このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

常陸三宮「吉田神社」

 漢方薬を調剤してくれている友人の薬局を訪ねた帰り、近くの吉田神社に立ち寄りました。何回もそばを通っているのですが、中々行く機会がなかったのです。

常陸の国では、一宮「鹿島神宮」二宮「静神社」三宮がここ「吉田神社」です。

関東平野は、古くから渡来した人達が、稲作を広め、蝦夷と戦いながら勢力を広め、大和朝廷兵站基地としての役割を果たすようになります。 従って、神社もその起源は古いものが多いのです。

また、県北は、水戸藩が寺社政策として、密教系は権現として統合、平地の寺社は、鹿島、吉田などの神社の末社として纏めてきたことや、廃仏毀釈の厳しかった方でもあり、よりは神社のほうが多い感じです。

 吉田神社は、水戸城、千波湖の南側の朝日山と言う丘の上にあります。

日本武尊蝦夷征伐の帰路、兵を休めた所といわれ、ここからの見晴らしは、茨城百景にもなっているのですが、最近は水戸の駅南の開発で、景色もすっかり変わってしまったようです。

 朝日山の西側の参道から90段ほどの石段を登った所に社があります。

西参道からの拝殿

正面から入ると、やはり石段を登って、随神門、拝殿、本殿です。

  

二の鳥居から随神門へ                              随神門

  

拝殿                                    本殿

日本武尊が休んだ場所と言うのもありました。

この辺りに日本武尊が

周辺の宅地化が進んでいる為、神域はさほど大きくなく、町の中の中くらいの神社といった感じを受けました。

しかし、町内の信仰は厚く、神輿渡御などの神事も行われています。(写真は今年の節分

今年の節分

途中に、朝日山の由来を書いた石碑があり,Wikopediaなどの記事とあわせて乗せて見ます。


創建の年紀は、5世紀末頃とも言われますが、詳らかではない。 
日本武尊が東夷平定の帰途、ここ朝日山で兵を休めたとの故事から、この地に神社を創建しを奉祀したといいます。
休憩の場所は三角山と称し境内見晴台の一角を占め、神聖な処として伝え残されています。


 後に後鳥羽天皇は建久4(1193)国司に勅して社殿を改造して遷宮式を行い、これより後は鹿島神宮の遷宮についで当社の遷宮が行われました。

亀山天皇は弘長元年(1261)、当社の神位を従一位より正一位に進め、後陽成天皇の父、誠仁親王は天正4(1576)第三宮の三字を大宮司田所清恒に賜り当社の扁額とされました。

更に後光明天皇の慶安元年(1648)には、徳川家光「吉田宮印」の朱印を下され、徳川頼房が水戸に封ぜらると日本武尊の功績を慕い、徳川光圀の尊崇も敦く、本殿(神明造)拝殿・神殿・神楽殿・宝蔵・階・玉垣等を造営し、八乙女・神楽男五人を置き盛大な斎祀を行ないました。

  現在も毎年10月中旬の金・土・日曜には、旧下市周辺を挙げて盛んな神輿渡御の神事が行なわれ、細谷町舟渡の那珂川岸に渡御しています。


日本武尊朝日山に休んだ折、舟を藤蔓でつないでこの朝日山に登られたと伝えられ、今に存する藤柄町の町名はこれより出たものと言われています。

  現在、三角山のある一角は、見晴台と呼ばれ茨城百景の一つで、優れた勝地と称えられています。この高地に立てば水戸市下市を眼下に収め、近くはひたちなか市、遠くは阿武隈山脈まで展望できます。


















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください