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図8
<立体化学:幾何異性>
前回、化合物の構造を描き表すときに、結合の角度は任意であり、どう折り曲げても同じ分子を表すと書いた。しかし、厳密にはこの言い方は正しくなく、単結合の場合には、という注釈が必要である。炭素−炭素間の単結合、すなわちσ結合は結合電子の軌道が結合軸方向に向いていて、結合軸回りに対称に分布しているため、自由回転可能であり、どうぐるぐる回してもかまわない。(厳密にはこれも間違いで、
配座異性
というのが生じるが、これは後に説明する)。
ところがこれが二重結合になると事情は大きく異なる。二重結合のうちのπ結合は平行なp軌道同士の重なりによる結合であるから、炭素間の結合のねじれによってこの平行性がくずれることは結合の切断を意味する。π結合は弱い結合ではあるが、結合の切断にはそれなりの大きなエネルギーが必要であり、通常状態では、二重結合の回りのねじれは起こらない。そして、このことによって原子の結合関係は同じでありながら、二重結合の回転が不可能なためにお互いに相互変換できない異性体が生じる。これを幾何異性あるいは
シス−トランス異性
とよぶ。
たとえば、2-ブテン(炭素4個の炭化水素ブタンの語尾を二重結合を含む意味のエンに変え、二重結合位置をはしの炭素からの番号であらわす)には、二重結合に対して両側のメチル基が反対を向いた
トランス体
(E-体)と同じ側を向いた
シス体
(Z-体)の2種の異性体が存在する。この両者を相互変換させるためには、中間の二重結合の回りの回転が必要であり、これはπ結合を一旦切断しなければならないので60kcal/molものエネルギーが必要となる。E-異性体とZ-異性体が移り変わる中間の構造(エネルギーの山の頂点、
遷移状態
とよぶ、後述)は、ちょうどお互いのp軌道が90度ねじれた関係にあり、このとき両軌道の相互作用はゼロになっていて、π結合が切断された不安定な状態である。
このように、二重結合のシス−トランス
異性化
は高い
エネルギー障壁
を越えなければならないので、通常は起こらないが、十分な光や熱エネルギーを与えてやると起こる場合がある。視覚の原理は、網膜細胞中の11-シス-レチナールの11-位の二重結合が光刺激によってトランスに異性化する分子変化を電気刺激として視神経に伝達することによっている。
二重結合をもたない飽和の炭化水素ブタンの場合は、すべての結合が自由に回転するため、両側のメチル基をトランス、あるいはシスの関係に固定しておくことはできず、異性体は生じない。
ところで、似たような異性関係は実は単結合の場合にも起こりうる。たとえば、シクロペンタン(炭素が5個環状に連なった炭化水素)を考えてみると、炭素間のσ結合は環を巻いているために自由には回転できない。事実、シクロペンタンの隣接する炭素上にメチル基が2個置換した、1,2-ジメチルシクロペンタンでは、メチル基の相対配置がトランス型とシス型の2種の異性体が存在する。この両者を相互変換させるためには、真中の炭素−炭素結合回りに回転させてやればいいが、鎖状分子であれば可能なこの回転が、環状分子では反対側でつながっているために不可能なのである。
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