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水郷周辺を廻る(その1:あやめ祭りと潮来)
6月初め、清波会(茨城の120数箇所あるゴルフ場を制覇しようという4人組)で茨城県最南端のワイルドダックCCに出かけました。ここは、利根川と常陸利根川が合流する最先端の所にあるゴルフ場です。
中洲と言って良い所ですから、全てのホールが池かクリーク。スコアはさっぱり。この時は残念ながら、時間も無く周辺を回れませんでしたが、梅雨の合間の晴れた日にようやく、この周辺に行くことができました。
ワイルドダックCC
今までも、鹿島スタジアムのサッカー、鹿島神宮の初詣と毎年行っていますが、そこから先はあまり行ったことが無く、今回は、潮来のあやめ祭りと周辺、香取神宮と周辺、 息栖神社と鹿島神宮と共に古代、東国三社と言われた神社も回ってきました。
約200kmの行程です。
(その1)にはあやめ園と潮来の散策を書きます。
水郷周辺
行きは、北浦大橋を渡り、北浦西岸を進み、51号線でJR潮来駅へ。ここの観光案内所で色々と聞いて、行き先をきめました。「駐車場は?」と聞くと「ここでいいですよ」と言うので、目の前の道路を渡るとあやめ園です。
古めかしい観光案内所
残念ながら、少し、遅かったようで花は盛りを過ぎていました。園内を一周して、残ったあやめを鑑賞。花の種類は沢山あり、まとめて、アルバムに載せてあります。
(下記をクリックして、スライドショーでご覧下さい)
あやめURL::
http://www.imagegateway.net/a?i=3DpnMwdmTo
観光船乗り場では潮来の伊太郎のお迎え あやめ園(船着場の近く)
花が無いのも寂しいので幾つか
あやめ園 遊覧船船着場の辺り
太鼓橋 対岸への橋
対岸の昔の船着場跡
河を渡り、昔の船着場跡の所から稲荷山の方に向かうと海雲山長勝寺と言う臨済宗のお寺があります。(以下、潮来市のパンフレットなどの抜粋)
源頼朝が文治元年(1185年)、鹿島に隣接するこの地に武運長久を祈願して創建したと伝えられる臨済宗妙心寺派に属し海雲山と号する古刹です。
国・県・市指定の文化財を数多く所有し、潮来市の史跡めぐりには欠かせません。中でも国の重要文化財に指定されている銅鐘(北条高時寄贈と言う)には「客船夜泊常陸蘇城」と記された銘文があり、当時の潮来の情景を知る上でも貴重な資料となっています。
本堂など、荒廃していたのを水戸光圀が修復したものです。(この地方は、水戸藩の飛び地となっていました。)
潮来は下総の佐原と並ぶ水運の要所で、東北諸藩から江戸へ運送される米・海産物・材木・その他の物質は潮来を経由して運ばれました。そのため最盛期には年間400艘もの荷船が出入りしたといわれます。その繁栄ぶりは、水戸藩が御用金制度をはじめた元禄13年(1700)に、潮来の商人の献金額が藩全体の三分の一を占めたことからもうかがい知ることができます。
潮来が水運の基地として栄えた時期には遊郭や引出茶屋が軒を連ねる賑わいぶりで、江戸方面から多くの文人墨客が来訪し、数々の作品を残しています。その頃、牛堀河岸も「風待ち港」として潮来と同様に繁栄しました。
一方、江戸時代には、新田開発によって広大な農地と村落が形成されました。対岸の十六島をはじめ、二重谷(幕府領)・大洲・徳島(水戸藩領)などの開発はその例で、水郷の穀倉地帯が造成されたのです。
幕末期の潮来地方は、水戸藩の潮来郷校や潮来陣屋が設置されたため、天狗派と諸生派の党争の場となりました。幕命を受けた麻生藩兵や佐倉藩兵は、潮来におし寄せ郷校や陣屋、そして多くの民家を焼き、潮来地方は大きな被害を受けました。
山門(仁王は不在) 鐘楼(高時寄贈の鐘)
本堂 文治梅(源頼朝が植えたという)
旅人と
わが名よばれむ
はつしぐれ
芭蕉の句碑
ここを出ると近くに野口雨情の歌碑があるとパンフレットにあったので行くことにしましたが、さっぱり分かりません。引き返し、墓参りをしていた人に聞いて歩いてみたがまだ分からず、どうしようかと思案していると、その人が来るまで帰り道なので乗せて行くよと言うので数00m載せてもらい、この山が稲荷山公園で、そこの神社のところにあると教えてくれました。このおじさんも、これじゃさっぱり分からない、市に文句を言ってやろうなどと言っていました。
80段ほどの階段を上ると、神社があり、その横に歌碑がありました。
稲荷山神社
野口雨情作詞
中山晋平作曲
「おれは、河原の枯れすすき
おなじお前もーーー」
船頭小唄です。
野口雨情の舟遊びーー綺麗どころ3人?(掲示板にあった)
ここからの見晴らしは良く、常陸利根川まで一望できますが、市街化してしまっています。
稲荷山から潮来の町を見る
ここを利根川側に降りると、古い町並みの面影が残っています。しかし、何処も同じですが、栄えた昔の面影は無く、戸締めの家が多く見られます。
古い町の面影
少し進むと黒門と言う、昔の遊郭の入り口を再現した門が有ります。出口も作ろうとしたら反対されて出来なかったとか。入り口の手前の八百屋におばさんがいたので聞くと色々と教えてくれました。
数年前までは、門の傍にあやめ楼という妓楼が残っていたのですが焼けてしまい、今は門だけが残っているとか、門の傍の蕎麦屋の80過ぎの親父さんは昔教員で、自分でも絵を描き、襖絵は戦前に自分で書いたものだとか、2階に昔の色々な写真などを残しているので見せてもらったらいいとか。
黒門辺り(この蕎麦屋の2階で写真など展示) 昔あったあやめ楼
江戸末期あたりの黒門
そこで、行ってみると、昨日まで花嫁衣裳の展示などをやり観光客に見せていたとか言う話です。潮来を主題とした映画や歌などの写真、花嫁を載せた船の模型などもありました。
店の襖絵(戦前の潮来の橋) 潮来ゆかりの映画のポスター
懐かしの潮来傘 昔の船着場と倉庫
潮来花嫁さん 橋を渡るところ
まだ、昼には早いので、駅に戻り、潮来ICに向かう途中、常陸利根川のヘリを通り、水雲山海雲寺に拠ってみました。ここは、昭和になってから建てられた寺だそうで、薬師寺の東関東別院だとか。本堂の前は広場になっていて、お盆には万燈会が行われ綺麗だそうです。
海雲寺
ここで、潮来と別れを告げ、潮来ICから東関東自動車道で一つ先の佐原香取ICまで行き、香取神宮に向かいます。
常陸利根川(ここを渡ると千葉県)
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