このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
1938年、東京で生まれました。
戦争で親父の田舎である茨城県水戸市から15kmほど那珂川を遡った田舎に疎開。
高校時代までをここで過ごしました。
親父は、東京で教員をしていましたが、戦後、田舎との往復時、発疹チフスにかかって
若くして死んでしまいました。
お袋は、東京生まれで、田舎の生活に苦労し、自分も近場がいいだろうと日立に就職
しましたが妹達が東京に出て、子供が出来ると孫の世話と言うことで東京に帰り、結局
茨城には自分だけが残ることになりました。
自主技術を標榜するものつくりの会社で、他社が海外と技術提携をする中、自主開発
を貫いて世界に技術輸出するまでになったのです。その間、二十有余年。
その後は、そして何時の間にか、技術者から管理者に代わり、本社、名古屋と工場を
離れ、また二十有四年が過ぎました。
その間、世の中は、車社会になって行きます。若い頃は、タクシーや電車、バスの方が安上がりと言っていたのですが、その電車もバスも無くなって
しまいました。名古屋という車社会の中心地に住んでみると、車がいかにも便利です。そこで64歳で免許を取ることにしたのです。
一方、子供の頃から物を作るのが好きで、パソコンも自作してきましたが、情報化社会と言われる中で、ますます、それが重要になってきました。
海外でのビジネスのために習ったタイプライターのタッチシステムも役に立ちます。海外では、若い頃から読んできた推理小説の場面がそのまま、
アメリカの町であり、好きな漢詩や歴史は、中国や東南アジアのビジネスにも役に立ちます。
名古屋時代は、会社を任されてやりたいことをやらせともらいました。
まあ、そういう訳で、50年近い会社生活を終わりにしたのです。これからは、次の二十有四年と言う訳には行きません。
しかし、拘束時間が無くなったことを考えると、自由時間という意味では、ボケさえしなければ、もっと長い時間が与えられたとも云えます。
最後の二十有余年に相当する時間を、楽しく過ごしたいものです。幸い、日立の地に住んで、中学や高校の友人達との交流も深く、特に、我々の
年度の団結は素晴しいものがあります。会社関係、町の人、色々なつながりも増えてきました。
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