このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

第198回西金砂神社小祭礼(平成21年3月19日〜3月22日)

 小祭礼?198回?−−何だ200年くらい続いたお祭りかい??などと思うでしょう。

そうではないのです。6年毎の巳年、丑年に行われるお祭りです始まったのが弘仁6年(815年)なのです

それなら大祭礼は?と言うと東金砂神社と一緒に、72年毎に行う祭りで、始まったのが仁寿元年(851年)で、第16回が昭和6年(1931年)

第17回が平成15年(2002年)と言う気が遠くなるような話です。

 神社の起源については、別に書くとして、この神社の傍には、秋田に移された佐竹氏が常陸の国を支配していた時代、何回かの危機に難を逃れた

金砂城が有り、神社は険しい山の中にあります。(常陸国漫歩の「秋の金砂神社」をご覧下さい

大祭礼はここから、小生が住んでいる水木の浜まで1週間以上かけて「あわびのご神体」を奉じて行う「磯出し神事」ですが、小祭礼は4日間で、佐竹氏の本拠地であった常陸太田までの神事です。

第一日::出社祭———途中に作られた仮殿まで

第二日::仮殿祭典——神事と田楽舞など

第三日::仮殿から常陸太田の途中の和田と言う所まで火消し行列と言う行列で繰り込む。ここで、7つの町内の山車が集まり、神事、田楽舞、山車の手踊りなどが行われる。

第四日::再び仮殿から火消し行列、神馬、花纏などで常陸太田の馬場町に進み、神事、田楽舞を行い、夕方、社殿前に帰って水木の浜から汲んできた海水で潮水行事を行う。

  今回は、和田で行われた行事を見てきました。

狭い所ですから、至る所、車だらけ。小生が関係しているゴルフ場が近く、ここに車を置いて15分位歩いて、田圃の中に作られた会場である。
会場は、田圃の中で、山車が入れるようにベニア板を敷き、竹の四方柱を立てた田楽の舞台、同じく注連縄を張った祭場も作られている。

すでに数台の山車が引き込まれ、笛、太鼓、音頭など賑やかである。次の山車が、横の道路を音頭に合わせて、進んだり退いたりしながら進んでくる。
遠くの町(部落)の山車は坂道なども有って引き手も大変なのだろう。トラックに載せて(トラックを山車にして)持ってきている。

                山車の一つ(祭礼場の和田町のもの)

近くにいた祭りの関係者に「198回とは、大祭礼と数が合わないが?」と聞くと「何でもいいからんぺ(適当?)だと」などとなつかしい茨城弁。
祭りの主催者がいる辺りで聞くと、「俺はわがんねーが、**が役だからわかっぺ」ということでその人が傍にいたので連れてきた。
「いい加減じゃなくて、きちんとした巻物があって、それで調べてこの回数。大祭礼よりは少し早くから始まっていますよ」と言うことであった。

 

出揃った山車

山車が祭場に入った所で、神社側から「火消し行列」が進んでくる。最初に来るのが火消しの纏を来た行列で、次に稚児を乗せた馬、天狗の面をかぶった山伏(天狗か?)、衣装を着けた田楽師の一行。

ふと、横を見ると、良く見た顔の連中がいる。何時もの町の麻雀仲間で、皆で来たとのこと。この辺に親戚縁者が多いとのことである。
更に賽銭箱などが来る。賽銭を出すと、榊の枝などくれ「願い事は?」などと聞き、「6年後にまた遭いましょう」とは、花粉避けマスクをかけ、防止を被っていても年恰好が分かるらしい。

そして、白装束の担ぎ手の神輿、馬に載った宮司と神職の一団となる。後で、田楽の会場で横の人と話しをしていると、「あの宮司は大酒のみで、今でも車を運転してけえん(帰る)のかな?」などと物騒なことを言っている。

   

            火消し行列の火消しの纏                              火消し達

    

             馬に乗った稚児                                   天狗(山伏?)

       

               田楽舞の一行                                  賽銭を出すと榊の枝をくれる 

   

           お神楽の一団(重くてゆっくり?)                          宮司

 

                                      神職達(行列の最後)

宮司も祭場に入り、神事が行われた。祝詞を聞くと、「町内安全」「五穀豊穣」「天下泰平」「万民豊楽」を祈願し、神と共に楽しい時を過ごすということを言っていた。
行列にこの幟のあった意味も分かった。

                                     祝詞奏上

その後は、田楽舞の披露で、「四方固め」「獅子舞」「種まき」「一本高足」が行われた。「種まき」では、稲モミを舞台から撒き、これを拾って、自分に苗代で種もみに混ぜて撒くと豊作になるというので、隣で話しをしていた農家のおじさんが一生懸命集めていた。小生も少し拾ってきたがーー撒く所はない。

最後の「一本高足」では持っている一本の棒の横木の上に立つはずが転倒。練習不足か加齢か??

 

四方固め                                   獅子舞(下の緑の衣装が獅子)

        

種まき                                           一本高足

 

                           もらった榊と種籾                     記念切手
      (記念切手は、80×10=1200円と高かったが、ティシュやハンドタオルなどくれ、花粉症にはありがたかった)

最後に、7台の山車の賑やかな手踊りで、3時過ぎに終了。帰りにゴルフ場で風呂に入って帰る。ついでながら、このゴルフ場の風呂は、鉱泉でフッ素系非常にぬるぬるしていて良く温まる。

 

「金砂神社の由来に付いての私見」

 まずは、記録にあるという由来。

大同元年(806)三月十一日、天台沙門宝珠上人近江国日吉権現をこの金砂山へ勧請した。創建当時は比叡山にならって山中に七堂伽藍、周辺に千手観音、鐘楼、経堂、十六羅漢などを祭った。
社領は一万石、衆徒三百坊であったが、建久年中(源頼朝時代)衆徒三百坊は廃せられ二十一坊となり、千二百石に減少したのである。
さらに豊臣検地(文禄の検地)を行った時、圭田千二百石は没収された。そして、慶長七年(1602)佐竹義宣が移封の時、二十四石を存すだけになったが、徳川氏が二十四石を朱印地とし、寺号を定源寺と定め院号は観音院と号し、一山をなし二十一坊は存続したのである。
佐竹氏も代々当社を尊崇し、秋田へ移封の際は当社を遷宮したという。
水戸藩となり、義公(光圀)は神道を嵩め寛文六年(1666)領内寺院九九七ヶ寺を廃寺したのであるが、その時、二十一坊は排された。

元禄十三年(1700)寺内の古仏像をすべて廃し新に神社に生まれ変り神鏡一面を鋳造し、山王権現と刻み幣帛を加えて之を神璽とした。

水戸藩代々の藩主は当山を尊崇し、殊に大祭礼、小祭礼には必ず御代拝を遣わすことを例としていた。

のちの烈公(斉昭)も社参した折、社頭の眺望を賞して『眺むれば心の隈も打ち晴るるさやかに匂ふ遠の山の端』 と詠み、その歌碑は拝殿前に建てられている。当社に参拝された多数の文人、武人の詩歌や絵画が残っている。

 

 小生の感想

大同元年と聞くと、何処まで本当?という気になる。これは、全国に、この年に開基したという寺院(寺社)があまりにも多い為です。

一方、それ以降の出来事を見ると、佐竹氏が頼朝から攻められて、金砂城に籠り、敗れて山伏などの手引きで裏山から落ち延びたこと、光圀寺社政策など、茨城独特の政治的な変化があったことが分かります。

しかし、磯出し神事や、もともとのご神体があわびであることから考えると、そもそもは、海を渡ってきた弥生時代の人達の氏神が始まりであったと思われます。
金砂の神も元はあわびの貝に乗ってきた3人の神(兄弟姉妹)が水木の浜に着き、別れて、東西金砂神社と真弓山に住んだという言い伝えがあります。

水木から6号線に進んで少し西に行くと、大甕神社がありますが、ここの由来には大甕とは甕星香々背男と称する屈強なる悪神が占拠していた所であったために称する地名であると伝えられています。それを武葉槌命が成敗したということで、昔の蝦夷との構想を思わせます。
常陸のこの辺には、蝦夷の言葉であったと思われる地名も多く残っています。

鹿島神宮を初め、霞ヶ浦周辺から、久慈川辺りまで、海から来た民が、縄文の民と争い、或いはそれを飲み込んで、大和朝廷の北への進出の拠点となり、また、防人として九州の防衛、宮中の警護などの役目を果たすに至った時代の流れがあるのでしょう。

氏神時代の、産業育成の神、農業の神、安全と子孫繁栄の神が今日まで続いてきたと考えられます。

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください