このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
諏訪梅林と水穴
日立に高鈴ゴルフカントリーと言うゴルフ場が山の上にある。先週の土曜日、国分高鈴会ゴルフがあり、参加することにした。
このゴルフ会は、小生が現役の頃、と言っても昭和の終わりの頃、関係者が集まって始めたもので、すでに153回になっている。最初の頃は、回数も多く、平成5年5月5日の第50回には、優勝した。100回を、平成10年10月10日と決めたが、諸般の事情で10年末位になりそこからの50回が長く、平成20年にようやく150回となった。
前置きが長くなりましたが、このゴルフ場へは、諏訪と言う所を通って、曲がりくねった山道を登っていきます。その途中まで、鮎川と言う川があり、諏訪梅林があります。今回行った時に、梅がかなり咲いているので、早めに行ってみました。
昨年は3月中旬でもまだ、少し早い位でした。
諏訪と言う地名は、ここにある諏訪神社と関係があります。
この神社は、建久2年(1250年)に信州諏訪大社から来た藤原高利が諏訪大社の神を招聘して建立したと言われ、これが現在の地名の元となっています。
高利夫妻は、神官として神に仕えて、自分達の木像を残し、後で出てくる諏訪の水穴の中に入りでてこなかったとか言われています。
諏訪神社参道 諏訪神社
木像万年太夫夫婦坐像(手前が胎内像)
後に、水戸徳川藩になり、義公、徳川光圀がここに来て、諏訪神社にあったこの木像が朽ちているのを見て、これを保護する為、イチイの木の木像を作り、これに胎内像として収めて保護しました。現在は、日立市歴史博物館に、常設展示されています。
ここから鮎川を渡って上流に数100m行くと諏訪梅林です。この梅林は、後の烈公、徳川斉昭が天保年間、領内巡視の折、諏訪村の村民に梅を持ち寄らせて造園したと言われています。
そして、烈公手植えの梅が有りますが、どうも樹勢が弱く、花を殆どつけていません。梅の本数は300本弱の小さな梅園です。
明治になって長塚節が、泉が森やここを訪ね、歌を残したりしており、その記念碑が建っています。
今の季節、休日でもないと訪れる人はあまりいません。鮎川の上流側、高い所を常磐道が通っています。そして、梅と同時に杉もーー花粉の季節です。
諏訪梅林 満開の梅の花(全体はまだら)
向こうに常磐道が
鮎川の川辺の梅 烈公手植えの梅(どうも樹勢がーー)
雪降りて
寒くはあれど
梅の花
散らまく惜しみ
出でて来にけり
長塚節の歌碑
更に上流に行くと、川は二つに分かれ、本流の途中に、諏訪の水穴があります。
支流側の山道を行くと、昔ながらのたたずまいの人家があり、その向こうに、日立セメントの石材採取のケーブルが走っているのが見えます。ここから、段々畑の横の道を下っていくと本流側に戻ります。
ここは、光圀も訪れ、中の方は危険なのであまり入るなと言ったとも言われ、今も中に入ることは禁じられています。戦後しばらく、砂防堤を造って埋もれていたのを復元したものです。
山間の道——前方にケーブルが(中央)
諏訪の水穴
水穴の全景
この一帯は、石灰岩系の岩石で山が出来ており、江戸時代から美しい「寒水石」として珍重され水戸藩の御用石となっていたと言う。水穴から少し上流側には採石場もある。今ではここよりも、常陸太田市の採掘場の方が規模が大きいようである。
採石場と寒水石(これは完全なものではない)
ここの梅は、山間部で華やかさも無く、観光地と言うにはいささか寂しいが、歴史を紐解くと色々と面白いこともあるところである。
「追記」 寒水石の由来
源頼義が子の義家を連れて、蝦夷征伐に向かった時、真弓山辺りまで来た時、義家が15歳となり、旧暦の水無月に元服した。武運長久を祈っていると炎天が一転して雪になり、瞬く間に降り積もった。これはわが願いを神がかなえてくれたと兵馬を励まして進と、馬が踏み固めた雪がまばゆいばかりの白い寒水石になったと言う。
真弓とは、義家が祈願して弓を納めたことに起因するとか。
「浜辺にて」
梅林の横を流れる鮎川が海に注ぐ辺りの海岸には、寒水石の破片が流れ出し、波に洗われてきれいな形に磨耗したものがあります。
なんとなくおくりびとにでてくる石ぶみの石を思わせるものがあり、散歩の時に拾ってきました。
子供の頃、那珂川の河原で綺麗な石を拾ったことを思い出しながらーー
波に洗われた寒水石
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