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フォークランド海戦に見る機関部の実相

4. 付記

機関部に直接関係する事柄ではありませんが、フォ海戦にまつわる問題を取り上げてみましょう。


4-1. 戦術面の戦訓について

周知のように、インヴィンシブルとインフレキシブルは、フィッシャー軍令部長の命により、コロネル海戦の直後にグランド・フリートを離れ、1914年11月5日00:00母港クロマーティを後にし、8日デヴォンポート工廠の乾ドックに入って大特急で艦底を清掃、再塗装し、9日スタディー長官の中将旗を掲げ(同日艦長もド・バートルム大佐からビーミッシュ大佐に交替)、11日16:45あわただしくフォークランド諸島に向けて出航しました。なお、このとき米国スペリー社製のジャイロコンパスをインヴィンシブルに取り付けたことにより、折からの濃霧にもかかわらず安全に出航できたとされています。もし出航が1〜2日遅れれば、艦隊不在のフォークランド諸島をドイツ艦隊の意のままに蹂躙されるか、もしくは石炭をほぼ使い果たして入港する前に戦備万全のドイツ艦隊と一戦を交えざるを得なかったわけです。こうして見ると、フィッシャー軍令部長の決断と指示は、まさしく時宜に投じたものと言えるでしょう。

さて、本海戦において、圧倒的に優勢な英国艦隊がドイツ艦隊の撃滅に長時間を要し、しかも軽巡洋艦1隻(ドレスデン)を取り逃がしたことについて、色々と批判が有るようです。

まず、主力艦同士の戦闘については、英国巡洋戦艦が煤煙の中に見え隠れするドイツ装甲巡洋艦を精確に照準できず、また自隊の著しい煤煙もあいまって、インヴィンシブル砲術長ダンリューサー少佐(1年半後のジャットランド海戦で敵巡洋戦艦リュツオーを撃破)をもってしても砲戦指揮が不如意であったのは事実ですが、裏を返せばそれだけシュペー長官の作戦指揮が老練であり、敵に欲するところを与えなかったわけです。しかもシュペー長官にしてみれば、ほとんど運命がきわまっていたのですから、その指揮ぶりが鬼神をも哭かす域に達していたのはむしろ当然と言えるでしょう。
これに対して、スタディー長官の指揮ぶりは一見及び腰ですが、周知のように英国初期巡洋戦艦(戦艦も)は遠距離砲戦主眼で副砲の装備が無く、ドイツ装甲巡洋艦(戦艦、巡洋戦艦も)は逆に近接戦重視で副砲が充実しているのですから、いたずらに距離を詰めることは敵の術中に陥ちることとなります。口径6inクラスの副砲でも、艦橋や煙突など非装甲部に命中すれば、命令指揮系統を破壊したり、速力を低下させたりできるので、以後の戦闘を有利に展開し、強力な敵からの離脱を図ることも決して不可能ではありません。
こうしたことから、相撲に喩えれば、何とか取り組もうとする俊敏な小兵力士に対し、まわしに指一本触れさせず、機を見て張り手の二三発で土俵外に突き飛ばす、横綱相撲の趣であったと言えるでしょう。
巡洋戦艦(ド級の装甲巡洋艦)の創始者である、英国海軍のフィッシャー提督もまた、このような戦いぶりを頭に描いていたものと思われます。

また、敵装甲巡洋艦2隻を撃沈した後に、巡洋戦艦2隻はグナイゼナウの生存者救助を行わず、逃走する敵軽巡洋艦を追跡すべきであったとする意見も一部に有るようですが、既に18:00時点で50浬以上離れ、位置も定かでない敵艦を追跡し始めるのは、全くのナンセンスと言わざるを得ません。ここは実際に現場、つまり敵艦と実際に交戦中の味方補助部隊に一任するのが妥当です。さらに付け加えるならば、プロパガンダも戦争遂行の重要な一要素であり、「溺れる敵兵の救助に努める人道的な英国海軍」を演出する「証拠写真」の撮影なども、効果的な手段であったと言えるでしょう。

次に、ドイツ軽巡洋艦1隻(ドレスデン)を取り逃がしたことについては、まず13:25前後のドイツ艦隊の解列への対応が重要ですが、著しく後落したカーナーヴォン以外の装甲巡洋艦は、前日の軍議の結果に基づき、機を失せず味方主力部隊と分離し、ドレスデンを含む敵軽巡洋艦3隻を追撃しました。カーナーヴォン座乗のストダート司令官は直接命令を下してはいませんが、この運動は既定の了解事項であったわけです。
ただし、英国側にとっての不運は、巡洋戦艦2隻の非戦側を並航していた最優速のグラスゴーが、13:28の左舷6点回頭によって進路を阻まれ、4分間敵から遠ざかる運動をせざるを得なかったことです。このため、13:25には約10浬前後であったドレスデンとの距離が、さらに3浬以上開いてしまいました。当日のグラスゴーの最大速力が25ノット、ドレスデンが23ノットとしても、戦闘距離(約5浬以内)に縮まるには、4時間以上追跡しなければなりません。実際には、ドレスデンはその前に折り良く現れた驟雨帯に逃げ込み、戦場からの脱出に成功していました。

フォ海戦後のフィッシャー軍令部長の命令もまた、派閥を異にするスタディー長官へのいじめとしか解釈できない理不尽なもので、すでに増援の見込みが断たれ、補給の見込みも少ないドイツ軽巡洋艦1隻に対し、何を血迷ったか巡洋戦艦2隻以下総掛かりでの捜索を命じ、インフレキシブルを太平洋まで進出させたりと、自身着想した巡洋戦艦の特性、能力を矮小化するような命令を下しています。これなどはストダート隊の装甲巡洋艦、軽巡洋艦で十分遂行可能な任務であり、敵主力部隊を壊滅させた巡洋戦艦2隻は、フォ海戦後ただちに本国海域に召還されるべきであったと考えられます。

果然、巡洋戦艦2隻がグランド・フリートの戦列に復帰する前に、 ドッガー・バンク海戦  が生起しました。



4-2. 余談

フォ海戦にまつわる、他愛の無いヨタ話です。

4-2-1.装甲艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」の最期
第三帝国が建造し、通称「ポケット戦艦」で知られる「アドミラル・グラーフ・シュペー」ですが、もちろんシュペー長官に因んで命名されたものです。
第2次大戦の勃発と共に南大西洋、インド洋での通商破壊戦に活躍しましたが、あたかもフォ海戦より四半世紀後の1939年12月13日、ラ・プラタ海戦で英巡洋艦3隻(エクゼター、エィジャックス、アキリーズ)の攻撃によって損傷し、中立国ウルグァイのモンテヴィデオ港(南緯34度51分、西経56度12分)に遁入し、12月17日の退去時に自沈しました。
ちなみに、シュペー長官が乗艦シャルンホルストと共に沈んだのは、およそ南緯52度40分、西経55度20分です。

4-2-2.戦艦「シャルンホルスト」の最期
これも第三帝国が建造た軽戦艦「シャルンホルスト」ですが、もちろん先代の装甲巡洋艦に因んで命名されたものです。ちなみに、姉妹艦はもちろん「グナイゼナウ」です。
同艦は、第2次大戦も終盤に差し掛かろうとする1943年12月26日、連合軍の護衛船団を攻撃に向かう途中で英巡洋艦3隻(ベルファスト、ノーフォーク、シェフィールド)と遭遇し(北岬海戦)、交戦途中から英新型戦艦1隻(デューク・オブ・ヨーク)および英巡洋艦1隻(ジャマイカ)も加わった結果、英戦艦のレーダー射撃によってほぼ一方的に打たれ続け、ついに勇戦空しくバレンツ海に沈みました。
どうも、12月は「シュペー」と「シャルンホルスト」にとって厄月のようです。



結びに

フォークランド海戦は、色々な意味で、フィッシャー提督のお膳立てによって戦われ、彼の思い描いていたとおりに終結した海戦であったと考えられます。
(完)




主要参考文献

All The World Fighting Ships 1906-1921, Conway, 1997
The Battle of the Falkland Islands, Spencer-Cooper, Cassell, 1919
Battle Cruisers, Campbell, Conway, 1978
Battlecruisers, Roberts, Chatham, 1997
Battleships and Battlecruisers 1905-1970, Breyer, Macdonald, 1973
British Battleships 1860-1950, Parkes, Seeley, 1970
Naval Operations Vol.1, Corbett, Longmans, 1920
Warrior to Dreadnought, Brown, Chatham, 1997
Die deutschen Kreigsschiffe 1815-1945, Groener, Lehmanns, 1966
Grosse Kreuzer der Kaiserlichen Marine 1906-1918, Greissmer, Bernard und Graefe, 1996
Die Grossen Kreuzer Kaiserin Augusta bis Bluecher, Koop & Scmolke, Bernard und Graefe, 2002
Die Kleine Kreuzer 1903-1918 Bremen bis Coeln-klasse, Koop & Scmolke, Bernard und Graefe, 2004
英国大艦隊 ジェリコー 水交社 1920
英国海軍戦史 コルベット 水交社 1927
艦船動員史 ドイツ海軍本部編纂 海軍軍令部 1931
大戦中に於ける独逸主力部隊の行動 マンタイ 海軍省教育局 1936
軍艦機関計画一班 増補三版巻之弐 海軍機関学会 1919
機関実験参考書 海軍工機学校 1933
蒸気タービン 改訂第七版 内丸最一郎 丸善 1916
艦船 実用機関術 訂正第八版 二瓶壽松 丸善 1922


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