菅生沼と一言主神社 数年前のことです。ある日、花粉も飛んで、ゴルフもままならぬと言うことで、すこし遠出をしてみようと、県南に出かけてみた。 常磐道を、谷和原ICまで行き、ここから西に向かうと、鬼怒川と利根川の間に、仁連川と江川という川があり、ここの下流が菅生沼で、その先は利根川と合流している。 沼の西側にはミュージアムパーク茨城県自然博物館があり、東側にはあすなろの里と言う施設がある。ここからすこし北に行くと、一言主神社である。 まずは、県立自然博物館に行き、そこから菅生沼に向かう。 この博物館は、平成6年にオープンしたもので、菅生沼周辺の里山環境から自然を学ぼうと言う、どちらかと言えば、子供向けの博物館で、展示も子供の目線の高さに合うようになっていた。レストランから、ミュージアムショップまで備えた3階建ての設備であるが、場所的に参観者はさほどいなかった。 県立自然博物館 場所が場所だけに、茨城県民より東京などの方が近い? ここからすこし下ると、菅生沼である。
沼と言っても湿地帯に近く、葦原などで、通路なども良く整備されている。水鳥なども多いらしいが、訪れた時期には、あまり見かけなかった。 菅生沼 見かけた鳥はこの一羽 沼の周辺を散策し、対岸に行くと、あすなろの里と言う看板があり、坂を上ると、こちらも立派な設備である。 あすなろの里(中には色々な設備がある) 時間的に飯や風呂には早かったので、外を廻っただけで、一言主神社に行こうと思ったが、歩いていくには、場所も分からないので、車に引き返してNAVIを頼りに進む。 神社の参道の林に車を止め、参拝する。神社にあった由来の看板には、次のように書かれていた。 一の鳥居の横に車を止めて 参道 拝殿 ○ 一言主神社
一言主神社の社伝によると、大同四年(八〇九)現在の社殿の西方に雷光を放つ筍(たけのこ)が生え、数夜にして三岐(みつまた)の竹に成長した。不思議さに村人が行者に祈祷させたところ、一言主神の託宣があり、この地に社殿を造営し、大和国(奈良県)葛城の一言主神を迎え鎮斎したのが創祀と伝えられている。一言主神社が「三竹山」と称される所以である。
一言主神は、出雲の大国主神の長子で別名事代主神とされ、言行一致の神、一言の願い事でもおろそかにせず願いをかなえる神として篤い信仰を受け、県外からも多くの崇敬者が参拝に訪れる。
本殿は、社伝によると、長禄三年(一四五九)に下総国守谷城主相馬弾正胤広(平将門の後裔)の寄進によって再建されたとされている。現存する社殿は、元禄一三年(一七〇〇)正月遷営のときに大修理が行われた。一見社流造(いっけんしゃながれづくり)で、屋根は桧皮葺(ひわだぶき)風の銅板葺。身舎(もや)外壁の左右に「鳳凰と牡丹」、後側に「鶴と牡丹」の彫物が釘止めされ、脇障子には「三岐の竹」の彫物がはめられている。本殿は、昭和五九年(一九八四)市指定文化財に指定された。
九月一三日の一言主神社秋季例大祭の奉納行事である「葛城流からくり綱火」(指定名「大塚戸の綱火」)は、あやつり人形と仕掛花火とを結合させたもので、空中に張り巡らした綱により花火のついた人形(木偶/でく)を操作し、芝居を演じる民俗芸能である。万治二年(一六五九)大塚戸村向山に三峰神社が開基されるにあたり、村民が花火を奉納したのが始まりとされている。江戸時代より一言主神社の奉納行事として永く伝承されてきたが、終戦直後の昭和二十二年(一九四七)諸般の事情により中断。しかし、昭和四十四年(一九六九)に大塚戸芸能保存会によって復活上演されるようになった。
昭和五十五年(一九八〇)に市指定、平成十一年(一九九九)には県指定無形民俗文化財となった。
水海道市観光協会/水海道市教育委員会 帰りは、筑波山の裏側を通ってきたが、NAVIで適当に走ると工事中で通行禁止などにぶつかり、結局、北関東自動車道友部ICに出て、200km近く走ってしまった。
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