このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
日暮里周辺 散策・・・その2(谷中霊園)
日暮里駅前ロータリーから南口改札に向う急な階段の下には 不思議と何時も派手なおねえちゃんが看板を持って立っている。
改札前には 北側同様バルコニーがあるがこちらは数少ない喫煙所で 愛煙家が至福の時を過して立ち去って行く。 それにしても今や愛煙家も惨めな事で 椅子も無ければ日除けの屋根も無い。その上大幅値上げでは 彼らが「ネ」を上げたいだろう。 北側改札出口は先にご案内した下御隠殿橋で 御殿坂に通じるが 南側改札出口は紅葉橋と言い、紅葉坂で谷中に通じる。 兎角日暮里は坂が多く夫々曰くがついているので面白い。 谷中側に進むとその昔 紅葉の名所であったらしい紅葉坂またの名を幸庵坂になる。今は自転車も通れる様に整備されて歩き易くなっている。 坂の上が天王寺。13世紀 日蓮宗 感応寺で創立したが 1698年幕府より 邪宗弾圧を受け天台宗に改宗した。 1833年日蓮宗への帰宗運動が起こったが 「長耀山(チョウヨウザン) 感応寺」から「護国山 天王寺」へ改称した。 目黒不動、湯島天神と共に「江戸の三富」として多いに賑い当時は3万5千坪程の拝領地があった。
天王寺大仏 6面菩薩 本尊は毘沙門天で谷中七福神の一つである。境内には「如来坐像=天王寺大仏」「6面菩薩」などもある。 五重塔は谷中の塔として親しまれ 特に幸田露伴『五重塔』のモデルとしても有名であった。
五重塔礎石 炎上する塔 残った芯柱 彰義隊の兵火、戦災と奇跡的に残ったにも関らず、昭和32年 恋の清算で無理心中の舞台となり 放火され炎上灰燼に帰した。 明治7年寺所の大半を東京府に寄贈(実際は没収)し、共同墓地として開発が進められ昭和10年「谷中霊園」と改められた。 「さくら通り」と称する中央の大通りは 元は天王寺の参道である。 思いつくまま紹介したい。 霊園は都営墓地と寛永寺墓地そして天王寺他の寺院墓地からなり 約3万坪で7千基の墓所がある由。 散策者の我々には道が解り辛く行き止まりになることが多い、各界の有名人の墓所が多い、馴染みの所では徳川慶喜公で訪れる人が多い。
最も解り易い場所に 稀代の悪婦と言われた高橋お伝の墓があり花が絶えない。回向院の鼠小僧の場合と同様 色々とジンクスがあるらしい。
略 さくら通りの反対側には俳優長谷川一夫の墓所がある。 天王寺側に 日立創始者小平浪平・也笑の墓所がある。墓誌を読み改めて知る事が多い。
園内の墓地を売っているが 50㎝×50㎝で158万円というから お墓の形を整える(最低 90㎝×120㎝)には700万円は必要となる。現在の墓所平均を3坪と想定すれば 6千万円位になる計算。 大変な価値である。 周りにもお寺が多くお供え用の花が近くの店の主力商品となっている。
しかし 不思議なもので墓碑を前にすると何かしら心が落着くのは 私だけではないらしく 猫ものんびり墓守。 園内には竹垣が幾つかある。それがお墓と合い落着いている。次は霊園周辺の寺院を紹介したい。
矢来垣
鉄砲垣 大津垣 |
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