このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

海外旅行記(中米その3

6.コスタリカ

コスタリカの首都は人口約170万人のサン・ホセである。コスタは「豊か」、リカは「海岸」の意味である。
コスタリカは軍隊をもたない国で、1982年に大統領は永世中立宣言を行い、1987年には時の大統領アリアスがノーベル平和賞を授与されている。

この国は自然公園、自然保護区が多く、エコツアーのブームにのって来る観光客が多い。サン・ホセは標高1150mの高原にあり、この付近ではコーヒーとタバコの栽培が盛んである。ここのコーヒーは有名で安くて旨い。

6.1 サン・ホセ

サン・ホセにはパリーのオペラ座を真似して1890〜1897年に建造された素晴らしく華麗な国立劇場があり、有名である。この劇場は「コスタリカで革命が起きないのは国立劇場の窓を壊したくないからだ」と云われるほど町の人に愛されている。

こうした劇場はコーヒーの税金で造られたという。これからもコーヒーの生産量が如何に多いか想像がつくであろう。公演が無い場合は内部を見学させてくれる。勿論有料である。実際、素晴らしい劇場である。

これははその舞台を正面から撮ったもので、客席は正面と舞台を円形に囲んだ1〜3階からなりたっている。
かなり昔、パリのオペラ座に行ったことがあるが、確かにパリのものより規模は小さいものの豪華絢爛さは変わらないように見受けられた。

写真は休憩ロビーの壁にあるコーヒーを摘み取っている絵で、この絵が5コスタリカ・コロン紙幣の裏の文様になっている。

5コスタリカ・コロンは約100円位であろうか。この紙幣を劇場の前でおじさんが1ドルで売っているのが面白い。
勿論、新品の紙幣で、使用できる

これは休憩ロビーの天井のフレスコ画で、この絵が劇場で最も見応えのあるものだと云う。実際、素晴らしく綺麗な絵である。

6.2 モンテベルデ自然保護区

ここは国立公園ではなく、民間団体で管理運営されている自然保護区である。
もとはクエーカー教徒が理想郷として住み着いた所である。標高1,800m位の高地にあって、完全な熱帯雨林のジャングルである。

勿論、見学ルートは確保されているが、当日は小雨と霧の中を散策する状態であった。珍しい鳥が沢山いると聞いており、誰しも期待していた。2時間ほど歩き廻っただろうか。
しかし、期待していた珍鳥ケッツアールにお目にかかれず、400種類生息していると云う鳥には鳴き声だけで、殆どでくわすことはなかった。

一方、熱帯雨林の中は寄生植物が多く、写真はその1例である。

熱帯雨林内は凄く暑く、湿度100%、小雨が降っていたが、汗で雨具の内側の衣服内部から濡れていった。
こんな状態なので、デジカメの使用は止め、それよりはるかに性能の劣る防水カメラを使用した。

 しかも、暗く、小雨と霧で見通しが悪く、それに、ここまで舗装していない道路を長時間バスで揺られて登ってきた所だけに散々であった。とんだ森林浴を経験した。

但し、保護地区の入り口にハチドリを保護している所があって、ここでハチドリを見学させてもらった。ハチドリを目の前で見るのは初めてなので十分堪能した。体長は15cm位であっただろうか。


雨が降っている暗い中でホバリングしているハチドリを撮影。

 

7. パナマ

パナマとは「豊富な所」いう意味である。中米を南西に南下して中米最後の南の国がパナマである。直ぐ西はコロンビアである。15、6世紀頃、ここに住んでいたクエーカー教徒が「豊富な所」を「パナマ」と呼んでいたのが国名になったとか。

1513年、スペインのバルボアが侵入して来て大西洋側から太平洋側に横断して出たことにより、パナマはスペインの中南米植民地政策の重要拠点になった。

インカ帝国を滅ぼした悪名高いピサロもここを拠点にして活動していた。メキシコを侵略し、略奪したこれも悪名高いスペイン人・コルテスもパナマを度々訪れて、スペインの新人侵略者に侵略の仕方を指導している。これは本当の話である。

また、パナマは中南米で略奪した金を大西洋側に運ぶルートにもなっており、金は全てインゴットにして母国スペインに送られていた。

7.1 パナマシテイ—

パナマの首都はご存じのようにパナマシテイ−である。パナマシテイ—は人口300万人、16世紀の南米植民地政策の拠点になった所である。

パナマ運河はフランス人レセップスにより1914年に完成されたが、途中でアメリカが利権を買い取っている。この利権は1999年まで続き、その間、パナマ運河付近一帯はアメリカの治外法権になっていた。

さて、パナマの町には片道2車線で1962年に完成したアメリカ橋を西から東に渡って入った。この橋は全長1,800m、海面からの高さ301mで、橋を海上から撮ったのが写真である。橋の奥に小さく見えるのがパナマ運河である。

パナマシテイ—は新市街と、旧市街の歴史地区であるカスコ・ビエホに分けられる。

後者は新市街の中心地から南東へ6km程行った所の狭い範囲を占めている。この他に、新市街の北東部に1519年に最初に造られた町パナマ・ビエホがあるが、ここは当時イギリス海軍に徹底的に破壊されて廃墟となり、今は遺跡として残されている。

これはその一部を撮影したものである。右の塔は教会の鐘楼跡である。鐘楼には登ることが出来、そこからの景色は素晴らしい。

これは、そこから新市街方面を写したものである。折からの夕立雲の襲来と合い重なって、不気味な新市街の景色になっている。

旧市街を散策中、フランス広場の海岸端でクナ族の伝統衣装である色彩鮮やかな織物が売られているのに出会った。この織物はモラと呼ばれている。


この写真を撮るのには苦労した。クナ族は写真を撮られるのが嫌いでどうしても撮らしてくれない。仕方がないから遠くから望遠レンズでチャンスを見つけて撮影した。
 最も、添乗員から前もってくナ族の人の写真は撮らないようにと云われていた。そう云われると余計撮ってみたくなる。

自動車のナンバープレートまで売っている。こんなものを買う人がいるのだろうか。

7.2 パナマ運河

パナマ運河は全長約80kmで、6つの閘門(こうもん・水面を一定にするための水量調整用堰)と三つの人造湖を結んで造られている。
通過できる船の許容サイズは幅32m、長さ294mである。通行料金は船の大きさによって異なるが、平均で一艘に当たり54,000ドル(約500万円)と云う。

因みに泳いで渡ると36セントと云う。料金が設定されていると云うことは、泳いで渡る酔狂な人がいるのだろうか。それともジョークか。

 船は運河をどのようにして抜けるのだろうか。まず、閘門と称する所で、ここに船が入っていく。船が先端まで行くと後ろの扉は閉まり水が注入される。水の注入速度は速く、8〜10mの水位差を5分程度で上げ下げする。この速度の速さには驚いた。

 

         閘門に入る                       水位が上がって先方の閘門が開く

 説明書によると、水の注入、排出は閘門の底から行い、そこには水を出し入れする穴が沢山ある。これによって閘門の中の水の出し入れの速度を上げているのだろう。水面上は波が立たず、穏やかである。良く考えたものだ。

 所定の水位になると、前の扉が開き船は前に進み、次の閘門で同じことを繰り返す。

 運河に入る船は多いので、第一の閘門に入るまでの待ち時間が長く、何日も順番待ちしなければならない場合があると云う。
閘門に入ってしまうと運河を通過する時間は意外と短い。

 私の乗った船は、3つの閘門を経由して1時間位で最高地点のガトゥン湖に到達した。我々はここで下船した。大西洋に抜けるにはここから更に3つの閘門を通って下らねばならない。



最初の閘門に入るまでの待機時に、船の周りは沢山のカモメに取り囲まれた。

これははホバリングしているカモメを偶然見つけ、慌ててシャッターボタン押して撮影したものである。

咄嗟に写した割には意外に良く映っていた。









 

余談

1)旅行社のツアーで旅行するようになってもう長くなる。その際、私はお酒が好きなので必ずと言って良いほど酒飲みの仲間が出来る。これは大変楽しいもので、お酒の好きな人の特権でもあろう。

飲み仲間(左:筆者)

 これはその酒飲み仲間である。ホテルでの夕食の後、何処かで2次会をしようと云うことになり、好き仲間を語らってホテルの喫茶店でお酒を楽しんでいるところである。
この中で池田さん(一番奥にいる人)は中央アジア旅行でも一緒になった人である。
また、この写真には映っていないが、添乗員の方もパタゴニア旅行、中央アジア旅行、それに中米旅行と3度もお世話になった。
こうした偶然も、また面白い。

2)中米は世情不安定の所が少なくない。今は正常を保っているものの、20世紀末まで反乱、戦争、革命等が勃発していた。

そういう理由なのであろう、人家のない、マークされている場所を長時間走る時は2人の自動小銃をもったガードマンがジープに乗って同道してくれた。こちらではガードマンが自動小銃をもっているのだろうか。


これは、そのガードマンとジープの前で撮った写真である。ガードマンは人懐こく、日本ではこんな写真は撮れない。

3)一般に、我々は西洋文明の遺跡、例えばギリシャ遺跡、ローマ遺跡などに接することは多い。

しかし、ティカルやコパンのような西洋文明とは隔離された所で独自に発展し、高度な文明を持っていたマヤ民族のような遺跡を見ることは少ない。また、南米のインカ民族の遺跡についても同様である。こうした文明の遺跡は是非見ておきたいものである。

4)中米を旅して、スペイン系の血の入った人達は陽気で、我々外国人に対しても人懐こい。

しかし、古来の現地人であるマヤ系の人達は必ずしもそうでない場合を感じる。植民地時代からスペイン人に迫害されていたので、外国人に対して不信感をもっているのであろうか。また、マヤ人の生活は楽でなさそうだ。

実際、我々のツアーのガイドをしてくれたマリオさんは純粋のマヤ人で、「我々マヤ人は良い職業につきにくい、特に官公庁の職は困難である。」と云ってぼやいていた。因みに、マリオさんのようなガイドはマヤ人としては高級な職業のようだ。

5)中米での職種は白人、白人の混血、白人と現地人との混血、純粋現地人によって差別され、白人が最も良い職業に就き、以下職業のレベルは上記の順に下がっていくようだ。

教育の機会均等も十分に行われていないらしい。中米ではもう純粋なマヤ人は少なくなっている。白人との混血が圧倒的に多い。しかし、コスタリカだけはスペイン系を主とする白人とその混血が圧倒的に多く、マヤ人は少なく、マヤ人との混血も非常に少ない。

6)北米、中米、南米全てで現地人は苦労している。植民地化された民族の宿命的な悲哀であろうか。インド、パキスタンも植民地支配者が退散したとはいえ似たようなことが云える。

インドはイギリス人から血の一滴まで吸い取られたと云われている。これについては機会が有った時に述べたい。中東ではかっての植民者は排除されているが、それでも欧米諸国の影響を大きく受けている。一方、イラン一国だけが往年のペルシャを念頭に置いて、1951年の石油国有化以来頑張っている。

7)16世紀にスペイン人が侵入して来て現地人は奴隷化され、スペインの植民地政策の労働力になった。これによって、中米はスペイン化されたものの、19,20世紀に入って内乱、独立運動などと騒乱が絶えず、現在も安定した国とは言えない。生活も豊かではない。

生活レベルの高いのはスペイン系の純粋白人である。また、絶えずアメリカの影響を受けている国
である。中米全ての国でアメリカドルがそのまま流通するくらいである。可哀そうな国々と言えよう。

8)教会の写真も沢山撮り興味ある写真もあったが、今回は全て割愛した。

 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください