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個室寝台車で東京へ
(平成20年12月28〜29日)

 

さて、12月28日夜。いよいよ決行である。

子供の頃からのあこがれ、ブルートレインの中のブルートレイン。まさに王者、寝台特急「はやぶさ」に乗るため、出発する 時が来た。
10時打ちで見事にA寝台個室を打ち出してくれたJR四国卯之町駅の窓口氏、ありがとう。 年末年始のこの時期に休める仕事、ありがとう。両親へ、この世に生んでくれてありがとう。

なんか今回、普段以上にテンションが変です・・・

・今日は「さくら」明日は「はやぶさ」
さて。とりあえず善通寺駅から列車に乗り、多度津で松山行きの「いしずち」に乗り換える。 夜も8時過ぎ。こんな時間に西に向かうのは、八幡浜から宇和島運輸フェリーの深夜便に乗るためである。 最初は、朝のうちに出発して大分泊にしようか、という案もあったが、諸処の事情でこうなった。 最近は地上泊の旅行も多くなったし、たまには夜行連泊もいいものだ。
松山乗換えで八幡浜着22:31。歩いても間に合いそうな時間ではあるが、駅からタクシーでフェリー乗り場へ。
窓口で2等の切符を買い明朝5時までの船内休憩を申請した後、しばらく乗り場周辺を見て歩く。 海に向かって突き出た桟橋の両側に臼杵行きと別府行きのフェリー。桟橋の付け根にはフェリー乗り場の上屋があり、 その手前には乗船車両の待機位置が10レーン。最長のレーンは歩測で約90歩・・・ 仕事でも無関係ではない航路なのだが、初めて乗るので興味深い。

午前0時、案内放送があって乗船開始。タラップを上がって右側の2等船室に荷物を置いてスペース確保。 年末という時期のためか、深夜便でも帰省っぽい家族連れも多い。
0:20出港。貸し毛布を借りてすぐに寝るつもりだったが、妙に浮かれてしまい自販機のカレーヌードルなぞ食べている うちに(嗚呼カロリー摂取過多)、1時をまわってしまった。そろそろ寝る。


今宵の宿フェリー「さくら」
3:10、別府到着。一度案内が入って車の人はここで下船だが、徒歩客は5時まで仮眠を続けられる。 時間が限られているという焦りがあったのか、時間が来て慌てて下船する夢を見た。
5時前にもう一度案内放送が入り、今度こそ下船。関西汽船の別府港は1度来たことがあるが、 宇和島運輸乗り場は初めてである。外に出てバス乗り場を確認してみると、関汽の到着する6時半過ぎまで便が無い。 別府市街地まで2〜3kmくらいあるので、ちょうど良い時間にバスがあれば乗るつもりだったが、これでは使いようがない。

といっても、列車の時間までまだ約3時間。途中で6時から開く市営の外湯に入るにしてもまだ1時間弱・・・。 どうしようもないので、フェリー乗り場のベンチで本など読みながら時間をつぶす。 気がつけば、他のお客さんは居なくなり、一人になっていた。


古風な竹瓦温泉
・別府の湯
6時前、ポツポツと雨が降り始めた中を傘さして歩き出す。歩くのは別に問題ないが、雨が本降りになるとちと辛い。
別府の中心、北浜交差点あたりで案内看板を見て、目指す竹瓦温泉を確かめた筈なのに、たどりつくまでに 10分ほど周囲の朝の歓楽街をぐるぐる歩き回る。7時前に古風な外観の竹瓦温泉に到着。年末年始で市営の外湯は 無料開放されていた。

熱っ!

風呂上りにコーヒー牛乳を飲んで駅へ向かう。だいぶ明るくなってきたので周囲の様子がよく理解できるように なったのだが、そういえば、このあたりさっきも歩いたぞ・・・

温泉の間近で90度別方向へ向かっていた事実に気がついて少し凹んだ。

別府駅前でAPU行きのバスを少し眺めて切符と朝ごはん購入

・豊肥本線
半分ヤケッパチな名前の「九州横断特急」に乗って、まずは立野へ。 車両は四国から来たキハ185なのだが、九州改装で別の車両のような快適な内装である。 車販も乗っていて、食後のコーヒーが旨い。 でも眠い・・・。

立野で途中下車し、間合い時間に〒局へ寄った後で南阿蘇鉄道に乗り換えた。白川を高い鉄橋でまたぎ、 トンネルを抜けるとそこは阿蘇カルデラの南側。北に中央火口群、南には外輪山。豊肥本線より阿蘇の展望がひらけて楽しい。

高森でも〒局へ寄り、停車中の車両を少し写真に撮る。思えばここで何か買っておけば良かったのに、 なにも買わずに立野へ引き返す。立野からキハ200で肥後大津、さらに815系?で空っ腹を抱えて熊本へ。
そいういえば九州の車両は、やたらとあちこちにレタリングが多いのだが、 格好よさげに「DC200」とか書かれても、あれはようするに「気動車200系!」と気合いれて書いてある訳なんだよなぁ。 アルファベットで書けばなんでも格好良く思われるというのも、いまいち微妙な世の中な気がするがどうだろう。


外輪山南側。あの向こう側には、たしか大矢野(演)が・・
・熊本
14:17熊本着。よし、昼ごはん。駅付近の地図を見て適当に最寄のラーメン屋に行ったら、 昼食時間帯を外れているのに並んでいた。 2時間弱の待ち時間があるので並んでみたら、ラーメンにありつくまで50分。店を出るまでに 1時間が経過。旨かったから良いけど皆さん好きですねぇ。

駅の売店でお土産や食料品を買い込み、15時半頃、そろそろ異様な雰囲気に包まれ始めた熊本駅ホームへ。 当初、2番線の博多寄りでカメラを構え、入線した「はやぶさ」を後ろから1枚。 3番線に移り、指定された部屋に荷物を放り込んで、1番線にダッシュして前から1枚、2枚・・・
博多方向から「ありあけ」が入線して射界が遮られたのでいい加減に車内に戻る。
あー、またエキサイトしてしまったorz

・車内にて
ようやく一息ついて15:57、定刻通りに出発。
部屋は進行方向後ろ向きだが、生まれて初めてのA寝台。冷静になって考えてみると、東木黄イン2泊以上の金額が 消えている訳で・・・。まぁ、時代の流れだよなぁ。
実際、すぐあとの有明に乗っても、博多から新幹線に乗り換えれば今日中に東京着いてしまうというのは悲しい話だ。

そんでも自然とニヤニヤしてしまうのは、やっぱり好きだからなんですかね〜。
しかし座ると目の前に鏡があって、見たくも無い自分のニヤケ顔が見えてしまうのは、興醒めである。 なるべく鏡は見ないようにしよう。
宮脇俊三は独房だとか散々愛のあるコケおろしをしていたが、想像していたよりは細長くない。ほんでも 狭いこた狭いのだが。改札も終わったので、ベッドに寝っ転がったり、荷物の整理をしてみたり、 腹筋してみたり、好き勝手に過ごすうち、次第に外が暗くなってきた。熊本にしても久留米にしても、だいぶ新幹線の 工事が進んでいる。
博多手前でとりあえず夕食の弁当を食べたころには真っ暗。外を良く見たいので部屋の明かりを消してみた。

・ひた走る
門司での機関車交換&富士と併結狂想曲のフラッシュの嵐を冷たく眺め、 下関ではホームの雰囲気と青い客車のマッチングを大人しく楽しみ、 車内に戻って門司で買っておいた缶ビールを開けて窓外に流れる街の灯りを眺めながらの一献。 その後は音楽聴きながら、外を眺める。部屋の明かりを消すと「まっくら森の歌」が非常に良く合う。
徳山、柳井、大島大橋の下をくぐり夜の瀬戸内を駆け抜けて岩国。そろそろ寝よう。 広島出発あたりで意識が無くなった。

夜中にふと目が覚めて外をみると若干の雪景色。もう関ヶ原かと思ったら、なにやら2両連結の私鉄車両が見えた。 一宮? 違う。彦根か。
米原運転停車でもう一度寝る。出発時はショックも無く滑らかだった。

浜松の手前、おはよう放送で起床。車内販売のサンドイッチとコーヒーで朝食をとりあとは引き続きボーっと過ごす。 静岡を過ぎて世間的にはもう活動時間なのだが、こうしてゆったり過ごすのは一種の特権であるよなぁ。 特(特異)権階級(笑

・またのご利用を
富士の手前で「左手に富士山が見えております」と車窓案内。通路に出てみると、 他の部屋の人も漏れなく顔を出すかカメラ片手に通路に立っていた。 あぁ(^^i 熊本でも、この車両に乗った人はまず通路から室内の写真を撮ってから部屋におさまってたよ。

気がつきゃ丹南トンネルを抜けてもう熱海、あっという間に戸塚を過ぎて横浜停車。 熱海でまた機関士が交代したのか、それとも最後なので気合を入れたのか、熱海・横浜ともに ショック無しの絶妙な引き出しが彩りをそえる中、品川を通過で最後の車内放送が始まった。

某掲示板等でも良く出る話題なのだが、放送末尾の 「〜はやぶさ・富士号の、またのご利用をお待ち致しまして、お別れをいたします。まもなく終点東京です。 ♪(ハイケンスのセレナーデ)〜」 に心を打たれて東京到着。9:58定時(たぶん)。 ホームのEF66付近は、またもやフラッシュの嵐

撮影マナーは orz

・おわりに
実際問題として銀河とは異なり、「はやぶさ」も「富士」も交通機関としての役割は終わりつつあると思う。 ニッチ産業にするには少々お金もかかりすぎたのだろう。 一時期はロビーカー連結などの梃入れもあったが、結局最後までシャワー室は無し。いつまでたっても主体は開放式B寝台、 JRもどこまで本気だったのかよく判らないが、少しは気合を入れていたっぽい「なは」や「あかつき」でさえ 廃止される世の中である。そんな中でも、最後に乗る「はやぶさ」に乗車する機会を得られたのは幸せなことだ。 その幸運に感謝するとともに、春以降も残る夜行列車のせめてもの活躍を祈念し、自分自身もできるだけ乗れるように したいと思いつつ、この項を終えたい。

追記
「独房」ことオロネ14(元オロネ25)の個室だが、年明けに乗ったサンライズのシングル(B寝台)に比べれば、 さすがA寝台と言うべき設備であった。


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