このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

(常陸国住人より) 四国88箇所遍路歩き遍路の記載にあたって

 丸山さん四国88箇所歩き遍路は、丸山さんの純粋な気持ちを書き表した尊いものです。

この記述を記載するにあたって、読者の皆さんに、少し遍路の旅を知ってもらいたいと思い、あえて、幾つかの注釈をしていくつもりです。

ここでは、遍路の始まり、内情を簡単に書きます。

また。丸山さんの記述にはでてこない、各札所()の由来、写真などをWikipediaなどを参考に、各回ごとに「常陸国住人より」として別に書いていきますので参照してください。

札所番号(Wikipedia)

寺伝その他の言い伝えでは空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)に四国霊場を開き、札所と札所番号を定めたことになっているが、これは史実ではない。四国は奈良時代から山岳信仰(後の修験道)の修行地で、空海も渡唐前には、故郷でもある四国で修行をした。

唐から戻って後、特定の八十八箇寺を札所として定めたことはなく、後の人々が空海ゆかりの寺々を霊場に定めたものと推定される。実在の人物としての空海は、弘仁年間には都で密教の普及に努めていた。

住人注記:各地の寺の縁起などを集めると、空海は、同時に色々な所にいたことになってしまう)

江戸時代に庶民による霊場巡礼が盛んになると、四国を修行した僧などが案内書を出版するようになる。そのうちの一人が大坂で四国邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)を出版した真念であり、この真念がはじめて八十八箇所を特定し札所番号を定めた。当時大坂から四国へ渡るには淡路島を経由し鳴門から四国入りするのが一般的であったので、鳴門撫養(むや)の港に最も近い霊山寺第一番札所と定めたと推測される。

 

土佐藩の遍路制限

 

 土佐の国には、88箇所の札所も少なく、そのため、その間の距離も長いのですが、それは、藩の事情も大きな要素でした。

瀬戸内海に面しておらず、平野も少ない土佐藩は、藩の財政が厳しく、農民の藩外への移動を禁じ、藩外からの人の出入りも制限しています。

このため、遍路の人からは 「土佐は鬼国」 などとも言われ、財力の無い遍路は、「三国巡り」と言って土佐を除いて(外から遥拝)遍路の旅をしたようです。

詳しくは、 「土佐は鬼国」 をクリック

 

遍路ころがし

 丸山さんの記述にもある様に、遍路道の難所を遍路ころがしと言います。

本来の修験道の修行の場は、もっと厳しい山岳です。九州の阿蘇から下北の恐山まで、江戸時代には、全国の山岳に修験道の修行場と寺があったのです。そこは神仏習合、渾然一体の世界でした。しかし、明治の神仏分離、廃仏毀釈により、寺なども破壊され、神社に変ったり、寺宝も流出するなど、この世界は崩壊してしまいました。

遍路ころがしというのも、修験道の一端を一般人が経験するといった意味がある難所でしょう。熊野古道などは、さらに古い参拝道ですが良く似た道の佇まいです。

 

 

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