このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください



「おはようござ・・・」
 タンクトップにホットパンツっていう、いかにも猛暑と正面きって戦いマス的な部屋着を身に着けて、はるにれ荘一階の団欒広間へ続くドアを元気よく開けた私。でも、広間に足を踏み入れたとたん眼鏡がさーっと曇って視界ゼロになるという予想外の事態にウロタエ、口に出しかけた朝の挨拶を途中で飲み込んでしまった。
 気を取り直して、ハンカチで眼鏡をふいたあとぐるりと部屋を見回す私の目に入ったのは、ソファの上で、いかにも起きたばかりっていう寝ぐせバリバリの頭のまんま、毛布にくるまってぶるぶる震えながらトーストにぱくついている須永さん。私は、そんな須永さんを見て、一瞬、着てくるべき服を間違ってしまったかと思い、さっき部屋で見てきたばかりの天気予報の内容をもう一度頭の中で反復する。確かポーカーフェイスがウリのお天気お姉さんが、8月に入って全国的に記録的な猛暑が続いていて、昨日の最高気温は38度、そして、今日の最高気温はとうとう40度まで上がる予定って、さも当たり前の出来事かのように淡々と伝えていたはず。だから、私は、こんなラフラフの薄着を着ることを決めたんだもん。うん。間違ってない・・・はず。
 朝の天気予報でその日着る服を決めるなんて妙なハナシだって思うかもしれない。でも、私は身体は機械仕掛け。そして、この機械の体が、生身の体にはゼンゼン及ばないところはいくつもあって、その一つが温度感覚なんだ。普通のヒトなら起きぬけに、その日の気温を肌で実感して、なんとなく今日は薄着にしようとか、コートを着ていこうとか決めると思うんだけど、温度感覚の鈍いこの身体だとそういうことはできない。極端なハナシ、意識して気をつけないと、木枯らし吹き、枯れ葉舞う日に上はTシャツ一枚、なんて、まるでトンチンカンな服装で外出しちゃいかねないってわけ。そんな私にとっては、朝の天気予報を見て、少なくとも最低気温、最高気温を把握して、本日のお召し物を決めるのは、食事をしたり空気を吸ったりするのと同じくらい当たり前のことで、いくら私がそそっかしいからって、この身体になってもう長いわけだし、この身体になりたての頃のような失敗は、さすがにもう繰り返さない・・・と思う。
 でもね・・・今日が天気予報どおりの猛暑だとしたら、目の前の須永さんのカッコは、いったいどういうわけだろうね。

 私は首をかしげながらもドアを閉め、毛布にくるまって震える須永さんの隣のソファに、どすん、と、ちょっとお行儀悪くあぐら座りで腰を下ろす。そして、この部屋にいるもう一人の人物、須永さんのために淹れたてのミルク入りホットコーヒーを持ってきた水色のノースリーブを着た美少女に声をかけた。
「アニー、今の気温って何度なの?」
「ヤギーの言う気温っていうのは、外の気温?それともこの部屋の中のこと?」

 ことん、と湯気の上がるコーヒーカップをテーブルに置きながら、アニーは素気なく言った。須永さんや、他の住人への対応と私への対応が露骨に違うのが彼女の特徴だ。どうも、私のことを未だにニンゲンとは認めたくはないらしい。もう慣れたけどね。
 それはともかく、

(外の気温と中の気温。ああ、そっか!)
 私は、納得とばかりに、ぱんっと両手の平を合わせた。今の、アニーの質問返しでこのシチュエーションに関する疑問は一気に氷解。そういえばこの部屋と、外の気温が違うっていう可能性もあったね。つまり、この部屋は暑さに激弱な須永さんの要望にこたえてがんがんクーラーを効かせてるってわけだ。
だけど・・・入った瞬間眼鏡が曇るって、この部屋、いったいどんだけ寒いんだよう!
「えと、私が知りたいのはこの部屋の気温」
「エアコンの設定温度は20度。無駄の極み」
 アニーはぶんぶん唸り声をあげている年代もののエアコンに目をやってから、ぷうっとほっぺたを膨らませた。こういう仕草だけ見ると見た目どおりのローティーンの女の子の姿そのもので、とてもAIとは思えない。不貞腐れるアニーと、寒い寒いとしきりに繰り返しながらも幸せそうにコーヒーをすする須永さんという、対象的な二人を見比べて、私は思わずぷっと噴き出した。
 20度だってさ。クーラーのない(っていうか必要ない)私の部屋と、一体どんだけ気温差があるんだろう。そりゃあ、眼鏡も曇るし、須永さんが毛布もかぶるわけだ。それでもって、はるにれ荘の財政を取り仕切るアニーにしてみれば、確かにこの派手な無駄遣いは苦々しい限りだろう。
「浩一さん、ちょっとよろしいでしょうか?」
 須永さんの前にコーヒーを運び、朝のひと仕事を終えたアニーは、須永さんのソファの横の背もたれのない小さな椅子にちょこんと腰かけて口を開いた。まるでいたずらっ子を問い詰める生真面目な学級委員の女の子みたいなの詰問調。

「はひ」
 パンを咥え、テレビに見入りながら生返事する須永さん。一応返事はしたものの、話を聞く気がないのは明らか。

「この部屋のエアコンの設定温度が20度になっていますが、これは少し低すぎではないでしょうか。大勢の方がお見えになっているのであれば別ですが、現在、はるにれ荘にエアコンが必要な方は浩一さん一人しかいらっしゃいませんので、団欒広間のエアコン効率を考えれば、これほど温度を下げる必要はありません。そもそも外との気温差がありすぎると健康を損なう恐れもありますし、設定温度を5度ほどあげて27度にするのが快適さとエネルギー効率を秤にかけた場合の最適解かと思われますが・・・」
「却下」
 須永さんは、ふわあ、と大きな欠伸をしたあと、取りつくシマもないくらいきっぱりとそう告げた。
それでも、アニーは聞き分けのないお殿様を諌める口うるさい家臣さながらに健気に言葉を続ける。
「そもそも、エアコンを20度に下げて、それでいて毛布をかぶるという行為は私には理解不能です。毛布をかぶるのであれば、設定温度を上げても得られる効果は同じだと思いますけど・・・」
「暑い時に、冷房をガンガン効かせて、毛布にくるまりながら熱いコーヒーを飲むのが風流なの。いつも効率効率ってうるさいけど、人間の風流もちゃんと理解しないと立派なAIになれないよ?」
「むー」
 アニーはちょっぴり悔しそうに下唇を噛んで、助けを求めるように私のほうを見た。
(ええっと、ここで私にふりますか?)
 今まで、高性能AIと家主さんの夫婦善哉さながらのやり取りを、どっちの主張が通っても自分は損をしないという安全な立場もあって、ニヤニヤ笑いながら傍観していた私だけど、いきなり話を振られそうになってちょっとどぎまぎ。
「えーっと、理屈にかなってるのは、もちろんアニーのほうだと、思う」
 
ゆっくり自分にも言い聞かせるように答える私。それを聞いたアニーの表情がぱあっと明るくなる。
「でも、バカバカしいけど、須永さんの言うこと、わからなくもないんだよね」
 ふふっと軽く笑ってから私は言った。

「結局、どっちなの?」
 アニーが苛立たしげにテーブルを人さし指のさきっちょでとんとん叩いた。こうやって表情や仕草がくるくる変わるのも、やっぱりこの年頃の女の子そのもの。
「うん」
 頷いてから私は続ける。
「私も昔、須永さんと同じような、あったかい身体を持っていたときに似たような経験があるんだよね。真冬にストーブをガンガン炊いた部屋で、頭がきーんってなるくらに冷えたアイスを食べることが好きだったんだ。なんか贅沢っていうか、幸せーっていう感じでさ。須永さんのやってることも、それと同じなんだよね。だから、須永さんがそうしたい気持ちはよくわかるし、そんなことができる須永さんがちょっと羨ましいよ」

 そうしないよう努力したつもりだけど、やっぱりちょっと寂しそうな声になっちゃったかも。

「ヤギーもそう思うだろう。それが人間ってもんなんだよ。分かったかアニー」
 私の言葉に、うんうんと満足そうにうなずく須永さん。

 アニーは口を開きかけて、でも反論するのは無駄だと悟ったのか、ふぅと溜息一つつくなり、須永さんの飲み干したコーヒーカップを持って立ち上がった。シンクに向かうアニーから、
「何が風流よ。ニンゲンって・・・ホント理解不能・・・」
 って独り言が漏れ聞こえた。
 うーむ、確かにこれはAIには理解不能かもね。

『ばんばんばんばんっ』
 勢いよく玄関ドアを叩く音に、私と須永さんは思わず顔を見合わせた。
 普段、はるにれ荘を訪れるお客さんは、はるにれ荘の外に十個所以上仕掛けてあるカメラを通してアニーが全てチェックしていて、お客サマが玄関ドアまで来るより速く、アニー自身が玄関先でお客サマをお出迎えするのが彼女のモットー。もしもアニーが他の仕事で手が離せない時には、クララベルか私に玄関に行って応対するようアニーから指示が飛ぶ。だからこんな風に玄関のドアが叩かれるのは滅多にないことなんだ。

「ねえアニー、誰か来てるみたいだけど」
「・・・・・・」
 シンクに向かって首をのばして、アニーに問いかけても、まるで聞こえないふりで無言のまま洗い物しているだけ。アニーなら、誰かが来ているってことを知らないはずがないのにおかしな話だよね。ひょっとして、さっきアニーに味方しなかったこと、怒ってるんだろうか?

「忙しいなら、私が行ってあげようか?」
 そう思った私が恐る恐るアニーにお伺いをたててみても、

「行きたきゃ勝手に行けば?」
 取りつくシマもないっていうのはこのことだ。
コッチは親切心で気を遣って言ってやってるのに、ずいぶん投げやりなアニーの態度だ。でも、せっかく来たお客サマを無視するわけにもいかないし、私は仕方なしに立ちあがって、膨れっ面で玄関に向かった。
「おーいっ。おーいっ。誰かいますかーっ?えーい、えーいっ、このっ。このっ。このお。このドアなんで開かないのよう。ベル、鳴らないのよう」
 廊下に出た私の耳に入ったのは、ドアの向こうで大騒ぎしている女の人の声。外側からドアを揺さぶっているのだろう。彼女の声にあわせて鍵のかかっているはるにれ荘の玄関ドアがカタカタ音をたてて揺れている。この声の主は、私のよく知っている人だ。
(ああ、そういうことだったのね!)
 同時にアニーのとった不貞腐れた態度に納得のいった私は苦笑しつつ玄関ドアを開けた。

「やあっ、ヤギー、暑いねっ!これっおみやげねっ!」
 トレードマークのポニーテールをふりふり、妹とは正反対のハイテンションで元気よく挨拶したあとカップ入りアイスクリームのたっぷり入った袋を私に渡してくれたのは、佐倉井ゆうかお姉さんでした。
(あーあ、どうなっちゃうんだろ・・・)
 ゆうかさんは最近、あからさまに須永さん目当てで、須永さんがいる時間をわざわざ私に確認してからはるにれ荘に来るし、須永さんは須永さんでそれを悪くは思っていないようで、ゆうかさんがいる間はデレデレしっぱなし。それはまあいいんだけど、問題なのは、アニーはゆうかさんが来ると目に見えて機嫌が悪くなって、それでいてゆうかさんはアニーのことただのAIとしか思っていなくてまるで相手にしていないから、ますます場の空気が険悪になるってこと。
 どうせ、このあとも荒れ模様になるのは分り切ってる。部外者の私がそこにいるのは針のムシロ。だから、さっさと何かしら理由をつけてここから逃げ出しちゃおう、意気揚揚に廊下を歩くゆうかさんの後姿を見ながら、溜息まじりにそんなことを考える私なのでした。


「ちょっと、なんなのおおお、こんの部屋ぁ、寒い寒い寒い寒い寒いっ。みんな、こんなとこにいたら風邪ひいちゃうよおっ!」
 団欒広間に入ったゆうかさん、案の定は大袈裟な調子で悲鳴を上げた。そりゃあゆうかさんの着ている薄茶色のアジアンテイストなキャミソール1枚じゃあ20度設定のこの部屋は寒いに決まってるよね。
「八木橋さん、あなたこんな寒いのによく平気でいられるよねっ!」
「いやー、私の身体だと暑いとか寒いとか、余り感じないし、風邪もひかないですから・・・」
「あーそっか。そういえば、そうだったね。うん。ごめんねっ!」
 両手の平を合わせてペコリと頭を下げるゆうかさん。
「いいんですよ。でも・・・」
 私はちらりとソファに目線を向ける。そこにいるのは、相変わらずみの虫みたいに毛布にくるまっている須永さん。
「あの人は平気じゃないみたいなんです」
「ほう」
 ゆうかさんは、須永さんの座るソファへゆっくりと足を進める。そして、毛布のはじっこをつかむと「えいっ」という掛声とともに力任せに毛布を引っ張った。
「ああーっ!」
 情けない声を上げる須永さん。ゆうかさんはひっぺがした毛布を床に捨てると、須永さんの前に仁王立ち。
「須永さん、クーラーのかけすぎは体に悪いっ!っていうか私が寒い。今すぐクーラーのスイッチ、切ってちょうだい」
「はははは・・・やっぱり、ちょっと寒かったかなあ?おい、アニー、クーラー切って差し上げて」
 ソファの上で情けないくらい縮こまる須永さん。
「私が言うことはダメでも佐倉井さんが言うことなら受け入れるのですね?」
「ごめん。ごめん。そう、すねるなって」

暑い時に、冷房をガンガン効かせて、毛布にくるまりながら熱いコーヒーを飲むのが風流なのでは?」
「いいから、いいから」
「はい。では、ご命令どおりにクーラーのスイッチを切らせていただきます」
 アニーは棒読み口調でそう言ったあと、きゅっと目をつぶった。その瞬間、広間で唸り声をあげていたクーラーの音がぴったりとやんだ。
「ひゅうひゅう。さっすが全自動化住宅のコンピューターだね。アニーちゃん、かっこいいよおっ!」
「どうもありがとうございます」
 ゆうかさんに褒められても無表情のアニー。アニーが感情を表に出さなくなるのは、相当怒っている証拠なんだけど、須永さんもゆうかさんも気づいてるんだろうか?私にとっては今のこの状態のほうがずーっと寒いんですけど・・・orz

「それで、ゆうかさん。これはどうしたらいいのかなあ」
 私はゆうかさんからもらった、中にアイスクリームがたっぷり入った袋をテーブルの上に置いた。
せっかくみんなのぶんのアイスクリーム買ってきたのに、お留守だったのね。うーん、とっても残念っ!」
 大袈裟肩をすくめてみせるゆうかさん。
「あらぁ、今日がはるにれ荘の夏の旅行の日だってこと、佐倉井さんが知らないはずないと思いますけど」
 とAIらしからぬ嫌味を返すアニー。そして、二人の間に挟まれて、はは、と曖昧笑いをするしかない私。早くこの場から逃げ出したいよう。
 アニーの言うように、はるにれ荘の皆様方とクララベルは昨日から12日の夏休み温泉グルメ旅バスツアーに出かけてしまっているのでした。そして、その間の留守番役を任されたのが、私たち3人ってわけ。本当ははるにれ荘の守り神こと、この家の全てをとり仕切るアニーさえいれば留守は万全なはずなんだけど、この守り神サマは一人にされると拗ねてしまうちょっと気難しくてワガママな守り神サマなので仕方ない。大学も夏休みでたまたまバイトも入れていなかった私や、丁度夏休みの休暇を取っていた須永さんが、アニーの話し相手も兼ねて、居残り組にまわったんだ。そして、その話は先週ゆうかさんが遊びに来たときにも、しているはずなので、今日はるにれ荘に須永さんと私とアニーしかいないってこと、ゆうかさんが知らないはずないんだよね。
「そうだったかしら。忘れちゃった。ふふふ」
 って、ゆうかさん、ゼッタイとぼけてるよね。



「さて、本日私めがここに来ましたのは、みんなで星ヶ浦のビーチに行こうじゃないかっていうお誘いですーっ!」
 テレビの前に立って、須永さんの視線を遮ったゆうかさんは、相変わらずのハイテンションで言った。
(みんなっていうか、目的は須永さん一人でしょ。そもそも私の体は海に弱い義体だし、アニーはこの家備付のAIなんだから、対象者はもともと須永さんしかいないじゃんか)
 私は苦笑しつつ周りを見回す。須永さんは、相変わらず膝を抱えて震えてるし、アニーは黙々とゆうかさんの持ってきたアイスクリームを冷凍庫につめている。ひらたく言えば、ゆうかさんのテンションが浮きまくっているのは否めないって感じ。
「須永さん、どうですか。星ヶ浦ビーチ行きますか?」
「はあ」
「ああ、行きたいですか。そうですよねー。こんなに暑いんですもんねーっ!」
 って、須永さんそんなことヒトコトも言ってないんですけど。
「あ、ああ。い、行きます」
 ゆうかさんの勢いに気圧されるように同意のコトバを口にする須永さん。
「八木橋さん、あなたはどう、行く?」
「はあ、あの、えーっと」
 とてもじゃないけど、行きますなんて言えるような雰囲気じゃないよう・・・
「この身体に塩分は余りよくないので、海辺には極力行かないようにって、メーカーの人から言われています。それに海に行ったところで、どうせ私は泳げないですし・・・だから、私のことは気にしなくていいから、須永さんと二人で行けばいいよ。ねっアニー」
 もう二人で勝手にどこへでも行っちゃってください。バカバカしい。ねっアニー。そんな気分で私はアニーのほうを向いた。
 でも———
「私、行きます」
「「「はあ?」」」
 今、アニーの口から飛び出たありえない回答に、私と、須永さんと、ゆうかさん、三人同時に驚きの声を上げた。
「星ヶ浦ビーチに行くっていったんです。いけませんか?」
「行くって、あのなあ。お前、ここから離れられないだろ。どうやって海に行くんだ。そんなこともわからないお前じゃないだろうに」
 須永さんがあきれたように言った。
 私たちがいつも見ている女の子姿のアニーは、実は本体ではなくただの人型の端末装置。実はアニーの本体は、はるにれ荘中央統括コンピュータールーム(超大袈裟な名前だよねw)の真ん中にでんと鎮座しているスーパーコンピューターなんだ。そして、コンピューターから人型の端末を無線操縦しているわけだけど、電波の届く範囲は、はるにれ荘を中心とする半径500メートルの範囲内に限られている。それがアニーの活動範囲ってわけ。でも、はるにれ荘から、星ヶ浦と言わず一番近い海までだって直線距離で少なくとも2キロは離れている。私たちにとってはたった2キロ。でもアニーにとってはその2キロは私たちにとっての月までの距離より遠いんだ。だって、端末とはいえ自分の足で海に行くのは絶対不可能なんだからね。
「分かってます・・・」
 須永さんにたしなめられたアニーは寂しげに肩を落とした。
「分かってますよ。ちょっと言ってみただけですよ。困らせてみたかっただけですよ」


 あたり一面、じいじい煩いアブラゼミの蝉しぐれの中、須永さんを乗せたゆうかさんの車が出ていくのを見送った私とアニー。
 車が視界から消えたあとも、アニーはずーっと黙って、その場に立ちっぱなし。私は、一人先に中に戻るのも悪い気がして、アニーの横で突っ立っていたんだけど・・・
 気まずい。めちゃ気まずい。
 あまりにも気まずいから、なんでAIに気を使わなきゃいけないのか、自分でも訳わからないんだけど、なんかアニーに話しかけなきゃという気分になった。
「今日の最高気温は40度らしいけど、蝉の声聞くだけで、暑い気がするよね。それがアブラゼミだと特にね」
 何の気なしに行ったコトバだけど、アニーの心のどこかに引っかかったみたい。
「蝉の声を聞くと暑い気がする。それが風流っていうことなのかなあ?」
 私に話かけているとも独り言ともつかないつぶやきを漏らした。
「まだ須永さんに言われたことで悩んでるの?あまり真面目に考えないほうがいいよ。適当に言ってるだけだから」
「ねえ、ヤギー」
 アニーは正面から私を見据えた。美少女に真っすぐ見つめられて、ちょっとドキドキしてしまう私。
「なんでニンゲンって夏になると海に行きたがるの?」
「えーっとなんでって言われてもなあ・・・」
 そんな当たり前のこと、改めて聞かれてもかえって答えにつまってしまう。
「海に入ると冷たくて気持ちがいいよね。それに波にぷかぷか乗りながら泳ぐのも楽しいし。昔夏になると青森に行ってさ、おじいちゃんと海で遊んだんだけど、砂浜で貝を採ったりするのも楽しかったよ。その場で焼いて食べたことがあるけど、これがまた美味しいんだよね・・・」
 アニーに話ながら思い出す昔のこと。間違えて踏んづけてしまったナマコの感触、溺れそうになって飲み込んだ海水の味、今の私は、海に入ることも泳ぐことも、砂浜でのバーベキューもできないって思うと、どうしても悲しくなってしまう。このまま昔のことを考えて、どんどん湿っぽい方向に思考が進んでいくのも嫌だったので、逆にアニーに聞いてみることにした。.

「アニーはどうして海に行きたいって思ったの?アニーだって海がどういうところかくらいは知ってるでしょ。まさか・・・須永さんとゆうかさんが二人で行くのを邪魔したかったとか」
「それもちょっとはあるけどね」
 ふふっとアニーはいたずらっぽく笑った。
「海がどういうところかは、もちろん知ってる。海は、地球上の地表の70.6%を占める、塩水で覆われた部分を指していて、面積は3億6,000万km2・平均深度は3,729m。海水の総量は約14億立方キロメートルで、海水の主な成分は塩化ナトリウム77.9%塩化マグネシウム9.6%・硫酸マグネシウム6.1%・硫酸カルシウム4.0%・塩化カリウム2.1%・・・こんなことはネットで調べればいくらでもわかる。でも、こんなこといくら調べても、本当の人間が考える海は理解できないよね。浩一さんは言いました。『人間の風流もちゃんと理解しないと立派なAIになれないよ』って。私は風流って言われても、今のところ何のことか全然わかりません。でも、夏に海に行くことと、この言葉と何か関係があるのかなと思うんだ。だとしたら本当の海に行くことで、少しは自分の糧になるのかな。そう思いました」
「アニー、すごいよ。ちょっと尊敬した」
「尊敬?どうして?」
「すぐ暗くなる私と違う。前向きに物事を考えてる」
「そうかなあ?」
「私もできる限りの協力はするからさ。いつか、アニーも海に行けるようになるといいよね」
「できる限りの協力をする。ヤギー本当にそう思ってくれてる?」
 アニーの眼が、きらーんと光った・・・ような気がした。
「え、なんで。もちろんだよ。はは」
 なんだか嫌な予感がしつつも、、愛想笑いをしてしまう私。
「実は、一つだけ、方法がないこともない」
 いたずらっぽく笑ってからアニーがしてくれたのはこんな話。
 ギガテックス製の義体も、イソジマ製の義体も、たとえ一般生活用の汎用義体であっても国からの補助金の関係で必ず特殊公務員使用を想定した強力な通信機能がついているんだそうだ。そして、その機能を使えば、アニーのコンピューター本体から発信された端末操縦信号を、義体の通信機能を中継して、アニーの人型端末へ送るってこともできるらしい。つまりアニーの行動範囲はぐっと広がるって海にも行けるかもしれないってわけ。
「つまり・・・そのう・・・私が協力しさえすれば、アニーは海へ行けるってわけ?」
「うん。それで、そのためにはちょっとだけ、ヤギーのサポートコンピューターの設定を書きかえる必要があるんだけど・・・もちろん協力してくれるよね」
 アニーが、 私に向かって人差し指を立てた。 その人差し指と爪の間から、 ぬーって、 細い金属の棒が姿を現した。
「うー、痛くしないでください」
「ヤギー、一緒に海に行こうね」


「ヤギー、ストップっ!ストップぅ!」
「うん」
 後ろの荷台に腰かけたアニーの指示に従って、自転車のブレーキをかける。油の切れかかった私のおんぼろ自転車がきいっと悲鳴を上げながら止まったのは、ちょうど砂田橋のど真ん中。
「ここがはるにれ荘から、2キロ地点?」
 後ろを振り返った私に向かってアニーがこくりとうなずいたのを合図に自転車を降りて、橋の欄干に自転車を立てかけると、すう、と大きく息を吸い込んで、空を見上げた。
 黒い電線でちょうど額縁みたいに四角く切り取られた大きな青い空のキャンバスいっぱいに、むくむく入道雲が広がってる。そのまま視線を下に移すと、足元には、雑草まみれの河川敷の真ん中を申し訳なさそうに、ちろちろと細い川が流れてる。その川の流れに沿って、河川敷に植えられた小さな並木を見ながら視線を先へ先へと移していくと、陽炎のせいでゆらめく河口があって小さく船が見えて、海が見えて、そして、その先はさっきの青空につながってる。
 私たちの目の前の車道では、赤かったり黄色かったり、トラックだったりバスだったり乗用車だったり、いろんな車が、鉄でできた道路のつなぎ目にところで、かたんかたん音を立てながら、ひっきりなしに行きかってる。
「さて」
 私は、ふう、と一息つくと後ろを振り返って、不安な面持ちの黒髪の美少女に向かって、意地悪っぽい笑みを浮かべてみせる。
「アニー先生。ここから先は一人になりますが、行けますか?」
「も、もちろん、行けるって。うん、うん、うん」
 自分に言い聞かせるように、アニーはちょっと大袈裟にうなずいてみせた。その仕草は気弱そうな少女そのまま。いつもの、はるにれ荘の全てを取り仕切る万能AIの面影は、みじんもない。なんだかヒキコモリの子を無理やり外に連れ出してきた気分だよ。

 さて、ここで本題。私たち二人が、なぜこんなところに来ているか、気になる読者諸君もいることだろう。——それはそれはつまりこういうワケなのであーる。ちょっと長くなるけど我慢して聞いてよね。

 アニーに無理やりサポートコンピューターの設定を変えさせられて、アニーの本体と端末をつなぐ通信中継機にさせられた私。でも、CS-20型義体に装備されている通信機能は結構心もとないもので、半径1kmくらいの送受信能力しかないらしい。ホントは、宇宙でも使えるくらいのスグレモノらしいんだけど、なんでもデンパなんとか法っていう法律のせいで、非常時以外は機能を制限されてるんだってさ。だから、私の義体の通信装置を中継したとしても、アニーが行動できるのははるにれ荘の半径3km以内に限られてしまうってわけ。でも、須永さんとゆうかさんが向かった星ヶ浦のビーチは、はるにれ荘から団子坂の山を越えた向こう側、直線距離でも4km以上カクジツに離れてる。だから、アニーが二人を追いかけて星ヶ浦に行くことはできないってことが分かったんだ。
 だけど、海は別に星ヶ浦でしか見えないってわけじゃないよね。そんなところまで行かなくても、はるにれ荘から自転車で15分も走れば花磯の海岸には行ける。モチロン星ヶ浦みたいに奇麗な白砂の海岸線が続くってわけじゃないけどさ、どうせこんな日に星ヶ浦にいったところで、海を見るんだか人を見るんだか分らない状態になってるってこと、カンタンに想像がつく。
 花磯は、はるにれ荘からちょうど3kmくらい。だからはるにれ荘からギリギリ2km地点で私が待機していれば、アニー本体から発信される端末捜査通信が、私の義体の通信機を経由して、さらにそこから1km離れた花磯の海岸まで届き、アニーは晴れて海を見ることができるってわけ。そして、そのはるにれ荘からギリギリ2km地点が私が今立っている砂田橋のちょうど真ん中だったってわけなんだ。


 ということで、砂田橋のど真ん中。車が行き交う傍らの歩道に、私たちは横並びして、もう一分間も、橋の向こう側を見つめ続けてる。
 ちりんちりーん。
 後ろから聞こえる自転車のベルの音に、私はあわてて橋の欄干に身を寄せて道を開けた。自転車に乗ったおばちゃんは、迷惑そうに顔をしかめながら、私たちの横を通り過ぎていった。
「ねえ、ヤギー」
 アニーは、私を上目づかいに見上げる。ふわり、と橋の下から吹き上げる風が彼女の髪をゆらした。そして、そのまま身体ごと吹き飛ばされてしまいそう。そんなわけないんだけど、そう感じるくらい、今のアニーは、かよわき乙女の姿そのまんま。
「私、この橋の向こうに行ったこと、ない」
「うん」
「海どころか、この橋の先に何があるかも知らない」
「うん」
「この橋、私に、渡れるかなあ?」
「はぁ」
 私は半ばあきれてため息をついた。
「あんたが自分から海に行くって言い出したんでしょ」
「それはそうだけど・・・」
「それに私の身体いじくって、あんたが自分で、海まで行けるように設定したんでしょ。何を今さら怖気づいてるの?」
 ちょっと挑発的なもの言いで私は言う。プライドの高いアニーには下手に励ますより、こう言い方のほうが効果的な気がする。
「でも、やっぱり、なんだか恐いな」
「最近皆言ってるよね。クララベルと一緒に買い物に行けて安心だな。クララベルと一緒に旅行けて楽しいな。やっぱりクララベルあってのはるにれだな。ヒッキーのアニーは気分屋さんで機嫌が悪い時は物を頼みづらいな。アニーは、ヤギーをあんなにこき使って、ヤギーが可哀想だな」
「むー、誰がそんなことをっ!」
 アニーは口を尖らせてすねる。
 それは、私だwwww
 でもそんなことアニーには口が裂けても言えませんw
「そんなアニー。あなたが変わるチャンスです。おっかなびっくり渡るんじゃなくてさ。もうこの際だーっと思いっきり駆けちゃいなよ。それで海を見てきなよ。ゼッタイ世界が大きく変わるから。大丈夫。もし何かあったら私があなたの屍を拾って帰ってきてあげるから。と、言うことで」
 とん、
 と私はアニーの肩を後ろから後押し。
「行ってらしゃーい」
「と、とと、と」
 私に押し出されたアニーは、まるで子供がシーソーの上を歩くみたいに、両手を広げてながらゆらゆらと、二、三歩歩いたあと、私のほうを振り向いた。まだおっかなびっくりといった表情。
「立ち止まらない、そのまま向こうまで走る」
 私は、そんなアニーを今度は声で後押しするように叱咤する。アニーは無言でうなずくと、私の言葉通り、走りはじめた。いったん勢いがつくと、あとは速い。アニーはあっという間に、橋の反対側まで渡り切ってしまった。
「渡れたよ。ヤギー、ありがとーっ!」
 向こう側から、笑顔で手を振るアニー。ずーっと前、まだ自分が小学生だったころ。世の中には未知の場所がたくさんあって、放課後に自転車で知らない場所に行く度に新しい世界が広がっていった。この先に何があるんだろう。そんなワクワク感。そして、はたして無事に帰れるんだろうか?そんなドキドキ感。アニーを見て、そんな遠い昔の懐かしい記憶が自分の中にも鮮やかに甦った気がする。
 たかが海に行くだけのことなんだけど、アニーには大冒険だ。そして、私にも。
 アニー。一緒に、海に行こうね。


 橋の欄干に身を私の視界の片隅に、四角く切り取ったように別の画像が映し出される。
 その画像は、できの悪い素人ビデオのように上下左右に激しく揺れている。アニーが勢いよく走っている証拠だ。
”目の前の信号を右に曲がれば海が見えるよ”
”こちら、アニー。了解”
 アニーの喜びに弾んだ私の声が私の頭の中に響く。ちょっと不安だった通信状態も良好。ううん、良好すぎ。元気一杯に走るアニーの視界を立ったまま見ていると、なんだか頭がくらくらしてくる。
”そんな急がなくても海は逃げていかないよう”
 そんな私の不平なんかおかまいなしにアニーは走り続け、勢いよく交差点を右に曲がる。
 その瞬間——
”海だ”
  アニーはそう呟いて、立ち止まる。私は、アニーの見ている画像が義眼のメイン視界になるように、視点を切り替える。視界一杯に広がる青い絨毯。タイミング良く海鳥の群れが軽やかに頭上を飛んでいく。
”ヤギー見えてる?海だよ海。ほんとうのうみーっ!”
 よっぽど興奮しているんだろう。アニーは通信装置を使っての会話にもかかわらず、叫び声を上げ、私は無意識のうちに耳をふさいでしまった。そんなことしても意味ないのにね。はは。 私にしてみたら、海なんて毎日の大学への行き帰りにいつも団子坂の峠道から飽きるほど見慣れている。そもそも、ここの海なんて、星ヶ浦みたいなきれいなビーチじゃくて、コンクリートだらけのただの岸壁。でも、アニーにとっては、これは生まれて初めての海なんだよね。アニーの眼というフィルターを通すと、いつも見慣れた風景も、なんだか新鮮に感じるから不思議だよね。
”アニー。調子に乗って走り回らないで。たぶん通信距離ギリギリだと思うから、慎重にね”
”大丈夫、ちゃんと気をつけてます。私はヤギーみたいなへまはしません。ふふふん”
 さっきまでのおどおどした少女の姿はどこへやら、余裕シャクシャクで軽口を叩きながら歩きはじめるアニー。
 やがてたどりつく岸壁。規則正しくコンクリートの岸壁に当たっては砕ける波の音。地平線まで広がる海と、海を彩るたくさんの船。
 アニーは、岸壁に腰掛けて、足をぶらぶらさせながら、遠く水平線を見つめた。
”通信距離は大丈夫?”
 ちょっと心配になって、私はアニーに聞いた。こんな姿勢で海を見て、下手に通信回線が切れて、足元の海に真っ逆さま、なんて展開は困る。
”うん。大丈夫。でも、ぎりぎり。ヤギーこそ、その場を離れちゃダメだよ”
 そうでした。どっちかと言うと気をつけなきゃいけないのは私でした。
 私は、ちょっとだけ視界を元に戻して、強烈な日差しに晒されて熱を帯びた橋の欄干をぎゅっと握りなおす。
”で、どう。感想は?実際に海を見て、ニンゲンが海に行きたがる気持ち、ちょっとは分かった?”
”よくわかんないよ。でも、こうして海は見れて、さっきヤギーが言ってたようなことは、なんだかどうでも良くなった”
”さっき言ってたことって?”
”ほら、はるにれ荘の人たちがクララベルにべったりだとかいう噂”
”はは、気にしてたんだ”
 半分は私の作りごとなんだけどね。真剣に捉えていたとしたら悪いことをした。
”あとは、浩一さんと佐倉井さんのこととか”
”浩一さんのこと、好きなの?”
”それもよくわかんないよ。私の仕事は第一にこの家を守ること。それ以外のことはあまり考えないようにしてるから。でも——でも——”
 アニーは、何か考えるふうに言葉を切った。
”たまにちょっと外に出かけたくなったら、また今日みたいに付き合ってもらっていいかなあ”
”うんっ。もちろん”
 思わずアニーを元気づけるように、ぱんって肩をたたきたくなる。その手が、アニーのそばにないのが残念だ。
 と、そのとき、揺れるアニーの視界を横切る白いもの。アニーの手元に落ちているそれって・・・何かひらめくものを感じた。
”アニーの右手の近くに、何か落ちてるでしょ。それって、一体何?”
”ああ、これ?”
 アニーの白い手のひらに包まれるように持ち上げられたそれは、ちょっと大ぶりな、陽に晒されて白っぽくなった巻貝の貝殻。
”ただの貝殻。つまらないものだよ”
”悪いけど、それ、持って帰ってくれないかなあ”
”こんなもの持って帰って、どうするの?”
 アニーはあきれたように言う。
”ふふふ、それ魔法の道具なんだよ”
 私は、自慢げに言った。


「あっ!ヤギー君、ヤギー君じゃないか?」
 唐突に後ろから声をかけられてどきりとする。
 誰に見られているわけでもないのに、後ろめたさをあわてて感じてアニーとの通信を切って、恐る恐る振り返る私。そこに立っていたのは、ゆうかさんの妹で、大学の同級生の佐倉井さやかだった。
「さ、佐倉井。あ、あんた、なんでこんなところにいるのさ」
「あーやっぱりヤギー君だ。こんな橋の真ん中に突っ立って、ぶつぶつ独り言を言って、いったい何やってるのかね?ハタから見たら危ない人みたいなんだけど・・・?」
 お姉さんとは正反対の、気だるげなアンニュイ口調。
 私が、何やってるかって?電波中継ターミナルとして待機中です。なーんてホントのこと言えるわけもない。だけどとっさにうまい言い逃れができるほど器用でもない。痛いトコロをつかれた政治家の答弁みたく狼狽して、
「あー・・・えと・・・うー・・・」
 と唸るばかりの私。
「まあ答えたくなきゃ別にいいんけどね」
 佐倉井はそんな私にあきれたように苦笑い。
「私は、こっちには滅多に来ないんだけどね。たまたまこの辺に新しいケーキ屋が出来たって情報を仕入れたもんで、バスに乗って偵察に来たってわけ。それにしても・・・」
 佐倉井は、ギラギラ輝く太陽を眩しそうに見上げたあと、かぶっている帽子のつばに手をやって、深くかぶりなおした。
「今日はめちゃくちゃ暑いね」
 そういえば今日の気温は40度まであがるんだっけ。それで今は午後2時。たぶん、一日で一番暑い時間帯だろう。40度なんて、ずーっとお風呂につかりっぱなしなのと同じ。フツーの人なら、じっとしているだけでも体から、雑巾をしぼったみたいに汗がぽたぽた流れ出てきてることだろう。目の前の佐倉井みたいにね。
「ヤギー君も、こんなところに立ってないで、涼みがてら私と一緒にケーキ食べに行かない?この橋のすぐ先のシルバーファーンっていうお店なんだけど」
「わ、私は・・・」
 佐倉井ってば、どうして私が答えにくいことばっかり聞いてくるんだよう。
 クーラーのがんがん効いたところで、ケーキを食べる。そんなこと私したいにきまってるじゃないかよう。でも、この機械の体じゃ、ケーキは食べられないし、クーラーの効いたお店に入って、生き返ったーっ、みたいなことも感じられないんだよう。
 でも、そんなこと佐倉井に言えるわけない。
「・・・私はダイエットしていて・・・」
「ヤギー君、いつもそれだね。こんな暑い日に外に出るだけで充分ダイエットだっつーの」
 佐倉井は、顔をしかめると、手のひらを余り意味のないうちわがわりにして、ぱたぱた顔に頼りない風を送った。

 ちょうどその時、どあっぷで佐倉井の顔を映しだしている私の視界に真赤な警告文字が横切った。
”義体温度異常上昇”
「ぁ・・・」
「ヤギー君?どうしたの?」
 佐倉井は、一瞬ウツロな目をして、意味不明の呻き声を上げた私のことを不審に思ったんだろうね。警戒感まるだしの、まるで変質者でも見るような眼付きで、私の顔を覗き込む。
 気温は感じないといっても、太陽に晒されたこのカラダの温度はカクジツに上がっていたわけで、でも、今までいろんな義体トラブルを体験してきた私だけど、この警告ははじめて。義体温度が上がるといったいどうなるんだろう・・・。
 私のギモンに答えるかのように、もう一度真赤な文字が流れる。
”放熱のため30秒後に体外ハッチを強制開放します”
「ぇ・・・嘘っ」
 思わず口をついて出そうになる悲鳴をあわてて飲み込んだ。目の前の佐倉井は、私の体に起こっていることなど知るよしもなく、首をひねるばかり。
 マズイ。これは実にまずい事態だ。いくら温度を感じないからって、外気に触れれば義体の温度はカクジツに上昇するわけで、佐倉井みたいに帽子くらい被ってくればよかったんだ。そう思っても後の祭り。それにしても、佐倉井の前でこんなことになるなんて、バカサポートコンピューターも少しは空気を読んで欲しい。
「ヤギー君、どうしたの。さっきから、なんか様子がヘンなんだが」
「いや、その、あの」
 体外ハッチ強制開放。 えーっとそれはつまり、私の義体にいくつもついている、普段カムフラージュシールで隠してる検査用のハッチが、全部開いちゃうってことでしょうか?たとえば背中や脇腹や、それに胸がぱかっと左右に開いたりするわけでしょうか?
 誰も見ていないならまだしも、私の目の前には佐倉井がいる。厚着をしているなら、なんとかごまかせるかもしれないけど、今の私は、頼りない大きさの胸を包むブラの上に、タンクトップを一枚着てるだけ。彼女の前でそんなことになったら、私の体が機械仕掛けってことは一発でバレちゃうじゃないかよう。
”29・28・27・26”
 焦る私を尻目に、サポートコンピューターの冷静かつ冷酷なカウントダウンがはじまった。  どうしようどうしようどうしようどうしよう。
 もう佐倉井に向かって、何事もなかったかのように取り繕ってる場合じゃない。多少不審に思われたとしても(もうすでに思われてるケド)、目先のピンチを解決しなければっ。ようするに義体の温度を下げればいいんでしょ。つまり、ちょっとひんやりしたところに行けばいいんでしょ。
(日陰日陰日陰)
 ぐるりと周りを見回す私。でも、橋の真ん中にあるのは、せいぜい電信柱の落とす細くて頼りない影くらい。そんなものが義体の温度を下げるたしになるとはとても思えない。じゃあ、何も考えずに自転車に乗って、佐倉井が追い付けない距離まで逃げるか?よく考えたら、この場を少しでも離れたら、アニーとの通信が切れてしまう。
 この場にたら破滅。逃げたらアニーが海に転落。じゃあ、私は、どうすればいいの?
”20・19・18・17”
「ヤギー君。本当にどうかしたの。ちょっとおかしいよ?」
「うん、えと、あのう」
 俯く私の眼に入ったのは川。そうか、橋の下には当然川が流れてる。
”13・12・11・10”
 あそこに飛び込めば・・・
 橋の欄干に手をかけてると、そのまま鉄棒遊びみたいに、手すりにまたがる。それから、恐る恐る欄干の向こう側へ足を落として・・・。
「ちょ・・・・・・ヤギー君、ど、どしたの。気でも狂ったの」
 普段クールが身上で冷静沈着な佐倉井が、ここまで驚いた表情を浮かべるのは珍しいことだ。それだけ、私の行動は異常ってことなんだけど、もうハッチが開いちゃうことに比べればどうでもいいや。
 両手で橋の欄干をつかみながら、恐る恐る下を見下ろす。
 川面までの距離は、だいたい4mくらいだろうか?ちっちゃな橋のはずなのに、自分と川面との間に何もさえぎるものがなくなるとずいぶん高く感じて、頭がクラクラした。
 でも怖気づいてる場合じゃない。私には時間がない。私に残された選択肢はこれしかなーい。
「佐倉井。私暑くて暑くて、もう耐えられそうにない」
 後ろを振り返り、唖然としている佐倉井に向かって、笑顔。でも、自分でもわかるあからさまな作り笑い。私、ゼッタイ顔ひきつってる。
 そして、そのまま・・・
「ヤギーくーん!!!!」
 佐倉井の叫び声を背中に受けながら、私は川に向かってダイビング。
 どぶーーーん
 120キロの金属の塊が水に落ちて、派手な水しぶきが上がって・・・いるだろう。きっと。川に落ちた私の耳が拾ったのはそんな音。そして、
 どすん
 足から伝わる鈍い衝撃で、私の足が川の底を捉えたことを知る。
 眼をつむる必要は、もうないんだけど昔からの反射行動で、思わず眼をつむる。そんな私の真っ暗な視界を横切る青い文字。
”義体温度低下を確認”
”ハッチ開放動作を解除”
 よし、これ一安心・・・な、わけがない。
 アニーは今、岸壁にいる。それで、私の場所から、彼女のいる岸壁までの通信距離は、ギリギリ。ということは、私は、この場所から一歩も歩くことはできないということになる。少しでも動こうものなら、通信距離の限界を越えて、アニーの端末が止まるならまだいい。最悪アニーは海に真っ逆さまだ。
 私の体は水に浮かばない。そして、川の真ん中は思いのほか深くて、足がついた状態では顔は水の外には出ない。こんな体だから、息をしなくてもしばらくの間は水の中にいられるけど、佐倉井の前でそんな芸当できるわけない。
 ざざっ
 視界に一瞬ノイズが走ったあと、アニーとの通信が回復する。
”いきなり、通信を切っちゃって、ヤギー感じ悪いよ”
”それどころじゃない。緊急事態。アニー、今すぐ戻ってーっ!”
”え?ヤギー、どこにいるの?そこって水の中?”
”説明はあとっ!早く早く!”
 私の剣幕に押されたアニーが、海を後に元来た道を走りだす。それを見て、私は、あたり一面ヘドロが舞う中、底にたまった泥に足をとられつつ、よろよろ川岸に向かって足を進める。
 髪から、正体不明の緑色の何かをぶらさげつつ、まるで妖怪海坊主のような姿で、ようやく私は川辺の護岸コンクリートにたどりついた。ふと顔を上げると、川の欄干から身を乗り出すように、佐倉井が心配そうな顔で、こっちを見ているのが見えた。
 うー、ともかく私が無事だと言うことを彼女に伝えなければ。
「佐倉井ーっ!水の中、気持ちいいよ。佐倉井も一緒にどうーっ!」
 それで佐倉井の心配顔が一変、お腹を抱えて笑いだす。
 ああ、また私、訳のわからないことを言った。きっと佐倉井の脳内の空きスペースにヤギー変人伝説の新たな1ページが書き加えられたことに間違いはないだろう。とほほorz


 夕焼け空の下、私とアニーと二人、はるにれ荘への帰り道。
「そうだ。アニー、さっきの貝殻、私にちょうだい」
「別にいいけど、こんなもの、どうするの?」
 アニーはスカートのポケットから貝殻をつまんで私に手渡す。
 私は、それを受け取って手の平に転がした。
「ふふふ。さっき言ったでしょ。これは魔法の道具だって。アニーばっかり海に行ってずるいじゃないか。だから私もこれから、これで海に行くのだ」
 私は立ち止まって、目を閉じて、貝殻を耳に当てる。

 ごおー。

 真っ暗やみの私の視界。でも、こうして貝殻の音を聞きながら眼を閉じれば、昔家族みんなで行った夏の海の風景がありありと蘇る。決して機械の眼が移したデジタル画像じゃない。私の記憶に残った、本当の私の眼で見た、あの夏の海。本当の肌で感じたあの潮風。本当の鼻で感じた海のにおい。
 しばらく思い出にひたったあと、私は見開いて、目の前のアニーに向かって、おどけたように言った。
「ただいま。魔法が解けました」
「ニンゲンって、ほんとヘンだよね。海に行ったら少しは分かるかと思ったけど、私、やっぱりよく分らないよ」
 アニーは肩をすくめて首を傾げた。


 私とアニーがはるにれ荘に戻ったのと、浩一さんとゆうかさんが星ヶ浦から、戻ってきたのはほぼ同時。
「浩一さん、あのね・・・」
 アニーは、車からおりた須永さんに飛びついて、今日の一部始終を話した。アニーの話のあと、ゆうかさんはずぶ濡れの私とアニーを見比べながら、不思議そうに言った。
「で・・・海に行ったのは、ヤギーとアニーのどっちだったっけ?」


このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください