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とんとん。
病室のドアを叩く控え目なノックの音。
いかにも寝起きしたばかりというボサボサ髪のまま、ベッドに寝そべりながら充電しつつマンガを読んでいた私は、あわてて読みさしのマンガをベッド脇のサイドテーブルに伏せたあと、身体を起こしてベッドの横のコンセントに差し込んである義体のコンセントプラグを引き抜いた。脇腹のところにある小さなハッチの中にあるボタンを押すと、コンセントプラグはしゅるしゅる掃除機みたいにハッチの中に引き込まれていった。
まあ、この病室に入ってくるのはタマちゃんか、吉澤先生か、それともおじいちゃんか、いずれにしても私が義体だってことは知っている人ばかりなのは分かっているけどさ、それでも人前で充電している姿を見せるのは恥ずかしいし、気が引ける。
コンセントの頭がしっかり義体の中に収納されたのを確認したあと、静かにハッチを閉めて、そこで私はようやく声を上げた。
「どうぞー」
ゆっくりとドアが開き、白衣姿のタマちゃんが白い瀬戸物の壺を両手で大事そうに抱えて伏し目がちに入ってきた。
「あ・・・タマちゃん」
私は、ベットの下に置いてある病院によくあるビニール製の緑のスリッパに足をつっかけて立ち上がる。一応ここは病室で、私は入院患者という身分なんだけど、義体脳移植手術を受けて、なおかつ義体操縦免許所得も間近な患者なんていうのは、精神的にはともかく肉体的(まあ肉体じゃないんだけどね)には下手な健常者よりもよっぽど元気いっぱいなわけで、病人みたいにベッドで寝たまま訪問者を迎えるっていうのも失礼だと思ったからね。ましてや相手が、いつも私のことを気にかけてくれている担当ケアサポーターさんならなおさら。
で、いつもなら、ここで朝の挨拶からはじまって、今日のスケジュールを説明されたり、義体のデータをとったり、他愛のない雑談をしたりするわけだけど、今日のタマちゃんは、病室に入ったっきり黙ったまま。それにタマちゃんが持っている壺も気になる。
なぜに壺。まさか、タマちゃん、その壺、買ったら幸せになれるとか言って私に売りつけるつもりじゃないよね、と冗談を言おうとして、やめた。なぜって、とてもじゃないけどそんな雰囲気じゃなかったから。こんな表情のタマちゃんを見るのは、義体化したとタマちゃんの口から聞かされた時以来かもしれない。
しばらく、黙って私のことを見つめていたタマちゃん、何かを決意したようにうなずくと、
「八木橋さん、これ、あなたに渡します」
そう言って、持ってる壺を私に向かって差し出した。
「はあ」
私は、それを神妙な顔つきで受け取る。受け取ったものは、壺って言っても、花瓶じゃない。どちらかというと茶筒を大きくしたような形で、上には同じく瀬戸物でできたフタがのっかっている。
「うー、なんだろう。開けていいの?」
恐る恐るタマちゃんにお伺いを立てる私。タマちゃんが、首を縦にふったのを見て、私はフタを開ける。まず目についたのは、割れたお皿を伏せたみたいな形の白いモノ。その下にも白くて細かい塊がびっしり詰まっている。はじめは石ころか何かかと思ったけど、それにしては薄っぺらだし、第一石にしては軽すぎる。
「何、これ?」
「それは・・・八木橋さんの・・・」
タマちゃんは説明しかけて、言いよどみ、私から眼をそらした。そんなタマちゃんの反応で、私には、これが何なのか見当がついてしまった。
「ひょっとして、これ、私の・・・骨・・・だよね」
タマちゃんは、黙ってうなずいた。
私はもう一度、壺の中に目を落とす。骨だと知ったあとで見てみれば、一番上に乗っているお皿みたいな形のものは、火葬された頭蓋骨のなれの果てだと分かる。そういえば、昔、私が小学生になる前に、親戚のお葬式に参列した時にも見たことがあったっけ。あの時に見た骨もちょうどこんな形をしていた。今まで人の形をしていたものが、たった数十分で、バラバラの骨の塊になって、小さな壺の中に納まってしまう。それは、幼い私にとって衝撃の光景だった。でも、その頃の私には、まさか10年後の私が、自分自身の骨を同じような形で見ることになるなんて、想像もできなかっただろう。
私は、私の体のどの部分だったのかもわからないくらい小さくなってしまった骨のかけらをつまみだしてみる。
「これが、私・・・」
私の肉体が、あのお葬式のときみたいに燃やされることを想像して、胸が苦しくなる。私の体、どんなに熱い思いをしたんだろう。どんなに苦しかっただろう。
事故に遭って、機械の体に脳みそを移されて、リハビリを重ねて、新しい体をなんとか上手く操れるようになって、義体操縦免許ももう少しで取れるところまできた。私は、もうこの機械の体で一生を生きていく。死んでしまったお父さんやお母さんや隆太の分も生きなきゃいけない。そんな覚悟を決めたつもりでいた。
それでも、もう絶対に元には戻れない、失った身体は二度と還ってこない、そういう厳しい現実を、こうやって一番分かり易い形で突きつけられると、そんな決意は、波打ち際に作った砂のお城みたいに簡単に崩れてしまう。
私にとって、今、こうやってモノを考えている八木橋裕子だけが八木橋裕子じゃなかったはず。スタイル抜群ってわけじゃ決してなくて、生理はめちゃめちゃ重くて苦しくて、でも走るのはちょっとだけ得意で、その全部をひっくるめての八木橋裕子だったはず。そして、そういう八木橋裕子を形作るほとんどのものは、この小さな骨の塊を残して永遠にこの世から消え去ってしまった。今生きてる八木橋裕子なんて、所詮その残骸みたいなものなんだってことを思い知らされてしまった。
骨壺をぎゅっとかき抱く。きっとひんやり冷たいはずの瀬戸物の骨壺。でも、今の私にはその冷たさも感じるとることができない。そして、私の作りものの眼から涙が溢れることもない。それが私を余計に悲しくさせる。
「八木橋さん」
重苦しい沈黙を破ったのは、タマちゃんだった。
「ごめんなさい。嫌なことを思い出させて苦しませてしまって・・・」
タマちゃんは、私をベッドに座らせた後、ベッドの横の来客用の椅子に腰かけた。
「これも、弊社の義体ユーザーさんに対して、いつかはしなければいけないことなの。だから、ユーザーさんが義体に慣れてきた頃合いを見計らってするんだけど、それでもみんな辛い思いをするみたい。やっぱり自分は死んでしまったんだって思い込む人も多いみたい。だから、八木橋さん、はじめに言っておきます」
私をまっすぐ見据えるタマちゃん。いつの間にか、いつものケアサポーターの顔に戻っていた。
「八木橋さんは、決して死んでなんかいないですからね。私の目の前で立派に生きていますからね。新しい体が完全に昔の体の代わりになるとは思っていませんが、それでもできるだけそれに近くことができるよう、私も弊社も、せいいっぱいサポートさせてもらいまーす」
屈託なくそう言って、ぺこりと頭を下げるタマちゃん。タマちゃんの言葉が上っ面だけの営業トークじゃないのは、これまでの付き合いで、よくわかってるつもり。でも、今の私はその言葉を素直に受け取れなかった。私は抱えている骨壺に目を落としたまま、骨壺から自分自身の幽霊を出すようなつもりで、か細い声で恨み節をつぶやく。
「そんなこと言ったってさ、タマちゃんも所詮は生身の体なわけだしね。結局、この体がどんなものか、知らないわけでしょ。機械の体のケアサポーターさんが言うなら話は別だけど、そんな人の言葉に説得力はないよね」
はは、と力なく笑う私。嫌ーな女になってるって自分でも分かってる。でも一度口に出したら悪態は止まらなくなってしまった。
「昔の体の代わりになるとは思っていませんって?そうだよ。代わりになんか、なるわけないじゃないかよう。こんなのただの人形だ。外見だけまねたって、何にもならないんだよう。タマちゃんも、機械の体になってみればいんだ。それで、生身の体を燃やされて、はいあなたの骨ですって、渡されてみたらいいよ。そしたら私の気持ちが分かるんだ」
そこまで言葉を続けてから、顔を上げてタマちゃんを睨みつける。
タマちゃん、きっと怒っているだろうな、と思った。そこまで言われたら、私なら怒る。そして、タマちゃんだって怒るだろうってことも計算しながら私は言葉を吐いていた。なぜなら私は嫌な女だからだ。喧嘩して、もっと口汚く罵ってストレスを発散しようとしていたからだ。
でも、タマちゃんは私の想像とは違った顔をしていた。
怒っているわけでもない。かといってあきれているわけでも困っているわけでもない。悲しんでいるわけでもない。この顔は何?私はこの顔を知っているし、見たことがある。
これは・・・これは・・・
(お母さんの顔だ)
嫌なことを全て温かく包みこむ母の顔。決して私にはできない表情。
「あ、あの・・・ごめんなさい」
うつむく私。私は、今自分がしてしまったことを激しく後悔した。
タマちゃんは、静かに口を開いた。
「みんな、そう言うの」
「え?」
「骨を渡されたユーザーさんはね、やっぱり八木橋さんみたいに、いろいろ不満を言います。八木橋さんなんかより、もっと強く不満をぶちまける人も中にはいましたよ。でもね、それも仕方がないと私は思っているのです。八木橋さんの言うように、弊社の義体が、今のところヒトの体の機能にはとうてい及んでいないというのは事実です。そしていきなりそんな体になってしまったユーザーさんは、どんなに顔で笑っていたとしても、心の中にとってもストレスをためているということも知っています。八木橋さんが、どんなにその体に慣れたとしても、どんなに朗らかで楽しそうにしていたとしても、あなたが心の中にためている涙が私には見えているつもりです。だから、時にはそうやって不満をぶちまけることも決して恥ずかしいことじゃないと私は思うのです」
「・・・」
私は無言で唇をかみしめた。
もちろん言い返せなくって悔しいからじゃないよ。タマちゃんの優しさに胸がいっぱいになってしまって、瞳からこぼれてきそうな涙をこらえるため。別にこらえなくても、流れる涙なんて、もうないのにさ、私バカみたい。
タマちゃんは、そんな私を見て穏やかに笑った。
「八木橋さん、特殊免許は取るつもりないんでしょ」
「・・・はい」
多少の後ろめたさを感じつつ、私はうなづく。
義体操縦免許は一般免許と特殊免許に分かれてる。
一般免許は、もちろん義体を使って人として普通に生活をするために必要な免許。特殊免許は、宇宙開発事業団に入ったり自衛隊に入ったり、とにかく義体に備わった特別な力を使いこなす特殊公務員に就くために必要な免許。そして、私が所得を目指しているのは、タマちゃんが言うように普通免許だ。
義体を維持するのは、それだけでものすごくお金がかかることで、義体化手術を受けた人は、大抵の場合、収入条件の良い特殊免許を所得して、特殊公務員への道に進むことになるんだという。でも、私はそうはしなかった。私だって、はじめは特殊公務員になろうと思っていたよ。義体の力を使った仕事なんて、自分がニンゲンじゃなくなるみたいで嫌だったけど、仕方がない。もし私が特殊公務員にならないっていったら、お金のことでおじいちゃんに迷惑をかけるのは目に見えてる。だから、おじいちゃんに迷惑をかけてまで通していいわがままじゃないって思ってた。
でも、おじいちゃんがそうはさせてくれなかったんだ。今決めなくてもいいって。裕子が本当にやりたいことが見つかるまで、もっと迷いなさいってね。
そして私は結局特殊免許は取らなかった。
正直言って、おじいちゃんの言葉を盾に、私はキビシイ現実から眼を背けたんだと思う。特殊公務員になることを辞めてまでやりたいことなんて、今の私にはない。でも、だからといって特殊公務員になって宇宙にいったりするような気概も勇気もない。それが今の私だ。
「八木橋さん、何か、やりたいこと、あるの?」
「それは、まだ考えたことなくって・・・」
もごもごと口ごもる私。自分の心を見透かされたような気がして、なんだか後ろめたくて、タマちゃんから眼をそらした。
「私は、八木橋さん、特殊公務員にならないなら、この仕事やったらどうかと思ったんだけど」
「この仕事って?」
「イソジマ電工のケアサポーター」
「ムリムリ、私には絶対ムリ」
私はぷるぷると激しく首を左右に振った。
ケアサポーター、確かにすばらしい職業だと思う。私はタマちゃんがいなかったら、多分この世にいなかった。せっかくもらった新しい命を大事とも思わず、自分から捨ててしまっていた。今の私がこうして曲りなりにも生きていて、義体操縦免許の所得課程を順調に進んで、あともう少しで社会復帰できるところまできた。これは全てタマちゃんのおかげだ。
じゃあ私が同じことをできるか、ある日いきなり機械の体にされてしまったユーザーさんを前向きに生きることができるよう励ましていけるかって聞かれたら、とてもじゃないけどそんな自信はない。私がケアサポーターになるなんて、私が特殊公務員になるよりもっとありえない。
「そう?私はそうは思いませーん」
タマちゃんは、肩を落として縮こまる私を見てくすりと笑った。
「さっき、八木橋さん、機械の体になってみれば私の気持ちが分かるんだって言ったでしょ」
「うーすみません」
「いいのいいの。私、さっきの八木橋さんの話を聞いてね、そういえば、義体ユーザーであり、ケアサポーターでもあるっていう人はいないなって思ったの。そもそも義体ユーザーさんで、普通の企業に勤めている人って、あんまりいないわけだから無理ないんだけど、八木橋さんはそういう道に進みたいんでしょ。だったら、うちのケアサポーターを目指してみるっていうのはどうでしょう?八木橋さんなら、ううん、八木橋さんだからこそ、きっとユーザーさんの気持ちをくみ取れる立派なケアサポになれると思いまーす」
「ひょっとして・・・タマちゃん、さっきの言葉、やっぱり根にもってる?」
恐る恐る上目遣いに、タマちゃんを探るように見上げる私。
「ううん、全然。裏読みなんて、八木橋さんらしくない」
タマちゃんは、そんな私を見て、またくすりと微笑む。
「私、いろんなユーザーさんを見てきたけど、眼鏡をかけたいなんて言った人は八木橋さんがはじめてでした」
私は思わず家族の形見の眼鏡に右手をやる。
「その時は、おかしなこと言う子だなあって思いました。だって、機械の眼なら視力2.0も2.5も当たり前なんでーす。それをわざわざ悪くしてまで、眼鏡をかけたいだなんて、普通じゃ考えられませんからね」
「やっぱりおかしいかなあ」
「はじめはそう思ってました。だけど、今はそうは思わない。逆に目が良くなって、眼鏡がいらなくなったのになんでそんなことをするんだろうって思った自分が恥ずかしい。それで、今日はそれに絡んでちょっと嬉しいお知らせもあるんでーす」
おもむろに着ている白衣の内ポケットに手を突っ込むタマちゃん。取り出だしたるは薄っぺらな小冊子。まずは表紙を私に見せるようにして、それから中を開く。
小冊子の正体は、高度機械化人体協会、通称サイボーグ協会の発行する会報誌だった。サイボーグ協会は、私たち義体ユーザーが生活を送る上で不可欠な義体操縦免許の発行を一手に取り仕切っている団体で、私みたいに脳以外は全て機械になっちゃった義体化一級のユーザーは特に協会に強制加入するよう義務づけられている。で、そのサイボーグ協会が毎月一回、義体にかかわるニュースを盛り込んだ会報誌を発行しているってわけ。私も義体ユーザーがどんな暮らしをしているか知りたかったから何度かは目を通したことがある。義体ユーザーはこんなところで活躍しています、みたいな提灯記事がほとんどだけど、中には義体ユーザーの悩み相談みたいなコーナーもあって、今後生活するうえで結構参考になるかも、なんて思った。
「ほら、ここ、ここ」
タマちゃんがそのサイボーグ協会の会報誌を私のほうにひっくり返す。指さしたトコロにはこんな見出しが躍っていた。
”第29次義体法改正。義体ユーザー、眼鏡着用が可能に”
興味をそそられて、ざっくり眼を通してみる。
義体法が改正され、それまで着用が認められていなかった義体化一級以上の義体ユーザーの義眼設定をもとの肉体と同等に設定し、あわせて眼鏡等の着用が認められうんぬんかんぬん。この要望は現在府南病院に入院中のある義体ユーザーの強い要望に端を発しうんぬんかんぬん。この法改正は、もともと眼鏡を着用していた特に義体化歴の浅いユーザーから好評を博しておりうんぬんかんぬん・・・。
「タマちゃん」
私はそこまで読んで顔を上げた。
「この現在府南病院に入院中のある義体ユーザーって、まさか・・・」
「もちろん八木橋さんのことでーす。おおげさに言うとね、八木橋さんは義体史の1ページを新たに築いたのです」
ふふふ、とタマちゃんは笑った。おおげさに言うとって、本当におおげさだよう。
「一入院患者がここまでできる。これはすごいことです。そして、もし八木橋さんがケアサポーターになれば、私たちでは気がつかない、もっとたくさんのことに気がついて、義体ユーザーの幸せのために尽くすことができる。私はそんな気がしたのでーす」
「はあ」
「と、いうことで八木橋さん。まだちょっと先の話になるけれど、ケアサポーターになること、ちょっと前向きに考えてみませんか?」
「はあ」
「あ、あと今日のリハビリトレーニングはなし。たまにはゆっくり休みましょー」
タマちゃんは、生返事を繰り返す私を尻目にそこまで一気にまくしたてると、部屋から出て行った。一人病室に残された私は、抱えていた骨壺を机の上に置いて溜息を一つ。そして、もう一度ベッドの上に横向けに寝そべりながら、自分の骨の入った何の飾り気もない真っ白な壺をぼんやり見つめた。
タマちゃんは、私にケアサポーターになることを勧めた。私が機械の体になってしまったからこそ、機械の身体になってしまったユーザーの気持ちが分かる優秀なケアサポーターになれると言ってくれた。
でも・・・本当にそうだろうか。今回の眼鏡の件、私の意見をくみ取って、イソジマ電工なり、サイボーグ協会なりに働きかけてくれたのは、間違いなくタマちゃんだ。
もし私についたケアサポさんが、タマちゃんでなく別の人だったとしたら、その時点では法律で禁止されていた眼鏡の着用を許可してくれただろうか。たぶん、私が眼鏡をかけたいと言った時点でまともに取り合ってもらえなかっただろう。でもタマちゃんは違った。義体に不慣れで、迷惑ばかりかけている私の言うことを真摯に受け止めて、眼鏡をかけることを許してくれたばかりか、上にかけあって法律まで変えてくれたんだ。もし、私がケアサポーターになったとして、担当患者に対してそこまでできるだろうか。そんなのとてもムリ。私にはできない。タマちゃん、私のことを買いかぶりすぎだよ。
(だいいち私は・・・)
私は両手でぎゅっと自分の体を抱きしめる。思いっきり爪をたてて、身体を壊しちゃうくらいに強く。
だいいち私はこの体が、大嫌いだ。自分の骨を渡されて泣きたいのに泣けない。美味しいものも食べられない。暑いのも寒いのもよく分からない。思いっきり走ってもちっとも疲れないし、もちろん汗も流れない。それで果たして生きているって言えるんだろうか。
機械の身体になってしまったユーザーの気持ちなんて知りたくないし、分かりたくもない。そんな思いをするのは私だけで充分だ。その上、どうして私以外のアカの他人のそんなキモチまで私が抱えこまなきゃならないのさ。そんなのゼッタイ嫌。
私がケアサポーターになったとして、義体ユーザーさんに何を言えばいいのさ。
(義体化一級の世界へようこそ。今日からあなたの見たものは全てコンピューター処理されたCG画像になります。あなたが感じたことも全てコンピューター処理されたデジタル信号です。あなた自身のナマの感覚はもうどこにもありません。あなたはこれから一生コンピューターの放つ電気信号と一緒に暮らしていきます。ひょっとしたら、今あなたの目の前にいる私なんてホントは存在しなくて、ただのコンピューターが作り出した幻影かもね。ふふふ)
とか言ってやろうか。
それから・・・私は自分がケアサポーターになった姿をさらに空想、というか妄想しようとしてやめた。そんなことしてもちっとも面白くないからだ。
えと、私は今、病院の一階受付横の大ホール、通称「温室」に来ています。
ここは四方を病棟に囲まれた中庭で天井はガラス張り。だけど病院自慢のガラス張り天井が下から見えないくらい植物が生い茂っているという、まるで植物園っていうかジャングルみたいな一角。温室の中には遊歩道が何本かあって、公園みたいにベンチもあって、おまけにご丁寧に小鳥のさえずりまで放送で流しちゃって、入院患者のちょっとした憩いの場所になっているんだ。で、何で私がここに来ているかというと、そんなの決まってる。ヒマだからだよう。
午前中のリハビリの予定がキャンセルになってしまった私にはやることがない。だからといって入院している間に授業に遅れないように、教科書を開いて勉強するなんていう殊勝な心がけは私にはないし、病室のベッドで寝そべりながらテレビを眺めることにももう飽きた。だいいち、ずーっと同じ所にいるなんて身体がナマってしまう。いや、機械の体がナマるなんてことはないんだけどさ、それでも、体を動かしていないと精神的に苦痛。それに機械だって全く使わないでいるよりは、少しでも使っているほうが長持ちするっていうしね。はは。だから売店で、本日発売のマンガ雑誌を買って「温室」のベンチでのんびり読書っていうか読マンガしようと思ったってわけ。
「温室」のちょうど真ん中くらいにある、ホテイアオイがぷかぷか浮かぶ小さな噴水の前のベンチが、いつもの私の指定席。今日もマンガ雑誌を小脇に抱えて、脇眼もふらず一目算ににそこに向かった。だけど、二つ目の遊歩道の分かれ道、そこで私の足は止まってしまう。
分かれ道の少し先、木立の合間に見える噴水前の三人掛けの白いベンチ。そこが私の指定席なんだけど、残念ながら今日はそこに先客が二人。何やら話し込んでいる様子が目に入った。
「ちぇ」
私は舌打ちして、他の場所を探そうと、まわれ右をしようとしてやめた。
なぜなら私の指定席に座っているのは、私がよーく知っている人、私の主治医の吉澤先生だったから。そしてもう一人、これは後ろ姿で分からないけどベンチに座っている吉澤先生に向いあう車椅子の青年。吉澤先生の表情から見て、二人で何やら深刻な話をしているんだと分かる。
吉澤先生はここの義体科のお医者さん。そして私の命を助けてくれた人。つまりその話相手の車椅子の青年はこれから義体化手術を受ける患者さんか、それとも義体化手術を受けてリハビリ中の義体ユーザーか、いずれにしても義体化手術にカンケイのある人っていうのは間違いない。佐々波さんが退院したあと、私のいる義体化の病棟には、定期検査でたまに来る人をぬかせば、今のところ私以外の入院患者はいない。とすると、この青年、これから義体化手術を受ける予定の人っていう可能性が高い。
二人はどんな話をしているんだろう、と思う。私の時は事故で否応なしだったけど、義体化手術を受ける患者さんにお医者さんはどんな説明をするものなのか少し興味がある。でも、今の私の一般生活用の義体設定だと、流石にこの距離からでは話の内容までは聞き取れない。だから、ちょっと悪いなあと思いながらも、こっそり別の道にまわって盗み聞きすることにした。今二人のいる指定席のちょうど裏側にあるベンチ。二つのベンチの間には木が生い茂っているから、ここなら吉澤先生が後ろを振り向いたとしても私が座っていることはわからないはず。
私はベンチに座って、カムフラージュのため買ったばかりのマンガ雑誌を開いた。開いたページは、毎週続きを楽しみにしている「ぐりぐり◎(にじゅーまる)」。ちょうど上から差し込む日差しがマンガに落ちて、めちゃくちゃ読みづらい。でもカンケーない。マンガの内容なんてちっとも頭に入らず、背後で行われる二人の会話に神経を集中させるイケナイ私なのでした。
「・・・はざま君。やっぱり義体化手術を受ける気はないのかい。今の君の病状だと義体化する以外に助かる見込みはないぞ。はざま先生だって君が死ぬことを望んじゃいないはずだ」
これは吉澤先生の声。でも、いつものちょっとタヌキ親父的愛嬌のある先生の声とはゼンゼン違う。
「そこで父の名前を出しますか」
そして、これが話し相手の青年の声。言葉づかいは丁寧だけど内に秘めた怒気を隠さない声色だ。
「間先生も死ぬことを望んじゃいないはず、ですか?父を死に追いやった人にそんなことを言われる筋合いはありませんね」
「君のお父さんを守り切れなかったのは申し訳ないと思っている。でも、それとこれとは話は別だ。早く義体化手術を受けなければ、間君、君は本当に、死ぬぞ。君だって医学を志す人間だ。自分の体がどういう状態か、くらい分かっているだろう?」
「そうやって、今まで何人の患者さんに手術を受けさせました?義体化しなくても、少なくとも義体化一級にまではしなくてもよかったかもしれない患者さんを何人全身機械にしましたか?」
二人の話、いや、これはもう話っていうよりも言い争いかもしれない。事態は私が思っていたよりもずっと深刻で複雑そうだ。
吉澤先生が、この青年の父親を死に追いやった?義体化手術を受けた人の中には義体化手術を受けなくても命が救えた人もいるだって?
私はマンガ雑誌のページをめくるふりをしながら、よりいっそう二人の会話に釘付けになった。
「私が手術した患者の中には、全身義体化しなくても命を救えた可能性があった患者も、もしかしたらいたかもしれない。しかし、あくまでも、もしかしたら、だ。それが極めて少ない可能性だということくらい医学を志す君にも分かるだろう。そして医者であれば完治の可能性の高い、よりリスクの少ない治療法を勧めるのが当たり前だということも理解しているはずだし、君のケースでは義体化手術を受けなければ助かる可能性はほぼゼロだということも理解していると思っているが」
「ほぼゼロということと、ゼロは似ているようで同義ではありませんね。そして『ほぼゼロ』という言葉すら定義は曖昧で主観的なもの言いにすぎない。現に父はほぼゼロと言われたことを百にしてきました。ただ一回を除いてね。それは先生もよくご存知かと思いますが」
「それは君のお父さんだからできたことであって、医者の誰もが君のお父さんのような技術を持っているわけでは・・・」
「ではそこまで優れた技術を持っている父が、なぜ一度の過ちを責められ、死ななくてはいけなかったのでしょうか?過ちといっても、決して医療ミスじゃない。父は義体化を望まなかった患者に対してできる限りの処置を施したはず。なのに、患者が死んでしまったあと、待っていたようにマスコミは一斉に父を叩いた。義体化すれば助かったはずの患者なのに、なぜそうしなかったのかと。これは明らかな医療ミスだと。でも義体化を望まない患者をそそのかしてまで、義体化手術をしていいものなのでしょうか?なぜ義体化せずに通常の外科手術でたくさんの人の命を救ってきた父の功績は泥まみれにならなければならなかったのでしょうか?」、
「それは・・・」
「答えは決まっていますよね。国は一人でも多くの特殊公務員を確保したい。そして、そのためには義体化手術をせずとも患者を救ってしまう父の技術が邪魔だった。だからなぜ無理やり外科手術をしたのか。義体化手術をしなかったのは医療ミスだと、マスコミを動かしてネガティブキャンペーンを張って、父を自殺に追い込んだんだ。いや、自殺じゃない。殺されたんだ。国と義体メーカーとあなた方によってね」
「・・・」
「聞くところによると、義体ユーザーを一人世に送り出すだけで、義体メーカーや病院には結構な額の補助金が出るらしいじゃないですか?その補助金目当てで、本来義体化しなくても助かったはずの患者が、今まで何人義体化されたんですかねえ。そして義体化した患者の多くは、本人の望みとはかかわりなく、生きるために特殊公務員にならざるを得ないということも聞いています。金のための安易な義体化手術。そして、それを指摘されたときに決まって言われる義体化したほうが生き延びる可能性が高いという安易な言い訳。父はそれを最も毛嫌いしていました。医者は患者を治療するために存在するのであって、人を機械にするために存在するんじゃないってね」
間さんっていうんだろうか、この青年の話を盗み聞きする私の、マンガ雑誌のページをめくる私の手がかすかに震えた。もし、彼の話が本当なら、ひょっとしたら私も全身義体にならなくても済んだかもしれない、それを無理やり全身義体にされたのかもしれない。そういう可能性もあるってことだ。
「ねー、八木橋さん、うふふ」
「げっ!」
突然話かけられた私、口から心臓が飛び出る、いやいや生命維持装置が飛び出るほど動揺した。といっても心臓もバクバクしない、顔色も変わらない義体だったのは、この際ちょっとだけ救いかな。内心はともあれ、見た目ではそれほど動揺しているようには見えないはずだからね。
恐る恐る顔をあげると、目の前にイソジマ電工ケアサポーターの制服を着たスレンダー体系の長身の女性が立っていた。確か名前は仁科さん。タマちゃんがいないとき何度かお世話になったことがある、私の担当ではないこの病院付きの、もう一人のケアサポーターさん。いつもうふうふ笑っているけど、眠たそうな眼の奥で何を考えているのか分からない、ちょっと苦手なタイプだったように記憶している。
「にっ、仁科さん、こんにちは」
私はあわててロクに読みもしていなかったマンガ雑誌を閉じる。
「あら、八木橋さん、少年ジャボン読んでたの。私、まだ読んでいないんだけど今週のぐりぐり◎、ネタバレしてもいいからストーリー教えてよ」
「えーっと」
答えられるはずがない。だって、まともに読んでいないんだから。
仁科さんはだしぬけにしゃがんで、相変わらず笑顔のまま、下から私の顔をまるでなめるように見回したあとで言った。
「あんまり他の患者さんのプライバシーに立ちいったら、だめですよ。うふふ」
「いや・・・そんなことは決して・・・」
ない、と言えるはずがない。この様子だと、たぶん今までの私の一部始終を彼女に見られてた。あくまでも言い方はソフトだけど、仁科さんが本当に言いたいことは分かってる。八木橋裕子、警告一ってとこだ。
「いえ・・・その、すみません」
結局私は素直に謝ることにした。
「もし、もう一回おなじことやったら、お仕置きしちゃうんだから。うふふ」
お仕置きって、仁科さん、目が笑っていないので冗談に受け取れないんですけど・・・。はは。
結局、盗み聞きを仁科さんに見つかった私は、渋々病室に戻るしかなかった。
ばふん。
120キロの私の体重をもろに受けてきしむベッド。
私はもう一度ベッドに仰向けに寝そべって、さっき買ったばかりのマンガ雑誌を開く。今度は偽装じゃなくて、本気で読もうとしてね。でも、続きが気になっていたはずの『ぐりぐり◎』最新話を読んでみても、表面的に絵とセリフをなぞるだけで、どうしても気持ちがマンガの中に入っていかない。
”義体化しなくても、少なくとも義体化一級にまではしなくてもよかったかもしれない患者さんを何人全身機械にしましたか?”
”その補助金目当てで、本来義体化しなくても助かったはずの患者が、今まで何人義体化されたんですかねえ”
さっき間さんが吉澤先生に言っていた、そんな言葉ばかり頭に浮かぶ。
数学の公式は赤ペンで何度なぞってもちっとも覚えられないくせに、こんなことだけ正確に記憶している自分が本当に嫌。
軽い溜息をついてマンガ雑誌をぱたんと閉じて枕もとに置いた私は、机の上の私の骨が入った骨壺に目をやった。
私は交通事故で義体化した。吉澤先生やタマちゃんの話を聞いた限りでは身体は相当ひどい状態だったそうで、義体化しなければ死んでいたのは間違いないだろう、とは思う。
でも・・・全身義体化までする必要は、本当にあったんだろうか。ひょっとしたら、ある程度の義体化は仕方がないにしても、全身義体にまではしなくても助かったんじゃないだろうか。こんなふうに身体の何から何まで燃やされずにすんだんじゃないだろうか。間さんの話を盗み聞きしてから、そんな疑念が、頭の片隅にこびりついて離れず、何も手につかない。
交通事故に遭った私は意識がないまま義体化手術を受けることになった。だから、本当に全身義体化する必要があったか、なんて自分で確かめようがない。脳みそを取って抜けがらになってしまった体は燃やしてしまえば、実際どんな状態だったか分かりはしない。
患者に義体化一級手術をすればそれだけで、病院や会社には国から補助金が入るんだと間さんは言っていた。そして、本来義体化しなくても助かったはずの患者さんでも、そのために全身義体化されてしまったこともあるって言っていた。
同じ義体化でも、義体化二級で首から下が機械なのと、義体化一級体で脳以外が全部機械なのと、見た目の機械化率はそんなに変わらないかもしれないけど、実際にはゼンゼン違うと思う。頭さえ無事なら、少なくとも自分の眼でものを見れるし、自分の耳で音を聞ける。自分の声で話すことだってできる。自分の感覚を信じることができるよね。
でも、私みたいに脳みそだけ機械の体に移植された全身義体の場合はどうだろう。私が見るものも聞くものも全て、サポートコンピューターを通した、ただのデジタル信号、自分自身の眼で見れて、耳で聞けるわけじゃない。私と、この世界の間を、コンピューターの厚くて大きな壁が隔てていて、私は一生その壁を越えることはできないんだ。私にできることは、壁の内側から、外の様子を映し出すテレビを見ることだけ。暗い壁内側に閉じ込められた永遠の引きこもり、それが私。
たとえばテレビにローマの映像が映ったとして、それだけで私はローマに行った、なんて言ったらみんなに笑われちゃうよね。自分の肌で土地の空気を感じて、自分の眼と耳でその場所を確かめてはじめて私はローマに行ったって言えると思う。でも私の場合はどうだろう。もし私がローマに行ったところで、肌で空気を感じることはできないし、機械の眼と耳を通してコンピューター処理した画像と音を脳が感知するだけ。それって家に引きこもってテレビで見ることと、何の違いがあるっていうのさ。
それでも、他に生き延びる方法がなかったんだとしたら、ムリヤリにでも自分を納得させることができるよ。どんな身体になっても死ぬよりはましだったんだってね。
(でも・・・)
私は、私の骨の入った壺を凝視する。
あの中に入っているのは、もう一人の私。正確には私だったもの。二度と還らない私の本当の身体のなれの果て。
もし間さんの言うように義体化手術を受けなくても、やり方によっては普通の手術でも助かっていたとしたら。本当は、自分の体とさよならしなくてすんだのだとしたら・・・
分かってる。吉澤先生やタマちゃんを疑うのは良くないって分かってるよ。ただ私は真実が知りたいだけ。そして、私が頭に思い描いた最悪のシナリオが、私の妄想だったっんだって安心したいだけ。そうでなければ、私、この先ずーっと、ひょっとしたらあの時全身義体にならなくてもすんだんじゃないかって心の片隅で思い続けて、元の体に未練たらたらで生きていくことになる。あんなに私に優しくしてくれるタマちゃんや吉澤先生に疑いを抱いて生きていくことになる。そんなの絶対に嫌。
「はあ、自分のカルテが見たい、ですって?」
私の申し出を聞いたタマちゃんは怪訝そうに首を傾げた。
私は今、私の病室の一つ下の階、病院の義体科受付横にあるイソジマ電工ケアサポーター室に来ています。
『私は本当に全身義体になる必要があったんですか?』
そんな質問、タマちゃんや吉澤先生に単刀直入に聞いたところで、私のことは全身義体にするしかなかったって言うに決まってるよね。そう思った私は、ちょっとヒラメクものがあって、ここで自分で自分のカルテを見ようと思ったんだ。聞くところによればカルテみたいな入院患者のデータは全てここのホストコンピューターに入っているらしい。そして、カルテになら、事故に遭ったときの私の体の状態が詳しく記載されているはずだからね。
「うん。駄目かなあ」
「今までそんなこと、一度も言わなかったのに、突然変なこと言うのね。もちろん駄目じゃないけど、八木橋さんカルテ読んで意味わかるの?」
「うー、自信ありません」
私の正直な答えにタマちゃん苦笑い。
「つらいこと、書いてあるかもしれないよ」
「それでも見たいです。忙しいとこ申し訳ないですけど」
タマちゃんの机の上に乱雑に散らばっている書類を眺めながら、私はぺこりと頭を下げた。
タマちゃんは手にしていたボールペンを手のひらでくるっと器用に一回転させたあと
「そう。ちょうど気分転換しようと思ってたところだから」」
そして、「うーん」と机の上で背伸びをすると、今度は自分のパソコンのキーボードを叩きはじめた。
「じゃあ、これ。八木橋さんのカルテでーす。吉澤先生の汚い字や、自己流の略語を読み取ってここに入力したの、私だから。えらいでしょ」
ふふとタマちゃんは笑ったあと、立ち上がって、私に自分の席に座るよう勧めた。
なるほど、私の目の前にあるパソコン画面上に私の名前やら、現住所、使用義体の形式や義体化手術当時の状況なんかが書いてのが読み取れる。
「下にスクロールさせていけば全部見えるようになってるから」
「あ、はい」
私はうなずいてマウスを手に取った。
でも、実はこのカルテを読むことが目的じゃない。
自分の体が滅茶苦茶になってるって書いてある文章を読みたいなんて正直思わないし、さっきタマちゃんも言ったように専門用語で書いてあれば読んだところで私にはちんぷんかんぷんだと思う。
私がカルテを見るのは別の理由があるからなのです。
「んー」
私は目を閉じて、サポートコンピューターのメニュー画面を呼び出した。
真っ暗視界の片隅に浮かぶ緑色のスクリーン。スクリーンの中には「ようこそ八木橋裕子様」という文字の下に、いくつものカラフルなアイコンが置かれている。
このメニューを使うとさまざまな義体仕様の変更ができる。例えば以前タマちゃんがやってくれた義眼の視力の調整とか、あと今の、生身の頃を模した私の声を、全く別人の声にすることだってできるそうだ。まあ、そんなことやる気もないけどね。
「んー」
まるでガラス窓の上をナメクジが這うみたいに視界の中をよろよろ矢印が進む。
義体免許を取るには二つの過程をこなす必要がある。一つは義体を以前の身体のように動かすことができるようになるということ。そして、もう一つは、こういった義体の機能を覚えて使いこなせるようになるということ。
そして、私はこの「義体の機能を使いこなす」というのがとても苦手で、訓練の時も、いつもタマちゃんを苦笑いさせてばかりいる。現に義眼ディスプレイに表示されるカーソルひとつ動かすのにこんなに苦労しているありさま。一般免許だから、それほど義体機能を使いこなすことを要求されてはいないから、なんとか免許は取れそうだけど、もし特殊免許を取ろうと思ったらカーソルを瞬時に動かすことも要求されるんだって。
生身の体の時にはなかったものを動かすなんて、たとえば尻尾を動かせって言ってるようなものだよね。ただ身体を動かすだけでも、はじめのころは頭で覚えている自分の体のイメージと義体の動作を一致させるので大変だったっていうのに、そのうえしっぽの動かし方まで覚えるなんて、私にはムリ。私は特殊公務員にはなれそうにないってつくづく思うよね。
「んー」
苦労してカーソルを動かしながら私が選んだのは撮影モード。
これは、私が見たものをサポートコンピューターに記憶、保存するモードで、要は義眼をデジタルカメラ代わりにするってわけ。まずは私のカルテを全部義眼のカメラで撮影して保存すること。これが私がここに来た目的。なんか特殊公務員のスパイみたいでかっこいいかも。
「八木橋さん、ひょっとしてサポートコンピューター動かしてるの?」
突然タマちゃんにぽんっと肩を叩かれて、私はぎくりとする。
あわてて振り向く。でも平静を装ったつもりでも、どうしても顔に焦りの色が浮かんでしまうのは否めない。
「サポートコンピューターを使うときの、んーって言う癖、なかなか治らないねー」
「いや、あの。んーっていうのは別にサポートコンピューターを動かしているからじゃなくて、普段からの口癖で」
苦し紛れの言い訳をしつつ、もう一度パソコンの画面に向き直って、我ながらわざとらしいとは思いながらも「んーんー」唸りながら、私のカルテを撮影して、サポートコンピューターに保存していく。
ようやくのことで全ての内容を撮影したと思ったら、またタマちゃんの一言。
「撮影は終わった?」
「えと、あの、どうして私が撮影してるってどうして分かったんですか?」
さすがに具体的行為まで指摘されちゃうとシラを切りとおすのは不可能だ。
後ろを振り向いて、恐る恐る上目遣いに聞く私。なぜばれたんだろう。っていうかあからさまにバレてるなんて、私やっぱり特殊公務員に向いてないよ。はは。
「あれ、言ってなかったっけ?義眼を撮影モードにすると眼が赤く光るようになってまーす」
そんなの聞いてないよう。義体の説明書には書いてあるのかもしれないけど、そんなのちっとも読んでない。
「えと、じゃあ聞くけどさ。ひょっとして今の私の眼って・・・」
「うん。兎みたいに真っ赤っか」
(ひやっ)
それ、気が付いてるなら先に言ってよう。
私は冷や汗もので撮影モードを解除する。もし私が義体じゃなかったら、恥ずかしさと気まずさで顔が真っ赤っかだったに違いない。
「いや、その、カルテを撮影しようと思ったのは、タマちゃんが忙しそうだったから、画面全部ここで記録しておいて、あとでじっくり見ようと思ったからなんだよね」
これ以上の追及を逃れるため、私ははじけたように立ち上がると、またもやしどろもどろに苦しい言い訳を並べつつ後ずさりしながらドアのほうへ進んでいく。
「あの、だからとにかく・・・失礼しまーす」
「別に言ってくれればプリントしてあげたのに・・・」
あわててドアを閉める私の耳に、タマちゃんのそんな言葉が入ってくる。
それも先に言って欲しかったよう。
タマちゃんから、プリントアウトしたカルテを手渡された私は逃げるようにその場を立ち去った。私が、次に目指すのは・・・さっきの車椅子の青年、間さんの病室だ。さっきの吉澤先生と間さんの会話から判断して、間さんはきっとお医者さんに違いないと思う。だから私は、自分のカルテを手に入れて、間さんにそれを見てもらおうって考えたんだ。
もちろん間さんの病室なんて知らないよ。でも、間なんてそんな多い苗字じゃないから、病院中を歩いて、病室の表に下がっている名札を丹念に見ていけばたぶん見つかるはず。私もここの入院患者で、いつも病院備つけの入院着っていうのかな?白い服を着てるから、別に病院のあちこちを歩き回っても誰も不審者とは思わないだろう。
間さんの病室なんじゃないかっていう部屋は、結構簡単に見つかった。
私の入院している義体科の病室からそれほど離れていない脳神経外科エリア。いくつかある病室のうちの一つにかかっている名札は「間光男」。十中八九彼はここにいるに違いない。
私はドアの前で丁寧に折りたたんで服のポケットに入れていたたカルテを取り出して広げる。そして少し緊張気味にノックをした。
「どうぞ」
ドアの内側から聞こえる落ち着いた声。
私は、ゆっくりとドアを開けて病室に足を踏み入れる。
私の病室と同じような簡素な作りの病室。でも私の部屋と違うのは洗面台があること。この部屋の主が生きた温かい身体を持っている何よりの証拠。洗面台の義体のデータ収集用の機械や電源ケーブルが這いまわっている私の部屋とはゼンゼン違う。
部屋の主は、さっき私が見かけたのと同じ車椅子に座って窓際にいた。間さんと目が合った私は無言で会釈をする。
「君、誰?」
間さんは、会釈を返しつつも警戒するように黒ぶち眼鏡の中の目を細めた。そりゃ、そうだよね。見ず知らずのヒトがいきなり理由も分からず訪ねてきたら、誰でも驚くよね。
初めて見る間さんは見た感じ二十歳をちょっと越えたくらいで、私が想像していたより若かった。でも入院生活が長いんだろうか、身体のサイズより二つまわりくらい大きそうな入院着の袖口から出ている彼の腕は色白で痩せてこけていて、傍目にもあまり健康そうには見えない。
間さんの警戒のまなざしに晒されながらも、私は口を開く。
「突然訪ねてしまってすみません。あの・・・私・・・八木橋といいます。それで、本当に唐突だと思いますけど、私・・・」
そこでまで来て、言いよどんで俯いてしまう私。ええい、ここまで来て何を迷っているんだ。
私は拳をきゅっと握り締めて、勇気を出して、声を絞り出す。
「全身義体なんです。義体化一級、です」
私の身体が実は機械だってことを、それを知らない人に告白するのはこれが始めて。全身義体なんて、存在くらいは知っているけど実際に全身義体の人に会ったことがある人なんて、そうそういるもんじゃない。そして、眼の前にいる人が、実はヒトの形をした機械でした、なんて知ったら、やっぱり普通は薄気味悪く思うだろう。見た目、普通の人に見えるから、なおさらだ。だから、できればそんなこと自分から言いたくない。でも、言わなきゃ話が前に進まないから、仕方がない。
「ふーん、いや、本当に唐突だね」
私の突然の告白に、間さんが驚いて目を見開いたのが分かった。でも、その顔に嫌悪の色が浮かんでいなかったことに胸をなでおろす。間さんの車椅子は電動式のようで、間さんは肘掛の部分についてる小さなレバーを右手で操って私に近づいた。
「それで、全身義体の八木橋さんが僕に何の用?あ、長くなるようなら、そこに座って」
間さんは、ベッドの横にある私の部屋にあるのと同じ、お見舞いにきた人用の椅子のほうに目を向けた。私は、うなずいて、腰を下ろす。
「えと・・・」
間さんと向かい合って座る私。どこから話を切り出していいものやら。私は、膝に手を置き、眼を宙にさまよわせつつ、頭の中を整理する。
「私、さっきの話聞いてしまったんです」
「さっきの話って?」
「間さんが、吉澤先生と、下の温室でしてた話。本当は全身義体化手術をしなくてもいい状態の患者さんを、勝手に全身義体にしてしまう場合もあるってこと」
「ああ、そのことですか」
間さんは、ここで眼鏡を右手でくいっと持ち上げると、心持ち車いすから身を乗り出すような格好になった。どうやら私の話に興味を持ってくれたっぽい。
私はこくりとうなずいて、背筋を伸ばした。
「私、今日、自分の骨をもらいました。燃やされて、自分の体だったことが嘘みたいに軽くなった骨を見て、もう元の身体には戻れないんだなって、ずーっとこの身体で生きていかなきゃいけないんだなって思いました。だから、余計にさっきの間さんと吉澤先生の話が気になってしまって。もしかしたらこんな機械人形の中に入らなくてもすんだんじゃないかって。そう思ったら、何も手につかなくなっちゃいました。でも、吉澤先生にもイソジマ電工のケアサポーターさんにも、私がひょっとしたら全身義体にならずにすんだんじゃないか、なんて聞けるわけないです。それで、間さんもお医者さんだってことをさっきの話の中で聞きました。だから、本当にこんな体にならなければならなかったのかどうか、間さんに教えてほしくて、ここに来たんです。馬鹿みたいですよね。私って。本当のことが分かったからって、それで身体が戻ってくるわけじゃないのに。知ったら後悔するかもしれないのに・・・」
私の話を聞いた間さんは恥ずかしそうに頭をかいた。
「残念ながら僕は医者じゃない。医学部生。それに教えてほしいって言っても、診断材料がないと何も判断できないけど」
「診断材料なら、あります」
私は、待っていましたとばかりに、手に持っていたカルテを間さんに差し出す。医学部生っていったらお医者さんのたまごだ。本人は照れてるみたいだけど、ど素人に比べればずーっとましなアドバイスをしてくれに違いない。
しばらくの間、黙って、時折うなずきながらもカルテに目を走らせる間さん。返事を待つ間、私は緊張の余り、もじもじもじもじ、しきりに椅子を座り直す。
やがて、カルテを読み終えたのか、顔をあげてまっすぐ私を見据えて口を開いた。
「交通事故に遭って、それで全身を義体化したんですね」
私は黙って首をタテに振った。トラックが車に突っ込んでくるあの最期の瞬間を思い出して、少し体が震える。
間さんは、私にカルテを返しながら、慎重に、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「残念だけど、これは仕方がないと思います。これを見たら八木橋さん、正直手術までよく命がもったと思いました。普通なら即死か、それとも手術の前に死んでいた、それくらいの大怪我をしています。だから全身義体化の判断は決して間違っていないと思いますよ」
「そうですか・・・」
ふぅ、と一つため息をつく私。
おかしな話かもしれないけど、事故に遭った私は文字通り瀕死の状態だったということを知って、ちょっとほっとする。少なくとも私の場合は、必要もないのに無理やり全身義体化手術を受けさせられたわけではないって分かって、胸のつかえがとれた気分だ。
「ありがとうございます。間さんにはっきりそう言ってもらえて、いろいろなことがふっきれました」
私は間さんに向かって、大きく頭を下げた。
間さんは微笑みながら、カルテを返そうと、私に手を伸ばしたそのとき、
カルテは間さんの手を離れてひらひら床に舞い落ちる。
「あ・・・」
私は間の抜けた声を上げながら、間さんが床に落としてしまったカルテを拾おうとして席を立った。そして、カルテを拾いあげる拍子に、間さんの右手を見てしまう。彼の右手は小刻みに震えていた。
「すみません。この手、もう余りよく動かないんですよ」
彼はもう片方の手で右手をさすりながらそう言って、さびしそうに笑った。
私は何と答えてよいか分からず、ただ彼から眼をそらした。
間さんと吉澤先生とのやり取りの中で、間さんが義体化手術を受けることを拒否していたことを思い出す。義体化手術を勧められるくらいだから、きっとかなり重い病気なんだろう、とは思う。なのに手術を受けないなんて、間さん、機械の体になることが嫌なんだろうか。それなら、事故でいやおうなしだったとはいえ義体化して命を永らえた私のことはどう思っているんだろう、と思った。
私がカルテを拾ったあと、しばらく、お互い無言のまま沈黙。
その気まずい間が嫌で、私は思い切って今頭に浮かんだギモンを彼にぶつけてみた。
「私、さっき、間さんが、義体化手術を断っているところも、聞いてしまいました。間さんは、義体になるの、嫌なんですか。死ぬの、怖くないんですか?」
「八木橋さん」
間さんは静かに口を開いた。
「八木橋さん、今の身体はどうですか?前の体と比べてどっちがいいですか?」
「それは・・・もちろん前の、自分のホントの体のほうがいいにきまってます。120馬力の力なんていらないし、暗いところでも見える眼もいらない。そんな人間離れした力なんかもらうより、私はたこ焼きが食べたいし、季節の移り変わりを肌で感じたい。それに何よりも・・・」
私は思いのたけを言葉にはせず、俯いて、飲み込む。
女として生まれたからには誰もが望むであろう、ごくごくありきたりな幸せのカタチ。自分と愛する人との愛の結晶を生み、育むこと。それができなくなってしまったことが、何より悲しい。
「私・・・戻れるなら、元の体に戻りたいです。でも全部燃えちゃいましたけどね。はは」
「こんなこと言うべきではないのかもしれませんが・・・さっきのカルテを見て、普通の医者ならムリでも、もし僕の父が手術したなら、もしかしたら八木橋さんを全身義体にしなくてもすんだかもしれない。少なくとも、もう少し、生身の部分を残せたかもしれない、とも思いました。八木橋さんだけじゃないです。生身の体を失って悲しんでいる大勢の人を救えたのではないかと思っています」
「でも、確か間さんのお父さんって・・・」
私は口を開きかけて言いよどむ。
私は、間さんのお父さんのことも盗み聞きしてしまった。間さんのお父さんは、優秀なお医者さんで普通なら義体化しか助かる道のない患者さんを、義体化せずに救ってきた。だけど、一度の医療ミスを叩かれて自殺した。そんな話だった。
「ああ、それも聞いてましたか。そうです。自殺しましたよ。どうして自殺したかも聞いていますね」
「はい。なんとなくは」
「父が死んだあと、父のやったことは正しいことなんだって証明して、世の中を見返したくって、それで僕は父と同じ外科医を目指すことにしたんです。でも、神様って不公平ですね。あともう少しで医師免許を取れるというところまで来たんですが・・・」
間さんは、そこで言葉を切って、歪んだ自嘲の笑みを浮かべる。
「こんなふうになっちゃいました。全身の神経が侵されて、最後は脳まで侵されて死ぬのだそうです。もう足は動きませんし、手もだんだん思い通りには動かなくなってしまいました。きっと、長くは生きられないでしょうね」
「でも、義体化手術を受ければ、助かるんですよね?」
「あるいはそうかもしれないですね。でも僕は、もう義体化手術は受けないって決めているんですよ」
間さんはあくまでも穏やかに言う。でもその内容はとってもハード。私は自殺しますって、言ってるのと同じ。
誰だって、目の前にいる人が自殺しようとしているのなら、理由はどうあれ、それを止めようとするだろう。私だって、それは同じ。自分の機械の身体が嫌いでも、そして目の前の人がその機械の身体になるしか生き延びる道がなかったとしても、死んでほしくはない。
(こんなとき、タマちゃんならどんなことを言うんだろうな)
ふと頭に浮かんだのは、私のケアサポーター、タマちゃんのこと。
私、この身体になったばかりの時は、何の希望も持てなくて。死んだほうがましだって思ってた。それこそ、今の間さんのようにね。そんな私が生きる勇気を持てるようになったのは、タマちゃんの励ましのおかげ。
こんな時、タマちゃんだったら、なんて言って間さんを励ますんだろう。タマちゃんが私に勇気をくれたのと同じように、私も間さんに勇気をあげることができるだろうか。ううん、できるかどうかじゃない。やらなきゃいけないんだ。
そう思ったら、何を言おうか頭の中を整理する前に、自然に口が開いてた。
「私はもうすぐ、義体操縦免許を取れるでしょう。そして退院して、もとの高校に戻るでしょう。でも私には、その時友達に全身義体化手術を受けたって告白する勇気はありません。だって恐いもの。もしそんなこと言って、私が元の八木橋裕子とは違う機械仕掛けの化け物みたいに思われて、友達が私から離れていくのは嫌だもの。だからこのことは隠し続けようと思っているんです。私の心は、前の私と何一つ変わっていない、少なくとも私自身はそう思っています。だけど一方で私みたいな義体ユーザーがもとの生活に戻るのは難しい、そういう現実があるのもなんとなくわかってきましたから。でも、それでも私はあきらめがつきます。だって、こういう身体になるしか生きる道はなかったんだもの。そして私はまだ死にたくないんだもの。でも、さっきの間さん、全身義体化手術をしなくてもいい状態の患者さんを、勝手に全身義体にしてしまう場合もあるって言いました。そういう人たちが真実を知ってしまったら、どう思うんだろうって。こういう身体になるしかなかった私でもこんなにつらいのに、ひょっとしたら身体を失わなくても助かったっていう話を聞かされたら気が狂いそうになるんじゃないかと思います。さっきまでの私がそうでしたから、それがよく分かるんです。だから間さんのお父さんの考え方に共感できます。もし全身義体化せずに少しでも生身の体を残せるのは、素晴らしいこと。私は、自分がこんな体になってしまったからこそ、心からそう思います。間さんはお父さんを尊敬して、それでお医者さんになろうとしてるんですよね。だったらどんな形でも生きて、お医者さんになって、お父さんが正しいかったってこと、証明してください。それで、私みたいな人を少しでも減らしてください、お願いします。私なんか、人に誇れるものなんか、何もない役立たずの意気地無し。そんな私でも、こんな身体になっても生きているんだ。間さんが、生きれたら、私なんかより、もっとずーっといろんなことができるはずんだ。それなのに死ぬなんて、そんなのっておかしいよ」
「ありがとう。でも、もうおいいんですよ」
渾身の私の説得にもかかわらず、間さんの顔に浮かぶ、諦めの色。さっきから間さんが余り感情を動かさず穏やかなのは、冷静だからじゃなくて、全てを諦めているからなのかな、と私は思い寂しくなる。
「僕は八木橋さんの言うように人間の尊厳を奪いかねない安易な義体化はしないように最善を尽くしたいと思って、外科の道へ進みたかったんです。それなのに、自分は義体化しているくせに、患者さんには、できるだけ義体化はしないように、できれば普通の手術で治すように、なんて勧めたところで、僕の言うことに説得力なんかまるでなくなってしまいます。それに自分が義体化して、生身の感覚を失ってしまっては、患者さんの痛みや苦しみを本当に理解できなくなってしまうと思っているんです。だから、もういいです。これ以上僕に生きる意味はないんだって思いました。無駄なあがきはせず、自然に生きて、自然に死ぬことにしたんです」
「そんな・・・」
私はがっくりと肩を落とし、無力感にさいなまれて唇をかみしめる。
やっぱり私はタマちゃんのように上手くできなかった。たった16年しか生きていないコムスメの言うことなんて、所詮人の心を動かすことなんかできやしないんだ。
間さんは、そんな私の思いを知ってか知らずか、車椅子のレバーを操って、病室の窓際に移動した。そして、私のほうを振り返って言う。
「八木橋さん。ちょっと窓の外を見てもらえませんか」
「はあ」
私は立ち上がってのろのろと窓際に向かう。そして、アルミサッシの窓枠に手をかけて、窓の外に広がる風景に目を落とした。
間さんと私の病室は、大して離れてないないから、窓の外に見える景色も大した違いはない。冬色のくすんだ空の下に見えるのは、病院の前庭に植えられた冬になってすっかり葉っぱを落として骸骨みたいな幹を晒す広葉樹の並木。そしてその先にある、愛想のない高層ビルの群れ。
「この窓から見える、あの木の葉が全部落ちたら私は死ぬ、そんな話がありましたよね」
間さんは、窓の外に目を向けたまま口を開いた。
「はあ・・・その話、知っています、けど・・・」
有名なお話だ。タイトルは「最後の一葉」だったっけ。
重い肺炎にかかってしまった女の人が友達に、窓の外に見える蔦の葉が落ちたら私は死ぬって言うお話だ。知っているけれど、なんで間さん、唐突にそんなこと言いだすのさ。
私の疑問に答えるかのように間さんは言葉を続ける。
「今は真冬。病院の前庭の木にはもう枯れ葉の一つも残っていないですね。その代わりといったらなんですけどね・・・病院の前の大通を電車が走っているでしょう」
「はあ」
私は気の抜けた返事をした。間さんの言うように、病院の大きな門抜けた先は府電の走る電車通り。今も、私たちが会話しているそばから、真新しい真白な電車が、病院前の電停から滑るように走り出ていくのが見えた。でも、それが何だと言うんだろう。
「最近、府電の黄色い電車がどんどん無くなっているんですよ。気が付いてました?」
「はあ」
何と答えて良いかわからず、再び気の抜けた返事をする私。確かに、府電といえば黄色い電車っていうイメージが昔からある。そして、そういえば最近、間さんの言うように黄色い電車はめっきり見かけなくなって、真新しい白い電車が幅を利かせているような気もする。でも、それが何だと言うんだろう?
「昔、父もこの病院に勤めていましてね。小さい頃黄色い府電に乗ってよくこの病院に遊びに来たんですよ。言ってみれば私の思い出の電車なんです」
相変わらず窓の外をみつめたままつぶやくように言う間さん。
私は、息をのんで、間さんの言葉の続きを待った。
「その思い出の黄色い電車が無くなるころが、僕が死ぬ頃なのかなあ、なんて最近考えるようになりました。今日はもう一日窓を見ていても、黄色い電車、走ってこないです。もうそろそろかもしれないですね。思い出の電車が消えるのと一緒に私が死ぬというのも、人生の結末として悪くないでしょう」
最後の一葉のお話で、女の人の寿命を象徴していたものは蔦の葉だった。間さんはそれを府電の電車に置き換えて考えているってことだね。
でも・・・本当に最後のあのお話のとおりだったら、間さんを救う望みがないわけじゃないと私は思う。だって、あの話の結末はこうなんだもの。
蔦の葉は一枚また一枚と落ちていき、いよいよ最後の一枚になってしまった晩。悪いことに外は暴風雨。この嵐の勢いでは最後に残った蔦の葉も、簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。そして私の命もおしまい。そう思って死を覚悟した女の人。翌朝に窓を開けてみてびっくり、蔦の葉は、しっかりとその場所に残っていたんだ。次の日も。その次の日も。蔦の葉に勇気づけられた女の人は、やがて絶望的とお医者さんから言われた病状から奇跡的に回復する。実は、最後の葉っぱの正体は、暴風雨の中、老画家が自分の命を削って描いた葉っぱの絵だったのでしたっていうオチ。
そういうことならば、
私は中腰になって、眼線の高さを車いすの間さんに合わせる。そして間さんの眼鏡の奥の黒い瞳をみつめた。
「じゃあさ、もしも、もしもだよ。黄色い電車が無くならずにずーっと走り続けたとしたら、その間は間さんも生きてるってこと?っていうか義体化手術を受けてくれる?」
「それこそ、あのお話みたいですね」
間さんはくすりと笑ってから答える。
「いいですよ。でも、そんな奇跡は起こらないと思いますよ」
そう、間さんの言うとおり、何もしなければ奇跡なんか起こりはしない。このお話の老画家のように、奇跡を信じて行動することで、はじめて奇跡は起きるんだ。
私は奇跡を信じてる。間さんが黄色い電車がなくなったら死ぬって言うなら、私は黄色い電車をなくさせない。奇跡は起きる。ううん、私が、奇跡を起こしてみせる。
私は再び窓の外を眺め始めた間さんの横顔を見つめながら、そう決意して拳を握り締めた。
奇跡を起こすと誓ってはみたものの、私に具体的にできることなんかよく考えたら限られてる。まっ先に思いついたのは、東京府交通局に電話をかけて、黄色い府電をなくさないでってお願いしてみること。でも実際にやってみたら、通話先の職員に基地外扱いされただけだった。
あとやけくそで思いついたのは、夜中に電車の車庫に忍び込んで、白い電車に黄色いペンキをぶちまけるっていうものだけど、どう考えてもすぐバレる上に関係各所に大迷惑をかけたうえ、私は病院から女子少年院に直行するハメになるのは間違いないので実行しませんでした。
と、いうことで結局のところ、具体的なことは何一つできず、私も間さんと同じように病室から府電の走る電車通りを眺めて、間さんとは逆に、黄色い電車が走っていることを確認しては安堵のため息をつくという有様。ただ時間ばかりが過ぎ、いつの間にか、私の義体操縦免許試験当日になってしまった。
試験に受かれば免許をもらって、私は晴れて退院自由の身。そのあとも毎月義体の検査で病院には通わなきゃいけないっていうのは聞かされているけど、一応もとの生活には戻れることになって、間さんと顔を合わせることもないだろう。
なら、このまま間さんの話は聞かなかったことにしよう。どうせ私が何を言おうと間さんは聞き入れてくれるわけないし、義体化すれば助かるのに死ぬことを選んだのは、間さん自身なわけだし、そもそも電車がなくなっても間さんが死ぬって決まったわけじゃないし、とにかく間さんがどうなろうと私には関係ない。うん関係ない。そんなことより、私のこれからの人生のほうが大事。間さんのことは忘れよう、忘れよう。
「どうかした?緊張してる?」
タマちゃんに迎えられて、府南病院の別棟にある、試験会場に向かう。その道すがら、俯きながらタマちゃんの後ろをとぼとぼ歩く私を見かねたのか、心配そうに声をかけてくれるタマちゃん。
「う、うん。ちょっとね」
あわてて曖昧な笑みを浮かべてごまかす私。
でも、テストのことなんか、これっぽっちも考えていなかった。忘れようとしているのに、頭に浮かぶのは、思い出すのは間さんの
”思い出の電車が消えるのと一緒に私が死ぬというのも、人生の結末として悪くないでしょう”
っていう言葉ばかり。肝心な試験の前にこんなことでは先が思いやられる。
私は、タマちゃんに内心を読まれまいと、むりやり笑顔を作って、わざとらしく両手を振りながらタマちゃんを追い越す。だけど、その歩みは病院一階の待合室の壁にかかっている大画面のテレビのところで止まってしまう。
「あ・・・」
私は、テレビが放映しているニュース画像に釘付けになった。
”その車体の色から黄色い電車、きいでんとして、長い間東京府民に親しまれてきた府電5500型車両のさよなら運転が本日行われました。この5500型はもともとアメリカの・・・”
淡々としたアナウンスとともに、テレビ画面には『長い間ご苦労さまでした』というたれ幕と花飾りをつけた府電が、大勢の人に見送られて、どこかの電停を出発する光景が映し出された。
間さんの言うように、病院の窓から黄色い電車を見かける機会は日を追って少なくなり、最近は一日一度みかければいいくらいにまでなっていたから、いつかこの日が来るんじゃないかとは薄々感じてはいた。でもまさか、義体操縦免許試験の当日、試験会場に向かう時に知ってしまうなんて、いつもながら私の間の悪さは天下一品だと思う。
間さん、このニュース見ているだろうか?見ていたとして、どう感じているだろうか。病は気から、という言葉もあるように、病気っていうのは、どんな治療よりも、患者自身の治したいっていう気持ちが大事なんだって聞いたことがある。このニュースを見て、間さん生きる気力を無くして、容態が悪化する、なんてことになったらどうしよう。
「このニュースがどうかしたの?」
私に追いついてきたタマちゃん。テレビに流れるニュースと私を見比べながら、首を傾げる。
「うー、なんでもない、です」
私は、かぼそい声でそう呟いたあと、表情を消して真っすぐ前を見た。
目の前の別棟へと続く廊下。これが私の新しい人生へと続く一本道。今はより道なんてしている場合じゃない。今見たのは、ただ府電の黄色い電車がさよなら運転をしたっていう他愛もないニュース。そのことが私の人生に及ぼす影響なんて何もない。それより今は試験に集中しなきゃ。
(えーとなになに。『CS-20型義体の駆動用電源には4台の義体内バッテリーを使用しています。このバッテリーを新しいバッテリーに交換する際にとるべき正しい行動とは何か?A:義体内バッテリーを全て外してから、新たなバッテリーを装着する。B:義体内バッテリーと新しいバッテリーを一組ずつ交換していく』ばっかみたい。こんなのカンタン。答えはBに決まってる。バッテリーを全部外したら、新しいバッテリーに交換する前に、電気切れで動けなくなるにきまってるじゃないか。こんな間抜けなことをする人の顔を見てみたいよね)
私はマークシートのBの欄をシャーペンでぐりぐり塗りつぶす。
(次は何だ。『義体電源が30%をきり、節電モード第二期、義体出力制限に陥った場合にすみやかに取るべき取るべき行動を答えよ』だって?『A:充電できる場所に行き、ただちに義体に充電を行う。B:サポートコンピューターの設定を変更し、出力制限を解除する』これもカンタンだね。答えはA。もしも電気が切れたら、生命維持装置も止まって死んじゃうんだ。出力制限解除なんて危険なこと、できるはずないよ)
今度はAの欄を枠からはみ出さないように慎重に塗りつぶす。
ということで、私は今、府南病院のB棟の義体操縦免許所得試験会場で、試験の真っ最中。試験本番といっても、机が並ぶ会議室の中で試験を受けているのは私一人。それで試験監督はタマちゃん。カンニング目的でのサポートコンピューター使用を禁止するために、首根っこの外部アクセス用端子に小さな黒い箱をつけられていること以外は、いつもの講習風景と余り変わりはない。それに、問題の内容は誰でも分かるような常識問題がほとんどだし、たまに出てくる少しひねった問題でも、ここ最近タマちゃんとみっちり義体の説明書の読み合わせしたり、義体法の講習を受けりたりした成果で、うまく答えられている、と思う。
どっちかというとやっかいだったのは実技試験のほう。もちろん普通の動作は問題なくできるんだけど、義体のリミッターを解除して120馬力のフル出力にした状態での動作試験が難関。もちろん私は一般免許だから普段120馬力なんて怪力を発揮することはないんだけど、災害みたいな非常時には、できる限り災害地に行ってボランティアとして救助活動に協力するってことになっているんだってさ。その時にはフル出力を出す場合もありうるということで、多少慣れる意味でも、120馬力にした状態での実技訓練も行うことになっている。で、その実技の内容っていうのが120馬力のまま卵を割らずにつかむことっていうんだから笑ってしまう。120馬力の力を使うことよりも、120馬力を維持した状態で、出力を抑えるほうが難しいからだそうなんだけど、力の調節がうまくできなくて、いくつ卵を割ったことか。おかげでタマちゃんや吉澤先生の昼食はここしばらく、ずーっと大量のオムライスや卵焼きになっちゃった。とほほ。でも、訓練のかいあって実技試験も何とかクリアできたと思う。あとは、この筆記試験に受かりさえすれば退院だ。
残りはあと一問。そして残り時間は、まだあと10分ある。もう一度答案を見直せばカンペキ。
私は、そう思って、最後のマークシートを塗りつぶしたあとで、自分の眼を疑う。
えーっと・・・なぜか回答欄が一つ余ってるんですけど・・・。
最後に私が答えた問題はNO100。でも塗りつぶしたのはNO99のところ。なら、なぜ回答欄が一つ余ってるのか、答えは分り切ってる。私、どこかで一問飛ばしてしまって、それに気がつかないでずーっと回答してたんだようorz
脊筋をつーっと冷たいものが流れた、ような気がする。
残り時間は余裕を持って見直しするはずだったのに、予定が狂ってしまった。
(いったいどこで、問題を読み飛ばしちゃったんだろう)
私は泣きそうな気分で、消しゴムとシャーペンを交互に使いながら、一問一問回答を修正していく。でも、あわてているせいか、どこで問題を読み飛ばしてしまったのかわからない。焦る私を尻目に時間だけが過ぎていく。あと5分。あと3分。あと2分。
「はい。時間でーす。そこまで」
無情に響くタマちゃんの言葉。それを合図に私は、机に突っ伏して大袈裟に息を吐く。
「感触はどうだった?」
試験答案を封筒にしまいながら、タマちゃんは言った。
「ダメでした」
私はぽつりと寂しげに言って、首を横に振った。マークシートのずれに気がついたのはよかったけど、あわてていたせいで、結局どの問題からずれたのかわからなくて、最後は山勘に頼る始末。私、自分では間さんのことは頭から追い出して試験に集中していたつもりでいた。でも、やっぱどこかうわの空だった。だからこんなことになってしまったんだろう。
もしもこのまま間さんが死んでしまうようなことになったとして、私はそれでも自分には関係がないって言いきって忘れることができるだろうか。そんなの絶対ムリ。あとあとまで、あの時なんでこうしなかったんだろう、ああしなかったんだろうって思い続けて自分が苦しむのは眼に見えてるよ。
とにかく間さんのために、黄色い府電をなくさないために、やれるだけのことはやろう。電話してもダメだったなら、府電の車庫に行って話を聞いてもらおう。面と向かって一生懸命話したら、少しは私の言うことに耳を傾けてくれるかもしれないよ。そうと決まったら、行くのは少しでも早いほうがいいね。今すぐにでも・・・
「何ぼーっとしているの?」
タマちゃんが、私の座っている机にそっと手をかけた。ぎくりとして、恐る恐る上を向く私。
「もう終わっちゃったことを、いつまでもくよくよ考えないの。考えたところで結果は変わりませーん。もし合格していれば、二三日で高度機械化人体協会から義体操縦免許がおりるから、それで退院。お疲れ様でした」
タマちゃんはそう言って、内心冷や汗ものの私の背中をぽんと叩いてにっこり笑う。
「あ、でも今はまだ無免許ですからね。くれぐれも、外出したりなんかしないように」
「ももももちろんです」
先生に叱られた生徒みたいに、背筋をしゃきーっと伸ばして答える私。
タマちゃん、あなたはエスパーですか?
「やあ、試験どうだった?」
私が病室に来るのを待ち構えていたかのように、窓際にいる間さんがいつもの車椅子の上で笑顔を浮かべながら口を開く。今日、試験だってことはだいぶ前に間さんには話していたような気がする。私でも忘れかけていたようなことを覚えてくれてたのは嬉しいよ。嬉しいけどさ・・・あんたのせいで滅茶苦茶だようって言いたかったけど、オトナだからやつ当たりはしないのだ。
「うん。まあまあ、かな」
私は内心の嘆きは表に出さず、ビミョーな愛想笑いで応じつつ、間さんのもとに向かった。
しばらくぶりに見る間さんは、前よりもっと痩せて小さくなってしまったように見えた。明るくふるまっているけど、吉澤先生の言うように、病魔は間さんの身体を確実に蝕んでいるに違いない。
「今日来たのは試験のことじゃないんです。どうせすぐ知ってしまうから言ってしまいます。さっき、ニュースで黄色い府電のさよなら運転が行われたって言っていました」
私は、間さんの顔色を伺いながら、呟くように言う。窓のサッシに手をかけて、窓の外を見ると、白い府電が道路を走っていくところだった。
「その電車なら、さっき、この前を通ってったよ。まるで霊柩車みたいに飾り立てられてた」
そう言って間さんは笑った。多分、ギャグのつもりなんだろうけど、ちっとも面白くないし、笑えない。むしろ自分の死を他人事のように考えられる間さんに腹が立つ。
「まだ終わりじゃないっ!」
間さんの笑いを打ち消すように私は叫んだ。
「私は、これから府電の車庫に行きます。それで、黄色い電車をなくさないで下さいって頼みます。今日はそのことを伝えに来ました。間さん、電車がなくならなければ義体化手術を受けてくれるんですよね。約束してくれますよね」
私は、ずいっと間さんに顔を近づける。間さんは、気まずそうに私から眼をそらした。
「約束もなにも、それ、ムリだから。前に電話で頼んでだめだったんだろ?」
「ムリかどうか、やってみないとわかならないっ!約束してくれますよね?」
「わ・・・わかった」
間さんは私の剣幕に押されるように首ををタテにふった。
「だけど、八木橋さん、まだ免許持ってないでしょう。外出できるの?」
「ば、ばれなきゃいいんだよう。私は今日このあと何も予定がないの。だから、今日中に戻って来れれば問題ないの」
私は、自分に言い聞かせるように力強くうなずく。
実際にもう今日はタマちゃんと会う用事はない。府電の車庫なんて、どんなに遠くても東京府内だろうから、今から出ても明るいうちにはラクラク帰ってこれるはず。だから無免許で無断外出したとしたって、ばれっこないんだ。
それに、機械の身体だって、私の身体ってことに変わりわない。それなのに免許証がなければ、どこにも行けないっていう法律のほうがそもそもおかしい。おかしい法律になんか、従わなくたっていいんだ、とも思う。
「ふーん。それで、そんな服を着てるのか。いつも入院着姿ばっかりだったから、なんだか新鮮だね」
間さんは、そんな私のタクラミをよそに、感心したように私を眺めている。
私が着ているのは、入院中におじいちゃんが送ってくれた、じみーな高校の冬用セーラー服。入院服のまま外に出たら、病人が勝手に出歩いてるってことで、すぐに通報されちゃうかもしれない。できれば、余り目立つカッコはしたくない。だから、この服を着てきたんだけどさ。あまりじろじろ見られると、ちょっと恥ずかしい。久々の外出だし、どうせならもう少しましな服を着たかったけど、他にないから仕方がない。
「そ、そういうわけだから、私、行ってきます」
用件を済ませた私は、唇を尖がらせて、ぷいっと後ろを振り向く。その私の背中に間さんの声が届く。
「待って。せっかくだから、僕も行くよ」
「はあ!?」
予想もしなかった間さんの言葉に私の足が止まる。
「で・・・でも間さんは・・・」
私は間さんの車いすを見つめた。一緒に行ってくれるのは嬉しいけど、一人ならともかく、車椅子を押していくのはどうしても目立ってしまう。
「僕も、今日はこのあと何も予定がないし、今日中に戻ってこれるのなら僕だってバレる心配はないし、それに・・・一応僕の思い出の電車だからね。直接会ってお別れするのもいいかなって思ったってわけさ。大丈夫。八木橋さんの邪魔はしないからさ」
いたずらっこのように微笑む間さん。
「で、でも・・・」
「じゃあ聞くけど、八木橋さん、車庫がどこにあるか知ってる?」
「・・・うー、知りません」
ハイ。よく考えたら、府電の車庫、どこにあるかゼンゼン知りませんでした。
「僕は知ってる。決まりだね」
間さんは勝ち誇ったように言った。
私は府南病院前電停で、自分の体ほどもある大きなダンボール箱を両手で抱えて電車待ち。
「えーっと、12番の菖蒲端駅前行きの電車に乗ればいいんだね」
周りに誰もいないのを見計らって抱えたダンボール箱に向かってひそひそとささやく。ハタからみたらちょっと危ない人に見えるかもしれない。
「そうそう。それで天源寺で降りれば車庫だから」
箱の中から返ってくる同じようなひそひそ声。これ、別に私が気が狂って、デンパを受信しているわけじゃないよ。実は箱の中には間さんがいるんだ。
間さんも府電の車庫に一緒に行きたいと言いだして、一番悩んだのが、どうやったら目立たず外に連れ出すことができるか、ということ。まっ正直に車椅子を押して行った場合、車椅子にはご丁寧に府南病院っていう札がついているから、入口のところで守衛さんにつかまって、無断・無免許外出がバレてしまう可能性が高い。私が間さんを背負っていくという手もあるけれど、周りの注目を浴びるのは間違いないし、だいいち私が恥ずかしすぎる。そこで考えたのが、病院の裏手の資源ごみ捨て場に捨てられている大き目のダンボール箱を組み立てて、その中に間さんを入れてしまうということ。これなら、上からフタをしめてしまえば、まさか間さんが中に入っているなんて誰も気がつくはずがない。ちょっと大き目の荷物を持ち運んでいるんだろうなあ程度にしか思われないだろう。人が一人入った箱を抱えていくのは、結構大変って思うかもしれないけど、この体なら、どんな重いものを持っても疲れるってことはないしね。はは。
間さんは、これじゃまるで捨て猫みたいだって嫌がっていたけど、私が、それなら連れて行かないって突っぱねたら、渋々ながらも最終的には私の提案をのんでくれた。
五分ほどの間に二つ違う行先の電車を見送る。病院の門を首尾よく抜けて、もう安全圏にいるといっても、病院の目の前の電停なんていつ知り合いがやってくるか分からず、びくびくものだったから、電光掲示板に「次の電車は12番・菖蒲端駅前行き」という表示が出た時は心底ほっとした。ほどなくして、お目当ての電車が小さな車体を揺らしながら信号を越えて、こちらに向かってくる。私はこぶしに1円70銭の電車賃を握りしめて、間さんの入ったダンボールを抱えて白い、イルカみたいな形の電車に乗り込んだ。
ところが・・・
「あ、ちょっと待って」
電車の運転手さんは、私の抱えている箱を見るなり、運賃箱に手でフタをして、私がお金を入れるのを遮った。
「はい?」
私は、なんで運転手さんが私の邪魔をするのか理解できなくて、非難を込めた眼つきで運転手さんを見返す。
「危険物は車内に持ち込み禁止なんだけど」
「え?危険物?」
「これさ、中見は何なの?」
運転手さんは、ちょっとイライラしたようにダンボール箱を突いた。
「え、えーっと」
運転手さんから眼をそらして口ごもる私。内心は冷や汗タラタラもの。
(何か、誤解していませんか?この箱の中には人が入ってるんですよ)
ホントはそう言いたかったけど、言えるはずない。そんなこと言ったら無賃乗車をしようとしたと疑われて、話が余計ややこしくなってしまう。かといって、とっさに上手い言い訳が出てくるほど私の頭の回転は速くない。
「と、に、か、く、そんなの持ってたら乗せられないからね」
運転手さんは、大きな箱を手に慌てふためく私を尻目に冷たく言い放った。
「ごほん」
今度は私の背後からわざとらしい咳払いが一つ。振り返ると、電車のステップのところで、私が通路をふさいでいるせいで、中に入れないおばちゃんが私を睨みつけていた。これがいわゆる前門の虎、後門の狼ってやつ?
「す・・・すみません」
私は恐縮して何度も頭を下げながらおばちゃんの横を通って電車から降りる。おばちゃんは、ダンボールを邪魔そうに押し返しながら、舌打ちして電車に乗り込んでいった。
運転手にはわけわからないこと言われて乗車拒否をされる。おばちゃんには嫌がらせされる。乗るはずだった電車が軽やかなモーター音を奏でながら遠ざかっていくにつれて、こみあげてくる怒り。
「ひどい、ひどいっ!」
私は、不満をぶつけるように、電停のベンチに勢いよく腰をおろした。
「あのさ・・・」
横に置いたダンボールの中から遠慮がちな声が聞こえる。
ダンボールの横に小さな穴を開けていて、そこから間さんは外が見れるし、私も外から間さんを見ることができる。
「なにさ」
私は膨れっ面でその穴を覗き込んだ。
「まさかとは思うけど、八木橋さんの持ってきたこのダンボールの箱、外に何て書いてある?読んでみて」
「えーっと」
そんなこと気にも止めていなかった私だけど、間さんに言われるがままに、ダンボールに印刷されている文字を眼で追う。文字を追うごとに私の怒りは消え、かわりに気恥ずかしさが心の一面を覆っていく。
さっきまでの剣幕はどこへやら、私はか細い声で言った。
「取扱注意・・・可燃物・・・エタノール」
「え、何、よく聞こえないんだけど」
「取扱注意っ!可燃物っ!エタノールっ!」
「くくくく」
声を押し殺した笑いが箱の中から聞こえてくる。
ダンボール探しに夢中になっていて、箱に何が書いてあるか、なんて私考えもしなかったけど、よくよく見ればこの箱、大きな文字で精いっぱい危険物って自己主張している。そりゃあ運転手さん乗車拒否するのも当然だよね。
「なっ、なにさ。いいよ。もう。歩けばいいんでしょ。歩けば」
やけくそになった私は、箱を抱えて立ち上がる。
「歩くって簡単にいうけど、天源寺の車庫はここから5キロは離れていると思ったけど」
「いいもん。私は全身義体なんだから、5キロ歩くくらいなんでもないんだ。どうだ。この体、便利でしょ。間さんも義体化手術受けたくなったでしょ」
「いや、全然」
箱の中から至って冷静な間さんの声が聞こえた。
久し振りのシャバの空気はうまい。よく映画やドラマで使われる陳腐なセリフだけど、私は府電の走る広い道路の片隅の歩道を歩きながら、それを実感している。うん、シャバの空気は、文句なしにおいしい。
もちろん今の私に空気の味なんか分かるはずないんだけどさ、それでも街路樹の欅の梢の間からのぞく冬晴れの空は、病室の窓から見るよりずっと青く見える。病室の窓から見えていた愛想のない灰色のコンクリートジャングルは、実際に歩いたら街ゆく人の笑顔溢れるドリームシティ。そんな色とりどりの色彩あふれる街中の歩道の片隅を大きな箱を抱えた私は上京したばかりの田舎娘みたいに、あっちをきょろきょろ、こっちをきょろきょろしながら、歩いて行く。
電車の線路を横眼に見ながら歩くこと1時間あまり。黄色い電車がいるという府電の天源寺車庫は、大通りから少し外れた、その名前のとおり天源寺っていう境内で鳩が戯れる小さなお寺を抜けた裏手にあった。
背の低い塀で囲まれた、ちょっと大きめの駐車場ほどの敷地に、小さな府電の電車が所狭しと詰め込まれていて、車庫っていうよりも電車置場みたいな雰囲気のトコロ。でも置いてあるのはさっきも見たイルカ電車ばかり。さよなら運転をしたはずの、黄色い府電は一台も見当たらない。
「黄色い電車、ないみたいだよ」
私は、膨れっ面でダンボールの中の間さんに向かって言う。間さんが自信たっぷりに僕は車庫の場所を知っているって言ったから連れてきたのに、無駄足だったら馬鹿みたい、と思う。
「おかしいなあ。ここのはずなんだけどなあ。八木橋さん、事務所で聞いてみてよ」
「はいはい、わかりましたよ」
溜息まじりに返事をした私は、車庫をぐるりと見回す。車庫の片隅に工事現場にあるほうが似つかわしいような平屋の小さな建物があった。たぶん、あれがそうだろう。
私がその建物に向かって歩きはじめた、ちょうどその時・・・
”バッテリー残電力50%、節電モード第一段階に移行”
私の視界を右か左に電力不足を警告する真赤な文字が横切った。
(そんな・・・)
機械の体が発する警告に、うろたえ、立ち止まる私。
この機械の体は、電気で動いてる。それに私にただ一つ残された脳みそが生きていられるのも電気の力で生命維持装置を動かしてくれているお陰。だから、バッテリーの電気切れっていうのは、単に身体が動かせなくなるだけじゃなく、私にとっては死を意味する。その命の源の電気が切れかかっているというのは、余り良い兆候じゃない。
義体を動かすバッテリーの電力が50%を切ると節電モードになってしまうというのは、知識としては知っていたけど実際になったのははじめて。節電モード第一段階ならまだ、温かい体に見せかけるための疑似体温がカットされたりする程度で、行動に支障が出ることはないけれど、バッテリーの電力がなくなるのがいつもに比べて早すぎる。普段は一日くらい充電しなくても節電モードになることはないのに、どうして今日に限ってこんなに早いんだろう。確かに間さんの入った箱を抱えて5キロの道のりを歩いたけれど、そのくらいで電気切れになるわけないのに。
(あ・・・)
今日とった行動を思い返して。思い当たることが一つ。
今日、義体操縦免許の実技試験を受けるとき、私は義体の出力リミッターを解除した。そしてリミッターを解除すると何もしなくても普段の何倍もの電力を消費するということも教えられていた。なのに試験が終わった後充電することもなく、そのまま外出しちゃったから・・・
「八木橋さん、どうしたの?」
突然無言で立ち尽くす私をいぶかしむような間さんの声。
「ううん。なんでもない」
内心の動揺を隠しつつ、私は事務所に向かって歩き始める。
そう。なんでもない。ここで用事を終わらせて、すぐに病院に戻れば十分バッテリーは持つはずなんだ。何も心配することはないよ。
私は少し緊張しながら、引き戸をガラガラ開けて事務所の中に入る。机を並べて仕事をしていた作業服姿の職員が一斉に私のほうをを向いた。
職員の人たちが、お互い無言で目くばせしあうと、一番の若手と思われるお兄さんが、入口のカウンターに近づいてきた。
「届け物?」
彼は、私の手にしている大きな箱を不審そうに見ながら、ぶっきら棒に言う。
「いえ、あの違います。今日さよなら運転した電車がここにあるって聞いて来たんですけど」
箱を静かに床に置いたあと、私はおずおずとそう切り出した。
「ああ5500型のこと」
お兄さんは、そう言って後ろを振り返る。
机に座ってで煙草をふかしていたおじさんが、立ち上がってこっちに来る。
「残念だけど、5500型ならさっき工場に行っちゃったよ」
「工場?」
「府電工場。ここは狭いからね。古い電車は工場でカイタイすることになってる」
「カイタイって?」
「バラバラにしてスクラップにするってこと」
「ええっ!」
動揺した私は思わず叫び声を上げ、またもや事務所中の視線を一斉に集めてしまう。でも、それを恥ずかしいって気にする余裕はない。黄色い電車がスクラップになってしまったら、いくら私が電車をなくさないでって頼んだところで意味がなくなってしまう。
「確か、すぐ解体作業に入るって言ってなかったか?」
「そう言ってましたね」
最初に応対に立ったお兄さんが、おじさんに同意するように小さくうなずいた。
「その工場ってどこにあるんですか?」
私は、カウンターから身を乗り出すようにして、おじさんに聞いてみる。
「小網島ってとこ。ここからだと電車よりバスに乗っていくほうが近いかな。電車だと乗換えないといけないけど、府バスなら乗換なしで行けるからね。停留所は、お寺の前。小網島までここからバスで30分くらいってところだ。もし電車を見にいくつもりなら、急がないと間に合わないかもしれないよ」
「そんな・・・」
「バスで30分」という言葉を聞いたとたん、くらくら眩暈がした。助けを求めるように、ちらりと足元に置いた箱を見てみたけれど、間さんは私たちのやり取りを聞いているはずなのに黙ったまんま。
ここからバスで30分もかかるところなんて、少なく見積もっても10キロは離れているに違いない。普段なら10キロでも20キロでも、私の体ならどうってことなく歩けるかもしれないよ。でも、節電モードになったこの状態で、間さんを抱えて、はたして10キロも歩けるだろうか。いや、ちんたら歩いてたら、きっと電車はスクラップになってしまう。全力で走るしかない。だけど、10キロも全力で走って車庫に行って、なおかつ府南病院に戻るまでバッテリーの電力はもつものだろうか?
「あの・・・」
充電させてくれませんか、と言いかけて、私は言葉を飲み込んだ。
恥を忍んで、実は私は全身義体で電気がなくなりかけてるんですって説明すれば、ひょっとしたら電気を貸してくれるかもしれないよ。でも、おじさん、すぐに電車の解体作業に入るって言っていた。それが本当だったら充電している暇なんかない。電気が持つかどうか、なんて考えている暇もない。
私が今日、外出した目的は何だ。間さんに義体化手術を受けてもらうために、黄色い電車をなくさないでって頼みこむためじゃないの?そのために何をすべきか、答えは一つしかないよね。
「あ、ありがとうございます」
私は、ぺこりと頭を下げると、もう一度ダンボール箱を抱えて、くるりとまわれ右。戯れる鳩を蹴散らし、地面に敷き詰められた小さな砂利をざくざく踏みしめながら、もと来たお寺の境内を小走りに走りぬける。
「八木橋さん、そんなに急いでどこに行くつもり?」
間さんは、突然走りだした私に驚いたのか、ダンボールのフタを開けて顔をのぞかせる。開いたダンボールのフタが私の走るリズムにあわせてぴょこぴょこ揺れた。
「決まってるじゃないか。小網島ってところの府電の工場だよう。早く行かないと電車がなくなっちゃうかもしれないんでしょ。だからちょっと座り心地が悪いかもしれないけど我慢して」
「・・・八木橋さん、もういいよ」
間さんは静かに呟いた。
「もう病院に戻ろう。電車は見れなかったけど、ここまで連れてきてくれただけで僕は嬉しかったよ。もう僕は、たぶん病院の外に出られることはないから、最後に良い思い出ができました」
「な、何言ってるのさ。私、絶対黄色い電車を見つけるよ。それで電車を無くさないでくださいってお願いするよ。もうそう決めたから、間さんが何を言っても帰る気はないからねっ!しゃべると舌をかむかもしれないから黙ってて」
間さんにもう一度箱の中に戻ってもらうと、有無を言わさぬよう、走るスピードをさらに上げて府電の走る大通りへ。眼の前の交差点は赤で、おじさんが教えてくれた小網島へ行くバスがちょうど信号に引っかかって止まっていた。
バスを追いつきざま、私は不敵に笑ってみせる。陸上部の力の見せどころだ。
「バスより速く走ってみせるから、道案内をよろしくお願いします」
横から車が走って来ないことを確かめると私は、そのまま赤の横断歩道を勢いよく駆け抜けた。
「うー、工場は、まだなの?まだなの?」
義眼ディスプレイの片隅に表示された、刻々とその背丈を減らしていく電力グラフに焦りを感じながら、私は箱の中の間さんを覗き込む。
「確かこの辺なんだけどね。僕も来たことないから、よく分からないよ」
間さんは、箱の中からちらりと私を見上げたものの、バツの悪そうな顔をして眼をそらしてしまった。そりゃそうだ。間さんの指示どおりに走ったのに、一向に工場に辿りつかないばかりか、さっきから同じところを行ったり来たりしてるんだから。
道路脇のコンビニの看板にはニコマート小網島店って書いてあるから、このあたりに府電の工場があるのは間違いない。だから、何も考えずに電車の線路沿いに歩いていけば、府電工場なんかすぐにでも見つかるよってカンタンに考えていた。でも、実際には一筋縄じゃいかなかった。このあたりの府電の線路は交差点ごとに四方に分岐していて、線路沿っていってもどっちの方向に行けば工場があるのか、見当がつかない。おかげで、さっきから、あっちに行ったり、こっちに行ったり、もうかれこれ20分近くこの一角をウロウロして続けている。
人に聞こうにも、このあたりは臨海工場地帯のど真ん中で、ビルにさえぎられることのない空と、トラックのひっきりなしに通る道幅ばかりが広くて、人通りはほとんどない。あまり流行っていそうにないコンビニの、店員のお姉さんに聞いてみても「私もバイトでこのあたりに住んでるわけじゃないので」と申し訳なさそうに首を横にふるばかり。
と、いうわけで、ひとけの無い交差点で、無意味に流れる歩行者用青信号のメロディーをバックミュージックに途方に暮れる私たち。いつの間にか太陽は西に大きく傾き、私の影が道路に頼りなく細長く伸びていく。それと反対に電力グラフはぐんぐん短くなる。
そしてとうとう・・・
”バッテリー残電力30%、節電モード第二段階に移行。出力制限70%まであと30秒”
電力グラフが黄色から赤色に変わり、それと同時に私の視界を再び横切る警告文。恐れていた事態がとうとう起こってしまった。
「そんな・・・」
力なくつぶやく私。
バッテリーの残電力が30%を切ると、いよいよ本格的に電力を節約するモードに切り替わることになっている。まずサポートコンピューターへの負担を軽くするために、視界は白黒になってしまうそうだ。これはまだいい。問題なのは、義体出力が普段の30%に制限されてしまうこと。でも、これ、義体操縦免許を取るための教本で得た実感の伴わないただの知識に過ぎない。普段の30%の力しか出せないというのは実際どういうことなのか見当もつかず、着々と減っていくカウントダウンの数字に恐れおののくばかり。
異変を感じ取った間さんが、まるでびっくり箱を開けたみたいに、ぴょこんと箱から首だけ出して私のほうを見た。
(なんとかしなきゃ)
そうは思うものの、残された20秒ちょっとの時間で、いったい何ができるだろう。
私が呆然と立ち尽くす間にも、冷酷なカウントダウンは着実に進み、数字がゼロになった瞬間、私の視界から電力不足を警告する真赤な文字以外の色が失われ、全身から力が抜けて、箱を抱えたまま、腰が砕けるように、へなへなと地面に崩れおちてしまった。
「八木橋さん、大丈夫?」
不安顔の間さん、まるで昔の映画みたいな白黒画像だ。はは。
「バッテリーが切れちゃったみたいです。情けない」
私は力なく笑ったあと、なんとかもう一度箱を持ち上げようと腕に力を込めた。
・・・ダメ。全然ダメ。
今まで軽々と持ちあがっていたはずの箱が嘘みたいに重い。どんなに力を入れたつもりでも、まるで箱の中に鉛でも入っているみたいにびくともしない。
(それよりも・・・)
私の背筋を冷たいものが流れた・・・ような気がする。
(そもそも、私は自力で立ち上がれるんだろうか)
「うーん」
今度は膝に力を込めてみる。でも、やっぱり思うように身体が持ち上がってくれない。
道路脇のガードレールにかじりついて、セーラー服を汚しながら、やっとのことで立ち上がる。でも、身動きどころか、ガードレールに身体を預けて支えないと、じっと立っていることすらおぼつかない。なんだこれ。ただ立ち上がるだけなのに、どうしてこんな苦労しなきゃいけないのさ。これじゃ、歩くなんてとてもムリ。できてせいぜい、地面を這いずるくらいだ。義体出力30%制限、ちょっと甘く見てたかも。
「八木橋さん、もう無理だ。府電はもういいから、さっきのコンビニで充電させてもらって病院に帰ろう」
「何言ってるのさ。充電なんかしてたら黄色い電車がなくなっちゃうかもしれないじゃないか」
私はふらつく足どりのまま、間さんに向かって精一杯の作り笑顔を浮かべた。
「そんなこと言っても、電気がなくなったら八木橋さん死んじゃうだろ。義体医療は僕の専門じゃないけど、そのくらいは知ってるさ」
さすが間さん。よく知ってるね。確かに電気がなくなったら私、死んじゃうかもね。でも、今すぐに、じゃないよ。バッテリーの電気を使いきって、それから義体備えつけの予備バッテリーの電気も使いきって、私の脳みそが死んじゃうのはそのあと。だから死ぬまでにはまだまだ時間はある。
とはいえ、このままだと身動きすらままならない。でも充電している暇はない。
(どうする、どうする)
気を落ち着けるように深呼吸したあと、できの良くない脳みそをフル回転させて知恵を振り絞る。
ふと、今日の試験問題の一文が頭をよぎった。
『義体電源が30%をきり、節電モード第二期、義体出力制限に陥った場合にすみやかに取るべき取るべき行動を答えよ』『A:充電できる場所に行き、ただちに義体に充電を行う。B:サポートコンピューターの設定を変更し、出力制限を解除する』
そうだ。これだ。
この問題の正しい答えは間違いなくA。私もそう回答した。
今の状況に当てはめるなら、這いずってでも充電できる場所に行くのが正しい行動。でも、それは、絶対じゃないよね。今の私にとって唯一正しい答え。それはBに決まってる。それがたった一つの冴えたやり方。こんな時に、こんなことを思い出すなんて、私ってば、天才じゃないだろうか。
「んーっ」
私は地面にしゃがみ込むと、俯いて、目をぎゅっとつぶってサポートコンピューターのメニュー画面を呼び出した。
”ぽーん”
軽快な音とともに視界に浮かびあがるメニュー画面。白黒画像を見続けたあとで、出し抜けに現れる鮮やかな緑の画面が目に痛い。
(えーっと、電力設定の、節電モード設定を選んでと)
義眼ディスプレイの中で白い矢印型のカーソルが頼りない動きでよろよろ動いては止まる。
「八木橋さん、どうしたの?」
「ごめんっ!気が散るから黙っててっ!」
ちょっと強い調子でどなり返す。間さんには悪いけど、おしゃべりしながらサポートコンピューターを操れるほど器用じゃない。耳をふさいでサポートコンピューターの操作に精神を集中させて、やっとのことで節電モードの電力設定画面にたどり着いた。
”第一期・バッテリー残存電力量 50%”
”第二期・バッテリー残存電力量 30%”
(この第二期のほうの数字をいじればいいんだね)
私は一人うなずきながら、第二期・バッテリー残存電力量の数値を0%に変えた。これで、電力ギリギリいっぱいまで出力制限を受けずに自由に動けるはず。
”設定を変更します。本当によろしいですか? はい いいえ”
ここでもためらわず「はい」を選ぶ。
その瞬間、
”節電モードが解除されました”
という文章が視界を流れ、唐突に世界が色を取り戻す。そして、さっきまでどんなに力を入れてもびくともしなかった、間さんの入っているダンボール箱が、いともカンタンに持ちあがる。
「ちょっと待って。なんかおかしいよ。八木橋さん、バッテリー切れなんだろ。もういつものような力は出せないんだろ。なのにどうしてもう一度僕を持って立ちあがれるんだ」
間さんが訝しげに首を傾げる。
「それは・・・」
私はちょっとためらったあとで、笑顔で答えた。
「気合と根性です」
ちょっと気の利いたギャグのつもりだったんだけど、間さんちっとも笑ってくれやしない。それどころか、噛みつくような調子で私に言う。
「そんな説明で納得できるわけないだろ。大方残り少ない電気を無理やり使ってるんだろ。なぜそんな危険な真似をするんだ?電気が切れたら死んじゃうんだろ?」
「だって・・・ここであきらめて、黄色い電車が本当に解体されちゃったら、間さん手術は受けてくれないんですよね?電車のこととは関係なく間さんが手術を受ける気になってくれるならいいけどさ」
「いや、それは・・・」
歯切れ悪く口ごもる間さん。私の覚悟を感じて、少しは心変わりしてくれるかなと淡い期待をしたけど、やっぱり駄目みたい。
「やっぱりね。そんなわけだから、まだ病院に戻るわけにもいかないし、充電するわけにもいかないです」
私は、軽くため息をつくと黙って間さんの入った箱を抱えあげる。
交差点をまっすぐ行っても工場はなかった。左に曲がっても工場はなかった。だったら今度は残りの右に行ってみよう。大丈夫。きっと工場は見つかるはず。
そう自分に言い聞かせ、大きく広がる空を見上げながら私はゆっくりと歩きはじめた。
「あのね。私さ、なんにもとりえはないけれど、走るのだけは好きでさ、部活は陸上部でした。それで、ここまで、ずーっと走ってきたけど、走ってる間、昔のことを思い出してました・・・」
「ふうん」
間さんは意外そうな顔をした。どうも私は、ぱっと見体育会系には見えないらしい。
「でも好きなくせして実力は伴っていなかったから、練習についていくのも大変でさ、毎日毎日バカみたいに走らされて、すっごい苦しくて、遠ざかっていくみんなの背中を見ながら、私何でこんなバカなことしてるんだろう。そんなに苦しいなら、歩けば楽になるのに。ほら、歩け、歩けって、ずーっと思いながら、それでも走るのをやめないで、みんなの後を必死で追いかけてました」
私は、ぽつりぽつりとつぶやくように思い出語りをはじめた。間さんは、黙ってまっすぐ私の眼を見て、真剣に聞き入ってくれている。
「今日は、たくさん走りましたね。病院からさっきの車庫まで、それから車庫からここまで。もしかしたら、電車を何本か待って、うまい具合に親切な運転手さんに当たったら、この箱を抱えてても乗せてくれたかもしれない。それかタクシーを頼めばよかったのかもしれない。でもやっぱり、好きなんでしょうね。ずーっと入院してたから、我慢できなくて、走っちゃった。間さんには箱の中で、さぞかし居心地悪い思いをさせちゃったと思います。すみません」
「そんなことはないよ。大丈夫だよ」
そう言いながらも間さん、私が歩くたびにずり落ちてくる眼鏡を上げるのに必死だ。
「でも・・・思いっきり走ってみたら、嬉しいよりも悲しいほうが大きかったな。だって、間さんを抱えながら全力で走ってるのに、ちっとも苦しくなくてさ、普通に会話もできちゃうんだよ。自分の足で走っているっていうより、車かバイクにでも乗ってるみたいだった。それで、私やっぱり、機械の体になっちゃったんだなって実感してます。高校に戻ったら部活もやめなきゃいけないって思ってます。機械の体で陸上なんてどう考えてもルール違反だろうし、だいいち私自身が走っていて、ちっとも面白くないんじゃしょうがないですし」
私は、湿っぽくならないように笑顔を浮かべてはみたものの、寂しげなキモチまでは隠し切れている自信はない。
「たぶん・・・義体になった人は、みんな多かれ少なかれ私みたいなこと思っていると思います。走るのが好きな人は、走ることを諦めなきゃいけない。泳ぐことが好きだった人は泳ぐことを諦めなきゃいけない。料理が好きな人でも、料理人になるのを諦めなきゃいけない。それから、女の人は自分の子供を産むのを諦めなきゃいけない。機械の体になって、新しい命をもらったけど、その代わりにみんないろんなことを諦めて生きていかなきゃいけない。でも、私、自分が諦めたぶん、諦めなきゃいけないつらさも分かってるつもりです。全身義体になるしか助かる方法がなかった人が、もし義体にならずにすんだら、どんなにすばらしいだろうって思ってるよ。だから間さんには、義体化手術を受けてでも生きてもらってお医者さんになって、いろんな人を助けてほしいと思ってます。そんなわけですから、まだ病院には帰りません。黄色い電車を見つけて、残すようにお願いして、間さんが約束どおりに義体化手術を受けてもらうまで、私はゼッタイあきらめません」
間さんは、ずーっと私の黙って私の言葉を聞いていた。私の偽らざるこのキモチ、どうか間さんの心に届きますように。
金網の向こう側に小さな府電の電車が何台も並んでいる。そして、電車の奥のほうに見える安っぽい灰色のトタン屋根の車庫の壁に「東京府交通局小網島工場」「安全第一」って書いてある看板が貼られている。節電モードを無理やり解除して、再び歩き続けること10分。この道の先に果たして工場はあるのか、また無駄足なんじゃないだろうか、と不安になりかけたころ、ようやく目指す小網島の工場に辿りつくことができた。
「あ、あの電車!」
ちょうど工場の入口近くに止まっている電車を金網越しに指差しながら、私は興奮して叫ぶ。
窓の下に”5500型。長い間ありがとう”という花飾りに包まれた大きな垂れ幕を下げた黄色い電車が、夕陽を反射してピカピカ輝く窓がまぶしい。あれは、今日のニュースでやっていた、さよなら運転をした電車だ。間違いない。
「間さん。見てよ見てよ。私たち、間に合ったよ」
工場の入口の門は閉じられていたけど、重そうな蛇腹の門扉越しに、ヘルメットをかぶったおじさんが、例の黄色い電車の正面の窓ガラスをモップでごしごし拭いているのが見えた。
「すみませーん」
間さん入りのダンボール箱を地べたに置いた私は、おじさんに声をかけてみる。
こっちに気づいたおじさんは、モップを動かす手を休めると私の方へ振り返って、にっこり微笑みながら手を上げた。がっしりとした体格、日焼けした浅黒い肌。なんだか私のおじいちゃんに似ているなって思った。
「その電車って今日さよなら運転をした電車ですよね?」
「そうだけど、お姉ちゃん、ひょっとして電車好きなのかい?」
少し離れた距離から、お互いに大きな声でやり取り。
「えと、そういうわけじゃないんですけど・・・」
苦笑いしながら口ごもる私。確かにこんな辺鄙なところまで足を運ぶなんて、電車好きと間違えられてもおかしくないかも。
それはともかく、不思議なのはおじさんの行動。さっきの車庫では、この電車、今日にも解体作業をするって言ってたんだ。そんな電車を、丁寧に洗うなんて、ちょっとおかしいよね。ひょっとして予定が変わって、まだ使うことになったのかもしれない。
そう思った私は一縷の望みをかけて、おじさんに聞いてみる。
「その電車、このあとどうなっちゃうんですか?」
「もう古い電車だからね。このあと解体さ。それで私も今日で定年。だからこうして二人で最後のお別れをしていたところさ」
おじさんは、まるで古い友達とじゃれあうみたいに電車の車体を愛おしげに叩くいてみせる。
なくなるはずの電車を丁寧に洗うなんて、少し変だと思っていたら、そういう事情だったんだ。でも、それだけこの電車が好きなおじさんなら、本心ではなくしたくないって思っているはずだ。だったらお願いする価値はあるかも。少なくとも、以前交通局に電話したときみたいに基地外扱いされることはないはずだ。
だから、私は勇気を出して、思っていることを口にしてみた。
「あのう・・・その電車、なくさないわけにはいかないでしょうか?」
「うーん。私も世話になった思い入れのある電車だからね。できればなくなって欲しくはないけど、こればっかりはどうしようもないね」
腕組みして黄色い電車を眺めながら、おじさんは寂しそうに微笑んだ。
「八木橋さん」
箱から顔を出してじいっと電車を見ていた間さんが、はじめて口を開いた。
「無理なお願いして、あまり、あの人を困らせないほうがいいよ。ここで、こうして最後の黄電を見れただけで僕は満足だよ。感謝してる。そんなことより、八木橋さん早く充電しなきゃ」
「何言ってるのさ。私はあきらめないよ。私は別に間さんを満足させようと思ってここに来てるわけじゃない。間さんに約束を守ってもらうためにここに来てるのっ!」
電気の残りを気にかけてくれているのは嬉しいけど、グラフなんか表示してたら気が散るから、とっくに義眼ディスプレイ上から消しちゃってる。悪いけど、体が動く最後の瞬間まで私はあきらめる気はないからね。
私はすぅ、と大きく息を吸い込むと、蛇腹の鉄の門をがっちり握りしめる。、
「あの、ばかばかしいと思うかもしれませんけど、ちょっとだけ私の話を聞いてもらえませんか?」
私の呼びかけにうなずいたおじさんは、モップを電車に立て懸けると、タオルで顔をふきながら、私たちの方にやってきた。扉越しに向かい合う私たち。
「唐突にこんなこと言われたら迷惑かもしれないですけど、実はこの人、重い病気なんです」
私は、しゃべりながら、間さんのほうに視線を落とす。
「そ・・・そんなこと言わなくていいから」
「黙っててよっ!」
間さんが唇を尖らせて抗議するのを、私は大声で押さえつけた。自分が病気だって知られるのが嬉しくないことは分かってる。でも、間さんには申し訳ないけれど、間さんの身体のことを話さなければ、私の言いたいこと、おじさんに分かってもらえるはずがない。
「それで、ある手術を受けないと助からないんです。なのに、その手術を受けたくないって言ってるんです。それどころか、この電車がなくなる時が、僕が死ぬときだ、なんてバカなこと言ってるんだ。だから、私、この人と約束しました。もし、この電車がなくならなかったら、心を入れ替えて、手術を受けてくれるって」
おじさんを、まっすぐ見据えて私は言葉を続ける。
「ムリなお願いだっていうのは分かっています。私が我ままだってことも分かってます。でも・・・それでも、この電車、なくさないでほしいんです。この電車がなくなったら、それで手術を受けなかったら・・・」
私は、今まで以上に、ぎゅっと門を握り締めた。そして、俯いて、やっとのことで言葉を絞りだした。
「この人・・・死んじゃうんです」
間さんの顔色を見れば、彼が重い病気を患っていることくらい誰でも分かるだろう。そして、そんな彼の病状をタテに自分の我ままを通すことが、とても卑怯な行為だってことくらい、私にだって分かる。それでも言わなければいけない。どんな卑怯なことをしても、間さんには死んでほしくない。
ぽん。
俯く私の肩が優しく叩かれた。
顔をあげると、おじさんは何も言わず、ただニヤっと笑みを浮かべていた。
その笑いの意味が分からなくてボーゼンと立ち尽くす私を尻目に、おじさんは、間さんと眼線を合わせるように、その場にしゃがみ込んだ。
「おい青年。そういうことなら、あんたは約束を守って手術を受けないとな」
「はあ?」
意外なおじさんの言葉に、私と間さんは顔を見合わせた、
「え・・・あの・・・でも・・・さっき今日で解体するって・・・」
私は、遠慮がちに口を開く。
「今日で解体するよ。でもこの電車はなくならないよ」
「はあ?」
もう一度私と間さんは顔を見合わせ、首をひねる。
この電車は解体する。でもこの電車はなくならない。おじさんの言ってる意味が分からない。たぶん顔中をはてなマークにしているだろう私たちに向かって、おじさんは手まねきをした。
「ちょっとこっちに来てごらん。内緒だぞ」
おじさんは、まるでいたずらっ子のような表情で、わずかに鉄の扉を開けてくれた。おじさんに導かれるようにして、私は間さんの入った箱を抱えておずおず車庫に入る。
「こっちの白い電車をみてごらん」
おじさんは黄色い電車と並ぶように止まっていた白い電車を指差した。この電車ならよく知っている。最近よく見かけるイルカみたいな形の電車だ。
「この電車の番号は何て書いてある?」
「うーん」
もう一度電車全体を観察した私は、電車の正面の大きな窓ガラスの下に数字が書いてあるのに気がついた。
「N5509?」
自信なさげにその数字をそのまま読み上げると、おじさんは大きくうなずいた。
「そう。N5500型の5509号車。それで、こっちの黄色い電車は5500型の5517号車。この意味が分かるかな」
「白いのも黄色いのも、どっちも5500型だ」
間髪を入れず間さんが答える。
「そのとおり。これは両方とも5500型車両」
「でも、ゼンゼン形が違うよ」
二つの電車を見比べながら、私は言う。私は電車にはまるで詳しくないけど、そんな私でも、黄色い電車と白い電車がまるで違うカタチをしていることくらい分かる。
「うん」
もう一度おじさんはうなずいて説明をはじめた。
「それはつまり、こういうことだ。この黄色い電車はずいぶん長いこと走ってきたから、車体はだいぶガタがきている。だけど台車とかモーターのような重要な電気部品はまだまだ充分使える。だから使える部品は極力使って、車体だけ新しく取り換えるほうが、新しく一から電車を作るより、ずーっと安上がりに電車ができるってわけ。そうやって作られたのが、このN5500型電車だよ、つまりこっちの一見新しそうに見える電車は、こっちの古い電車の台車とかモーターを使った生まれ変わりってわけなんだ。この最後の黄電も、このあともちろん新しく生まれ変わるんだよ。だから、車体こそ変わるけれど決して黄電がなくなるわけじゃないんだ」
おじさんの説明を聞いて、ようやくさっきのおじさんの『今日で解体するよ。でもこの電車はなくならないよ』っていうコトバの意味が分かった。黄電は、古い身体が駄目になってたから新しい身体と取り替える。でも、心は昔のまんま残ってる。それって、つまり、電車の義体化手術だ。今の私と同じじゃないか。
私は、さっきのおじさんみたいに、この古い黄電の車体に手を当てて、眼を閉じてみた。この電車が、ぴかぴかの白い車体に生まれ変わって、走る姿がありありと目に浮かんだ。
「間さん、私の勝ちだよね?」
私は軽やかに黄電のステップを登って、間さんを見下ろしながら手を振った。
「間さんの思い出の黄色い電車は、なくならないよ。この電車はまだまだお客さんを乗せていっぱい走りたい。だから白い電車に生まれ変わって、まだまだずっとずーっと走り続けるってさ」
「そんなの、ごまかしだ!僕は黄色い電車が残るなら手術を受けるって約束したんだ。たとえ部品を受け継いだって、こっちの電車は黄色い電車とは違う」
まだ間さんは、そんなことを言ってる。でも、そんな反論、私は予想済みなのです。
「間さん。私は義体化手術を受ける前と、今とで、違う人間になっちゃったんだろうか?」
「そ・・・それは」
「何も違わないよ。確かに昔の体はなくなって、今の身体は、ほとんど作りものの機械。どんなに走っても疲れない身体になっちゃった。でも、それでも心だけは昔と同じ八木橋裕子だって自信を持って言えるよ。それは、この電車だって同じなんだ。たとえ姿が変わったって、この電車は、間さんが小さいとき病院に通うのに使った黄色の電車と同じだっ!」
私はドアの横っちょの握り棒にぶら下がりながら、勝ち誇ったように言った。
「さあ、間さんは、どうするの?」
「僕は・・・」
「僕は?」
でも、私が間さんの答えを聞くことはなかった。
”バッテリー残電力0%、生命維持モードに移行”
唐突に視界に表示されるサポートコンピューターの警告文。次の瞬間、全身の力が失われ、私は糸の切れた操り人形みたいに工場の打ちっぱなしのコンクリートの床にたたきつけられた。
私のセカイが存在したのはそこまで。その直後、視界はテレビのスイッチを消したときみたいにぷっつりと切れ、サポートコンピューターの補助を失った私の意識は義体換装の時に体験したのと同じ、感覚遮断の闇上も下もない永遠の暗闇に閉じ込められてしまった。
永康23年3月16日
府南病院ロビーに集まったのは、小さなボストンバックを持った私と、、私を迎えに来たおじいちゃん。それからタマちゃんと吉澤先生と間さん。
私は、今日、この府南病院を退院する。そして、これからおじいちゃんと一緒に青森に行って、家族のお墓参りをすることになっている。
「八木橋さん、退院おめでとうございまーす。これ、なくさないで、大事にしてね」
タマちゃんから手渡される運転免許証くらいの大きさのプラスチック製のカード。
「ありがとうございます」
私は深々と 頭を下げて、まるで賞状でももらうみたいにしてカードを受け取る。そして、カードに印刷されているすまし顔の私の顔写真を、まるでにらめっこするみたいに、まじまじと見つめた。写真の横には青い文字で「義体操縦免許証」と書かれている。
(ああ、やっとここまで来たんだな)
操縦免許試験に合格して、退院と同時に免許証を渡されるってことは、タマちゃんからあらかじめ聞いていたけれど、こうして今までの努力を免許証という目に見える形で示されると、あらためて感慨深い。身体を失って、機械の体になって初めて眼を覚ました時のこと、昔の自分の体と瓜二つの今の体をもらったときのこと、リハビリトレーニングに音をあげて、泣きわめいてタマちゃんを困らせたこと、間さんと府電の車庫に行ったこと、この病院で起こったいろんな出来事が頭の中をかけめぐる。
「裕子がいろいろお世話になりました。なにやらいろいろご迷惑もおかけしたそうで」
おじいちゃんが、大きな背中を丸めて、精一杯恐縮しつつタマちゃんに向かって深々と頭を下げた。
「はい。いろいろお世話しました」
タマちゃんは、私に向かってウインクしながら茶目っけたっぷりに笑った。
「でも、八木橋さんとお話するの、私は楽しかったですよ。そして、ケアサポーターとして八木橋さんからいろんなことを学ばせてももらいました。いいお孫さんをおもちなのですね。おじいさんとしてもさぞかし鼻が高いでしょう」
「いえいえ、鼻が高い思いをするより、ちょっとそそっかしくて、見ていてハラハラすることのほうが多かったんですがね」
おじいちゃんは、珍しく孫が褒められたことが嬉しいのか、照れくさそうに鼻っ柱を掻いた。
「機械の体になって、正直言いまして、裕子が変わってしまうか心配もしていたんですが、どう見ても昔のまんまの裕子です。ありがとうございます。これからもハラハラさせてもらいますよ」
私の肩をぽんと叩いて笑うおじいちゃん。
「うー、ひどいよう」
私は唇を尖らせてすねてみせる。
とはいえ、無免許外出をしたせいで、おじいちゃんに余計な心配をかけてしまったり、退院が遅れてしまったのは本当のことだから仕方がない。
ちょうど一か月前。間さんと二人で府電工場に行った私は、そこでバッテリーの電気切れ。工場のおじさんは、節電モードのせいで冷たい身体になっていて、息もしていない私のことを、てっきり死んだものと思いこんで、間さんが止めるのも聞かないで、救急車を呼ぶ騒ぎになっちゃった。だから、私の無免許外出は当然のごとくタマちゃんや吉澤先生にバレた。
私が次に目覚めたのは府南病院の自分の病室の上。私の周りには、タマちゃんも、吉澤先生も、間さんも、、それから私が倒れたことを聞きつけたおじいちゃんもいた。タマちゃんは、泣きながら、自分の手の平を真赤にしながら、私のほっぺたを何度も何度も叩いた。結局、そのときの私の免許交付はお流れになり、退院が一か月延びてしまった。私は、みんなにたくさん迷惑をかけた。
でも、一つだけ、良かったことがある。
それは・・・
「間さん。新しい身体は慣れましたか?」
私の目の前には、以前とは見違えるように健康そうになった間さんが立っている。
一つだけ良かったこと、それは約束どおり間さんが全身義体化手術を受けてくれたこと。
「はじめはちょっと戸惑ったけど、何しろ一流のケアサポーターがついてくれていますからね。問題ないですよ」
タマちゃんを見ながら、そんな軽口を叩く間さん。以前みたいに痩せこけて、眼鏡の奥の眼だけがギョロギョロ光っている、なんてことはなく、あくまでもさわやか。ちょっとカッコ良いかもって思ってしまう。
「吉澤先生。僕は負けませんからね。もう一度大学に復帰したら、吉澤先生の仕事を奪うつもりで頑張りますので覚悟しておいてください」
「その意気やよし」
吉澤先生が大きなお腹を揺らしながら満足げにうなずく。
「なんのとりえもない私と違って、目標がある間さんが羨ましいです」
「そんなことないよ。八木橋さんがいなければ、僕は間違いなく死ぬことを選んでいたと思う。僕がこうして生きていられるのは、八木橋さんのお陰だよ。僕は八木橋さんに救われた。人を救うことができるなんて、それは八木橋さんのかけがえのないとりえだと思うよ」
なんですか?ここで褒め殺しですか?あまり褒められたことがないので照れてしまうんですけど。
「八木橋さん。僕は八木橋さんに・・・」
そこで間さんは思わせぶりに言葉を切った。
次の言葉を待ちながら、私はごくりと息を飲み込んだ。なんだろう。ひょっとして私告白されちゃったりして。いやいや、でも私には武田というカレシが。
「ケアサポーターになってもらいたいと思っています」
「え・・・あ・・・お・・・え?ええーっ?」
私はちょっとの落胆と、その何倍もの驚きを、意識せずにア行だけで表現してしまった。、
「僕も頑張って父の意思を継ぐよ。どんなに重態の患者でも、極力義体化しないで、外科手術で救ってみせる。でも、どうしても外科手術で救えなかったら、患者が僕や八木橋さんみたいに全身義体にならなければならないとしたら、今度は八木橋さんにケアサポーターとしてその患者さんを救ってほしいと思ってる」
「はあ」
「僕だって八木橋さんの言うことを聞いて、義体化手術を受けたんだよ。今度は八木橋さんが僕の言うことを聞く番だ。八木橋さん、ケアサポーターになって、僕が救えなかった患者さんを別の形で救ってみようよ」
間さんが、私に向かって手を差し出した。
「えと・・・」
間さんに向かって手を伸ばすことを躊躇する私。
その時。唐突に頭の中に蘇る、あるコトバ。
『裕子、 お前は私達の誇りだ。 私達の太陽だ。 今まで16年間家族を明るく照らしてくれて有難う。今度は、 明るく世の中を、 周りの人達を照らす番だ。 大丈夫。 裕子ならきっとできる。裕子ならきっと幸せになれる。 そして裕子なら周りを幸せにできる』
これは、お父さんが私に遺してくれた最後の、でも、この私が、いったいどうやって世の中を照らせばいいのか、私なりに悩み続けて、それでも答えがみつからず、いつしか頭の片隅に置き忘れて、埃被ってしまったはずのメッセージ。
今、この言葉を唐突に思い出したのは、単なる脳みそのイタズラなんだろうか・・・それとも、お父さんが遠い世界から、私にもう一度メッセージを送ってくれたんだろうか。
(その、どっちにしても・・・)
ケアサポーターになって、そして間さんがどうしても救えなかった人たちを今度は私が救う。どうやったら私が明るく世の中を照らすことができるのか。その答えが見えたような気がした。
たぶん、今の私にはまだムリ。今の私にタマちゃんみたいなことができたらそれこそ奇跡。
でも、5年後だったら?10年後だったら?
何もしなければ奇跡なんか起こりはしない。奇跡を信じて行動することで、はじめて奇跡は起きるんだ。嵐に耐え抜いた最後の一葉のように。時を越えて走り続ける白い電車のように。
私は大きくうなずくと、まっすぐに間さんを見据え、差し出された間さんの手を力強く握りしめた。
「分かりました。私、頑張ります。ケアサポーターになってみせます」
お互い血の通わない機械の腕同士の握手。でも交わされた約束には、二人のとっても熱い血がかよってるんだ。私はそう信じてるよ。
「わーい、新車だ新車だ」
私とおじいちゃんのちょうど目の前に並んでいた母親と手をつないだ小さな男の子が歓声を上げた。男の子の言うように、あの見慣れた形の白いイルカ電車が、早春のおだやかな陽を浴びて車体を光らせながら府南病院前の電停に入ってきた。
「あ・・・」
偶然車体の横っちょに青いペンキで書かれた電車の番号が眼に入って、私は思わず驚きの声を漏らす。
なんて偶然なんだろう。やってきた電車の番号はN5517。つまり、あの時工場で見た電車が姿を変えて、出来立てほやほやの、ぴかぴかな姿になって、退院する私を出迎えてくれた。
男の子が嬉しそうにはしゃぎながら電車のステップを駆け上がる。
私は、電車に乗り込むとき、ちょっと愛おしげに、いかにもペンキ塗りたてって感じの艶々した車体をなでてみた。
私はおじいちゃんと並んで電車の座席に腰を下ろす。、チンチンというベルの音を合図に電車は、すべるように走りはじめた。窓越しに後ろを振り向くと、私が七か月の入院生活を過ごした府南病院がみるみる遠ざかって行くのが見えた。
さっきの男の子は、嬉しそうにはしゃぎながら、空いてる席には眼もくれず、運転手さんの横に豆運転手気分で立っている。
(走れ5517!生まれ変わった新しい身体で、お客さんの笑顔を運んでどこまでも走れ!私もあんたに負けないよ。私もこの新しい身体で生きていく。そして、子供を喜ばせたあんたみたいに、私も明るく世の中を、 周りの人達を照らしてみせる。 大丈夫。 私ならきっとできる。 私ならきっと幸せになれる)
「裕子、何か嬉しいことでもあったのか?」
おじいちゃんは、さっきからにやにや笑っている私を不思議そうに覗き込んだ。
「うん」
大きくうなずく私。
嬉しいこと、あったよ。たくさんあったよ。これからもきっとあるよ。
「おじいちゃん、あのね。この電車はね・・・」
八木橋裕子の物語 リハビリ編 完
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |