このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 西山荘の梅

 常陸太田市の少し先に水府ゴルフクラブというゴルフ場があり、ここでも、昔の工場の仲間が国分水府会というゴルフの会を毎月やっている。今回は、久しぶりに天気も良く、早く始まると言うことなので終ったら、西山荘の梅を見ようと考えた。

 常陸太田市の中心地は、佐竹氏の本拠地であり、山城です。ここの南側に源氏川という川があり、その南側の谷あいに西山荘があります。

佐竹氏は、関が原の戦いで奇数を明確にしなかったためもあり、当主の佐竹義宣は秋田への移封され、故郷に帰ることも無く、秋田に移って行った。

 家臣も、地元に残ったものも多く、武田信吉(家康の子)が武田家を始めたが、早世して水戸家になったなど混乱があり、この地方の治世には苦労したものと思われます。

 徳川光圀は、1691年に隠居し、この地の西山荘(西山御殿)で73歳で死去するまでの10年間を大日本史の編纂や、地元の農民他との交流で過ごしました。

 その後、西山荘は大切に残されてきましたが、1817年に野火で焼失してしまいました。

現在の西山荘は、1819年に再建され、西山守護と呼ばれる武士が後ろに立てられた別棟の居住していました。

 西山荘に至る谷あいは、昔は、光圀が耕したという田などがあり、昭和になって開墾などもされましたが、今は整備されて梅などが植えられて、公園風になっています。

     

西山荘への道(1)                             西山荘への道(2)

           

                              西山荘の手前の助さんの住居跡

  (助さんは、招かれて部下となり、全国から大日本史の資料など集めた学者なのだ)

       

              西山荘の裏門(櫟門)                        西山荘の表門(突上ご門)

                                               光圀が考案したと言う。昔の家の窓がこんな風でした)

              

                 心字の池                              正面から見た西山荘

           

             横の紅梅                                    前の白梅

 

                                   西山荘全景

中に入ると、光圀が通ったと言うお成り道に沿って池があり、そのさきの斜面から正門(突上ご門)へと通じます。門に入らず先に進むと、観月山という丘がありここで月見をしたとか。

戻って、中に入ると、玄関などは簡素で、昔の田舎の家などと同じ様なもの。 全体的にこじんまりしていますが、当初は今の数倍の広さだったそうです。

梅以外にも色々な木が植えてあり、それぞれに由来があります。今年の梅は時期も良く、綺麗でした。

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