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Q&Aコーナー (2)

皆さんからのご質問やご意見に一問一答の形でお答えします。


Part 2. ジャットランド海戦時の英独小型艦艇 に関するQ&A

首記に関して、新見 志郎氏より掲示板にご質問をお寄せいただきましたので、当ページにて回答します。以下、Qは志郎氏のご質問、Aは髙木の回答を示します。

Q.1
小生は、日本海海戦とジュットランド沖海戦とを比較して、石炭焚きの小型艦に特有の問題(高出力の長時間維持ができない)について、興味を持っています。
波が高く、行動が困難だったために温存される形になった日本小型艦艇と、長時間にわたって主力艦隊に随伴してしまった英独小型艦の、夜戦における能力差を、機関の角度から見てみたいと思っているのです。
残念ながら、ちょっと専門からずれるために、資料の収集、知識の不充分が先に立ち、はっきりした考察ができません。
高木様には、何かご高察がございますでしょうか。

A.1
小生も残念ながら断片的な知識しか無く、お役に立てるかどうか判りませんが、一応手許に有るジャットランド海戦の英独公刊戦史その他を読み直し、関連の記述を探してみました。漢字と仮名使いは現代風にアレンジしました。

まず、同海戦中の小型艦艇の行動に関するドイツ側の記述としては下記が有りました。

「北海海戦史」第5巻P520
(中央標準時午後10時頃の独第5第7水雷艇隊は)
昼間戦の必要上著しく缶を汚し焚火意の如くならず加うるに石炭専焼装置を有したる此等の水雷艇隊は先頭に出ずるに最早15節以上及び如何なる場合にも21節以上の速力を出すを得ざりき既に15節の速力にても此等の隊は火の粉及び煤煙の為遠方より認むるを得たり
 第5水雷艇隊: V1〜6, G7〜11
 第7水雷艇隊: S15〜20, S23/24, V189

「ジャットランド海戦の研究」オットー・グロース、ハイネッケ共著P56
(昼戦での損害や魚雷の残数から判断して)
要之夜戦に使用し得る水雷艇は第一線部隊として第2水雷艇隊所属の水雷艇10隻、第5水雷艇隊所属の水雷艇11隻及び第7水雷艇隊所属の水雷艇9隻合計30隻、第二線部隊として第3水雷艇隊所属の水雷艇5隻及び第12半艇隊所属の水雷艇3隻合計8隻なりき。第二線部隊に属せる水雷艇はいずれも戦闘力低下せるものなり
 第2水雷艇隊: B97/98, G101〜104, B109〜112
 第5水雷艇隊: 上記
 第7水雷艇隊: 上記
 第3水雷艇隊: (G42), (V48), S53/54, V71/73, G88
 第12半艇隊: (G37), (V45), V46, S50, V69
 ()内は損傷その他で戦闘に参加できず

同著P70〜71
要之夜襲に部署されし独逸水雷艇はいずれも敵主力部隊を去る目睫の間に迫りしも、第2水雷部隊所属の各水雷艇隊は英国の後衛部隊より反撃せられたる後敵主力の後方を横過し、第1水雷部隊所属の各水雷艇は石炭専焼艦にして速力遅かりし為寸前にありし敵主力に追付く能わざりき
 第1水雷部隊(ミヒェルゼン代将): 第1、第2、第3、第5水雷艇隊
 第2水雷部隊(ハインリッヒ代将): 第6、第7、第9水雷艇隊

その他、お尋ねの小型艦艇ではありませんが、同海戦に参加のドイツ石炭焚き艦艇に共通しそうなものとして下記の記述が有りました。

「北海海戦史」第5巻P395
(中央標準時午後6時40分頃)
独逸巡洋戦艦戦隊は敵の圧迫を益(々)痛感し始めたり剰え午後4時以降掃除する能わざるに至りたる缶の火は含石質の石炭の為残滓多くして焚燃状態甚だ不良となり且乗員は正午以来全く食物を取らざりしを以て機関兵及び石炭繰りは既に疲労の兆候を示せり蓋し油混焼装置も亦タール油区画に於て撹乱せられたる澱査に依り管が梗塞せる為屡故障を生じたればなり

また、同海戦に参加したドイツ水雷艇の基本仕様にかかわるものとしては、下記の記述が有りました。

「艦船動員史」P73
1911-1913建艦年度に於て建造せられたるV1〜V6, G7〜G12, S13〜S24の諸艇は524Tの排水量を有したるに過ぎず。此等の諸艇は排水量を減少したる関係上艦の全長を若干減じ、操縦やや容易となりたれども、艦内頗る窮屈にして耐波力小となれり。加之空積を極力利用したる関係上、燃料の格納位置頗る不便となり、延いては荒天の際石炭を缶前に運搬すること不可能になる状態に陥りたり。蓋し(イ)人員不足勝にして、(ロ)艇の後部より缶前まで石炭を繰るの要ありたればなり。

同著P74
先に言及せるV1〜S24は依然として炭油併用式なりしが、1913年以降の建造にかかる諸艇(但しA級艇の一部を除く)は凡て重油専焼缶を有せり。

英国公刊戦史からは関連の記述を見出すに至りませんでした。

次に、日本海海戦とジャットランド海戦に参加した小型艦艇の要目について、手許のConway All the Fighting Ships 1860-1905, 同1906-1921を当ってみました。

日本海海戦の参加艦艇:
 日露双方とも全艦艇が石炭焚き、主機は3段膨張レシプロ機関

ジャットランド海戦の参加艦艇:
英国大艦隊:
 戦艦クイーン・エリザベス級、リヴェンジ級: 重油専焼
 その他の戦艦・巡洋戦艦: 炭油混焼
 軽巡: 炭油混焼または重油専焼(アレスーサ級以降)
 フロティラ・リーダー: 炭油混焼または重油専焼(ライトフット級以降)
 駆逐艦 重油専焼:
 主機は全艦タービン機関
ドイツ公海艦隊:
 戦艦・巡洋戦艦: 石炭専焼または炭油混焼(ケーニヒ級、デアフリンガー級以降)
 軽巡: 石炭専焼または炭油混焼(ローストック級以降)
 水雷艇: 炭油混焼または重油専焼(V25級以降)
 主機は一部の戦艦(ヘルゴラント級以前)・軽巡(ケーニヒスベルク級以前)が3段膨張レシプロ機関、他はタービン機関

道理で英国公刊戦史が主缶のトラブルに言及しなかったわけです。
それにしても1905年から1916年の11年間の進歩が急速です。

以下は小生の(一部当て推量を含む)見解です。

英国海軍はウェールズ炭(別名カーディフ炭)を使用していた。ウェールズ炭は発熱量が大きく (8,000kcal/kg) 灰分が少ないので機関車用や艦艇用には最適である。金属性の光沢を有し、硬いので塊は大きい。第1次大戦中はカーディフ地方の炭田地帯から西岸本線 (West Coast Main Line) 経由でスコットランド沖の泊地スカパ・フローへ臨時の運炭列車が毎日のように運行されていた。鉄道マンの間ではいつしか"Jellicoe Special"の愛称で呼ばれることとなった(これは英国人の鉄道史家から直接聞いたので信憑性は高い)。
一方ドイツ海軍は当然ウェールズ炭を使用できず、国内産が主体となる。これは発熱量が小(7,000kcal/kg以下)で灰分が多い。軟かいので塊は小さく、粉炭も相当混じっている。従って同一出力を出すにはより多く投炭しなければならず、それに従って灰分の蓄積は多くなるといった悪循環に陥る。火の粉の飛散も多い。
舶用缶の火格子は固定式で、ロッキング・グレート(揺火格子)ではないので、火格子上に溜まった灰を下に落とす火床整理(缶替え)は焚口からレーキ(鉄の棒)を突っ込んで行うため容易でないし、その間火力も落ちる。戦闘中に実施するわけにはゆかない。
もちろん焚火は人力投炭であり、火夫は押込み通風の加圧下、熱気と煤塵との悪環境下での連続長時間作業(途中交替有りとは言え)により疲労困憊の極みとなる。
このように長時間連続で高負荷運転すると火床が荒れ、蒸発能力が低下し、乗員も疲労するが、その割合は石炭の質が劣るに従って加速度的となる。

「北海海戦史」の記述と符合する部分も有るように思いますが、如何でしょうか。

一方、日露戦争当時の日本軍艦の燃料については、「帝国海軍機関史」下巻P226〜227に以下の記述が有りました。

高速力運転ニハ最初和炭ヲ使用シタレドモ濃煙ノ為メ信号ヲ識別スルコト能ハズ運動上危険ノ虞アルヲ以テ後ニハ定期高力運転ニ使用スベキ英炭ヲ流用セリ、時ノ常備艦隊機関長海軍機関大監山本安次郎ハ従来ノ実験ト此ノ時ニ於ル経験トニ鑑ミ粉炭多キ英炭ヲ以テ高速力運転ヲ為サントスルハ頗ル困難ニシテ到底缶ノ最大能力ヲ発揮シ得ザルヲ認メ之ガ選別供給方ニ関シ其ノ筋ニ電請ノ手続ヲ為シ以テ戦用英炭ノ粉炭ヲ篩ヒ別ケ其ノ塊炭ノミヲ各艦ニ搭載スルコトノ認許ヲ得タリ(中略)。
(明治)三十七年一月九日東郷連合艦隊司令長官(於佐世保軍港旗艦三笠)ハ時局愈々切迫シタルヲ以テ各戦隊ニ訓令シテ曰ク各戦隊ノ各艦ハニ昼夜分(十節)ノ和炭ヲ積載シ得ル余積ヲ存シ英炭ヲ満載スベシ、但右英炭ハ艦員ノ手ヲ以テ適宜選炭スルヲ要ス(後略)

このように周到に戦備を整え、ウェールズ炭の備蓄(および敵運炭船の鹵獲)も進めてきたわが連合艦隊に対し、バルチック艦隊は契約したハンブルク・アメリカ・ラインの給炭船から主としてドイツ炭の補給を受けたとされており、また最後の寄港地ヴァン・フォン湾では過積載としたため水線部装甲帯が水中に没し、被弾時の浸水を早めたことは知られています。


<余談>
ジャットランド海戦は、大落角砲弾とそれに対する主力艦の防御のみが戦訓として云々される嫌いがあります。
しかし、より深層的には英国側にとっては前進部隊(ビーティ隊)と主力部隊(ジェリコー本隊)との離間に乗じた各個撃破の危険性が有ったわけで、これはまさしくミッドウェー海戦でのわが方の敗因の一つに挙げられます。
また、英国側は水上機母艦を随伴したまでは良かったが、発進に手間取っため肝心の敵主力艦(ヒッパー隊)の偵察には役に立たなかったことも、わが利根機の発進遅れとそれによる敵空母発見の遅れと共通しています。
一方のドイツ側も英国東岸に前もって配備した潜水艦が出撃途上の第2戦隊(ジェーラム隊)の襲撃を試みるも逆に駆逐艦に制圧され、浮上が遅れて敵出撃の報告が間に合わなかったことも、敵の進出線にわが潜水艦の散開が遅れてしまったのと軌を一にしています。
その他、ドイツ側が出撃前に公海艦隊旗艦と地上局との間で無線呼出符号を交換して英国に敵戦艦部隊泊地に在りと思わせたことは、米国が囮情報を発信してわが暗号のAFがミッドウェー島であることを確認したのにも匹敵する情報戦であったと思います。
このようにジャットランド海戦は汲めども尽きぬ戦訓の宝庫ですが、わが海軍では皮相の観察に流れ、本質的な洞察にまで至らなかったため、後にミッドウェー海戦での大敗北を招いたことは痛恨の極みと言うべきで、「歴史を学ばない者は滅びる」という金言と合わせると、思い半ばに過ぎるものが有ります。


<余談その2>
ジャットランド海戦の名称の由来について手許資料より幾つか拾ってみましたので、ご参考に供したいと思います(漢字の書体は現代風、数時は英数字)。

ジェリコー著 「英国大艦隊」 大正9年 水交社発行 P472
ジュットランド海戦報告
1916年6月18日於旗艦「アイオンデューク」
第1395H, F0022号
海軍省秘書官宛
1. 貴下希クハ海軍本部委員諸賢ニ対シ大艦隊ガ1916年5月31日丁抹国ジュットランドバンクノ西方ニ於テ独逸大艦隊ト会戦セルコトヲ披露セラレンコトヲ。
2. (以下略)

国防大辞典 海戦P104
ヂャットランド海戦
(前略)該海戦が丁抹国の西方海中に横たはるジャットランド・バンク附近に行われたるにより、此の名がある。

 注、 Jutland Bank: 56°45′N, 7°25′E, depth : 60ft
     ドイツ地図ではほぼ同一地点に Kleine Fischer Bank の表記有り

チャーチル著「世界大戦」
巻末年表に「ジャットランド・バンクの海戦」と記載有り。

ドイツ側の本海戦の呼称スカゲラックSkagerrakは海峡名であり、海戦の行われた海域とは異なる。
(ドイツ水雷戦隊の一部が退却する際に同海峡を通過したことは事実)

半島名のJutlandは現地では「ユラン」と発音。

ということで、前年のドッガー・バンク海戦と同様、本海戦も「ジャットランド・バンク海戦」と称すべきところでしょうが、今は「ジャットランド海戦」を採りたいと思います。
もっとも、「世界の艦船」553集(1999.6)誌上では同誌の慣例に合わせましたが。

【追記】
海人社より発売の「世界の艦船」658集(2006.5)誌上に
「ジュットランド海戦90年」本文9頁、およびグラフ「世紀の決戦から90年! ジュットランド海戦の英独ド級艦全タイプ」13頁、写真24点
が掲載されましたので、ご覧ください。

【追記その2】
潮書房より発売の「丸」723集(2006.7)誌上に
「ジャットランド海戦の真実」①本文14頁
「丸」724集(2006.8)誌上に
「ジャットランド海戦の真実」②本文14頁
が掲載されましたので、こちらもご覧ください。


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