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 もうすぐ卒業式。そう思うと私の心はだんだんユーウツになってくる。
 別に卒業が嫌なんじゃない。新しい仕事、新しい仲間、どんな未来が私を待っているか考えると心ワクワク胸躍る。嫌なのは何かっていうと、そんなの決まってるじゃないか。卒業式だよう。
 卒業式っていうと、私の友達は、みんな卒業袴なんかで着飾って、両親と一緒に来るに違いないんだ。でも、私には一緒に来てくれる両親もおじいちゃんももういない。卒業袴なんて高価なものが私に買えるわけないし、ちょっと贅沢してレンタルしようにも、見てくれる人がいなければ虚しいだけ。
 それに、みんな普段は、親超ウザイとか言ってるくせに、こんなときだけ私に見せ付けるみたいに、両親と一緒に楽しそうにはしゃいで、昔の思い出を語り合ったりするに違いないんだ。ジャスミンだって、佐倉井だって、当日は親と一緒に来るって言ってた。だから、私が卒業式に参加したところで、相手にしてくれる人なんて誰もいないってことは、分かりきってる。女の子の中で、私一人だけ、みすぼらしい普段着姿で、みんなから離れて一人ぽつんと座ってる、そんな卒業式の光景が今からアリアリと頭に浮かぶ。そんなの、耐えられないよ。なんで、わざわざ好き好んで、そんな罰ゲームみたいなことしなきゃいけないのさ。
 男の子に聞いたら、「俺は欠席する」って答えた人も結構いた。確かに大学の卒業式は強制参加ってわけじゃない。出ようが出まいが、卒業に必要な単位さえきっちり所得すれば学士っていう資格はしっかりもらえるわけだし、4月からイソジマ電工で働くには何の支障もない。ふん、ばかばかしい。私だって出るもんか。
 かといって、卒業式なんてぶっちぎって遊ぼうにも、その日、私の友達は、みんな卒業式に出るわけで、遊び相手なんていやしない。藤原も残念ながら出勤日。卒業式をサボったところですることがない。でも、せせこましいはるにれ荘の部屋でひがな一日ゴロゴロ過ごすのも虚しいし、バカバカしいよね。
 と、いうことであれば、私に残された道はやっぱりバイトしかない。うん、バイト。私のような勤労学生はバイトして嫌なことを忘れるに限る。
 
 と、まあ、前置きが長くなっちゃったけど、そう思った私は、2月が終わった段階で、卒業式の日にもきっちりバイトを入れた3月の予定表を所長のところに持っていったんだ。来月は、大学に行く必要がないから、月勤22日。今までの最高記録。3月は引越しも増えて、しろくま便としてはかきいれドキのはず。きっと所長も歓迎してくれるに違いない。
「・・・あの、所長」
 所長は、相変わらず、なんの計算をしているのかしらないけど電卓を叩くのに夢中で、私が近づいたのに全く気が付かない。「うー売り上げが」とか「あー予算が」とか呪文のようにつぶやいている。
「あのっ!」
 ちょっと大きめに呼びかけて、はじめて所長は私に気が付いた。
「おー、八木橋君。八木橋君も来月で最後だったな。今までお疲れさん」
 受け取った予定表にさらりと目を通しながら、口調までさらりとした調子。私もここで三年間お世話になったわけで、もうちょっと何か言うことがあるだろうって、ちょっとむっとしたけど、よく考えてみればバイトなんて毎月毎月入れ替わるもんね。特に来月は私みたいに星修大を卒業するバイト君たちが一斉にやめるわけだし、いちいち一人一人にかまっていられないっていうのが正直なところだろうって思い直す。
 で、いつもなら、事務的にこの予定表に印鑑を押して私に返して「じゃあ小林君のところに」って言うだけなんだけど、今日はちょっと様子が違った。所長はしばらく予定表をみつめたあと、今度は顔を上げて私をみつめる。そんなこと今までなかったんで、ちょっと緊張する私。
「25日は星修大の卒業式だろう?」
「はあ、まあそうですけど、私出る気ないんで」
「卒業式にはちゃんと出なさい。悪いけど、この日のバイトは認めないよ」
「え・・・でも、私・・・」
「とにかく、この日の人手は足りてます。八木橋君の最終日は24日ね」
 そう言って、ご丁寧に25日にぐりぐり×をつけられてから印鑑をおされ、有無を言わさぬ調子で、予定表を返された。私は、内心ふくれっつらでそれを受け取る。
(卒業式に出ようが出まいが、私の勝手だ。所長って私の何なのさ。意地悪)
 ムカついたから、心の中で、おもいっきりあっかんべーをしてやったよ。
 
 しろくま便レディースサービスでの仕事も最終日。でも、私の最終日だからって、特にとりたてて何が起こるってわけでもない、いつもどおりの引越し作業の合間の休憩時間。もう家具の搬出作業も大方終わってがらんとした部屋の中。お客さんが出してくれた、お茶とか煎餅の入ったお盆を取り囲んで雑談に花が咲く。
 いつもなら、しろくま便内にくまなくネットワークを張り巡らしている石塚さんの社内の人間関係についての噂話ネタが話題の中心になるんだけど、今日はさすがに私の最終日ってことで、話題の中心は私。
 山本君を抱えて八軒坊銀座を走ったこと、猪俣さんと腕相撲をして勝ったこと、私が残した数々の伝説をサカナに思い出話のネタは尽きることない。
「・・・でねっ、所長、そんなこと言ったんですよー」
 そんな休憩時間のたわいない話の一つとして、私はこの前の出来事をため息混じりにみんなに言ってみた。
「いやー、でもそれはねー。所長もきっとヤギーちゃんのこと考えて断ったんだと思うよ。私も卒業式は当然のようにブッチしたけど、今思うと卒業式くらい出たほうが良かったなって、ちょっと思うもん」
 しみじみそう語って野中さんは、ずずっとお茶をすすった。野中さんのは高校の卒業式だよね。それって普通出るもんだよねって、私だけじゃなくて、多分石塚さん高波さんも同じことを思ったと思うけど、みんなそれに突っ込む勇気はなし。
「で、ヤギー結局卒業式には出るの?」
「出るわけないじゃないですか。出たってつまんないですよ。虚しく家でゴロゴロしてますっ!」
 石塚さんの問いかけに、私は膨れっ面をしてみせた。
「でも、そっかー。ヤギーちゃんウチで働くの今日で最後だもんねー。寂しくなるねー。あんた頼りになったからねー」
 野中さんは、しんみりと、今日何度目かっていうその言葉をつぶやいて、お煎餅をかじった。
「でも我がレディースサービスA班にも高波さんという後継者が育ったし、明日はヤギーちゃんの代わりに高波さんがバリバリ働いてくれるでしょ」
「あーヤギーさんの代わりなんて、私ムリっすから。マジで」
「ナオも入れればいいいんじゃない?ナオも女装すれば結構いけるかも」
「ナオねー。そういえばナオもヤギーちゃんに鍛えられたクチだよねー」
 山本君の女装を頭に思い浮かべて、みんなでクスクス笑った。
 なんでもない、いつものひと時、でもこの中に私が混じるのは今日で最後なんだ。そう思うと少し寂しい。
「ところで、ヤギーってさ、イソジマ電工に就職するんでしょ。一流企業の初任給で、私たちになんかおごってよね。だから今日で最後ってわけじゃなく、これからもよろしくお願いしますー」
 石塚さんは、私に向かって大げさな調子で土下座した。
「はは・・・」
  宙に目を彷徨わせて曖昧笑いをする私。給料が少し良くなるからって、その大半が検査費用に消えることには代わりないんですけど・・・自由に使えるお金はたぶん石塚さんのほうが多いんですけど、でもそんなこと石塚さんに言っても理解してもらえないんだろうなあ。
「イソジマ電工っていえば・・・」
 そんな時、ふと思い出したように野中さんが切り出した。
「イソジマ電工っていえば、古堅って奴がいるからさ、もし会うことがあれば、あんたのこと、許してやる、そう言っておいて」
「古堅部長?」
「ああ、もう知ってるの?イソジマ電工って大企業かと思っていたら、結構狭い世界だね」
「ちょっとだけ会ったことあります。でも、野中さんはなんで知ってるんですか?」
「弟を殺した人だから・・・」
「・・・」
 野中さんの物騒なコトバにその場の空気がいきなり凍った。
「嘘嘘、ジョーダンだって」
 野中さんは、あわてて私たちを見回しながら苦笑い。
「でも、その人、弟が死んだ時にうちにやってきた人で、そのとき私がそう思ったのはホント。私もまだガキだったからね。すごく憎かった」
 野中さんが、なんだか遠い目をしながら言った。
 そう言えば、野中さんの弟さんって義体だったんだっけ。それも今よりずっと昔の。そして生命維持装置の故障で死んじゃった。そのとき毎日線香をあげにきていた技術者がいたって言ってたっけ。それが、古堅部長だったんだ。
「でも、前も言ったような気がするけど、こうして元気いっぱいのヤギーちゃん見てるとさ。ああ、あんたも頑張ったんだね。弟の死も無駄じゃなかったねって思ってさ。なんだか嬉しいんだよね。ヤギーちゃんが入るのは、そういう人の命を預かる会社なんだよね。人の命を預かるってことは、もしかしたら、私みたいな奴に理不尽に憎まれることだって、きっとあるよ。ヤギーちゃん、あなたにその覚悟はあるの?」
 野中さんは仕事中にも見せないくらい真剣な表情で、まっすぐ私を見つめた。
「憎まれる覚悟ですか・・・」
 目をつぶって、考えてみる。
 私は、自分が全身義体ユーザーである、という経験を生かしてケアサポーター課に配属されるという話だ。そうすると、嫌でも義体化手術を受けざるを得なかった多くの人にこれから出会っていくことになるのだろう。
 自分が義体化手術を受けたとき、こんな身体になるくらいなら死んだほうがましだと思った。実際死のうとも思ったし、なんで助けたのさっていうオカド違いの憎しみを、タマちゃんにぶつけたこともある。その立場が逆になるんだ。
 私がケアサポーターになったらタマちゃんや松原さんのようなことができるだろうか。いやおうなしに機械の身体にされた人たちとその家族の憎しみを受け止めて、励まして、彼らが自信と誇りを持って生きていけるように導くことができるだろうか?
「憎まれるの・・・仕方がないと思います。事故とか病気とか、仕方がない理由とはいえ、体から脳みそを取り出されて、機械の体に入れられるんです。憎まれないわけないと思ってます。だって、私がそうでしたから」
 私は目の前のお盆に置かれたお煎餅をつまみあげた。
「私だってもうこの体になって長いですけど、まだ吹っ切れてはいないですよ。今も、みんなと一緒におせんべ食べられたらいいな、なんて心のどこかで思ってます」
 はは、と寂しく笑って、お煎餅をお盆に戻す。
「でも・・・私が、機械の身体になって、そして、これまで生きてきて分かったことがあります。それは私は、小さな脳みそだけで、一人ぼっちで生きているんじゃないってこと。ケアサポーターさんたち、それに一生懸命この体を作ってくれたたくさんの人たち、みんなの想いに支えられて、私は生きているってこと。そして、その想いにこたえるためにも私は生きなきゃならないんだってこと。だけど、それは決して義務感なんかじゃない。こうして生きているから、いろんな人に知り合えた。みんなにも会えた。これからの人生でもいろんな人に会えるだろう。生きてるって素晴らしい。人と人の出会いって、すばらしい。私は生きたい。もっともっといろんな人に会ってみたい。そして、今まで会ってきた人、今会ってる仲間、これから出会うことになるまだ見ぬ人たち、全ての人に私はありがとうって言いたい。だから、私自身は憎まれてもいいから、義体ユーザーさんには生きるってすばらしい、残された家族には、生きていてくれて良かった、そんなことをちょっぴりでも感じてもらえるお手伝いができたらなあって、そう思います」
「うん」
 野中さんが、私の肩をぽん、と叩いた。
「うんうん」
 もう一回、ぱんぱんと強めに。ドラマなんかでよく見る、ちょっと酔っ払った説教好きのサラリーマンおやじみたいに。
「無責任かもしれないけど。ヤギーちゃんならできる。そう思った。愚問だった。ごめんなさい」
 野中さんはペロリと舌を出して、ペコリと頭を下げた。そして、ぐるりと私たちを見回した。
「さてと、ちょっと長くなったけど、休憩終わり」
 ぱんぱん、と野中さんは手を打って、それを合図に私たちは立ち上がる。
 私の、最後の仕事、それは本当に何も起きることなく、珍しいくらい静かに終わったのでした。
 
「おらーナオ行けーっ!」
「では一番手、山本直行いかせていただきます。曲はヤギーさんの大好きな、チュリーの名曲『明日を生きる勇気』」
 事務所いっぱいの拍手と歓声に迎えられて、山本君が机を並べて作った特設演壇に上がる。
 バックの壁に貼られているのは「八木橋さん、しろくま便卒業おめでとう」っていう手作りの花飾りにつつまれた垂れ幕。午後8時過ぎのしろくま便事務所。いつもなら、みんな帰ってしまって所長の電卓をたたく音だけが聞こえている時間。でも、今日は違う。
 有志一同で、私を見送る送別会をしてくれることになったんだ。幹事役を引き受けてくれた山本君は、仕事なんかそっちのけで、みんなからカンパを集めてカラオケセットを借りたり、垂れ幕を作ってくれたそうだ。所長も事務所を使うことを快く許可してくれた。そして、大勢の人が、この私のしろくま便卒業式に集まってくれた。みんな、ありがとう。
 仕事でコンビを組むことが多い野中さんと石塚さんは、やっぱり一緒に登場して、息の合ったダンスを披露してくれた。猪俣さんは女装して演壇に上がり、思いっきり低音で喜国更紗の曲を歌い上げてみんなの爆笑を誘った。
 私も久しぶりに心の底から笑った。嬉しかった。楽しかった。
 でも、この送別会が終わったら、もうみんなとかお別れなんだ、そう思ったら、楽しさより寂しさのほうが強くなった。いつまでも、この時が続けばいいのにって思った。
 そして、とうとう送別会も締めの時間がやってきた。
「では、最後に所長から一言お願いします」
 さあさあと司会の野中さんに促されるままに、小さなダンボール箱を小脇にかかえた所長が壇上にあがった。この所長の挨拶が終わったら、私も晴れてしろくま便を卒業するんだなって思う。卒業式に出ることのない、これが私の卒業式だ。そう思ったら、自然に背筋が伸びた。
「八木橋君」
「はいっ!」
「八木橋君の勤めているしろくま便は、八木橋君をこのまま返すような、そんな優しい会社だったかな?」
「はあ」
 勢い込んでいた私は逆に拍子抜け。意地悪所長、こんな時にもまだ私に仕事させる気なんだろうか、そう思ったけど。所長の私を見る目はいつになく優しかった。
「八木橋君の仕事、まだ終わってないよ。おいで」
 所長は、手招きして私を演壇に呼ぶと、抱えていた箱を私に渡した。
「これは2年前から、我がしろくま便で大切に預っていたあるお客様からの届けものです。その届け物をきっちり送り先に届けるのが、八木橋君の最後の仕事です」
「はい」
 なんだかよく分からないままに、その箱を受け取る私。
(これを届けるのが、私の最後の仕事だって?いったい誰に届けるの?)
 私は箱に張られた荷札を目で追った。
(!)
 見間違いかと思って、一瞬目をこすった。そしてもう一度、宛名を見直した。
 届け先の欄に書かれた名前は・・・『八木橋裕子様』って私?この私?
(誰が私にこんなものを?)
その疑問を解くべく送り主の名前を確認する。

『八木橋裕輔』

 おじいちゃんだ。2年前に死んだ私のおじいちゃんだ。
(じゃあ、この箱の中身は、死んだおじいちゃんから私への届け物?2年前からしろくま便で預っていたって?いったい何だろう)
 中身を確かめようとして、箱に手をかけたところで、ちょっとためらう。勝手に開けていいものなのかどうか。私は、上目遣いに恐る恐る所長を見た。所長は黙ってうなづいた。
 それを合図に、みんなが私の周りに集まった。私は夢中になって、黄色く変色したテープを剥がして箱を開けた。中から現れたのは大量の防虫剤の袋。そして、その袋をかきわけて、底に埋もれていた透明なビニール袋に包まれたモノを引っ張り出す。
 これは・・・服?ピンク色の服?
 私は、立ち上がって、ビニール袋を破いて、中に入っていたものを広げた。
 振袖?いや、ちょっと違う。ピンクの上っ張り、群青色の袴。・・・袴。
 私は大きく息を飲んだ。
・・・これは、卒業袴だ。かわいらしい色合いの、卒業袴だ。
 広げた袴の間から、紙切れがひらりと舞い落ちる。
(何だろう?)
 私は床に落ちた、几帳面に折りたたまれた、それを開いた。 

 


2年後の裕子へ
 
 裕子が、この手紙を読むのは、私がこの世を去ってから、だいぶ時が過ぎてからだろう。
 そして私の死のあと、裕子には一人ぼっちで寂しい思いをさせたかもしれない。しかし、たとえそうだったとしても、強い裕子のことだから、今頃は立ち直って、日々楽しく暮らしている頃だと信じている。そして、そんなときに、わざわざ昔のことを思い出させるような真似をして申し訳ない。
 なんで、そんなことをしたかって?高校の卒業式のとき裕子とした約束を覚えているか?大学の卒業式にも、必ず来てほしいっていうあれだ。ああいう約束は軽々しくするもんじゃないぞ。約束されたほうは、ずーっと楽しみにして、その日が来るのを心待ちにしているってもんだ。
 私は、あの世で見守っている、などと言いたくはない。この世とあの世がどのくらい離れているか、まだ想像もつかないが、必ずこの世界への行き方を探してこっちに来て、裕子の新しい人生の門出を祝いたいと思っている。いいか。必ずだ。だって、これは私と裕子との約束なんだから。だから、卒業式の朝、その服を来て待っていなさい。
 裕子はいくつになった。もう23歳か。立派な大人だな。そんないい大人が、おじいちゃんと手をつないで卒業式に行くというのは恥ずかしいことかもしれないが、ここは私の我侭を聞いてもらうよ。昔みたいに、一緒に手をつないで学校に行こう!
 卒業式の日は、澄んだ青空の広がる、厳しい冬を越えた新芽が固い土を割ってすくすく伸びていくような、まるで裕子の心のような、おだやかな天気になるといいな。

 卒業おめでとう!
 

八木橋裕輔

 



 手紙を持つ手が震えた。
 嗚咽が口から漏れそうになった。
 みんなの前、みんな私のこと見てる。そんな中で泣いたら恥ずかしい。そう思った。だから、思いっきり唇をかみ締めて、頑張って溢れる涙をこらえようとした。そんなのバカみたいだよね。だって、義眼レンズの目から涙なんて、出るわけないもん。でも、そうしないとホントに涙がぽろぽろぽろぽろ、際限なくほっぺたを伝い落ちていきそうな、そんな気がしたんだ。
「ヤギーちゃん」
 ぽんっと野中さんが、震える私の背中を叩いた。
「ヤギー泣いていい。っていうか、泣け。思いっきり泣け。私が許す」 
「野中さん・・・」
 その一言で、涙をせき止めていた心の防波堤が吹き飛んだ。
「おじいちゃん・・・私、私っ・・・うっ・・・うっ・・・」
 私は、ピカピカの卒業袴をぎゅっと胸にだいたまま床に崩れ落ちて、思いっきり声を上げて・・・泣いた。この涙。誰にも見えないかもしれない。今の私にも、もう見えない。でも、天国にいるおじいちゃんにはきっと見えたはずだ。見えないはずがないよね。だって、おじいちゃんは、いつまでも私の自慢のおじいちゃんなんだから。
 おじいちゃんありがとう。
 私、ずっと寂しかったんだよ。強がってたけど、でも寂しかった。だって、お父さんもお母さんも隆太も死んで、身体もなくなって、私を支え続けてきたおじいちゃんも死んじゃって、私は機械に閉じ込められた脳みそだけの一人ぼっちになっちゃったんだもん。寂しくないわけないじゃないかっ!寂しがりやの私が、おじいちゃんとした約束を忘れるわけないじゃないかっ!約束したのに死んじゃうなんて、嘘つきバカバカってずっと思ってた。
 でもさ、私の自慢のおじいちゃんが、嘘つきのはずないよね。おじいちゃんのこと信じられなくてごめんね。
 ありがとう。素敵な服をプレゼントしてくれて、本当にありがとう。私待ってるよ。明日の朝、おじいちゃんのくれたこの服を着て待ってるから、だから、ゼッタイ来てね。約束だよ。
 おじいちゃんと手をつなぐことだって、恥ずかしくなんかない。私の手は、あの卒業式のときにつないだのと同じ細っこい機械の手のままだけど、でも手と手で通じ合う私の心はあの時より、きっとずっと成長しているはず。おじいちゃんだって、私と手をつなげば、きっとそのことが分かるよ。
 おじいちゃんがいなくても、こうして私を支えてくれるみんながいる。私は一人で生きてるんじゃない。おじいちゃんがいなくなってからの2年間で、そのことに気が付いて、私は少し強くなれた気がします。
 だから・・・一緒に・・・卒業式に行こう。そして、ちょっとだけ大人になった私を見てね・・・約束だからね。
 
「八木橋君、立ちなさい」
 ふと顔を上げる。目の前で所長がにっこり笑ってた。
「君に最後の仕事を命じる。その届け物をちゃんと、送り先に届けてあげなさい」
(ああ、そうか。そうだったんだ)
 この荷物の宛先は私だ。この荷物を私の家に届けて、はじめて私のしろくま便での仕事は終わる。つまり、これは、私のしろくま便での最後の届け物なんだ。
「はいっ!」
 いつも仕事をする時の顔に戻って、私は力強く返事をした。
「我がしろくま便のモットーを覚えているか?」
 毎日毎日言い聞かされてきたコトバ。っていうか事務所の壁にも貼ってあるし。忘れようったって、忘れるもんか!
「迅速に、丁寧に、お客様の大切な真心をお届けしますっ!」
「よく言えた」
 所長は大きくうなづいた。
「じゃあ、その大切な真心、ちゃんとお客様のもとへお届けしろよ」
「はいっ!」
 服をたたんで、もう一度丁寧に梱包し直して、私は箱を小脇にかかえる。そうして、事務所をもう一度ぐるりと見回した。
 いつも所長が電卓を叩いていたあの机。小林さんがセクハラ発言を繰り返していたこの机。野中さんと石塚さんと三人でいっつもにらめっこしていた、色あせた東京府地図。そして、みんなの笑顔。3年間私の命を支えて続けてくれたこの会社。いろんな思い出のつまったこの会社。こことも今日でさよなら。
 みんなありがとう。私はここで働けたことを誇りに思います。
 みんな大事な私の仲間だ。今までも、そして、これからだって、ずっとずっと。そうだよね。
 だから今言うべきなのは、泣きべそ混じりの別れの挨拶じゃないんだ。
 とびっきりの笑顔で、今言うべきコトバは、これ。
「しろくま便レディースサービスA班、八木橋裕子、ただいまより配送に行ってまいります!」


 
八木橋裕子の物語 大学編  完




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