このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
私の散歩道 我が家から6000歩、ほぼ2kmの散歩道は、常陸風土記の面影から、江戸時代、戦前、戦後のすべての面影が残る道です。 この地に住んで、はや、35年、歩いていると色々なことが思い出されてきます。以前にも一度、書きましたが、もう一度、見直してみたいと思い ます。 家の横は、元の日立電鉄の廃線の跡。ここを通る電車が目覚まし時計代わりでした。 今は、土地は日立市に寄付されて雑草が伸び放題。それは、実は頼んで刈らないでもらっているのです。ここから人が入ってくると我が家は無防備。今の状態なら、土手を越えて家の裏に入るのは不可能。
正面(団地の一番奥) 旧電鉄線の線路跡から この土手が、市のものとなり、閉鎖されていた元の踏み切りが道に戻って、隣の団地にいけるようになりました。 また、ここを切り割り、排水路のバイパスを造って、上流の団地の豪雨による洪水が防げるようになったのです。其の後はわざわざ元通りに直しました。我々が、団地内を通路としてよその車が通らないようにと話したこともあり、そのようになったのです。
排水路を作り戻した跡 電鉄線線路跡から隣の団地へ 踏み切りを渡ると、隣はかなり大きい団地です。ここは、元は遊水地を兼ねて沼地と、田圃が広がっていて、夏には水生昆虫がたくさん飛んできたものですが、埋め立てて団地となり、雨水が全て、流れこんで、豪雨には下流側の我々の団地に水が溢れたのです。 隣の団地から、海の方に進んでいくと、イトヨの里と言う公園です。ここは、泉が森の湧水が流れこんでいる所で以前は、鱒の養殖場でしたが、今は公園となっています。
イトヨの里泉が森公園 イトヨ(ほぼ実物大) イトヨとは、10cmほどの鱒科の魚で、雄が巣を作って子育てをするという珍しいものです。 もし、陸封の種類なら、天然記念物だろうと言われていますが、すぐそばが海でその辺の生態は分かっていないようです。 泉が森公園 湧水の流れ(名水100選) 泉が森の湧水は、阿武隈山系の伏流水で、最後は、水木の沖合いまで続いているようです。 ここは、常陸風土記で密筑の里といわれて、「此より、東北のかた二里に密筑の里あり。村の中に浄泉あり。俗(くにひと)、大井という。夏は冷かにして冬は温かなり。湧きて流れて川となれり。夏の暑き時、遠近の郷里より酒と肴とをもちきて男女集いて、休い、遊び、飲みたのしめり」とあります。 おそらく、それ以前の縄文時代よりの水源であったところでしょう。大甕と言う地名も、その辺のことを表しています。この水を使って、最近まで麺、味噌、醤油などを作っていました。 湧水と弁天宮 藤田東湖の歌碑(漢詩) 泉は、弁天宮がありそこの奥には、藤田東湖が読んだ歌碑(漢詩)があります。 その横が泉神社で、散歩のルートとしては、イトヨの里公園を抜け、神社正面の鳥居から入り、参道を進んで神社に至ります。 泉神社は、延喜式神名帳にもある神社で、天速玉姫命(あめのはやたまひめ)を祭神とし、古くは、天速玉姫命神社とも泉大明神とも呼ばれていたようです。
参道入り口(左は茨城百景の碑) 拝殿 もともと、神主がおらず、氏子が交代で当屋祭という神事を行ってきました。 今でも交代で清掃や、御神灯をともすなどを行っています。今は、工場時代から付き合いのある鹿島神社の宮司が神主を兼任していますが、当屋祭は一日、十五日に行われています。 高校同期の友 団地に越してきた頃、神社を建て直すと言うことで寄付が廻ってきたので、最少額で勘弁してもらったのですが、金が余ったとかで立派な碑が作られ、隅のほうに名前が載っています。 神社を参拝して、泉が森の弁天宮を拝み、横から抜けて、なだらかな坂道を登る途中に製麺所がありますが、今は建物と看板のみです。
昔の製麺所の建物 集められた道祖神の碑 すこし行くと245号線です。245号線の横に、道路を造った時に周辺にあった道祖神の碑がたくさん置いてあります。この辺の道祖神は、たいてい、「馬力神」「馬頭観音」です。 245号線に沿って、ピザのグールビイ とGeoがあります。ここは、数年間前は、肉のアサクマと洋服の青山でしたが、アサクマは廃業し、しばらく空いていて最近、グールビイになりました。青山は6号線に移って、Geoに変わりました。
グルービイ、GEO 内山味噌店 信号の向こうは、内山味噌屋です。味噌作りを続けていて、色々な味噌を打っており、横に喫茶室を造り、そこも味噌プリンなど、評判が良いようです。この一角が、最も新しい所でしょう。 さて、信号を渡ると小さなバッティングセンターと幼稚園があります。どちらも引っ越してきた前からあり、バッティングセンターには子供達も結構行っている様です。、共同墓地の横を進むと玉姫醤油という醤油醸造所がありますが、今は造っているのでしょうか?
バッティングセンター 幼稚園から団地方向を望む
水木小学校側を望む 神社にちなむ玉姫醤油 そこから南に進み、海岸側に出ると田楽鼻という小さな岬(高台)に出ますここは公園になっており、烏賊の形をした滑り台があり、子供が小さい頃、烏賊公園などと言って遊びに来たものです。
田楽鼻の公園 公園から日立港方面を望む 常陸多賀方面(超超高圧実験所、先が日立工場) この一帯の海は、古代からあわびや海草などが取れ、朝廷にも献上したようです。この近くの245号線の辺りには、弥生時代の住居跡が多く見つかっています。 この田楽鼻も、名前が示すように、海の神に田楽を奉納したのでしょう。すこし北の水木海岸には、太古、あわびの船に乗って神が来て、金砂神社に登ったといわれ、72年毎の浜だし神事で田楽を奉納します。 この田楽鼻には、そのときの記念碑や 長塚節の歌碑などが立てられています。 1931年と2003年の大祭礼記念碑 多珂(多賀)の海の 長塚節の歌碑 ここから海岸近くの岡の上の道を進んで、坂を下ると水木の浜に出ます。 古い防波堤の内側は、今は小さな海水浴場ですが、昔は小船を陸揚げした浜辺でした。防波堤の北側は、波も荒く、しばしば沖に流された人もいて、今は遊泳禁止となっています。
田楽鼻を過ぎて下る 進んで海水浴場方面を振り返る 海岸に沿ってすこし進むとこの辺の海草であるかじめを使ったかじめ湯で知られるはぎ屋旅館があり、其処からすこし着たが広場になっていて、72年に一度の金砂神社の浜だし神事が行われました。あれから7年が経ちますが、次の神事の時は、この辺りは温暖化で海の下になっているかもしれません。
はぎ屋旅館 雨の中の大祭礼 ここからすこし進んで245号線に戻り、団地方向に進むと、コンビニがあり、ここで一休み、アイスなど買って、週刊誌を立ち読み。 更に戻ると、以前はコンビニで二階がアパートだった建物があり、ここに中国から来た実習生などを泊めて、コンビニの期限切れになる食料などを供給してやったものでした。当時の中国人は、外貨が乏しく、これでずいぶん助かったようです。 中国人を泊めたビル 昇降する歩道橋 更に進むと、中央が上下する歩道橋です。数百トンの大型貨物を通す時に、昇降させます。信号機も回転するようになっています。 運搬する大型変圧器 こうして、更に進んで団地に戻って散歩道は終わりです。 他にも幾つも道がありますが、この道が、古代、江戸時代、明治時代、戦前、戦後、そして最近まで様々なものが点在する散歩道です。 |
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