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金砂大祭礼
72年の年月を経て行われる金砂大祭礼は、平成15年3月に第17回が行われました。
家の近くの水木の浜が金砂神社のあわびの神が来たと言う場所で、そこまで山を下ってやってくる磯出し行事が行われるのです。名古屋から帰ってきた時は、丁度雨の中、田楽などもあまりよく見ることも出来ませんでした。
その時の写真は、その後、北海道に行った時、カメラごと無くしてしまったのです。
折角、秋には東と西の金砂神社を詣で、西金砂神社の小祭礼にも行ったのですから、この記録も纏めてみようと思います。
(クリックで見ることが出来ます)
幸い、当時の朝日新聞や、茨城新聞社発行の金砂大祭礼のグラビア本などもあるので、それらを中心に纏めてみました。
大祭礼ルート(茨城新聞社)
西金砂神社が3/22に出て3/28 東金砂神社が3/25に出て3/31に戻ると言う、合計、10日間の日程でした。
それぞれ、500人の大行列で、10日間で延べ100万人の人が出たと言います。
朝日新聞記事の一部
茨城朝日の記事の一部
昔の行列の有様は、絵巻となっており、その有様の一部が、郵便局の記念切手の入れ物に印刷してありました。
昔の巻物の一部(郵政公社の記念切手の袋)
水戸藩も、大祭礼、小祭礼などには、援助をし、使者を出したそうです。
「出発」
氏子一同、衣装を実につけ、神社に集合し、隊列を組んで山を下ります。この時問題なのが昔から伝わる神輿です。重さが800kgもあるそうで、今ではそれを担ぎ下ろす人手も不足、怪我をしても困るので、西金砂神社では、1/10以下の重さのみこしを新調し、これを担いで降り、本物はトラックで運んで、下で御神体を入れ替えたとか。
西金砂神社の神輿(絵図)(郵政公社) 神輿(重い本物)(茨城新聞社)
東金砂神社の神輿 (郵政公社) 神輿(茨城新聞社)
「各所での行事」
西金砂神社の行列は、小祭礼と同じ道を通り、和田で田楽などを行います。
和田を通る行列 (茨城新聞社) 小祭礼時の行列(同じ場所の反対側から)
和田の祭場 (茨城新聞社) 小祭礼時の同じ会場(山車がある)
そして、和田から常陸太田に入り、大田の馬場でも同じようは奉納行事を行い、そこからは、東西いずれの行列も日立の石名坂を登って水木の浜に向かいます。
石名坂は、急坂で登りきった辺りに、えのきが植えてあり、これを切って、その切り株にみこしを置いて休憩します。
石名坂の休憩場(えのきを切って神輿を置く) (茨城新聞社) 72年後のために新しく植えたえのき
「水木の浜での神事」
そこから、水木の浜に向かい、ここで御神体を清め、田楽の奉納などを行って帰路に着きました。
見に行った時は、東金砂神社の神事でしたが、生憎の雨でよく見ることが出来ず残念でした。写真までカメラごと後で無くしてしまいました
水木の浜の行列(茨城新聞社)
このときは仕事の関係もあり、殆ど見ることが出来ず残念でしたが、72年の歳月を経てこれだけの祭りをやった関係者の努力には頭が下がります。
「磯出し神事」
大洗磯前神社、平磯酒列神社、静神社など那珂川から久慈川のあたりの神社には、この行事があって、何年か毎に行われてきました。(今はやめてしまった所もあるようですがーー)
このことは、祖先が海から来たという記憶が基本にあるのでしょう。
我々が会社に入った頃、聞いたお話
昔、高天原では、醜女(しこめ)を集めて、二隻の船に乗せて下界に流した。一艘は尾張の国へ、もう一艘は常陸の国へ漂着した。
そう言う訳で、終わりと常陸はーーーと言う話です。そして、関が原の後、尾張からは前田などが、常陸からは佐竹が国替えの時に、−**を連れて行ってしまったとか。誰が考えたか、中々うまく出来ています。
かく言う小生、いかなる因果か、常陸の国と尾張の国に居住してきました。
祭りにちなんだ銘菓
大祭礼にちなんで色々なお菓子や酒などが売り出されたが、大甕駅前に明治元年創業の運平堂と言う、和菓子屋があり、ここの大甕饅頭は有名。
この店では以前から、大田楽、小田楽などと言う和菓子も売っています。
地元の宣伝です。
運平堂HP URL http://www.unpeido.co.jp/
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