このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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匹見町立広見小学校

撮影:H20.05.04    廃校:1970.12

平成19年冬の、広島県の最高峰、恐羅漢山での7人のスノーボーダーの遭難騒ぎが無ければ、恐らく知らずじまいでいた学校だと思います。 雪の降る見通しの悪い中で、ゲレンデ側とは反対の斜面を滑り降りてしまったようですが、運良く、昔有った広見集落への地方道へ   出たのが幸いし、そこから国道488号に出て、少し匹見側に下った場所にある広見小学校跡を見つけ、古い木造校舎のなかでの     焚き火で暖を取りながら二晩を過ごしたそうで、助かった7人にとっては、一生忘れることが出来ない学校跡になったことだと思います。 広見集落は、昭和38年の豪雪、いわゆるサンパチ豪雪の後、町の方針で集団移転し、昭和45年には無住の集落になったそうです。  その後、校舎は町役場町営造林作業班の宿舎として使われていたようで、今でも講堂の中には二段ベッドが32人分あります。    

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広島県吉和側から入り、県境の手前から裏匹見のキャンプ場まで、20数キロmほど、このような道を行きます。 県境から5kmほど走った、大きく左にハンドルを切るカーブの内側に石碑を見つけて立ち寄ってみました。   表には「甲佐家屋敷跡」と彫られ、大きな萱葺の写真が埋め込まれています。裏には「幾人も産声あげし広見の地     も一度住みたい皆んなと共に」ときざまれていました。生まれ育った集落が無くなり、懐かしく思う気持ちが伝わります。 埋め込まれた写真の右端に咲いている梨の花が、ちょうど満開になっていました。               (本来なら、石碑の苗字の部分などはぼかすのですが、新聞で大きく取り上げられ、隠す意味も無いと思われますし、   また、甲佐さんの詠まれた、裏面の碑文の気持ちを皆さんに知っていただきたいと思い、そのまま掲載いたしました。)
まだ新芽が伸びだした頃なので、校庭に入って撮影できましたが、夏には茅が伸びて恐らく入れないでしょうね。 7人が暖を取った焚き火跡が残る教室です。講堂の方は、営林作業員が使った二段ベッドが、そのまま残って    います。廊下には畳や教室のドア、割れたガラスなどが散乱し、床には穴が開いた場所もありました。      このベッドに、どなたかが残していった毛布が、みんなの命を救ったようです。               
校庭には、ヘリコプターに見つけてもらうために焚いた焚き火跡も残っています。宿舎当時に使われたらしい風呂場や、かまどなども残っています。
宿舎内には、色々な書類も放置されていました。中には出役簿や領収書も。古い、ブラウン管の割れたテレビや、外には古い洗濯機も転がっています。 校舎の裏には、多分先生の宿直室だったと思われる小さな建物もありました。当時は、車が有っても、冬場には通えなかったでしょうね。      
校舎の裏側は竹やぶが迫ってきています。地元の方がぶら下げた「新名所 焚火乃宿」の表示。中国新聞に掲載された特集記事です。

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