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水戸八景に昔を思う(その2)
昔の藩士も常陸太田で一休みして、黄門様の隠居所や墓所などにも詣でて、一泊しそこから次の地点に向かったのではないでしょうか。
常陸太田からの道は、殆どが平坦で歩きやすかったでしょう。
1.村松晴嵐(遥望村松晴嵐後)
真砂地に雪の波かと見るまでに
塩霧晴れて吹く嵐かな
常陸太田を出て、久慈川を渡り、国道6号の二軒茶屋の十字路辺りを過ぎて、東海村の村松虚空蔵尊に向かいます。ここは昔から十三詣りで有名で日本三大虚空蔵尊の一つです。
その後ろの松林の高台に村松晴嵐の碑があります。
この碑の位置から、当時海が見えたかどうかは、分かりません。虚空蔵尊の三重塔も先端のみが見えるだけです。周囲は原研や虚空蔵尊の松林で、波や市を渡る風の音が聞こえるのみです。
もしかするともう少し見晴らしが良かったかもしれません。江戸時代まで、このあたりから平磯あたりまでの海岸では、製塩が行われていました。塩は棚倉街道などを通して、福島県などの売られていたのです。製塩の燃料として海岸の松などが使われていたようです。
松林も一部を除いて今よりも背が低かったかもしれません。また、原子力発電所の辺りも砂浜であったのでしょう。
虚空蔵尊の三重塔
村松晴嵐の碑
粟津晴嵐(広重) 山市晴嵐(雪舟)
5.水門帰帆(水門帰帆映高楼)
雲のさかいしられぬ沖に真帆上げて
みなとの方によするつり舟
東海を南に下り、二軒茶屋辺りから、十三奉行を経て、平磯、那珂湊と進みます。十三奉行とは、いかにも古そうな地名ですが、真偽のほどは不明ですが、源義家の奥州征伐の際、この辺の豪族13人が彼を供応したが、実は蝦夷と通じていたと言うので帰路、彼らを征伐して首塚を作ったとかーー奉行とはもてなしをする人という意味も有りますね。
平磯の先から那珂湊、大洗の一体の海岸は、昔の面影は殆どないと言ってよいでしょう。
平磯と那珂湊の間には姥の懐(うばのふところ)という平坦な海岸があって、海水浴場にもなっていました。この地名も元は蝦夷の言葉だと言われています。他にも色々な蝦夷に起因する地名があり、海からの渡来民がそれを鎮める為の神社がこちら側の酒列磯前神社、対岸の大洗酒列神社だったのでしょう。
那珂湊や大洗の一体は、港湾整理などで海岸線は全く変わっています。那珂川の河口付近にわずかに昔の姿が残っていると言えるでしょうか。しかし、この河口部分も砂の流出などで江戸時代からかなり変化しているようです。
水門帰帆の碑 碑から見た那珂湊海岸方向
戦前の水門帰帆の辺り
矢橋帰帆(広重) 遠浦帰帆(雪舟)
6.岩船夕照(花光爛漫巌船夕)
筑波山あなたはくれて岩船に
日影ぞ残る岸のもみじ葉
那珂湊の町に入り、那珂川の渡しを渡って、大洗に入ります。那珂川に沿って少し登ると岩船山で願入寺が有ります。ここは浄土真宗の寺で、光圀が寄進して建てたともいわれ、光圀公手植えの銀杏などもあります。その裏に進み、少し坂を下りると岩船夕照の碑があります。
ここから見ると目の前は涸沼川と那珂川の合流点で、夕日が涸沼川側から差し、那珂川の対岸辺りが夕映えで綺麗に見えたでしょう。今は、目の前の木が邪魔をしている上に、小さな造船所などもあり、昔を想像するしかありません。
岩船夕照の碑 碑から見た合流点
瀬田夕照(広重) 漁村夕照(雪舟)
7.広浦秋月(月色玲瓏広浦秋)
大空の影を映して広浦の
波間をわたる月ぞさやけき
ここから、大洗方面に進み、北に曲がって涸沼川の渡しを渡り、湖畔に沿って進むと広浦です。ここの湖畔は、砂利で太平洋の潮の満ち干も少しはあるのでしょう。涸沼は汽水湖で、魚も豊富で、縄文の昔から多くの遺跡があります。ダイダラボウという巨人が食べた後の貝殻だという貝塚など、この巨人の話がいくつも残っています。ダイダラボーという名前ではいわきにも伝説があるようです。
これらの遺跡は、温暖期の縄文遺跡で、広浦よりはかなり高い台地に有ります。
ダイダラボウの像
広浦は湖に向かい左手に大洗方面、右手に鉾田方面の湖面が見え、右手の湖面の先には筑波山が見えます。
秋月と言うことで湖面を照らす月を見る必要があるのでしょうが、残念ながら昼の写真しかありません。
左手に見える広浦秋月の碑 右手の向こうには筑波山が見える
広浦秋月の碑
石山秋月(広重) 洞庭秋月(雪舟)
8.仙湖暮雪(雪時嘗賞仙湖景)
千重の波よりてはつづく山々を
こすかとぞみる雪の夕ぐれ
ここから、北上して水戸に向かいます。水戸は元は江戸氏が支配し、佐竹がこれを滅ぼし、居城を移して幾らも経たない内に秋田に移封され、武田家を経て、水戸徳川家になった所です。那珂川と千波湖に挟まれた台地の上に城があります。城跡は、弘道館を除くと旧県庁、学校などとなっています。本丸跡は水戸一高です。
水戸藩初代藩主徳川頼房の時代、灌漑用水と桜川(千波湖から那珂川へ通じる)や千波湖の洪水防止のために、伊奈備前守忠次(ただつぐ)に命じ備前堀と言う用水堀が造られ、ここを渡って偕楽園側に出ます。
偕楽園は、九代藩主の徳川斉昭が作った庭園で、日本三大名園の一つと言われますが、常磐線が千波湖との間を貫通したり、色々な改修が行われ、庭園部分と再建された好文亭の辺りが昔の面影を残しています。
漢詩にある様に寒い冬にあえて、景色を楽しむというので、雪景色の写真を捜して見ました。
仙湖暮雪の碑の辺り 仙湖暮雪の碑
碑の辺りから見た千波湖 戦前の同じ辺り
好文亭から見た雪の千波湖
比良暮雪(広重) 江天暮雪(雪舟)
これで、水戸八景を回りました。今と昔、全く違って居る所も多いのですが何とかその姿を想像してみました。しかし、戦後の変化はあまりにも大きく、昔の姿が消えてしまったところも多いのです
ネットなどで調べて流用させてもらったものもあります。出典は出来るだけ明確にしました。
(近江八景はWIkipedia、好文亭の雪景色、元のURLが分からなくなってしまいました。営利目的で無いのでご容赦)
偕楽園など有名な所ですと、県立図書館の新聞などを調べていくとかなりの事が分かりますが、きりが無いので、そこそこの所で止めました。
「後記」 八景図
瀟湘八景図は北宋時代に始めて描かれたといいますが、雪舟の八景は、全体が一連の巻物となっていて、上記の図はそれを適当に切り取ったものです。
様々な水墨画が描かれており、襖絵、屏風、扇面などもあります。広重の浮世絵など、地方の名所を八景になぞらえて紹介し、商売するというのもあり広く様々な形で親しまれていました。
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