このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

真田 幸村(さなだ ゆきむら)本名:信繁(のぶしげ)

幸村は幼少時までは武田家の家臣をつとめていたが、1575年長篠の戦いで武田勝頼が敗北。さらに、1582年に武田家が滅亡。すると織田家に恭順するが同年に本能寺の変により織田信長が死去。諸大名の下を転々とするが、最終的に豊臣家の傘下に入る。しかし、秀吉の死去により関ヶ原の戦いが徳川家康率いる東軍との間に勃発。そして、奮戦の末敗北。だが、その後豊臣・徳川家の関係がさらに悪化。大阪の陣が幕を開ける…。冬の陣では真田出丸という出城をつくり奮戦し、前田・井伊・松平等の敵に大打撃を与えた。だが、夏の陣では徳川方の本陣に突入し、馬印を引き倒すという活躍を見せるが、数に押されて安居神社で味方の負傷兵を看病するため休息をとっているところを前松平勢鉄砲組の西尾仁左衛門に襲われ、激動の生涯の幕を閉じる。

天王寺周辺 真田幸村の史跡を訪ねて
           平成19(2007)年12月(大阪市内)

一心寺
法然が開祖です。
大阪の陣で酒を飲み過ぎて討ち死にした
といわれる本多忠朝の墓があり、今では
断酒や禁煙をしたい人が絵馬のようにし
ゃもじに願いなどを書き、奉納しています。
一心寺の外観
阿弥陀如来が御本尊で、遺骨で作られた阿弥陀仏が有名です。黒門は大阪城玉造御門を移築したと伝えられていましたが、戦災で消失してしまいました。
安居神社
真田幸村が大阪夏の陣で西尾仁左衛門に
襲われ、最期を遂げたと伝えられている神
社です。ここには幸村が作らせたといわれ
る真田の抜け穴らしきものがありました。
真田幸村戦死の地
安居神社の中に建てられている石碑です。現在、幸村の像を建てるための活動を行っています。
増福寺
薄田隼人の墓があります。近くには秀吉が
大坂城を建設するときに移させたという生
國魂神社など多くの神社や寺などがありま
した。
薄田隼人の墓
大阪の陣で奮戦の末没した薄田隼人の墓です。
鎌八幡(円珠庵)
真田幸村が戦勝祈願のため、ここの神
木に鎌を打ち込んだといわれています。
そのため、必勝祈願や悪縁切りを願い参
拝者が絶えません。
ここは江戸前期の真言宗の僧であり、国学者でもあった契沖の家がありました。
心眼寺
戦死した真田幸村とその長男大助を供養
するためにその子孫の方が江戸時代に建
てた寺です。その中にあるまんなおし地蔵
はげん直し、開運などの効果があるといわ
れていて、部員も拝んでいました。
心眼寺の門
真田家の家紋であり、門にもあしらわれている六文銭は旗印としても有名です。
この紋の意味は、冥土にある三途の川を渡る際に必要な渡り賃であるとされています。
三光神社
この神社の境内に入ると、真っ先に目に付
くのはこのページの一番上に掲載してい
る真田幸村の像です。そして、その像の
近くにも真田の抜け穴があります。
このホームページは真田幸村を心の底から愛している部員を中心として作りました。

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