このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日立電鉄線
消え行くローカル線(その1)
我々がまだ、高校生であった昭和20年代の終わりには、水戸には市電が走り、幾つかのローカル線が有った。それらが姿を消してから数十年の歳月が過ぎ、再び、ローカル線が姿を消し始めた。そして唯一、勝田—阿字ヶ浦を結ぶ茨城交通港線が経営が変わって生き延びている。
日立の鮎川と常陸太田を結ぶ日立電鉄線は全国に先駆けてワンマン電車を走らせたり、納涼にビールを飲ませるビア電、宴会に貸しきる呑電号などの客集めもやってきたが、経営は年とともに悪化し、平成17年4月1日に廃線となり77年の歴史に幕を下ろした。
会社に入り、水木に家を建ててから家から会社まで20年以上も乗ってきた電車、家の横の高い線路道を時計代わりに走っていた電車が無くなってしまったのである。
無くなる前年の秋、女房と最後の乗車をして別れを惜しんだ。
日立電鉄線
会社の傍の桜川駅は、関東の駅100選にも選ばれた所で、名前の如く、桜が美しく、使っている資材も古い線路などで中々、よい駅であったが今は何も残っておらず、わずかに桜がその面影を残すのみである。
桜川駅 今は何もない
ここを走る電車は、平成3年ごろまでは、モハ10とかモハ14とか言うもので、旧型でJRなどから購入して使用していた。木製の車体で、最盛期には4両編成、朝夕のラッシュ時には、扇風機だけの車内は窓を開けても大変蒸し暑かった。
その後。地下鉄銀座線などの車両を購入して改造して使用していた。旧型車両は鉄道ファンがよく写真を取りに来ていたものである。
モハ形電車 2000型電車(地下鉄をパンタグラフに改造)
Wikipediaによると、これより単位客数が少ない路線は全国に数多くあるというが、なぜ廃線になったのだろうか。
第一は、電鉄であるが故の悩みであろう。すなわち、電気設備が老朽化し、更新に大きな費用がかかることである
第二は、日立と常陸太田という町を結ぶ政治的な力がこの数十年間希薄であったということであろう。日立—塚原俊平
常陸太田—梶山静六という茨城2区の二人の政治家が選挙区を区分けしており、両者とも、水戸−東京方面を見ていた。
道路もまた、水戸への道は整備されたが、両市を結ぶルートはきわめて貧弱である。
住宅も常磐線沿線の東海、ひたちなかなどに造られて来た。それは、地図で分かるように、北側は山地、南側は水田と川と言う地形によるものである。
そんなことを思いつつ、水木駅から久慈浜駅、そして常陸太田駅へと乗ったのである。
帰りの電車には、高校生が大勢乗り込んできて、これでも廃止なのかとも思ったものであった。
久慈浜駅構内 常陸太田への電車車内
途中駅 色づき始めた稲田の中を走る
常陸太田駅
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