このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

鉄道文化の危機

最近の子供は、電車ゴッコなどという遊びをするのだろうか? 川原のサイクリングロードを自転車で走っている最中に、ふと頭の中に芽生えた疑問。
大体、近頃のお子様がこんな遊びをするかどうかさえ怪しいものだけれど、 電車ゴッコは健在であると仮定してみると、 次第に妄想が広がって・・・

 

♪運転手は君だ、車掌は・・・

電車ゴッコ。この遊びの最低必要人数は運転手役と車掌役の2人であり、 運転手と車掌の間に入るべき乗客は、極端な話だが、いてもいなくてもたいした 問題ではないのだ。電車ゴッコは2人の連携プレーである。たとえお客が存在しなくても そこに線路があるかぎり、ダイヤグラムがあるかぎりは2人を遮る障壁は何もない。

ところが困ったことに最近は、実物の鉄道でワンマン運転の導入が進んで 車掌がいない列車が増えている。子供は世の中の動きに敏感だ。電車ゴッコでも ワンマン化が導入されるに違いない。車掌役がいない、運転手役だけの電車ゴッコ なんてものは、想像するだけで寒くなる。

第一、車掌がいなくなると、運転手が車内放送の役目も担わなくてはならない。 しかも肉声ではなく自動放送風に

「次は〇×、〇×です。〇×では後の車輌のドアは開きません。お降りの方は 一番前のドアからお降りください。」

とか

「理券をお取り下さい、整理券をお取り下さい、整理券をお取り下さい、整理券をお取り下さい、整理券をお取り下さい・・・」

などと、1人でブツクサ言い続けなければならないのだろうか?
しかもワンマン化されるくらいだから、おそらく乗客は、あまり、いや、ほとんどいないであろう。 これまでは車掌役がいたからこそ成立していた電車ゴッコなのに、運転手役1人だけで 走り回るなんて恐ろしすぎる。
終着駅での折り返しまでの待ち時間、運転手は 1人ホーム(車内は禁煙)でタバコを吸い、たまたま客が乗っていた時などは 「兄ちゃん、どっから来たんや?」とか話かけるのであろうか。

そして1人でする電車ゴッコの虚しさは、やがて路線廃止として 電車ゴッコそのものを消滅に追いやり、こうしてその地域の子供文化から 「鉄道」の二文字は消えてゆくのである。
廃止日にさよなら運転をすれば少しは客も集まるだろうか?


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