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高野山縁起 (常陸国住人) 自分も名古屋に行ったころ、高野山には、女房と行きましたが、当時はデジカメも無く、写真も見当たりません。ただ、奥の院へ の道筋の沢山の墓碑や卒塔婆などを覚えています。 その前後に比叡山にも行っていますが、根本中堂で、消えたことのない灯明の話など聞いたことなどを覚えています。 どうも、仏教より神道、寺より神社に興味があり、そちらの方を中心に見てきました。 ここには、Wikipediaなどで調べた、高野山の縁起を書いてみました。 高野山真言宗 総本山金剛峯寺、本尊:阿?如来(あしゅくにょらい)、 高野山は、和歌山県北部、周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。100ヶ寺以上の寺院が密集する 、日本では他に例を見ない宗教都市である。 京都の東寺とともに、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師 信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。 2004年には高野山やかつての表参道である高野山町石道(こうやさんちょういしみち)などが、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣 道」の一部として登録された。 「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからもわかるよ うに、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。 空海と高野山 空海は、最澄(天台宗の開祖)と並び、平安仏教を開いた僧である。著作家、書道家としても優れ、灌漑事業などを行った社会事業家 、綜藝種智院を開設した教育者としての側面もある。後世には「お大師様」として半ば伝説化・神格化され、信仰の対象ともなっており、 日本の仏教、芸術、その他文化全般に与えた影響は大きい。 宝亀5年(774年)、讃岐国屏風浦(香川県善通寺市)に生まれ、俗姓を佐伯氏といった。 十代末から30歳頃までは修行期で、奈良の寺院で仏典の研究に励み、時に山野に分け入って修行した。 延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡航。長安・青龍寺の恵果和尚(けいかかしょう)に密教の奥義を学び、大同元 年(806年)帰国している。 空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野 山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである 平安中期の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』にはこれとは異なった開創伝承が残されている。 空海が修行に適した土地を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(奈良県五條市)で、黒白2匹の犬を連れた狩人(実は、狩場明 神という名の神)に出会った。狩人は犬を放ち、それについていくようにと空海に告げた。言われるまま、犬についていくと、今度は紀伊 国天野(和歌山県かつらぎ町)というところで土地の神である丹生明神(にうみょうじん)が現われた。 空海は丹生明神から高野山を譲り受け、伽藍を建立することになったという。 この説話に出てくる丹生明神は山の神であり、狩場明神は山の神をまつる祭祀者であると解釈されている。 つまり、神聖な山に異国の宗教である仏教の伽藍を建てるにあたって、地元の山の神の許可を得たということを示しているのだとさ れている。 高野山では狩場明神(高野明神とも称する)と丹生明神とを開創に関わる神として尊崇している。 丹生明神と狩場明神は丹生都比売神社に祀られている。金剛峯寺と丹生都比売神社は古くから密接な関係にあり、神仏分離後 の今日でも金剛峯寺の僧の丹生都比売神社への参拝が行われている。 平安時代 高野山を賜った空海は、翌年から弟子たちに命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらなかっ た。空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、むろん、当時の建築物は現存していない。 空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。 その後、京都の東寺との確執もあり、正暦5年(994年)には落雷による火災のため、ほとんどの建物を失い、僧はみな山を下りるという 、衰亡の時期を迎えた。 荒廃した高野山は、長和5年(1016年)頃から、祈親上人定誉(きしんしょうにんじょうよ)によって再興された。治安3年(1023年)に は藤原道長が参詣。平安末期には白河上皇、鳥羽上皇が相次いで参詣するなど、高野山は現世の浄土としての信仰を集めて栄え 、寺領も増加した。 源平の騒乱期には、高野山で出家する貴族や武士が目立つようになった。彼らは高野山に草庵を建てて住み、仏道に励んだ。また、 北条政子が亡夫源頼朝のために建てた金剛三昧院のように、有力者による寺院建立もあり、最盛期には高野山に2,000もの堂舎 が立ち並んだという 中世以降 戦国時代、武力をたくわえていた高野山は織田信長と対立するようになった。比叡山焼き討ちを行った信長は、高野山の僧をも大量に殺害し、天正9年(1581年)には高野攻めが行われるが、本能寺の変にたおれたため、高野山は難をまぬがれた。 続く豊臣秀吉は、当初は高野山に寺領の返還を迫るなど圧力をかけたが、当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に服従を誓った。 のちに秀吉は応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、また亡母の菩提のため、山内に青巌寺(総本山金剛峯寺の前身)を建て た。 近世に入ると、徳川家が高野山を菩提所と定めたこともあり、諸大名をはじめ多くの有力者が高野山に霊屋、墓碑、供養塔などを 建立するようになった。全長2kmにわたる高野山の奥の院の参道沿いには今も無数の石塔が立ち並び、その中には著名人の墓碑や供養塔も多い。
主殿 金堂
根本大塔 不動堂(国宝)
西塔(重文) 東塔
御影堂 三昧院(重文)
奥の院への道 織田信長
豊臣家 伊達家 前田家 ここから進む |
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