このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

ひたちなか海浜鉄道湊線

  消え残った茨城交通湊線

この路線は、高校時代、友人宅に行くのに時々乗ったものでした。この路線は、那珂川の北岸を勝田から那珂湊を経て阿字ヶ浦まで通じています。

 

 ひたちなか海浜鉄道湊線

戦前は、水戸の市内から「水浜線」が那珂川の南岸を通って大洗から那珂湊まで通じていましたが、昭和18年洪水で那珂川の架橋が壊れ、大洗までとなり、小生が高校を卒業した昭和31年には全線が廃止となりました。

 北岸の「湊線」は、夏には阿字ヶ浦への海水浴客でにぎわっていて、常磐線から直通の列車が有ったりもしましたが、今は客が減って経営が困難となり、経営もとの茨城交通から、2008年3月で廃止の話が出ていました。

その間、県知事、ひたちなか市、茨城交通で話し合いが持たれ、市も出資した第三セクター方式で存続が決まり、2008年4月からひたちなか海浜鉄道湊線として運営が始まったのです。今でも、昔と同じ、湊線と地元では呼んでいます。

 晩秋のある日、天気が良いので勝田駅から「湊線」に乗り、二つ目の中根駅で降りました。勝田駅は、常磐線のホームの片側を使用する形となっています。

 

勝田駅

勝田から那珂湊までの一帯は那珂川の北側の台地で那珂川に流れこむ小さな沢が作る谷津あるいは谷地と呼ばれる谷状の土地が指を広げたように食い込んでいます。

弥生時代から古墳時代に掛けて、このような谷津を開墾して稲作を行ってきて、次第に人口も増え、し前方後円墳を作れるような権力者も生まれてきました。

ひとつ手前の金上駅の近くには、長者が谷津という所も在り温泉があり、壁画で有名な虎塚古墳や、横穴墓地埴輪の工房跡もあります。

       

 虎塚古墳と壁画

   

両側が台地のなかね駅                      中根付近でのサツマイモの収穫

 中根駅から台地に上ると、ちょうど、サツマイモの収穫時期です。勝田から東海にかけての「ほしいも」は全国的に有名です。特に、海岸近くの天日干しで作ったものは、潮風がもたらす塩分が隠し味となり絶品と言えるでしょう。(小生の高校同期が引退後作っている丸干しは、品評会で入賞するうまいものです)

 ここから、那珂川に下り、川岸を下っていきます。鮭が遡上する時期で一般の釣り人も多く見られます。

少し下ると、水車場後の碑があります。水戸藩が幕末に攘夷海防のため、那珂湊に反射炉をつくり、そこで作った鉄材をこの動力で削って砲身を作ったところです。

   

 那珂川(北岸から上流を望む)                        水車場跡の碑

 さらに下って245号線を渡り、那珂湊駅につきました。ここには、様々な車両があり、マニアが撮影に来ています。

   

 那珂湊駅(那珂湊市時代、整備されました)                   勝田方面から那珂湊駅へ

 

 様々な気動車

 駅正面の狭い通学路?を上がると湊一高があり、その横に反射炉があります。これは戦前に復元されたものです。

        

反射炉                            登り窯

水戸藩は、定府と言い参勤交代が無く、殿様は江戸にいました。初代光圀と九代斉昭以外、殆ど水戸に来たことがありません。安政の頃、藤田東湖など若手と登用し、斉昭が様々なことをやりました。この一派を天狗党、反対派を諸生党と言い勢力争いは熾烈を極め、いわゆる天狗党の乱を起こし、明治になってからも争っており、天狗党は那珂湊に立てこもり、幕府の援軍が海上から艦砲射撃をしたりして、那珂湊の町は殆どが灰燼に帰してしまいました。

この争いが長く続き、寺社改革などがあった上、寺社も大半が焼き討ちにあっています。

 反射炉も斉昭が造らせたもので、偕楽園、講道館、水戸八景の制定など色々とやったのですが、旧水戸藩には古い文化財は殆ど残っていません。

 反射炉から坂を下ると、華蔵院という寺がありますが、ここも焼き討ちにあっています。

華蔵院本堂

切通しを通って行くと、この先の岡の上に公園があり、ここから那珂川や魚市場で有名な那珂湊漁港を見渡すことが出来ます。昭和30年代までは遠洋漁業なども行われ、那珂川のほとりには、造船所の船台も残っています。

        

昔の風情が残る切通し                  大きな公園(誰も居ない)

 

 那珂湊漁港方面と那珂川(大洗)方面

 那珂湊の町を抜け平磯へ向かいます。


平磯(阿字ヶ浦近く)

平磯を過ぎると、白亜紀の地層が海岸に露出しており、アンモナイトの化石なども見つかっています。そして、水戸藩が海を見張ったと言う観涛所

海の風景が素晴しいと言う比観亭跡などがあります。

 観涛所跡(六角の堂は碑の保護のため) 

        

比観亭跡                               比観亭跡から太平洋を見る

 阿字ヶ浦は海水浴場で有名ですが、温泉地でもあり、以前、国民宿舎であった白亜紀荘で昼食をし、温泉に入りました。しかし、今は海流の関係で砂浜が減ってしまい、問題となっています。

この側に、「酒列(さかつら)磯前神社」があります。ここは延喜式にもある戦前は国幣中社でもあった由緒ある神社で、やぶ椿の参道も花の時期はきれいな所です。

   

  酒列磯前神社(祭神は少彦名命{恵比寿}と大名持命{大黒}

 この先の坂を下ると、阿字ヶ浦の海岸に出ます。

阿字ヶ浦から東海村の境に至る一帯は、以前は、射爆場でしたが変換されて海岸には「ひたちなか港」が作られ、その先は「国営ひたち海浜公園」が作られました。

坂を下らないで少しいくと「湊線」の終着駅阿字ヶ浦です。

 今は、無人駅で切符の自動販売機がありますが「新500円硬貨と新1000円札は使用不能」と書いてありました。新とは何時のことでしょうか?

これも、経営が変わって、新しくなりました。また、駅の向こうの古い気動車も撤去されました。

   

 阿字ヶ浦駅(乗り込んでいる人たちは、海浜公園までピクニックに行った人たちでした) 

 帰りは、全線を乗って帰ってきました。当時は、親会社の茨城交通の経営も大変との事で、数年のうちには廃線になるかもしれないとの事でした。

同じ、交通関係なのですから、自動車税の一部を流用するとか何とか存続する方法が無いのかと考えさせられましたが、幸い、市などの援助もあり、独立して経営が続けられることになりました。ETCの高速料金を1000円にするより、よほど、省エネでもあり地元にも役に立つでしょう。全国にこのような路線が沢山あるのではないでしょうか

 

「後記」 県北のローカル線の昔

高校時代、水戸の町は「市電」が走り、国鉄の他に幾つかの私鉄もありました。

戦前から木材の運搬などに使われていた「茨城鉄道 御前山線」は那珂川の南岸に沿って那珂川の上流の御前山まで走り、水戸の「市電」に接続し、この「市電(茨城交通市浜線)」大洗まで通じていました。

 

水戸の市電(茨城鉄道)水戸駅から泉町方面と大工町(昭和36年頃)

江戸時代から、那珂川は、水戸藩の重要な運搬路で、河口の大洗、那珂湊は、江戸と東北方面とを繋ぐ港として栄えていたのです。(茨城の民謡として有名な磯節は、那珂湊の芸者が歌っていたものです)那珂川には、今でもダムが無く、戦後までいかだを組んで木材を運ぶのをよく見たものでした。(その代わり、洪水が多いのが問題です)

しかし、これらの路線は、昭和40年代までに廃線となってしまいました。

日立から福島浜街道では、日立銅山と町を結ぶ「鉱山鉄道」常磐炭鉱の「運搬鉄道」もなくなり、江名と浜街道結ぶ鉄道(今は「福島臨海鉄道」として小名浜までの貨物線)が残るのみです。

 その後、残っていた「日立電鉄」(日立—常陸太田)が平成17年に廃線、そして、少し、県央になりますが、「鹿島鉄道」(石岡—鉾田)が平成19年3月で廃線となりました。

さらに、この「茨城鉄道湊線」(勝田—那珂湊)も廃線となると言う噂が出ていました。

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