときは義体同士で電気のやり取りをすればいいじゃない。 私の義体の電気を分けてあげる。 そうすれば、 まだまだもつでしょ」
  こともなげにそんなことを言い放つアニー。
「お言葉は有難いけどね、 コードが抜けちゃったのに、 どうやって電気のやり取りをするわけ?」
  私はため息をついた。 そんな当たり前のことも分からないなんて、 人の心に限りなく近いスーパーAIの言うこととはとても思えない。
  でもアニーは私の言ったことを理解したのかどうか・・・。 機械とは思えないような動物的な仕草でペロッと自分の口の周りを嘗め回すと、 私に近づいて私の肩に手を置いた。 私はなんだか嫌な予感がして後ずさりして逃げようとして、 後ろは壁で逃げ場なんかどこにもないって気がつく。
  アニーは、 ずいっと背伸びをしながら私の耳元でささやいた。
「義体の規格が異なったり何らかの理由により電源入出力用のコンセントプラグを使えない場合には、 義体同士の舌を接触することによりお互いのバッテリー内に貯蔵された電力をやり取りすることができる・・・って習わなかった?」
  そういえば昔タマちゃんに、 宇宙空間なんかで活動して、 どうしても電気のやり取りをしなくちゃいけないときの非常手段として、 舌にはそういう機能もついているって教わったような気がする。 でもさ、 舌を接触って、 それってどう考えても・・・キスだよね。
「ちょっと待ってよ。 舌を接触するって・・・、 私、 あんたとキスしなきゃいけないわけ?」
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃん、 私はただのコンピューターで、 人間の女ってわけじゃないんだし」
「そんなの嫌だよう。 私絶対嫌だからね」
  私は思わずアニーから顔をそむけた。 いくらアニーが機械だからっていっても、 外見はどうみても中学生くらいの女の子でしょ。 私だっていくら機械の身体だって女には変わりないんだ。 女同士のキスなんて、 絶対嫌。
「ま、 嫌ならいいけどさ」
  アニーは私が抵抗するまでもなく素直に私から離れた。 そして、 拍子抜けして、 ぽかんとアニーを見つめる私に向かって、 人を小馬鹿にするように鼻をならして、 唇のはしっこを吊り上げて意地悪っぽく笑うんだ。
「前みたいにイソジマ電工のカスタマーセンターの人のお世話になりたければ、 お好きにどうぞ。 バイバイ」
  アニーは、 そういい残すと、 身を翻してその場を立ち去ろうとする。
(前みたいにイソジマ電工のカスタマーセンターの人のお世話になりたければ・・・)
  思い出すのも恥ずかしい「ひとりえっち義体フリーズ事件」の顛末が私の頭に浮かんだ。 あの事件以来、 カスタマーセンターの篠田さんとまともに顔を合わせることができていないのに、 久々の再会が義体の電気が切れて、 壊れた人形みたいに変なカッコで固まっている情けない姿だなんて、 そんなの嫌すぎる。 恥ずかしすぎるよ。
「待って、 アニー!」
  私は、 節電モードになっていることも忘れてアニーを追いかける。 案の定身体がついていかなくて、 派手な音をたててその場に転んだ。
「うー、 私とキスしてください」
  地面を這い回るドン亀みたいな情けないカッコで、 うめく私。
「えーっと、 よく聞こえなかったんだけど、 もう一度言ってくれない?」
  アニーは私を見下ろすように仁王立ちして勝ち誇る。 はるにれ荘のことなら蟻の歩く音だって把握してそうなアニーのこと、 私の声が聞こえなかったはずはないのに、 なんて意地悪なんだろう、 この子は。
「アニー、 お願い。 私とキスして」
  恥も外聞もなく私はアニーに向かって懇願する。 いくら嫌だろうと、 私には他に選択肢は残されていない。
「あらぁ、 ずいぶん素直なのね」
  私の横にしゃがみ込んだアニーは嬉しそうにそう言うと、 布団でもたたむように慣れた手つきで私の身体を仰向けにひっくり返すと、 舌で私の口をこじ開けて・・・。

  キスしたいっていう私の願い事、 適いました。 おみくじ、 また当たりです。 大当たりですよう・・・orz

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