このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

秋の東金砂神社、西金砂神社

 来週辺りから、冬型の気圧配置になるという秋のある日、久しぶりに平成15年に、72年毎の金砂大祭礼が行われた、東西金砂神社に行って見ました。

    

   ドライブルート

 この一帯は、奥久慈地方と呼ばれ、平安末期から佐竹氏の後背地でした。

特に、西金砂神社の所は金砂城があり、源頼朝から攻められた時、南北朝の混戦の時、山内一揆と言われる内紛で攻められた時、ここに籠って抗戦し、難を逃れた佐竹氏の聖地でも有ったのです。

地形的には、東側が里川、西側が久慈川で、その間に山田川があり、三本の川が造る二つの山地の中に、東と西の金砂神社があります。

 日立からは、349号線を里川に沿って北上し、東金砂山にある東金砂神社に登り、ここから下って、西側の山地の鷹取山にある西金砂神社に登り、更に西側に下って

常陸大宮方面に抜けることになります。

と言うのは簡単ですが、神社に至る山道は、殆どが一車線ですれ違うところもないような道です。週日ですれ違う車も無いのですが、落石もあり、落ち葉が積もって道の境界も定かでないような感じで、急カーブも多く、しばらくぶりにこんな道を運転して楽しくなりました。

 

神社への道の農村風景

 長年にわたり佐竹氏の聖地であったと言うことは、後を受けた水戸藩にとっては色々と問題が有り、光圀の時代、各地の寺社を統合、廃止、所属名称変更など様々なことが行われています。(1000近い寺を廃したと言います)

この金砂神社も例外では有りません。元は、比叡山を模して、西金砂神社を中心に伽藍を建て、千手観音や十六羅漢、鐘楼、経堂などを各地に建て、寺領1万石?だったそうですが、源頼朝の建久年間、1200石に減らされ、太閤検地で没収され、家光の時代に24石が安堵されたと言います。

そして、光圀の時代、僧坊などは廃止され、仏像などはすべて廃し、山王権現と名を変え神社として、藩の寿福を祈るべしと定めたそうです。

 しかし、民衆を従わせる為もあり、大祭礼、小祭礼などには必ず代拝者を遣わしたといいます。

東金砂神社 

 東金砂神社は、水府村(今は常陸太田市)に属し数度の火災があり、現在の社殿は明治のものです。72年毎の大祭礼を西金砂神社とやりますが、毎年、2月に嵐除祭が有名で田楽を奉納するそうです。

     

                           東金砂神社入り口                       神社案内図

          

参道                          まずは仁王門

 

                                   仁王門(仁王像はない)

          

                         田楽堂へ         田楽堂(大祭礼の後、木が倒れて新築した)れて新築)

      

 鐘楼へ(焚き火で煙っている)             鐘楼

 

                                            拝殿へ

   

                     拝殿                               嵐除祭の田楽奉納

西金砂神社

 東金砂神社から下り、山田川に沿った県道33号から西金砂神社に向かいます。途中、道路工事が有り、脇道から行くのですが、これも狭い道です。

西金砂神社は、元は金砂郷町(今は常陸太田市)に属し、険しい断崖絶壁にあります。ここの奥の宮やらの景色は絶景で、途中、幾つもの展望台があり、その景色を楽しむことが出来ました。

途中の展望台から

 鳥居の反対側の平らな部分、そこは佐竹氏の金砂城址です。源頼朝に攻められた時、 山入一揆という100年も続いた相続争いから来るお家騒動で攻められた時、ここに逃れ、更に山伏の助けもあってここから逃げることが出来た佐竹氏にとってはお家存続の聖地であります、

 鳥居の前には、ふるさと歴史民俗伝承館がありますが、中はあまり整理されておらず、祭礼の写真が有るだけで期待はずれでした。ここには杜の湯という小さな温泉が付属しています。

    

                金砂城址の説明                            西金砂神社入り口

         

                        すぐに石段                        古びた石段

 

拝殿

        

山頂への道                       最後の石段

                                    山頂の拝殿

 

                 秋満開の下を見た景色                        降りて来た道 

 

                                             眺望

 

                                       金砂の湯

 

ここを下っていくと、「金砂の湯」という市営の設備があります。ここは、温泉ではありませんが、食堂なども付帯しており、週日にもかかわらず、結構な人が入っていました。ここで、金砂郷名物のそばを食って風呂に入りかえってきました。

(注)金砂郷の蕎麦は全国的にも有名です。名古屋の有名な蕎麦屋でも主人が、何箇所かの蕎麦の産地を歩いて、その年のできばえを見て購入量などを決めるといっていました。 

金砂神社の祭礼(この記事はまた、別に書きます)

 東と西の両神社が行うのが、72年毎の大祭礼です。最近では2003年3月に行われました。兎に角、始まってから17回目だと言うのですから、気が遠くなるような間隔です。

 金砂神社のご神体はあわび(石決明)であり、これを日立市水木の浜(小生の家の近く)まで、田楽を奉納したりしながら神輿で500人もの行列で運び、浜で田楽を奉納してまた帰る。この間、一週間で、両神社がずれているので全てで10日の行事です。

浜の先に田楽鼻と言う高台があり、ここに、前回も含めた行事の記念碑があります。

 このような行事は、磯出し行事と言われ、茨城県の多くの神社が何年かに一度、行ってきました。(戦後無くなった所も有ります)

西金砂神社小祭礼は、7年に一度、未年が丑年に行われます。大祭礼と同じような様式ですが、行列は、途中の常陸太田市の馬場までです。来年は小祭礼の年です。

 このような祭事は、はるかな昔、祖先達が海岸沿いにこの地に来たことを示しているのでしょう。

    

                 大祭礼の行列(ここまでくれば楽ですがーー)          昔の祭礼(山道を下りるだけで大変)        

     

                    水木田楽鼻の記念碑(平成15年)                    (昭和6年)

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