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水戸八景に昔を想う(その1)
水戸八景とは、水戸藩九代藩主徳川斉昭(慶喜の父)が、近江八景とその元となった中国の瀟湘八景になぞらえて水戸藩の中の名勝を選んで、若い藩士の教育の為にここを歩かせて藩の状況などを知らしめようとしたものです。
全部歩くと約90km、一日で歩いた藩士もいたといいますが、渡しも何箇所もあり可能だったのでしょうか。(それでは鍛錬になっても教育にはならない??)
私も水戸藩の藩士になったつもりで、この記事を書きましたが、一回では済まず、途中で休んで2回に分けて書くことになりました。
【八景とは】
八は中国で縁起の良い数字。水墨画が盛んになり始めた北宋の頃に、最初の瀟湘八景図が描かれたそうです。これは、湖南省洞庭湖の付近の名勝を書いたものです。
これが日本に伝わり、水墨画に描かれ和歌などにも詠まれるようになったとのこと。そして、近江八景が日本でも17世紀初めごろ?できたと言われます。(Wikipedia)
その後、金沢八景などが出来ました。これらの八景は浮世絵などにも取り上げられ、広重の近江八景図などは有名です。
水戸八景は斉昭が1830年代に水戸藩主として常陸の地に来て、藩内を回って定めたもので、比較的新しいものです。しかし、それぞれの場所に自然石に名勝の名を刻んだ碑を残しており、場所がはっきりしています。
とは言え、今日では、周辺の開発、耕地整理、環境変化などで、今の景色を見ただけでは昔の姿を偲ぶのは困難でしょう。
子供の頃を過ごした水戸周辺の田舎の風景を思い出し、広重の浮世絵などから、昔の姿を想像してみました。
【八景図の基本と水戸八景】
三つの八景を比較して分かるように、前半は場所、後半は情景で、後半の夜雨から帰帆までの情景は三つの八景で同じです。
各地の八景
近江八景は基本的に、琵琶湖の情景ですが、瀟湘八景はこの地方の異なる情景を描いており、水戸八景はこれに準拠していると言えるでしょう。
斉昭は、八景にちなんだ漢詩を作り、それぞれの和歌も作りました。
漢詩 水戸八景
水戸八景の位置は、図に示すようなもので、常陸大田、水戸という二つの拠点を中心として選ばれています。
水戸八景の位置
当時、藩士達が歩いたルートは、那珂川の渡しを渡って2.柳川夜雨から常陸太田に向かい、久慈川を渡って、3.山寺晩鐘 4.太田落雁と辿り、久慈川をまた越えて7.村松晴嵐(村松虚空蔵尊の傍)を経て、南下して那珂湊の8.水門帰帆を通って、那珂川の渡しを渡って、大洗に出て、5。岩船夕照を通り、涸沼川を渡って6.広浦秋月から水戸に戻って、1.仙湖暮雪に至る道筋です。今日では、道路が発達しており、サイクリングなどで回る人もあるようです。
この順番に昔を偲んで辿ってみます。
【水戸八景の今と昔の想像】
1.柳川夜雨(雨夜更遊青柳頭)
夜雨に小舟くだせば夏陰の
柳を渡る風の涼しさ
ここは那珂川の北岸で、常陸太田への街道の渡船場(柳川の渡し)があった辺りでです。
ここは、今は349号線となっていますが、昔は、棚倉街道と呼ばれ、常陸太田から福島県棚倉に抜ける街道でした。ここの万代橋が老朽化し、水害の被害を受けたりした為、平成7年に新しく片側2車線の斜長橋が作られ、周囲の景観は全く変わってしまいました。
新万代(よろずよ)橋から見た水戸の景色
ここに示した航空写真は、昭和22年の大洪水の時と、平成14年のものです。
この辺りの航空写真(S22とH14)(常陸河川国道事務所HP)
この一帯が、都市化した事が良く分かります。水戸の姿もまた大きく変わりました。
柳の元の青柳夜雨の碑 碑
この橋のたもとに、大きな柳の木があり、その下に青柳夜雨の碑があります。
今のような堤防などが無かった江戸時代、川の様子は下流の堤防の内側から見た写真のような姿であったでしょう。そして、那珂川は、水戸藩の水運の中心で、筆者が子供の頃も筏なども下ってきており、明治時代にも下流の那珂湊との水運は盛んでした。
下流から見た那珂川 洗馬宿の図(広重)
そのような姿は、広重描く木曽街道六十三次洗馬宿の図のようなものであったのでしょう。
同じ広重の近江八景「唐崎夜雨」とはいささか趣が違うようです。こちらは雪舟描くところの瀟湘八景「瀟湘夜雨」の場面と似ているようです。
雪舟の瀟湘八景は連続した巻物で、各名勝が一連の絵となっているものです。以下、これから勝手に切り出して広重と並べてみました。
唐崎夜雨(広重) 瀟湘夜雨(雪舟)
余談ですが、ここから堤防に沿って100mも離れていない所に一軒の家があります。
門柱に「菊池七郎兵衛」とあります。この名前は、水戸光圀の時代から歴代の当主が名乗ってきたものです。菊池家は、光圀から那珂川の鮭漁の元締(網代元)を許され、ここの鑑札がないと鮭を取ることはできません。捕った鮭は、水戸家、江戸幕府、朝廷などの献上物とされてきました。先代の菊池氏は、高校の大先輩でもあり、会社関係でも、色々と世話になりましたが、平成16年、96歳で亡くなられました。この先代の時代まで、水戸家は天皇に鮭を献上していましたが、洪水で設備が流され、先代の時代に鮭漁は辞めたのです。
菊池家の門柱 鮭留漁の様子
2. 山寺晩鐘(山寺晩鐘響幽壑)
つくづくと聞くにつけても山寺の
霜夜の鐘の音ぞ淋しき
棚倉街道を遡り、久慈川の渡しを渡って常陸大田に向かいます。常陸太田は佐竹の600年以上にわたる常陸支配の中心地でした。佐竹の後に入った水戸徳川家もこの地を重視し、光圀も寺社、西山荘(隠居所) 瑞龍山(水戸家墓所)、水道の整備など様々な施策を行っています。
常陸太田周辺は、幾つもの川が久慈川に流れこんでおり、東側の里川と源氏川の間の台地に城と城下町があり、その奥に水戸家の墓所の瑞龍山があります。また、源氏川と渋江川の間の台地には、西山荘、光圀の生母の菩提寺である久昌寺、佐竹寺などがあります。
山寺晩鐘の鐘は、この辺りの寺寺の鐘の音と言われています。この一帯は光圀が植えたとも言われる熊野杉などがあり深い森となっています。
しかし、今の久昌寺は当時のものとは異なります。ここもまた明治の廃仏毀釈で廃寺となり、後に周辺の関連する寺を纏めて今の場所に造られたものです。光圀は、寺の付帯設備として三昧堂談林という学校を造り、学僧を育成したと言います。この学校のあった所に山寺晩鐘の碑があります。
今は、画家の雪村の碑などと共に、碑のみが残っています。
久昌寺があった辺り 森に中の雪村の碑
山寺晩鐘の碑
ちなみに近江八景(広重)と瀟湘八景(雪舟)は次のようなものです。
三井晩鐘(広重) 烟寺晩鐘(雪舟)
3.太田落雁(太田落雁渡芳洲)
さして行く越路の雁の越えかねて
太田の面にしばしやすらう
源氏川を渡って、東の台地に登り、太田城のあった辺りを東に進み、南北に通る昔ながらの狭い道を渡るとそのさきの狭い道の先に太田落雁の碑があります。
碑から見た風景は、離れて神峰、高鈴の山々があり、下には、里川が流れ、豊かな田園地帯が広がっています。というのは、昔の話で、今は349号線(棚倉街道)が拡幅されて川沿いにあり住宅地と商業地となっています。車社会では常陸太田の町は、道路が狭く機能しないのです。
この高台からみた、雁が飛んでくる秋も終わりの頃の水が残っている水田と里川の風景は、まさに水墨画の世界であったでしょう。雁の群れは多くの画題となっていますが今はあまり見かけないですね。
しかし、今はここから見て昔を偲ぶしかありません。
太田落雁の碑 ここから見た風景
堅田落雁(広重) 平沙落雁(雪舟)
こちらの方が太田落雁の近いかも
さて、常陸太田で少し休んで、(その2)では東海から那珂湊方面に向かいます。
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