このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
わが故郷の小場江
太平洋戦争末期、戦争で東京から親父の田舎の茨城に疎開してきました。
村の名は戸多村といい、那珂川の北岸側の小さな村です。那珂川の堤防が長く続き、内側の堤防に一番近い所に、鹿島一族の部落があります。その名も川端です。
明治の廃藩置県で川筋に下江戸、大内、田崎、戸村と言う4つの村あり、それが明治の初めに整理され合併して戸多村になりました。
水戸藩の領地は、戦国末期の佐竹の領地ほどの大きさです。領内には、落差の大きな久慈川、那珂川があり、江戸の守りには最適な場所で、東北の雄藩に対しての太平洋側の押さえの要となっていました。 しかし、この二つの川の治水は水戸藩にとっての重要な課題でした。
水戸家初代頼房が家臣永田茂衛門(後の円水)、勘衛門親子に治水事業を命じました。この二人は、甲州武田家の出で治水技術に優れていたのです。
常陸と甲斐は深い因縁があります。平安末期、源義家の弟、義光が長男義業を佐竹郷におき、それが後の佐竹家となりました。
三男義清を武田郷(現在のひたちなか市)に土着させましたが、義清は周辺豪族との争いで上訴され、甲斐の国に流され甲斐武田家となったのです。
さらに、徳川家康は、武田家の滅亡を哀れんで、五男信吉の母が武田家臣の出であることから武田信吉を名乗らせ、佐竹を秋田に移した後の常陸藩主としましたが若くして死んでしまったために、水戸家をここに置いたのです。 永田親子も、信吉の家来となって移ってきたのでしょうか。ひたちなか市勝田の湫尾神社辺りが屋敷跡と言われています。
湫尾(ぬまお)神社
武田氏館(ひたちなか市が建設)
私は小学校に入る直前に、東京から疎開し高校時代までをここで過ごしました。堤防の向こうは、那珂川、その間は沼や竹林、畑、こちら側は殆どが水田で、少し高い所に人家と畑があります。
田圃を流れる用水の水は、小場江から引かれています。
この小場江が、永田親子が造った用水路で全長36km、総給水面積1100ヘクタールの用水なのです。
小場江の詳細
部落から小学校までは水田のみで学校から出てくるのが見え、お袋やばあさんから、いつもまっすぐ帰らないと文句を言われたものです。
小場江から見た今はなき我が家の方向
小場江の歴史は、次のようなものです。
永田親子は、明暦2年(1656)に下江戸に江堰を造ったのですが、翌年の大洪水で壊れ、万治元年(1658)に数km上流の小場村に取水口を移し、万治3年には江堰が完成、今のひたちなか市までの30kmほどの用水路も完成したとの事です。
その後、改修を重ね、明治20年代に近代的な形になったが、昭和22年の大洪水で大被害を受け、さらに6kmほど上流に取水口を移しました。
その当時は、取水口を地下水路で導いていましたが、砂利取や上流の取水量の増加などで不可能となり1970年に現在の可動堰(小場江頭首工)になったということです。
少年の頃を思い出しながら。小場江がどうなっているか出掛けることにしました。昔は、1時間に1本は走っていたバスは今はなく、車で回るしかありません。
故郷の家の辺りから、上流と下流に分けて走って見ましょう。
上の写真の道と直角に小場江が流れ、右側が上流です。この辺りが昔の面影を最もよく残しています。戸多村は、今は那珂市です。
上流方向
昔もここと同じように、柵等なく、橋も手すりもありません。そして、小場江と平行して所々に、古小場江と言っていたため池のような池がありました。
山からの流水の調整などに、江戸時代の古い水路の一部を残したのでしょう。
当時、水路は、コンクリート面でありませんから、春、通水してからは、一ヶ月おきに水を止め「川草刈」と言って、農家が総出で水路に生えた水草を刈ったものです。
子供にとっては、これは魚を取る絶好のチャンス。水が減るにつれ、田の横の水路を下がってくる魚を捕まえたり、小さな橋の下の水をさらって魚を捕まえたりしたものです。
今はそのような小さな水路もU字口溝などになってしまい、泥鰌など住みようもありません。
少し上流に行くと大内という部落のところで、丘陵と那珂川が接近しています。ここで、堤防の下をくぐって外側に出て行きます。
堤防の下をくぐる小場江
これは上流側から見た所で、水門が那珂川側でここから水路が堤防の内側(左)に入っていきます。
上流側を見ると、昭和22年の大洪水以前に使われていた排水機場の跡が、草に覆われて残っています。
堤防の横が小場江で、那珂川よりかなり高い所を通っていて堤防はここで終わりです。
古い下江戸排水機場跡 古い堰
現在は、これより上流に移されていて、この周辺への給水と沢水の洪水時の調整などが行われているようです。
新しい排水機場
さらに、上流に行くと千代橋があり、この近くから永田親子最初の取水をしたのですが、すぐに洪水で流されたために水路を曲げてさらに上流にもって行き、そこから取水しました。
ここは、茨城百景(昭和25年制定)にも選ばれた場所ですが、今は小場江の水量調整のための排水水門となっています。ここは大宮市です。
茨城100景の碑と水量調整水門(この辺りが昔の取水堰)
新しく出来た調整水門の土手から見た下流(水門)と上流
ここから上流は、昭和の大改造で、さらに6km位上流に小場江頭首工を作りました。これで、かなりの耕地ができたようです。
通水時には、水門を下げて堰として小場江に通水するのです。頭首工というのは正式の建設業上の名前だそうです。
これにより、昔の取水堰より上流に大きな耕地が出来ました。こんなにも上流にあるとは知りませんでした。水戸藩の御留め山である御前山の近くです。
小場江頭首工
今度は、下流側に行って見ます。戸多村の戸といわれる辺りは、戦国時代、戸村城という城があり戸村氏がかなりの勢力を持っていました。
ここにある文殊院の前を小場江が流れています。
戸村文殊院 文殊院の前を流れる小場江
この先は、昔の国田村、今の水戸市です。
高校生の頃、バスは走っていましたが、一時間目に間に合わず、自転車で水戸まで15kmの道を通いました。当時、県道は、砂利トラックが通り埃も多く、走りにくいので、天気が良ければこれを避けて、小場江の土手を通ったものです。今行って見ると、こんな立派な道となり昔の面影はありません。
国田村、国井付近の小場江
この先の丘陵地は、湧水が多く、古墳時代の遺跡なども有ります。その一角が、七ツ洞公園という立派な公園になっていました。
七ツ洞公園 公園から小場江方向を見る
水路はさらに続き、昔の柳河村(水戸市)を過ぎ、ひたちなか市に入ります。
この辺から、水路はだんだんと細くなり、水量も減ってきます。そして最後は、落江排水樋管で那珂川にわずかに戻されます。
次第に細くなる小場江
最後は那珂川へ
30km以上の距離を、落差わずかに16mで用水を造ったという技術はたいしたものです。永田親子は、他にも久慈川の治水、太田や水戸の水道なども作っています。
何も知らずに恩恵を受けていましたが、いま、歩いて見て先人の偉業を称えずにはおられません。
常陸太田の永田円水の墓の説明
「後記」
この記事は、以前、常陸国漫歩に載せたものを見直したものです。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |